日常7「わたし、あなたみたいな人が嫌いでして」
思い起こしてみれば、わたし、あなたに甘えていたんです。
この人は何でも許してくれるって、そんなふうに考えていましたから。人って幸せに近づけば近づくほど我がままになるものなんですね。
わたし、そんな自分に驚いたんです。だって幸せになったら人に優しくできるって、そう信じていたから。
でも違ったんですね。満たされていれば人に親切になれますけど、それは単なる「余裕」で「優しさ」とはちょっと違う。
そして、満たされていないからこそ、色んなことが理解できて優しい気持ちになれたりもする。
ごめんなさい、何言ってるかわかりませんよね。
――わたしはただ、あなたに甘えすぎていたことを謝りたい。言いたいこと、それだけでした。
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20XX年9月5日。日比谷ゴジラスクエアにて。
天気良好。体調良好。
空ってこんなにも綺麗な色をしてたかな。
よく抜けるような青空とかいうけれど、こんなにも透きとおった青色だったのか。
こんなにも体が軽いのはいつ以来かな。
わたしのキャラクター設定である、「儚きヒロインを蝕む不治の病」はどうした。
「本日鑑賞する映画は、フレディ・マーキュリーの伝記映画です。世界的なバンドの伝説的ボーカリストです。ご存知ですか?」
「もちろん知ってますよ。バカにしないでください」
「これは失礼しました。僕、フレディを敬愛していまして。彼の最期はドラマチックで、不治の病を最愛の人に告げるのですが……」
棚橋さんが意気揚々とうんちくを語る。
ゴジラ像の見える植え込みの花壇ブロック。わたしたちはそのブロックに並んで座り、これから観る映画に思いを巡らせアレコレと話し込んでいた。
そしてそれは、今やわたしたちの日常だ。
――いつしか、わたしの世界には棚橋さんがいた。
「最愛の人ですか。わたしも『関根寧々』とかいう口にするたび噛むような名前じゃなければ、そういう人がいたのでしょうか」
「大丈夫です。僕はそういう名前ではありませんが、最愛の人はいません」
それの何が大丈夫なんだろうか。それになんで誇らしげなんだろう。
……最愛の人、か。
確かフレディ・マーキュリーは同性愛者で、息を引き取るその瞬間まで恋人の男性と連れ添っていた。
わたしはどうなんだろう。映画を千回観て、現実世界にサヨナラするそのとき、やはり一人なのだろうか。
そこまで考えてから、自分の考えに驚く。
わたしは一人がいいと望んでいたはず。それなのに、「やはり一人なのだろうか」などとしんみりしている。
……それって、どんな心境の矛盾ですか。
「あの。以前から思っていましたが、『関根寧々』というお名前、素敵だと思いますけど」
「ふぇっ……!?」
不意を衝くとはこのこと。物思いに耽るわたしが、名前の件で悩んでいるように見えたのか。
唐突に「素敵」とか言われると驚いてしまう。それもコンプレックスに感じている名前について。
「あ、そろそろ開場しますよ。行きましょうか」
そう言って立ち上がる棚橋さんの背中を見上げた。頼りなさそうだけど、安心感のあるような、そんな背中をしている。
最愛の人、というフレーズがまたもや頭に浮かび、わたしはブンブンと首を横に振った。
違う、違う、この人は違う。念仏を唱えるように頭の中で呟いて、わたしも立ち上がる。
「ん? 棚橋さん?」
棚橋さんが立ち止まっている。知り合いでも見つけたのか、道行く人を目で追いかけていた。
「あ、いえいえいえ、行きましょう、行きましょう、すみません」
なんだか慌てている。いったい誰を見ていたんだろう。それを確認して、わたしは目を丸くした。
肌の露出たっぷりなエロ可愛い女の人。
……そういうことか。棚橋さんの背中を見上げていた先ほどまでの自分をぶん殴りたい。
そうだ、そうだ、そうだった。この人は最愛の人でもなんでもない、わたしの倍は生きている単なるおじさん。それもちょっと気持ち悪い部類に入る。
わたしは自分の頬をペチペチ、と軽くはたいた。そしておもむろに劇場に向かうのであった。
鑑賞した映画はとても良かった。
というより、映画はやはり良い。例え世間からぼっこぼこに批判される映画であっても、ひと度その世界に浸ればわたしは幸せになれる。それはまさにスクリーンに映し出される世界の魔力。
「純喫茶でエスプレッソでも飲みたい気分です」
映画の余韻に浸りながら感想を比喩的に表現してみると、棚橋さんが吹き出した。
「プッ……プフッ……。うぐ、ちょっと待ってください、関根さんがそんな貴婦人みたいな台詞を」
「なっ……!!」
耳が真っ赤に染まっていくのを自覚する。
「悪いんですか!」
持っているカバンを棚橋さんにぶつけた。
「すみません、すみません。だって、いつもラーメンじゃないですか。それなのになんでしたっけ、純喫茶でエスプレッソ……うぐッ」
最近、この人は遠慮がなくなってきている。変わらずに優しい人ではあるけれど、わたしたちそれぞれのフィールドを区切る壁というか、そういうものが明らかに薄くなっている。
そこまで考えて、わたしは「そういえば」と思った。
「そういえば、映画を千回観たら死ぬ理由。まだ聞いてませんね」
すると棚橋さんはピタリ、と表情を硬くした。
「ああ……。そうですね、ずっと話さないのはズルいですよね」
「別にズルいとは思ってませんけど」
「それでは純喫茶でエスプレッソでも飲みながら話しましょう」
それ、まだ引っ張りますか。
けれど棚橋さんはもう笑ってはなく、むしろ緊張感のようなものさえあり、わたしは素直に従うことにした。
銀座にはレトロクラシックな老舗喫茶がいくつかある。回転ドアを回して店内に入り、赤いビロードのソファでくつろげる、そういうお店。
わたしと棚橋さんは律義にもエスプレッソを注文した。
「実は僕、失恋してまして」
会話は意外な角度からはじまった。エスプレッソ用の小さなカップがカチャリ、と音を立てる。
「といっても、何年も昔の話なのですが」
わたしは黙って話を聞いてみることにした。
「当時の僕は、会社を休んで近所をぶらつく、みたいな日々を送ってまして。病んでいた、とでもいいますか。そんなとき、ある公園のベンチにいつも同じ女性が座っていることに気付きました」
棚橋さんは小さく息を吐いた。
「気になってしまい、ある日、勇気を出して話しかけました。そしたら、なんだかすごく話しやすい人で。連絡先は交換しませんでしたが、それからも公園で見かけるたび話すようになりました」
以前のわたしたちと少しだけ似ている、と思った。
「そのうち惹かれ合うようになって、意図的に待ち合わせるようになり。でも住んでいる場所も連絡先もわからなくて、知っているのは『冬子』という名前だけ。それも本名かわかりませんが」
本名かわからない。それは今でもわからない、というふうに聴こえた。
本名も知らないような人を好きになるなんて、そんなことがあるんだ。
ここで棚橋さんは黙ってしまった。
話の内容である過去の恋愛と、「映画を千回観たら現実にサヨナラ」が一向に繋がってこない。
「その、話はまだ続くのですが。先に言っておくと……」
しばしの沈黙の後、棚橋さんはわたしの顔を見つめて、意を決するように口を開いた。
「その、冬子と関根さんは、そっくりなんです」
わたしに似ている。
それは顔が? 性格が? 状況が?
「ほとんど瓜二つです。服装までよく似ている」
見た目のこと。
「その、今でも忘れられないんです」
このときわたしの胸の奥で、熱い溶岩のようなものがドロリと流れるのを感じた。
「……そういうことでしたか」
棚橋さんは「えっ?」という顔でこちらを見つめる。
「わたしが昔好きだった女に似てたから。だからストーカーみたいに付けまわして。だからしょっちゅう遭遇したんですね」
「あっ、いえ。それは誤解です」
溶岩が私の胸を、心を、焼き尽くしていく。
「気持ち悪いですね」
「いえ、確かによく似ています。でもそうじゃなくて……」
コーヒーカップと受け皿がぶつかり、大きな音を立てた。
何故だろう、もはや冷静に話を聞くことができない。わたしの心の「余裕」は、その小さな隙間まで埋め尽くされている。
「わたし、あなたみたいな人が嫌いでして。過去の失恋をぐちぐち引きずって。もしかして、それで映画を千本観たら死のうって思ったんですか?」
「あ、あの……それは」
「最低最悪ですね。その冬子さんという女性もいい迷惑ですよ。とっくに終わった恋愛を引きずられて、勝手に命をかけられて。すごく可哀想」
大きな声が出ていたらしく、店内の視線がわたしに集まる。
わたしはカバンを手に立ち上がった。
「そんな人を仲間だと思っていたなんて……。そんなくだらない理由をよく話せましたね。心底ガッカリしました。いえ、心底ゾッとしました」
回転ドアを回して外に出る瞬間、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
絶対に引き留められてなるものか。
もう二度と関わってやらない。絶対にわたしの世界に立ち入らせない。
――こうしてわたしはこの世界で、また一人になった。