おばあちゃんのおまじない
「ねえ、おばあちゃん」
「どうしたの、ぼく」
「ぼくね、大きくなったらそうりだいじんになりたい!!」
「まあ、すごい夢ね」
「ぼくになれるとおもう?」
「だいじょうぶ、ぼくならなれるよ」
「ありがとう!!」
胸を張るぼくを、にっこりとわらってくれるおばあちゃん。
どんなに子供じみた夢であっても、決して無理だと言わず常に肯定してくれた。そんなおばあちゃんに甘えて、ぼくは思いつく限りの夢を語り続けた。
親がじろりとこちらを睨みつけてきたけど、おばあちゃんはこら。とそれを諫めて「いっぱい、夢を見るんだよ」とそう言ってくれた。
そんなおばあちゃんは、時々何かブツブツと独り言をつぶやくことがある。
不思議になって何を言っているのか聞こうとしたけど、その度に何事もなかったかのようにいつものやさしいおばあちゃんに戻ってしまう。
何があったかを聞くことも忘れて、いつものやさしさに甘えてしまっていた。わずかに聞き取れたのは「とくいね」という言葉だけ。全くわけがわからなかった。
クリスマスの夜の出来事だった。
今から三十年前、うだつのあがらないぼくにも誰かに愛されていた時期があった。
正直に言うと、ぼくは総理大臣になりたいだなんてこれっぽっちも思っていなかった。じゃあ、なぜそんな夢ばかり語っていたのか? ただ、何かを語って人の喜ぶ姿が見たかったんだ。どういうことをしたい、どういう大人になりたいなんて大層な夢、持ち合わせているわけもなく。ただ、目の前の一瞬が綺麗になってくれればいいとそう思っていたんだ。
両親も最初は楽しそうに聞いていた。けど、ころころと変わるぼくの夢をいつしか白い目で見るようになってきた。
「勉強は?」と聞かれる度にやってる、と生返事だけしてやり過ごす。引きこもりになってからは、自分の立場にかまけて返事すらしない。
そんな日々をやり過ごしているうち、ぼくはおばあちゃんと疎遠になってしまっていた。
理由は、ぼくの引きこもりだった。
時間だけはゆっくりと経ち、いつの間にか中学生を自動的に卒業。高校は通信制でやり過ごして、卒業後は当面の間をニートでやり過ごす。
そんな親の目はとても冷たく見えて、目を交わすだけでもおっくうになってしまった。それが嫌で、すれ違わないように夜に活動することが増えた。図体だけ大きくなったぼくに、その目に残りわずかな親心が含まれていたなんてわかるわけもなく。ただ、否定されたように感じてしまい心を閉ざしていく。
そんなぼくに、ひとつばちが当たる。
父が倒れた。
過労がたたって、心臓の病を抱えたらしい。お医者さんはドクターストップをプレゼント。大黒柱はあっさり折れた。いきなりピンチだ。
母さんは疲れた顔で、「助けて」と小さく言った。それで理解する。もう家を支えられるのはろくに外にも出ず、酸いも甘いも経験してこなかった無駄にデカい男の図体だけなんだと。
母さんはずっと家の仕事だけをしてきた。年齢も年齢だし雇ってもらえてもパートぐらい。高い給料は望めない。それで家がどうにかなるわけがない。消去法でぼくに柱の役目が回ってくる。当然の結果だ。
そんな状況だというのに、頭を支配していたのは「人と関わりたくない」、これだけ。ぼくは、この期に及んで自分の今後しか考えられなくなっていた。
何の努力もせず、ぼうっと日々を過ごしてきたぼくにとって、家族の身を案じることすらぜいたく品になってしまっていたんだ。
そんな自分に絶望して、また数年。今に至る。
やさしいおばあちゃんを思い出した時、ぼくはわずかばかりのコミュニケーションができるおっさんと呼ばれる存在になっていた。
「立花さん。あんた、いつになったら仕事覚えてくれるんだ」
「申し訳ございません」
「毎度申し訳ございません。で済まされたらこちらも困るんだよ。これでも足りない人員をやりくりして、頑張ってるんだからさ。誰かが足並み揃えられないと、こっちが辛くなるのよ。わかる?」
「……申し訳ございません」
「少しは工夫してくれ。そして、自分で考えて。質問して教えられたことはちゃんとメモして。いいね?」
「……はい」
平身低頭の名目で深々と頭を下げる。お冠になっている自分より若いお兄さん――上司の機嫌を取る為に。
いたたまれなくなったのか、お兄さんは一度咳払いをして、もう戻っていいよ。とぼくを追い払った。
平身低頭に失礼します。と言って、その場を後にして持ち場に戻る。
茶色い箱がベルトコンベアーに等間隔で並べられ、その箱の中に従業員さん達が黙々と缶詰を詰めていく。
それをぼうっと眺めていると、「立花さんっ」と従業員さんのひとりに怒鳴りつけられた。
仕事はうまくならないのに、謝る事だけはとても上手くなっていた。そのまま、人の怒りをやり過ごして家路につく。
くそっ。と悪態をついてやりたいところだけど、悪いのは全部自分だ。お金をもらっている以上最低限のことはやらなければいけない。
その最低限をやり切ることが、夢を語る事より何千倍も難しい事だったわけだ。
「は、はは」
荒く吐いた息が真っ白なブレスになるのを見届けた。今日は寒いんだと、今更理解した。
「ん?」
このまま前へ進むと道中に公園があるが今日はやけに騒がしい。いつもは静かなのにどうしてだろう。
どんっ。
「いたっ」
何かにぶつかった。よろけながら衝撃のあった方を向いてみると、若いお兄さんとお姉さんが手を繋いでいた。軽くひと睨みすると、お兄さんはすみません。と一言謝ってお姉さんの手を取り足早に去っていく。そして、気づく。
おじいちゃん、おばあちゃんがベンチで二、三人腰かけている位ののどかな日常は、飾り付けが施された木々や建物がバチバチに光を放って、無数にうごめく人間たちをこれでもかという位に照らした。中には子供と手を繋ぐ若いカップルもいて、頭に赤い三角帽子をかぶっている。作られた真っ白なヒゲをつけながら。
『Merry Christmas!!』
デカデカと書かれた装飾で理解する。ああ、今日はそういう日なのかと。
そしてまた理解する。これを祝えることはとてもぜいたくなんだと。
「ああ、とくいね」
何気なく言った言葉だった。けど、どうしてだろう。かなり落ち着く。
少しばかり余裕の出来たぼくは、ルンルン気分で、そして急ぎ足で家へと向かった。
家に帰ると誰もいなかった。母さんは自分の部屋に引っ込んでしまったらしい。
父さんが倒れてから、母さんはリビングに現れることは殆どなくなった。不思議だな、十年前はぼくが引きこもりだったというのに今では母さんが引きこもりみたいだ。
なーんて、そんなもの父さんの看病で付きっ切りだからだ。ぼくとはまるで違う。ははっ。
1階の明かりを付けてしばらくソファに腰かけた後、テレビの電源を付ける。
『Merry Christmas!!』
ぶつん。
なるほど、テレビも同じか。
「……とくいね」
うーん、どうしてだろう。心が落ち着く。
「とくいね、とくいね」
もう一回。
「とくいね、とくいね、とくいね」
もう一回。
「とくいね、とくいね、とくいね、とくいね」
もう一回。
「とくいね、とくいね、とくいね、とくいね、とくいね」
「……アンタ、それ」
なんだ、母さん。いたんだ。
一緒にいることが多かったのに、どうしてだろう。久しぶりに見た顔はひどくやつれて見えた。
「おまじないだよ、気にしないで」
しかし、母さんはとても悲しそうな顔をして。
「……ごめんなさい」
「え、なにが?」
「いいえ、なんでもないのよ」
母さんはそういってぼくを抱きしめた。
その体はひどくゴツゴツしていて、ちょっとばかり痛かった。
「とく、いね」