23 違和感
千秋楽の幕が下りてから三日が経っていた。
舞子はいつも通り、朝のストレッチを終え、台本のページをめくっていた。身体に残る疲労はあるが、不思議と心は凪いでいる。眠れない夜が続いていることも、食事の味が薄く感じることも、きっと公演の余韻のせいだと自分に言い聞かせた。
怜からの連絡は、あれっきり途絶えたままだった。
けれど舞子は、スマホを握りしめることもなく、未読の画面を何度も確かめることもしなかった。彼には彼の事情がある。ただ、それだけのことだと思うようにしていた。
舞台の上で歌っている限り、自分は大丈夫だ。
そう思えたし、そう信じたかった。
怜が体調を崩している、だからしばらくはM-Yソロ、もしくは上田舞子として活動していくことを沢本は舞子に告げた。だからこの日の歌番組もM-Yのソロ楽曲でいくことになった。
「はい、お疲れさまでした!」
収録は無事終わった。音程も安定している、歌詞を間違えたりもしない。
「いやぁ、やっぱ上田さんとの仕事はやり易くていいわ。この間の新人アイドル、ひどかったもんねえ。何度撮り直ししたっけ?」
「う~ん、それよりさ、上田さんの歌ってもっとなんかこう……私、上田さんのミュージカルを見に行ったことがあるんだ。もっと迫力あったけどなぁ」
「ミュージカルはミュージカルでしょ。さてと、次の収録はシェーナじゃん。彼女もきっと一発OKだな」
沢本もこのADと同意見だった。
舞ちゃんの歌は表面上は完璧だ。でも、気づく人はすぐにわかるだろう。彼女は明らかに本調子じゃない。歌には全然感情がこもっていない。
だが伏見からはオーディションの話を進めろと言われている。話だけはしよう、そのうえで無理することはないと付け加えよう。
「私、やります!」
「えっ、いや、そんな即決しなくていいんだよ。まだ二週間くらいは時間があるし……」
「いえ、自分の実力がどこまで通用するか試す、いい機会だと思うんです」
テレビ番組収録のあと、舞子は必ずテレビ用の濃いメイクを綺麗に落としてから帰路についていた。それが今日はそのままの顔で、迎えのワゴンに乗り込んできた。
声だけはやる気満々のように聞こえる。だがバックミラー越しの舞子の瞳には情熱の火が消えていた。
沢本が何度も遠回しに説得にかかったが、舞子は頑として譲らなかった。しぶしぶ了承した沢本は、スケジュールの組み立て直しを兼ねてまた相談しようと、舞子をマンションまで送り届けた。
舞子がマンションに入ろうとすると、出て行こうとしていた山崎とすれ違った。
「お、いま帰りか?」
「山崎さん! はい、収録が終わって」
「遅くまでご苦労なこった。腹減ってないか? 飯でもどうだ」
ここのところきちんと眠れないせいで、確かな疲労感を舞子は感じていた。今すぐ部屋に戻ってベッドに倒れ込みたい気分なのに、なぜか山崎の誘いには応じたくなった。
『腹減ってないか?』なんてことのない軽い気づかいなのに、その優しさに甘えたくなってしまったのだ。
マンションからは山崎の車で移動した。数分もしないうちに助手席の舞子が船をこぎ始めたのを見て、山崎は座席を倒してやりながら言った。
「少し寝てろ。三十分くらいしたら着くから起こしてやる」
地下駐車場で起こされた舞子は、そのままエレベーターに乗って店の中に入った。それも裏口のような扉から。
「誰にも見られないのが、この店のいいところなんだよ」
「ひ、秘密の会合なんかに使うんですか?」
「ははは、まぁそうだと言っておこう。料理もとびきり美味いから期待してくれ」
山崎の言う通り、たくさん運ばれてきた料理はどれも美味しかった。
「そういえば、山崎さんとあのマンションで会うのは二回目ですけど、あそこに住んでるんですか?」
「いや、俺じゃない。あんたも知ってるゾイサイトの佐々木が住んでるんだ」
「ああ、店長さんですね」
「そっちはどうなんだ、言わずとも忙しいのは想像つくが」
舞子は沢本に貰ったばかりのブロードウェイミュージカルのオーディションの話をした。
「すごいですよね! ブロードウェイですよ!」
舞子は勢いよく話すが、山崎の目に映る舞子の瞳は輝いていない。
「お前、なんか無理してないか」
「えっ」
舞子は少し驚いてすぐ言い返した。「やだな、無理なんかしてないですよ」
「そうか、ならいいが」
取り出しかけたタバコをまた胸の内ポケットにしまいながら、山崎は言った。
「そういや、この間のラジオの公開録音、見に行ったぜ」
「渋谷のスタジオの?」
「そう、うまく歌えてたよ。ただ前より……前とちょっと違ってたな」
舞子はとっさに何も言い返せず、言葉に詰まった。
「よし、あらかた食ったな。デザートは定番の杏仁豆腐にするか? ここはツバメの巣も有名だぞ」
美容にいいから食ってみろ、と勧められたツバメの巣を口に運びながら、舞子は内心ほっとしていた。山崎が自分の歌について、それ以上は言及しなかったから。
(でも『前と違う』って……。私、前と違うの?)
翌日、スターフォックスの事務所で、舞子は沢本とスケジュールの調整に入った。これまでの仕事に比べて、準備にかかる時間も労力も桁違いに大変になってくる。
「半年以上先まで仕事はびっちり入ってるけど、その先は極力減らしていくよ。ところで舞ちゃんって英語得意なの?」
「はい、大学で英文学科だったので」
「なるほど、でも英会話の先生も付けよう。ジムは継続したほうがいいな。パスポートの準備と……あ、これは2018年のDVDね。それから……舞ちゃん?
」
DVDを手に取ったまま微動だにしない舞子に気がついて、沢本は心配そうに尋ねた。
「大丈夫? やっぱりこのオーディションはやめた方が……」
「あっ、すみません」
この前山崎に言われた「前と違う」という言葉だけが、何度も頭の中で再生されていた。そのせいで舞子は沢本の話をほとんど聞いていなかった。
事務所を出たあと、舞子はそのまま帰らず、近くのスタジオに立ち寄った。
予約も入っていない、小さな個人練習用の部屋だ。
マイクの前に立つのは久しぶりだった。
鏡に映る自分は、メイクも薄く、舞台の上にいる時よりずっと地味だ。
イヤホンを耳に挿し込み、伴奏を流す。
何度も歌ってきた曲。身体が勝手に覚えているはずの旋律。
息を吸って、声を出す。
一音目で、舞子は気づいてしまった。
音程は合っている。声も出ている。
けれど――
すぐに伴奏を止めた。
イヤホンを外し、しばらく何もない空間を見つめる。
「……前と、違う」
誰に聞かせるでもなく、舞子は小さく呟いた。
理由は分からない。
何が変わったのかも、まだ言葉にできない。
それでも確かな違和感だけが、胸の奥に残っていた。
舞台の上に立っている限り、自分は大丈夫だと思っていた。
そう信じていたはずなのに。
舞子はもう一度、マイクに手を伸ばしかけて――
そのまま、動けずにいた。




