第五話 『思い出すために』
聖堂街の街は、教区と呼ばれ区分されている。
中央教区にあるのは大聖堂と施療院。大教会の聖地を除いて国内にある最大の教会だ。
そこから上れば、王都に入る。王と貴族の上流階級層の暮らす街。
逆に下れば、郊外に入る。そこは辛うじて聖堂街の管理する地ではあるものの、治安が悪いため、市場や屋台が並ぶ庶民層の街となっている。
そこからさらに下れば、森と共同墓地が広がり、農民が集まって暮らす村々がぽつぽつとある。
ユーリは昨晩、勇者と聖女が訪れた丘を越えて、郊外まで下っていた。
「認めない。絶対に、認めない。勇者様は聖女様を救う……絵本のように、伝説のように……」
フードは昨晩グレイコーデに投げ捨てた。顔をあらわにしたユーリは薄暗い裏路地で膝を抱えて顔を伏せていた。手には彼の白い首飾り。
角も、フードが無い今ははっきりと見えている。
郊外と言っても表街は屋台やら市場やらで活気づいておりとても華やかだ。対して、裏路地は寂れていた。物が腐ったような臭いと廃油の臭い。建物と建物の間が狭いため、淀んだ空気が溜まっている。
時々駆けて行く鼠。昼間から飲んだくれている不良衛兵。
ここならユーリの容姿はあまり目立たない。
グレイコーデから首飾りを奪って一晩経った。今頃はグレイコーデとアトリーナが話をしていることだろうか。
「本当にあれで上手くいくと思っていたんですか?」
滑らかな少女の声が聞こえた。
顔を上げようとするが、なぜか首が持ち上がらない。
「勇者様と聖女様を無理に引き合わせたところで、問題が解決すると思っているんでしたら早計ですよ、魔族くん。それはそれで、単純でかわいいんですけれど」
「っ、」
背中に感じる人肌の柔らかな温もりと重み。
声を発している人物が、ユーリの首を背中から押さえつけているのだ。……いや、違う。身体が全く動かない。顔と口が辛うじて動くのみ。
「あなたは、誰……?」
「そんなこと今訊ねる問題ですか? 好奇心旺盛な子は好きですけど、今は違いますよね? おしおきです」
ユーリの身体を少女の白くて細い指は愛撫するように触る。そのまま頭の折れた片角をかりかりと擦ると、身体の奥から痺れるような熱さが広がった。
「あ、つっ……」
「いい反応です……。人間よりも、よっぽどかわいい……」
ふわりと古い本のような香りがユーリの鼻をくすぐる。
ユーリの背中から腕を回す人物はくすくすと笑った。
「わたくしは、勇者のファンなんですよ。勇者のグレイコーデ様、聖女のアトリーナ様、魔法使いのエルフ様、傭兵のライゼンターク様──」
春風のように謳い上げるのは、かつての勇者パーティ。まるで愛する人たちを呼ぶような蕩けた声。だが、一人……後から呼ぶ人物は違っていた。
「ああ、そういえば。一般人のシルヴィア様もいたんでしたね」
グレイコーデの亡き妻であるというシルヴィアのことだけは、無感情かつ事務的に言うだけだった。
「勇者様と聖女様、仲違いしてほしくないですか? 君が魔族というだけで、君のせいで、そうなるのは悲しいですものね」
「それは……」
そこでふとユーリは気づく。
──なぜ、わたしが勇者様とアトリーナ様を引き合わせたことを知っているのだろう。
教会が箝口令を敷いて、グレイコーデが勇者だと知るものは少ないはずだ。知っている人は教会の上層部の極々僅かな人のみ。それが、なぜ、この人物は知っている?
「グレイコーデ様は死ぬために旅をしているんでしたよね。シルヴィア様の遺灰を持って、死ぬために。それってちょっぴり悲しいと思いませんか? ──この世界から外れた異邦人のために、私たちの勇者様がそこまでする必要はない……そうは思わないでしょうか?」
まるで心の中を読まれたかのように、知るはずのない情報が、彼女の口から出てくる。
そして、ユーリも知らない『異邦人』という言葉。
「でも、まだダメ。今はガマンしなければいけません。──今は、ただグレイコーデ様とアトリーナ様に仲直りしてもらいたい。その気持ちは、わたくしも一緒ですもの。わたくしも頑張るから、君も頑張ってみてください」
そこで首筋に軽く湿り気を帯びた柔らかいものが押し当てられる。……唇の感触。
「──待ってるから」
風にかき消されるように、彼女の気配は消える。
身体が動いた。首を上げて振り返ると、そこには裏路地の闇がただ広がっている。
微かに残る少女の柔らかな肌の感触と温かさ。
「……なに、これ……」
少女に擦られた右角──折れてもう生えてこないはずのそこが、丸く柔らかな軟骨で覆われていた。まるで、折られた角を治したかのように。
「……っ」
ユーリは、背筋に残る温かさとは無縁の寒々しい悪寒を感じて、その裏路地から離れた。
裏路地の闇の向こうでユーリを見る無数の獣の眼光にも気づかずに。
ただ、この脳裏に浸透する寒気から逃げるために当て所なく走った。
その日、『魔物』が聖堂街郊外にて産声を上げた。
♰
白い首飾り。シルヴィアの遺灰が入っているそれは、グレイコーデにとっては何よりも大切なものだ。
昨晩、聖女の弟子に奪われた物だった。
盗品として衛兵詰め所に探してもらうという手はあまり取りたくなかった。なにより、シルヴィアに他人の手など触らせたくない。
──魔法を使うか。
幸いなことに、アトリーナのように肉体は変質しておらず、魔力は充溢している。
【呪文詠唱を禁ずる】という面倒な制約はあるが、簡単なものなら呪文を省略する簡易魔法陣でも探せるだろう。
そう思い、聖堂街の外れにある魔法備品店に入った時だった。
ちりんちりんと小鈴を鳴らして、体躯の良い衛兵が入店してきたのだ。その足取りはどこか切羽詰まったものを感じさせる。身軽さを重視したのか衛兵が常に帯びている剣すら持っていなかった。
「……む?」
グレイコーデは、焦りを隠せない衛兵に聞き耳を立てる。
「──だから、攻撃系の簡易魔法陣を描いてくれよ! ほら、魔法ってのは石槍を降らせるとか、業火を吐き出せるんだろ!? 今は街の危機なんだ、そこを何とか……!」
机に手を叩きつけて頼み込む──いや、怒鳴りつける衛兵に、カウンターの奥にいる接客の若い女は首を小刻みに振るばかりだ。完全に怖気づいてしまっている。
「あの、魔法陣は……その、十分な魔力が必要でして……そうじゃないと効果は発揮できないというか……」
「そこは十分じゃなくていいんだよ! 使うのは俺じゃなねぇから。だから、ガツンと一発で魔物が倒せるやつをよ、描いてくれよ!」
──魔物……? この街に魔物が出たのか?
何やらきな臭くなってきた。グレイコーデは指印を刻み、耳に入る雑音を遮断する。
──【沈黙】
魔力をまとった指先が簡易的な呪印を刻み、僅かに世界を改ざんする。
かつての銀髪エルフは、『業火を吐き出す』はもちろんのこと『湖を凍結させる』や『風を起こす』、果てには『山を吹き飛ばす』なんかも指印を刻むだけでやってのけた。シルヴィアも『火を起こす』ぐらいは出来た。……見たこともない青い炎だったが。
対して魔法の才が無いグレイコーデは、火花を散らすことがやっとだった。使えるのは地味で効果の薄い指印のみ。
【沈黙】をかけたことにより、グレイコーデの認識で周りの世界はすっと静かになる。
店員がびくびくして、衛兵の睨みつける目から目線を逸らした。
「いや……その、魔法陣を描くのには、時間がかかりまして……三日ほど……」
「三日だと!? その間に街がいくら破壊されてもいいってのかよ! 人がたくさん死ぬんだぞ、お前のせいで!」
再びバンッと机を叩く音が響いた。店員は大きな音と衛兵の髭面に震えている。
「だからな……? お願いだから魔法陣を出してくれよ。ほら、そこに飾ってあるやつと保管しているやつありったけだ。魔法陣を買う金なら魔物を倒した後で国から下りるからよ」
「……そ、れは……」
そして、にこりと笑う。……遠目からは嫌でも作り笑いだと分かるが果たして、言葉に押された店員はついぞ衛兵の狙いに気づかなかった。
「……はい、分かりました」
弱々しく言う店員に、衛兵は含み笑いを浮かべた。
「じゃあ、遠慮なく……」
そう言って、店員の差し出した紙束に伸ばした手が、途中でがしりと掴まれた。
「何だい、あんたたちは」
見ると店員の横から老婆が衛兵の腕を掴んでいた。
「うちの孫娘を泣かせるとは、良い度胸じゃないか」
「お、おばあちゃん……?」
魔法備品店の店主であろう人物が、衛兵たちを一瞥してふんと鼻息を荒く鳴らした。
「衛兵ともあろう者が、剣すら帯びていないとは。それに、うちの魔法陣を使って魔物を倒すとか言ってるが、魔物を倒せるほど上等な魔法陣はうちには無いんだ。……とっとと失せなっ!」
ぴしゃりと言うと、腕を組んで紙束を渡さなかった。それを見て衛兵は顔を赤くする。
「なっ……せっかく上手くいってたってのに……ババァ……」
殺気を放ち始めた衛兵を見て、これ以上は危険と判断したグレイコーデは衛兵の肩に手を置いた。
「止めておけ。後悔するぞ」
「……なんだ、テメェは」
唐突に現れた壮年の男に、衛兵は眉を釣り上げる。
「お前は魔物と戦うつもりなど元からなかった。衛兵の立場を利用し、店から高く売れる魔法陣を街のためという名目で盗るつもりだろう?」
衛兵の顔色がはっきりと変わった。
言葉を続ける。
「その証拠に、お前は剣を帯びていない。聖堂街の衛兵は一人一振りの剣を帯びることを義務としているはずだ。それは衛兵としての職務中ならばなおさらの事。──お前、本当にこの街の衛兵なのか?」
「く、クソがッ!」
その言葉を聞いた瞬間、衛兵の懐からキラリと光るナイフが飛び出した。それを持って、衛兵はグレイコーデに突進する。
「お前がどこで衛兵の服を借りたのか、あるいは盗ったのかは知らないが──」
グレイコーデはするりと相手の側を通り過ぎると、ナイフの腹を指で弾いた。
「な」
重心と軸が狂い、男はつんのめる。
そこあるのはグレイコーデの革靴。足裏に熱烈な口づけを済ませると、ふらりと倒れ込んだ。
「──この街の衛兵は、お前のような鍛え方はしていない」
体幹はブレて、ナイフを持つ手も震えていた。
街を守る衛兵の手ではなかった。
その男は、鼻が折れて血を流して卒倒している。見た目は派手だが、そう深い傷ではないだろう。
──【戦いを禁ずる】
軽く内臓が捻れた気がするが、気にならないほどに呪いの効果は薄かった。この程度ならば自分でも対処出来そうだと、心の中の手記に記録しておく。
「あ、ありがとう、ございました……」
気弱な店員が恐る恐るお礼を返してくれる。
「ああ。気にするな」
「……あんた……どこかで……」
老婆は、グレイコーデを見て訝しむように眉をひそめて、そして驚愕に目を見開いた。
「ゆ、勇者様……勇者様だ……」
老婆は掠れた声で言う。
「覚えていませんか……? 最初に会った時です。あの頃、私は馬小屋の番をしておりました……」
「む。馬小屋? 君は、あの時の少女か……?」
六十年以上の昔。馬小屋に泊まっていた貧乏時代。いつも話し相手兼情報屋になってくれた馬小屋の少女。
僅かにだが、記憶にあった。
「はい……はい……! お久しぶりです……勇者様……!」
老婆の孫娘であるという店員は、おろおろと二人を見て首を傾げていた。
「勇者様は、あまりお変わりのないようで」
「……あの時の少女が、君か」
頬にそばかすを浮かべた話し上手な少女の姿が目の前の老婆と重なる。歯が抜けていた幼い少女が、今長い時を経てここにいる。
「あの時も助けていただいて……今回も助けていただきました。あなたは本当に、勇者様です……!」
老婆はまるで少女のように微笑んだ。
「勇者様……アトリーナ様とシルヴィア様も元気な姿でいらっしゃるでしょうか。いつまでも喧嘩ばかりしていらっしゃるのでしょうか。……喧嘩はいけませんよ。勇者様が注意しなければ、あの二人は止まらないのですから……」
老婆の楽しげな微笑が、グレイコーデの胸に深く刺さった。
「……っ……ああ、分かっている」
シルヴィアはもういない。アトリーナとは仲違いしたままだ。もう、先は長くないというのに。仲違いしたまま、アトリーナはこの世を去るのか。
──大切な人の死が、そんなものであってはならないことを一番知っているのは、自分だろうに……。
二人はいつも喧嘩ばかりしていた。それを仲裁するのが、グレイコーデの役割だった。二人の仲裁は何度もこなしてきた。シルヴィアとアトリーナのことなら、世界中の誰よりも知っていると自信がある。
それなのに。
──俺は何も見ないふりをするのか?
「一つ、いいか?」
「はい。何でしょうか勇者様」
「君は過去に戻りたいと思ったことはあるか? 俺たちが出会った頃のような、そんな昔に」
老婆はしばらくの間考えると、口に手を当ててゆっくりと言う。
「過去に戻れる。そんな選択肢があったとしても……私は戻らないでしょうね」
「それは、なぜだ」
老婆はグレイコーデの目を真っ直ぐ見つめて。
「私たちの出会いを思い出すために」
「……」
「出会ったときの気持ちは、もう二度と忘れないんですよ。あの日、勇者様とシルヴィア様が私の馬小屋に来たことも、勇者様が貧しい私に頭を下げたことも、シルヴィア様に蹴られていたことも……次の日アトリーナ様と一緒にやって来て鼻の下を伸ばしていたことも」
「……その事は忘れてくれ……」
「ふふっ」
暴露される勇者グレイコーデの日々。暴露した老婆はいたずらに成功した子どものようににんまりと笑う。
そして。
「人生は一度切りなんです。だから大切なものが出来て、だから大切に思える人が出来て……だから幸せになれるんです」
「……ああ」
「だから、私は『いいえ』と答えます。どんなに過去に後悔があったとしても──」
老婆はちらりと振り返り、微笑んだ。そこにはおろおろしている孫娘の店員とその後ろに一枚の写真が飾られていた。
そこには、若かりし頃の老婆と一人の壮年、そしてその息子と思われる男性と女性。女性の腕に抱かれて眠る赤ん坊が写っている。
「──今の幸せを手放すつもりは、ありませんから」
グレイコーデの胸に後悔がじわりと灯った。
その後悔は、生まれたばかりのもの。老婆の話を聞いている間に大きくなり感じられるようになった。後悔は、時間が経てば大きくなる。もしもこのまま旅に出てしまえば、アトリーナとは二度と会えなくなるだろう。
怒りに任せ、何も聞かないまま別れてしまった。旅に出てしまえば、二度と会えなくなる相手に。
その時の後悔はいかほどか。それを老婆は、気づかせてくれたのだ。
「聖堂街に魔物が出たと聞きましたが、勇者様がいらっしゃるのでしたら安心できます。……店を守ってくれたお礼に、この店で一番の魔法陣をお渡ししますよ」
そう言う老婆に、グレイコーデは首を振った。
「いや……代わりに、仲直りのコツがあったら教えて欲しいのだが」
「仲直り、ですか?」
老婆が難しそうに口をつぐんだ。
「だったら、お酒なんかはどうですか? 普段言えないこともお酒の力を借りれば案外簡単に言えますよ」
代わりに答えたのは店員の方だった
「酒か……」
グレイコーデはアトリーナの容態を考えて、決めた。ただし酒ではない。
「代わりに、高純度のマナポーションはあるか?」
「マナポーションですか?」
「ああ。あまり苦い物ではなく、飲みやすい物を頼む。……あいつは苦いのは嫌いだからな」
ちなみにこのおばあちゃんは、RPGでいうところの最初の村のクエストヒロイン的ポジでした。
ヒロイン力の残滓を感じる……。