日常11「わたしたち、現実世界にサヨナラします」
20XX年3月28日。日比谷公園にて。
天気良好。体調最悪。
日本気象協会の発表では千代田区の桜開花予想日は今日。けれど日比谷公園の桜は一分咲きにも達していない。
寒々しい姿をした桜の木を見上げ、わたしは小さくため息を吐いた。横では棚橋さんが体を小刻みに震わせている。
「もうすぐ四月というのに、今日は寒いですね……」
黒縁眼鏡からスラっと伸びる鼻が赤い。風邪をひいたらしく、ポケットティッシュをつまみ出しては鼻をかんでいる。わたしはわたしで具合が悪いので、それを気づかう余裕もなかった。
「関根さん、ずびばせん、ディッシュ持っていまぜんか」
ポケットティッシュが切れたらしい棚橋さんは、とんでもなく鼻声だった。
「……ありますよ。寒いのでもう劇場に向かいましょう」
ティッシュを取り出そうとカバンを探り、小さなノートに手が触れる。
わたしは少し悩んでから、ポケットティッシュと一緒にそのノートも取り出した。
「ありがとうございまず。……んっ、このノートはなんですか?」
「一応渡しておこうと思いまして。ただし、読まないでください」
ポケットティッシュとノートを手にした棚橋さんは、鼻水を垂らしながらクエスチョンマークを浮かべている。
「いいからもう鼻をかんでくれませんか」
「あっ……。ずびばせん、ずびまぜん」
わたしたちはこれから日比谷ゴジラスクエアの傍にある映画館へと向かう。人生最後の映画を観るために。
兼ねてより思い描いてきた「映画を千回観たら現実にサヨナラ」計画。本日ついにその計画が実行される。
――映画を千回観ても、生きてみませんか。
そう言った過去のわたしには申し訳ない気もするけれど。
――関根さん、あなたは生きてくださいませんか。
そう言ってくれた棚橋さんにも申し訳ない気がするけれど。
それでもわたしは一人でこの現実世界に残ろうとは思えず。心変わりがあったのはアクシデントのようなもの。やはり計画してきたとおりに行動すべきだ、と思い直した。
……あれだけ泣いておきながら、とも思うけれど。そもそもこの世に存在していないわたしが、涙を流すなんてちゃんちゃら可笑しいわけで。
もう泣くのはやめよう、そう心に決めた。
そういうわけで、わたしはこれから千回目の映画を観る。
最後に鑑賞する映画は「ひとり映画とラーメンの女。」。親近感がわくタイトルであり、ずっと観るのを楽しみにしてきた作品。
それを観たら人生をリセットする。
死んで、やりなおそう。何もかも。
それは不可思議で不条理な映画だった。
物語は終始、主人公らしき人物の視点で進む。
スクリーンに映るのはその主人公の視野のみで、本人の姿は見えず、セリフも喋らない。
おそらくは女性で、映画館で働いているらしい主人公は一人の女の子を観察している。
小学校低学年くらいの小さな女の子。毎日のように映画を観にやってきては、夕ご飯にラーメンを食べて帰る。
そんな女の子のことを、「まだ幼いのに心配……」とでも言いたげな視線で見守る主人公。
物語が進む中で、徐々に女の子の性格がわかってくる。見栄っ張りで泣き虫で我がまま。けれどその心根は真っ白。
女の子を見守る主人公の視点は、やがて映画館の外へと移っていく。
野外イベントではしゃぎ回る女の子。公園でセミに喚きちらす女の子。雪景色の中で泣いている女の子。
一貫しているのは、その女の子が常に一人でいること。
親や友達が登場することは一切なく、一人で日々を過ごしている。
主人公はそんな女の子の幸せを願い、その日常を見守り続ける。
物語は桜が舞う公園の景色で終わり、女の子が幸せになったかどうかは描かれていない。
……そういう映画だった。
夜になっても日比谷公園の桜は咲いていなかった。
「今日はラーメン、食べないのですよね」
棚橋さんが一応確認しますが、というふうに尋ねてきた。
「ラーメンは好きですが最後の晩餐となると、ちょっと違くありませんか」
「それもそうですね。ではフレンチかイタリアンでも食べに行きましょうか」
「……それ、本気で言ってます?」
わたしが睨み付けると、棚橋さんは笑って誤魔化した。
「すみません。では行きましょう」
「はい」
わたしたちは頷き合い、タクシー乗り場へと向かった。
現実世界にサヨナラする指針は以前より決めている。目標は「できる限り迷惑をかけずに人生をリセットする」こと。
職場や親族になるべく負担がないよう、可能な限り身辺整理をおこなった。
とはいえ、わたしたちにとって人間関係なんてあってないようなものなので、ややこしいことなんて、ほとんどなかった。
問題なのはサヨナラする場所。わたしたちは考えに考えたあげく、最期の場所を浜辺のある海に決めた。
もちろん、観光スポットのような場所は避ける。上手に海の藻屑となって、魚たちの餌になることが目標なのだ。
五億年ぶりのタクシー(体感)に乗り込んで、ここからほど近い海浜公園を行き先に指定する。
すでに日は落ちているけど、その場所は夜景スポットでもあるので特に怪しまれることもなかった。到着したら人気のない場所まで移動するつもりでいる。
後部座席に並んで座るわたしたち。
棚橋さんはドーンと落ち着き払っているように見えた。
「わたし知らなかったんですけど、有楽町って意外と海に近いんですね」
「そうですね。お台場が近いですから」
「えっ? お台場と海って何の関係があるのですか」
「お台場は東京湾に浮かぶ人工島にありますから」
「……マジですか。知りませんでした」
「そうなんですか。有名テレビ局の本社もあるのに」
「……内陸のテーマパークだとばかり」
「もしかして、行ったことないんですか」
「……あそこはリアルが充実している人のアレでは」
最期の日までこんな会話でいいのかな、と疑問を抱くわたしなどにはお構いなしに、タクシーは夜道を海へと向かう。
いつもの日常とあまりにも変わらない。もうすぐこの人生が終わるというのに、わたしは不思議なくらい落ち着いていた。
現実世界をリセットする場所は海。
わたしたちの日常は、間もなく終わりを迎える。