日常10「死ぬんですか。死ぬんですか。死ぬんですか」
わたしたちの日常も間もなく終わりですね。
覚えていますか、焼肉をご馳走になったあの日のこと。
この現実世界はゲームの世界で、本当の世界は映画の中にある。わたしがそう言ったら、あなた、無邪気に笑っていましたね。
わたし、今でも信じているんですよ。
この現実は誰かに創造されたウソの世界で、本当の世界はわたしたちの妄想の中にこそある。これってある意味真理だと思うのですよ。
……まあ、現実逃避って言われたらアレですけど。
ただ、あなたとはそういった世界線を行き来できたと思ってまして。
そうそう。手紙、これで最後にしようかと。
結局、届けられませんでしたね。宛名のない手紙なので、当たり前ですけど。
けれどもし、現実をサヨナラした後にこの手紙を届けられたなら。リセットしたその後の世界で渡せるのなら。そのときのために、きちんとお礼はしたためておきます。
――ありがとう、棚橋さん。わたしを救ってくれて。
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映画を千回観ても、生きてみませんか。
半分は無意識に出た言葉だった。人生をリセマラしようと決めたわたしの、絶対的な価値観が変わった瞬間。
しかし、この世界に生まれたその新たな価値観は、一瞬にして消えてなくなることとなった。
……それは、できません。
という、棚橋さんの呪詛の言葉によって。
その強大な力で新たな価値観を撃破した男は、いい大人のくせにオロオロとうろたえていた。その価値観の生みの親である、わたしが泣いてしまったからだ。
そのような再会から数日が経ち。何はともあれ、わたしたちは今までと同じような日々を過ごしている。
とめどなく映画の話をしたり、塩ラーメンを食べたり、絶え間なく映画の話をしたり、担々麺を食べたり……。
ただ、映画は観ていない。
千本目、つまり最後となる次の映画は「ひとり映画とラーメンの女。」という作品に決めているからだ。公開延期になったその作品は、3月28日に公開日が再設定された。
その日までわたしたちは、またいつもの日常を送る。
20XX年3月16日。棚橋さん宅にて。
天気は良好。体調は不良。
それは思ったより立派なアパートだった。
南向きの部屋は陽当たりがよくて白い壁紙が映えるし、広めのバルコニーでは贅沢にもガーデニングがされている。おまけにオートロックにモニター付きのインターホンで、セキュリティ面までしっかりしているのだった。
「どうぞ、適当にくつろいでください」
言われるまでもなくソファに腰掛けたていたわたしは、本棚にあったプログラミング教本をペラペラとめくった。
「興味あるんですか、プログラミング」
「いいえ、まったく。むしろ世の中の多くがこのような記号の羅列と知ると、げんなりします」
棚橋さんはキッチンでチャーシューを切っている。ラーメンにトッピングするものに違いない。
「はは、そうですね。情報化社会ですから」
「わたしたち生命体も、細胞という情報の集まりでしかないことを思い知らされます」
スープの香りが部屋中に広がっていく。茹で上がった麺を湯切りする音が聞こえた。
「……いい匂い」
「自信作です。昨日の夜から気合いを入れて仕込みましたから」
自作の煮干しラーメンが運ばれてくる。
それはとても綺麗なラーメンだった。味玉とチャーシューはもちろん、麺も自作してみたらしく。それでこのルックスは大したものだと素直に感心する。
「それでは、ご相伴にあずかります」
「はい、どうぞお召し上がりください」
レンゲでスープをすくい、口へと運ぶ。
濃厚な味わいが広がり、魚介系の香りが鼻に抜けた。
「ん、んんっ……んまっ……!?」
これはとてつもなく煮干し。お魚の旨味の桃源郷。そのコクたるやまんま海のごとし。
味わいに感動して涙ぐんでしまうわたし。そんなわたしを見て、棚橋さんも涙ぐんだ。
それからしばらくは集中してラーメンに向き合った。無言のまま、ずるずる、ずずーっと、麺とスープをすする音だけが室内に響く。
そのまま時は経ち、やがて煮干しラーメンの魅了魔法が解けはじめたころ。
味変にどうぞと言われたお酢を少し足しながら、わたしはチラリと棚橋さんの顔色をうかがった。
熱気に頬を火照らせながら、無邪気に麺をすするおじさん。
「……どうして姿を消していたのですか」
久しぶりの発言に驚いたのか、質問の内容に戸惑ったのか、棚橋さんは「ングッ」と喉につかえるように麺を飲み込んだ。
いくつか、うやむやになっていたことがある。
棚橋さんが半年間も姿を消していた理由。映画を千回観たら現実にサヨナラする理由。再会したあの日以来、ずっと聞こうとして聞けなかったこと。
……ようやく見つけた人がまた消えてしまう、そんな気がして踏み込めなかったこと。
そうした折、煮干しラーメンをご馳走したいと言われ、はじめて自宅にお邪魔することになり。訊ねるならば今日しかない、と覚悟を決めてきた所存で。
棚橋さんは少し考え込むようにしてから口を開いた。
「実家の岩手に帰省していました。何も伝えないままで申し訳ありません」
……探しても見つからなかったわけですね。
「……わたしが聞いているのは姿を消した理由です。どうして急に帰省を」
いろいろな思いが込み上げて、感情のコントロールが難しくなる。
わたしは半年もの間、この人のことを探していた。だから納得のいく答えが欲しいと思ってしまう。
そして同時に、そんな自分にモヤモヤする。関係を絶とうと決めたのはわたしなのに。この人はわたしの何でもなくて、報告の義務なんてないのに。
わたしはいつからこうなってしまったのか。冷静に話を聞かなければ。今日はそのつもりでここに来たのだから。
そんなことを考えつつ悶々としていると、ようやく質問の答えが返ってきた。
「……冬子のお墓を探すためでした」
その名前が出てくることは予測していた。
スープをレンゲでいじりながら、その女性に思いを馳せる。棚橋さんが好意を抱き、けれど亡くなってしまった、わたしに瓜二つの女性。
家も連絡先も知らないと言っていたけど、お墓の場所も知らなかったのか。
思えば、冬子さんの話は断片的に聞いてばかり。
……おそらくはわたしが無意識に避けてきたから。
「……それでお墓は見つかったのですか」
「はい、昨年の末にようやく。……本当にようやく、見つけました」
その声音から、それが重要な意味を持つことが伝わってくる。
この人にとって冬子さんはどういう存在なのだろう。
「あの、そもそも冬子さんが亡くなられた理由って」
「彼女は病気だったんです。会ったときにはもう余命いくばくもなし、という状況でしたから」
軽くのけぞってしまった。
余命わずかな人……もうすぐ現実からいなくなる女性に、恋をする。それはスクリーン上でしか見たことのない世界だった。
「だから僕は、冬子から逃げたんです」
棚橋さんは憂いを含んだ眼差しをしている。
「人生のすべてをかけたい、そう思っている人が失われる。そういう未来が決められている。それも将来的なことではなく、すぐ近い未来に。それは僕にとって耐えがたいほどの恐怖でした。必ず失われるとわかっているものが、自分の人生のすべてだなんて」
それから棚橋さんは苦笑を浮かべると、こう言った。
「……だから僕は、あなたからも逃げ出したのです」
自分は小さい人間だ。そう言いたげな顔をしている。
「本当は映画を千回観て終わるつもりでした。もう関根さんに会うつもりもありませんでした」
棚橋さんは立ち上がり、飾り棚から何かを手に取った。そしてそれを手のひらに乗せる。
白い宝石のついた、ピンクゴールドの指輪。
「……これ、覚えていますか」
覚えている。日比谷ゴジラスクエアで拾った落としもの。わたしたちの日常が交わった、そのきっかけ。
「冬子に渡すつもりだった婚約指輪です」
それを聞いて何となく感付いた。
亡くなった人に渡す予定だった指輪を、瓜二つの女が拾った。そして、その女も死ぬことを予定していた……。
「棚橋さんが映画を千回観たら現実にサヨナラする理由って……」
もし予想通りなら、その理由はわたしにとって到底納得のいくものではなかった。
「それなんですが。関根さん、あなたは生きていてくださいませんか」
「はぇ……?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「僕は現実世界に残るつもりはありません。でも、関根さんは生きてみようと思いはじめた。……ならばどうか、生きてください」
なんて身勝手なことを言うのだろう。
何もわかっていない、これだからおじさんは困る、本当に困る。
それなのに棚橋さんは、優しい表情で、優しい口調で、いつものように笑いかけてくる。
いつもどおり、いつもの日常、いつもの光景。それが今は、こんなにもツラく感じられる。
「……死ぬんですか」
涙がボロボロ。止められぬ。
……おかしいな、ここのところ泣いてばかりいるような。
「死ぬんですか。死ぬんですか。死ぬんですか」
どうした、わたしの涙腺、しっかりしろ。
「死ぬゔでずが。死ぬるでいが。じぬぬぬ……う゛ぇぇえ〜」
……この世界は、どうしてこんなにもリアルなんだろう。
リセマラ可能なゲームの世界のくせに。
せめて感情を自由にコントロールできたらいいのに。プログラミング制御とか、そういうやつで。
涙と鼻水にまみれたわたしは、そんなことを考えていた。