日常3「わたし、リセマラしようと思ってまして」
18回目の誕生日を迎えた日。わたしはその日に高校を辞めました。
それは、もくもくした入道雲が浮かぶ夏の日でした。イエス、わたし中卒なんですよ。止めてくれるような友達なんていません。わたし、人と関わらないことを信条に生きてきたので。両親も兄妹も何も言いませんでした。あ、両親には少しだけ何か言われたような気もします。
イジメを避けるため空気に擬態したわたしは、「クラスにいるようでいない人間」から、「この世にいるようでいない人間」へと進化していました。いつの間にか進化条件のレベルに達していたのです。そう、わたし、この世界にいないんですよ。
――だから不思議だったんです。わたしと同じ世界線に、あなたみたいな人がいることが。
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20XX年7月10日。新橋の某焼肉店にて。
「本当にいいんですか?」
「ええ、遠慮なく何でも注文してください」
天気は曇り。体調は微妙。
この日わたしは、棚橋さんの奢りで焼肉を食べにきていた。どういう経緯でそうなったのか。それはわたしが「ひとり世界」を尊重していることに起因する。
棚橋さんが「映画を千回観たら現実にサヨナラ」の同志になってから早一週間が過ぎ。けれどわたしはこれまでと同じように一人で映画を観て、一人でラーメンを食べている。それは一人がいいからであって、それ以外に理由はない。
棚橋さんは性懲りもなく「一緒に楽しんでみませんか」なんて言ってくるけど、御免こうむる。連絡先も教えていないし、これからも教えるつもりはごじゃいません。
そんなある日、いつものように映画館でばったり顔を合わせたときのこと。上映時間まで立ち話をしていると、「ラーメン以外なら何を食べるか?」というテーマが議題に上がった。
このとき、私と棚橋さんの嗜好はまたもや一致してしまった。
「「焼肉!!」」
劇場のロビーで焼肉というフレーズをハモらせる、ティーンエイジャーとミドルエイジ。
そしたら棚橋さんが「ラーメンじゃなくて焼肉なら一緒でもよくないですか?」と。「僕がご馳走しますから。予算と時間は無制限で構いません」と。
そしてはるばる焼肉屋さんにやって来た次第。わたし、五億年ぶりの焼肉(体感)。
「上ネギタン塩、特選ロース、ハラミ厚切り、壺漬けカルビを二人前ずつ。それと和牛三点盛りとサンチュも。あと車エビ塩だれ、ホタテ塩だれ、キムチの盛り合わせ(大)と、チョレギサラダ。海鮮チヂミとコムタンスープ。あと、ナムルと大ライス。以上で。……あっ、このシャトーブリアンというやつもください」
注文を取った店員さんが去っていくと、棚橋さんがそそくさと背中を向けた。財布の中身を確認しているご様子。
有無を言わせるつもりはごじゃいません。「予算と時間は無制限」、そう言ったのはあなたですし。
次々に届くお肉を片っ端から網に乗せていると、金銭的ダメージにより肩を落としていた棚橋さんが口を開いた。
「お聞きします。これまでに映画は何回観ていますか?」
「もぐもぐごくん。えっと、今日観た映画が921回目です」
その数には劇場での鑑賞だけではなく、動画配信サービスで観た映画も含まれている。
「……となると、あと79回ですね」
棚橋さんは顎に手を当てながら呟くように言った。それは「映画を千回観たら現実にサヨナラ」を志す者にとって、意味のある数字。
「僕もこれまでに観た映画の作品数をザっと数えてみたんです」
「ふんふん。どれくらいでしたか?」
「それが……おおよそなのですが1200回くらいは観ていました」
お主、もう死んでいるではないか。
トングで肉をつまんだまま固まっていると、棚橋さんはおずおずと口を開いた。
「そこで、なんですが。僕も関根さんと同じ数、921回から再スタートするのはダメでしょうか」
……いい加減なことを言うんだな、と思った。
わたしにとって、「千」という数字に深い意味はない。現在いまの921回から遠すぎないし、近すぎないし、区切りとしてもちょうど良いのでそう決めた。そうして決めておかないと、なんだかんだで現実世界とサヨナラできなそうだし。
そんなわたしに、というより、最期を誰かに合わせる必要なんてない。もし「映画を千回観たら現実にサヨナラ」の同志として馴れ合いを求めているなら、その考えはすぐに改めていただきたい。
わたしは最期のその瞬間だって、一人がいいと思っているのですから。
「あの。棚橋さんはどうして、この世界にサヨナラしたいのですか」
棚橋さんは質問に答えず、しばらく考え込んでから口を開いた。
「……それをお伝えするのはもう少し、待っていただけませんか」
神妙な面持ちでそう言うので、わたしはひとまず頷いておいた。
「あの、映画の回数を合わせるのは別に構いません。ただ、これからも一緒に映画は観ませんし、サヨナラの瞬間も各自ということで、お願いいたします」
わたしはそう言いながら、シャトーブリアンを網に乗せた。
「はい、わかりました」
わかりました、とな。意外にも素直ではありませぬか。
棚橋さんはカルビをサンチュで巻き巻きしてから、何か思い付いたように顔を上げた。
「ちなみに関根さんがサヨナラをする理由は、この世界が嫌い、というだけですか?」
「……えーっと、棚橋さん、『リセマラ』ってわかります?」
リセマラ。リセットマラソンの略称であり、スマホゲームにおけるちょっとした裏技。
多くのスマホゲームでは、チュートリアルを終えると無料でレアガチャを回せる。そのレアガチャでお目当てのアイテムやキャラクターが手に入るまで、リセットを繰り返して無料ガチャを回す。その行為が今では「リセマラ」という言葉で定着しているのだ。
「ええ、もちろん知っています。僕、ゲームプログラマーなんです」
なんと、業界のお方でしたか。これは失礼いたしました。
それなら話は早い。
「わたし、リセマラしようと思ってまして」
キョトンとする棚橋さんに向けて言葉を続ける。
「わたしにとって、この世界はゲームの世界なんです。どこに生まれて誰の子供になるかなんて、ガチャみたいなものじゃないですか。だったら、リセットしてやり直してもいいのでは、と」
棚橋さんは目を丸くしながらも、わたしの言葉を受け入れるようにウンウンと頷いた。そして質問を投げかけてきた。
「しかしここがゲームの世界となると、本当の世界はどこなんでしょう」
「映画の世界です」
わたしが即答すると、棚橋さんは少し間があってから、笑いはじめた。
「なるほど、なるほど、そうですか。納得しました」
その笑い顔をジロリと睨み付ける。……納得なんてしてないくせに。
おそらくは誰もが馬鹿にするこの考えを、わたし自身は信じきっている。そして今、この世界を生きるための支えにすらなっている。わたしの胸の中にある、わたしだけの、たった一つの真実。
けれど棚橋さんはそれを馬鹿にしているわけでもなさそうだった。子供のように、心の底から嬉しそうに、ただ無邪気に笑っている。
そんなふうに見えた。
「……はっ! お肉、焦げちゃう!」
慌ててひっくり返したシャトーブリアンは、意外にもちょうどいい焼き加減だった。