日常2「わたし、映画を千回観たら死のうかと」
実はわたし、「関根寧々」という名前のせいで孤立しまして。
だって「せきねねね」って。何回言っても噛みそうな名前でしょう。名付け親、配慮はどうした。
そのせいで軽くイジメられまして。それからわたし、学校では息を殺して過ごすようになりました。空気に擬態するんです。「このクラスにわたしはいません」って。
その涙ぐましい努力が功を奏しまして、わたし、「いるようでいない人間」へと進化したのです。
退化ではなく進化です。なりすましの生存戦略です。我ながら、なかなかどうして秀逸です。
――そうして、いるようでいなくなったわたしの前に、いるようでいないような、あなたが現れました。
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前回に続いて20XX年6月30日、日比谷ゴジラスクエアでのこと。
「こここ、これ。おとししし、ました」
おじさんに指輪を差し出すわたし。セリフは噛みに噛みぬいた。他人様に話しかけるのは五億年ぶり(体感)なので。
振り返ったおじさんはわたしの顔を見るやいなや、「えッ……」と声に出した。今回は表情だけではなく、声に出ていた。その声はわたしの予想に反して渋めの声だった。
「すみません、ありがとうございます」
おじさんは丁寧に礼を述べた。大人の余裕を感じさせる態度。
……なんだろう、ちょっと意外。いや、少しは緊張しているように見えるけど、なんていうか、もっと甲高い声で噛み噛みになるとばかり。それこそわたしみたいに。
指輪を受け取ったおじさんはペコリと一礼した。それから口角をほんの少しだけ上げて、微笑みかけるようにわたしを見た。
「…………」
「…………」
間。膠着状態。フリーズ。
さあ~どうなる、どうなる。わたしとおじさん、どちらから動く。
いや、落としものは返したし、わたしが立ち去ればいい。だがしかし、ナゾの緊張感のせいで体がうまく動かない。首を動かすだけで「ギギギ……」という音がしそう。まるでゼンマイの切れたオモチャのような。
じわじわと冷や汗らしきものが滲む。これはいかん、と無理やり体を動かそうとすると、おじさんが渋い声を発した。
「……この後、『ストーリー・オブ・ヤンググラス』を観ますよね」
その発言により膠着が解かれると、わたしの体も自由を取り戻した。
「ぷはぁ。……え、はい。おじさんもですか?」
体が動いたので思わず「ぷはぁ」とか言ってしまった。しかも馴れ馴れしく「おじさん」と呼んでしまった。
それを聞いたおじさんは、プッと笑ってこう言った。
「よく会いますよね。あの、僕、『棚橋』といいます。もしよろしければお名前を伺っても?」
「せきねねねね……」
一つ多いよ、「ね」が。
わたしがわたしの名前を噛むのは、これで165回目くらい。わたしの18年の人生の、通算での話。
それからおじさんとわたし、もとい、棚橋さんとわたしは、一緒に映画を観ることになった。
ここで座席の話。以前に最後尾の左端にておじさん、もとい、棚橋さんに遭遇したので、今回は最後尾の右端を指定していた。そうしたら、棚橋さんも同じことをしていた。
まるで示し合わせたかのように隣の席。もしかしてだけど、棚橋さんって、わたしのストーカー? ……いや、違う。きっとこの人は思考回路がわたしと同じなんだ。
ともあれ、わたしは生まれてはじめて「誰かと一緒に映画を観る」という所業をなしてしまった。もっとも、これを「一緒に観る」と言っていいのか審議は必要かもしれない。
それよりも驚いたこと。映画のあとに「ラーメンも一緒に食べよう」という話になった。言い出しっぺは棚橋さん。
思っていたのと違う。このおじさんは孤独を重んじる人ではないのか。わたしはわたしで何故断らなかったのか。
モヤモヤとそんなことを考えながら、仕方なく塩ラーメンを注文した。
「思うに、この塩ダレにはモンゴル岩塩が使われています」
「えっ、思うもなにも、そうですよ」
ラーメンのスープをすすりながら蘊蓄話を試みる棚橋さんに、わたしは反射的に突っ込んでしまう。何故ならば、ここの塩ラーメンにモンゴル岩塩が使われているのは有名なことなのだ。
すると棚橋さんは面食らった顔をして、「ングッ」と喉につかえるように麺を飲み込んだ。それから水を一口飲んで、体勢を立て直すかのように、咳払いを一つする。そしてまた、口を開いた。
「……あの、映画、お好きですよね」
そう問いかけられ、わたしは麺を持ち上げる箸を止めた。
なんだか自分のフィールドに踏み込まれている気がする。「ひとり世界」を重んじるわたしの胸中に、じわじわと反抗心が芽生えはじめる。
「はい。映画もラーメンも一人で楽しむのが好きです」
棚橋さんは「うっ」という感じでのけぞった。一緒にラーメンを食べようと誘った人にそんなことを言われれば、いい気はしないと思う。
「……そうなんですね。僕はできることなら、誰かと一緒に楽しみたい」
そう言うと棚橋さんはまた麺をすすりだした。
一方で、わたしは箸を動かせずにいた。どうやらわたしは心底がっかりしている。この人はやっぱり、同類なんかじゃないんだ。
「……わたしには理解できません。だって映画って異世界じゃないですか。現実より優しかったり、厳しかったり、甘かったり、酸っぱかったり。そういう非現実的な世界にひと時のあいだ心を寄せる。それが映画というものじゃないですか。とすれば、一緒に観る人なんて必要ですか? 現実世界の人間なんて必要ですか? わたしは必要ないと思います」
気付けば早口でまくし立てていた。どうしてだろう、わたしは今とてつもなくイライラしている。
このおじさんは何も悪くないし、他人の価値観なんてどうだっていい。それなのに、わたしの中の「孤独」が悲鳴をあげているかのような。
……やっぱり誘いなんて断ればよかった。映画もラーメンも一人がいいって知っていたのに。
すると棚橋さんは、そんなわたしの顔を覗き込むようにして口を開いた。
「でも現実があるからこそ、非現実を楽しめるという見方も……」
「それは現実を楽しんでいる人の言葉です」
水の入ったコップを強く置いてしまい、「タンッ!」という音が店内に響いた。注目を浴びてしまい、恥ずかしくて顔を俯ける。何をここまで熱くなっているんだろう。
「……現実、楽しくないんですか」
顔を上げると棚橋さんがわたしを見ていた。その目はどこか憂いを湛えているようだった。
「楽しくないというか、嫌いなんです。映画を千回観たら、サヨナラしようと思っています」
「サヨナラ、ですか……?」
「わたし、映画を千回観たら死のうかと」
感情に任せて言ってしまった。けれどそれは、紛れもないわたしの本音。わたしは現実に居たくない、映画の世界に行きたい。ずっとそう思っている。
目を丸くしていた棚橋さんは、みるみるうちに表情が柔らかくなり、そしてこう言った。
「それ、いいですね」
「はぇ……」
反応が思いがけないものだったので、わたしは間抜けな声を出してしまった。
「それ、乗らせてもらえませんか。僕も映画を千回観たら、現実とサヨナラします」
「はぇ……」
さらなる間抜けな声を出すわたし。
こうして「映画を千回観たら現実にサヨナラ」を志す者として、棚橋さんが名乗りを上げた。
満足いくまで映画を観る。そして千回に到達したら、現実世界の人生を終える。
そんなわたしたちの日常、そのはじまりを告げるファンファーレが鳴り響くかのような。
そんな気がした。