日常8「わたし、映画を観るのをやめまして」
わたし、今まで手紙なんて書いたことがなくて。
デジタルフォントでもない直筆の手紙なんて、もはや時代錯誤じゃないですか。
そういうのって今はもうイベント扱いされてますよね。披露宴によくある花嫁の手紙とか、バラエティ番組のお涙頂戴ものの手紙とか。
それってエンターテイメント、つまりは娯楽の一種だと思ってて。
でも実践してみて驚きました。
手紙ってこんなにも素直に言葉を綴れるものなんですね。
誰だって少しはひねくれていたり、天邪鬼だったりすると思うのです。感じたままを言葉にできず、すれ違ったり、衝突したり。それこそ戦争の原因になることすらあると思います。
……そうなるともしや、人を素直にする手紙って、世界平和の最終手段といえるのでは。あわわ、娯楽の一種とか言ってごめんなさい。
そういうわけで、これからも手紙を書こうかと。
宛名、ありませんけど。
――素直な思いはそのうち届くって。わたし、そう信じていますから。
****
20XX年10月8日。日比谷公園にて。
空は曇天、雨模様。体調悪し、原因不明。
疲れやすいし、頭痛がするし、耳鳴りもするし、全身が重いし、呼吸が浅くて苦しいし。
……蝉もうるさいし。
「ミンミンジージーうるっさいです! 夏なんてとっくに終わってますし!」
離れたベンチで「えっ、なにっ?」という女性の声が聞こえた。
しまった、あんなところに人がいたなんて。それも高校生らしき制服カップルではありませぬか。
羞恥心で顔を赤くしながら、そそくさとその場から撤退する。
「ばかばかばかばか、わたしのばか……!」
不覚、平日の昼間にうら若き男女が潜んでいたなんて。周囲の人気をもっと確認しなければ。
季節外れの蝉は鳴きやまず、いらぬ恥じらいを覚え、そんなわたしをフォローする人もなく。
――わたしの世界から棚橋さんがいなくなって、一か月が過ぎていた。
このひと月。どの映画館に行っても、どのラーメン屋に入っても、棚橋さんの姿はなく。
今思い出しても腹が立つ。過去の恋愛を引きずりながら、わたしに近付いてきたおじさん。それがバレたからって、こうしてわたしを避けて。ウジウジしてばかりの本当にくだらない人だ。
斯くして「映画を千回観たら現実にサヨナラ」は、孤独な活動に戻ったのであります。
このあと鑑賞する映画で978回目。あと22回で、この人生はリセットされる。
わたしは「リセマラ、リセマラ~」と呟きながら、劇場へと足を運ぶのであった。
20XX年11月11日。有楽町の某書店にて。
大気が不安定。体調も不安定。
ふむふむ、と呟きながら立ち読みをするわたし。読んでいるのは姓名判断の本。そういえば、わたしの人生を翻弄する「関根寧々」という名の字画ってどうなん、などと急に思い立ち。
その運命や如何に。
「愛情運に乏しい。好き嫌いが激しい。肩ひじ張って人生を歩む。周囲から変人扱いされる」
……わたしじゃないですか。姓名判断、侮れぬ。
名付け親にうらみつらみを募らせながら、今日も今日とて劇場へと足を運ぶ。
本日鑑賞する映画で991回目。わたしの人生がリセットされるまで、あと9回。
その映画は愛情を受けずに育った主人公が、渇いた心に潤いを取り戻すその経緯を描いていた。
主役の女の子は好き嫌いが激しく、肩ひじ張って生きた結果、周囲から変人扱いされてしまう。しかしそんな彼女が、最後にはささやかな幸せを手にする。
わたしの姓名判断をなぞらえたかのようなタイムリーな内容でして。然るになかなかどうして感動的な映画でして。
しかしながら現実のわたしは、幸せを手に入れた彼女とは違い、変人のまま。
……この巡り合わせ、神様のいじわるでしょうか。
お手洗いを済ませたわたしはそこまでを考え足を止めた。
目の前にスラリと背の高い、紺色スーツ姿の男性がいた。
(あやつ、まさか……)
わたしは拳をギュッと握り締め、その背中を目掛けツカツカと歩み進む。
そして背後から正拳突きを見舞おうとした途端、気配を察したのかその男性がくるりと振り返った。
そうしてわたしは、はじめて人違いであることに気が付いた。
「す、すみませぬっ…!」
武士のような謝罪をしてそそくさと男性のもとを離れる。
危うく20代前半くらいの純朴な青年に怒りの拳をさく裂させるところだった。すんでのところでわたしという不審者に気付いてくれたので助かった。
「これもあやつのせいだ……」と呟き、きゅっと唇を噛む。
このところ劇場やラーメン店を訪れるたびに棚橋さんの姿を探している自分に気付く。
「何してるんだろわたし。あんなおじさん、どうだっていいし」
ぶつぶつ言いながら劇場の出入り口へと向かう。
いつの間にか外はザーザー降りの雨になっていた。そういえば傘を持ってきていない。
ツイてないな、とため息をもらして劇場に戻る。すると、ごじゃる丸の姿が目に入った。
「……ごじゃる丸、いたんだ。久しぶりじゃん」
目が合ったので微笑みかけると、悲しい眼差しを向けられた気がした。着ぐるみを相手に、何故かそんなことを思った。
20XX年12月14日。銀座の化粧品店にて。
天気は曇り時々雨。低気圧のせいで不調。
街中はクリスマスムード一色。化粧品と健康食品を扱うこのお店も例外ではなく、ブルーのオーナメントが飾り付けられたクリスマスツリーが飾られている。
……なんだろう、とてつもなく居心地が悪い。
わたしは大して使わないコスメ用品を購入すると、さっさと店を後にした。
クリスマスだろうがなんだろうが、今日も今日とてラーメンを食べるのだ。映画を観たあとはいつだってラーメンが最善なのですから。
これまでに観た映画の合計は今日で998回。計画の実行まであと2回。
クリスマスソングが流れる夜の街を歩きながら、現実世界にサヨナラすること、つまりは死ぬことを想像してみる。
すると何故か、胸の奥のほうがザワザワと疼いた。不安だったり、悲しみだったり、そういった感情による揺らめき。
「映画を千回観たら現実にサヨナラ」は、わたしにとって救いであるはず。
それなのに心が抵抗しているかのような。何故だろう、とその理由を考えているうち、ラーメン店に辿り着いていた。
食券機の前に立ち、財布を手に取るわたし。
柚子風味のラーメンを購入しようとして、「そういえば」とあることに気が付いた。
棚橋さんは今、映画を何回観ているのだろう。
もし、あの人がまだ「映画を千回観たら現実にサヨナラ」を実行するつもりなら……。
胸のザワザワがにわかに激しくなった。
「すみません。……以前このお店によく来ていた、紺色スーツに黒縁眼鏡の男性、あの人が最後に来たのっていつですか?」
店員さんに食券を渡しながら聞いた。
自然と口から出てきた質問で、わたしにしては珍しく噛まなかった。にも関わらず、店員さんはキョトンとしていた。
「あの、えっと……。背高のっぽの、冴えない感じのおじさんなんですけど」
すると店員さんは「ああ、あの人」と言い、手のひらをポンと叩いた。
「ちょうど昨日来店されましたよ。なんでも、もう来られなくなるとかで、丁寧にお礼を言われました」
ドクリ、と心臓が脈打つ。
「……来られなくなるって。あの、何か理由は言ってませんでしたか?」
「さぁ~、理由までは聞いていません。なんだか神妙な顔つきでしたけど……」
わたしは店の出口に走っていた。
店員さんに呼び止められ、「ツケといてください」と意味不明な返事をする。既にお金を払っていて、食べてすらいないのに。
胸の奥に芽生えた不安は膨れ上がり、どんどん大きくなっていった。
あの人がもし、映画を千回観ていたら。……勝手に死ぬな、という思いが込み上げてくる。
「サヨナラの瞬間は各自ということで、お願いいたします」
そう言ったのはわたしだ。それはかつてのわたしが望んだこと。
でも今は、あの人とこのままサヨナラすることが怖い。どうしようもなく怖い。
わたしは紺色スーツの黒縁眼鏡を必死に探した。
けれど結局、その姿を見つけることはできなかった。
この日以来、わたしは映画を観ることをやめた。