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旅路のなかのグレイコーデ  作者: 紅葉
第一章 大聖堂の聖女
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第四話 『迫害の味』

 朝日が登った。


 勇者の死が偽装だった。その事実はたちまち教会を混乱の波を引き起こし、教会の機能が麻痺する──普通であれば、そのはずだった。

 だが、事態はそう単純ではなかった。

 教会の上層が敷いたのは箝口令。つまり、勇者の生存を教会だけが知っている情報に留めるように指令を出したのだ。そのため、シスターの大半はグレイコーデが勇者だとは知らない。昨日ふらりとやって来たわけの分からない男という認識だった。


 なぜ教会がグレイコーデの生存を秘匿するかは、分からない。王との、ひいては国との交渉材料に使うのかは知る由もない。


 天蓋つきのベッド。赤い絨毯。大きな部屋。奇しくもいつか治療を受けて泊まった部屋と同じような内装の部屋。与えられた部屋で、グレイコーデは一睡も出来なかった。

 首元のあったはずの首飾りは、昨日の晩からユーリに奪われたままだ。あれからユーリを追うことも考えたが、夜闇の中、一人の子どもを見つける手間とアトリーナに問い質す手間を考えれば、自然と考えは後者によった。若い頃ならば間違いなく前者を選んだだろう。感情と、傍にいたシルヴィアがそうさせた。


 だが、傍にシルヴィアはもういない。彼女の遺灰は、ユーリの手の中だ。


 すぐさま教会に戻り、面会を頼み込む。

 だが、アトリーナとの面会は、アトリーナが未だに昏睡状態ということで拒否された。

 そして、今朝になってアトリーナは目覚めたのだ。




「……そう。あの子のことを知ってしまったのね」


 アトリーナはベッドに寄りかかりながら、あごを摘んだ。その様子は緩慢であり、グレイコーデは苛立ちを覚える。


「あの子だと? お前があの子と呼んでいるのは魔族だ。人を喰って、魔王に従属し、村を滅ぼす。百害あって一利ない。そんなモノをお前は弟子に取っていたのか」


 言葉をぶつけると、アトリーナは妙に冷静にグレイコーデを見る。


「少なくとも、ユーリは進んで人を襲ったりした事は一度もなかったわ。適切な処置を踏んでいれば、魔族の害意は消せるのよ」


 アトリーナの柔らかな語尾の調子が消えていた。


「兄の内臓を引き摺り出して喰らったやつらと共存しろというのか」


 苛立たしげに語気を強める。


「少なくとも、あなたの兄を殺した魔族は、あの子ではないわ」

「当たり前だ。俺がこの手で殺したからな。……話を逸らすな、アトリーナ。お前は一体何がしたい」

「逸しているのはあなたよ、グレイコーデ」


 アトリーナは机の表面を指先でこつこつと二回叩いた。

 それが自分の緊張を収めるためのもので、相手と交渉する際に必ず行っていた彼女の習慣だったと思い出す。

 以前の旅路では、仲間内には決してとらなかった──魔王軍や関係の悪い国の使者相手に使っていた仕草だった。

 思い出した瞬間、胸の内に空洞が空いたように感じた。そこから何か大切なものが流れ出していきそうで、グレイコーデは顔を硬直させる。

 その仕草をグレイコーデに向けるという意味、恐らくアトリーナは無意識だろう。

 だからこそ、余計に。


 ──お前は、俺に何を交渉したい。


 苛立ちを収め、耳を傾ける。


「家族の仇である魔族を憎む理由は私にも分かるわ。……いいえ、分かろうと努力をしてきたつもりよ。その上で私はあなたに話をしているの」

「聞こうか」

「時代は変わったのよ、グレイコーデ。魔王が倒され、魔族は魔王の呪縛から解き放たれた。彼らだって、私たち『人間』の一員にするべきなの。あの大戦争のように、お互いを憎み合うのはそれこそあなたの言葉を借りれば、『百害あって一利なし』よ」

「【人間を襲え】という魔王の呪縛か。自分らの責を全て魔王に被せるための戯言ではないと誰が証明する?」


 それにアトリーナは一言で応えた。


「証明するのは、彼ら自身。彼ら自身が私たちは人間であると証明するのよ。かつてのエルフ、ドワーフ、ドラゴニアのように」

「その証明の過程で出た被害は誰が責任をとるつもりだ。国か、教会か、それともお前か? やつらは必ず人に害をなす。俺はお前を断頭台の上で見たくない。……何よりも簡単な証明は、魔族を一匹たりとも残さず皆殺すことだ。そうすれば、面倒な問題に頭を悩ませる必要はない」

「それでは、何も解決にならないわ!」


 淡々と呟くグレイコーデに悲鳴のような声で答えるアトリーナ。

 意見の相違は広がるばかりだった。

 グレイコーデの根本にあるのは、魔族に対する憎悪と魔族を殺すことに対する義務感だ。

 魔族は、魔王の呪縛と本能によって人を喰う。

 魔王を倒したことによって呪縛が解かれたとしても、本能がまだ残っている。生物の本能は魂に刻まれた命令だ。人が息を吸うように、魔族は人に害を与える。人が食事を摂るように、魔族は人を喰い散らかす。

 エルフ、ドワーフ、ドラゴニアとは根本的に違うのだ。

 だからグレイコーデは、魔族を殺す。最初はただ義務感のままに。兄が魔族に殺されたと知ってからは憎悪も刃に乗せて魔族を斬り殺すようになった。

 それはアトリーナも同じだったはずだ。

 なぜ、こうも意見が食い違う。


「魔族の話は置いておこう。俺は魔族を殺し、お前は共存すればいい。俺の目の届かぬところでな」

「……グレイコーデ」


 グレイコーデには、もう一つ話があるのだ。


「お前の弟子から、一つ頼みごとをされた」


 子どもっぽい装飾のついたやすりをアトリーナの寝るベッドに放る。


「『お前と話せ』とな」


 アトリーナはやすりを拾い上げる。


「……あの子がそんなことを……」

「どういうことだ。あの魔族はお前と組んで魔族の権利でも主張するつもりなのか?」


 元よりアトリーナは魔族に対する憎悪が仲間内でも薄かった。

 アトリーナとあのユーリとかいう魔族。その関係性は最初から師弟関係ではなく、魔族の権利主張のためにアトリーナが利用されているのではないか、という話だ。

 もしそうならば、あの魔族は非常に危険な存在だ。高い知性を持ち、王でも貴族でもない独立した権力者に身を宿して、人間の価値観を破壊しようとしている。


「そんな話一切無いわ。あの子は、ユーリは、五年前に拾ってからずっと一緒に暮らしているの。私はあの子を愛しているわ」

「……ほう?」


 疑問が一つ湧き出る。それは、ユーリという魔族がグレイコーデに伝えた言葉。


「だが、お前の弟子はそう言っていなかったぞ。『アトリーナは自分を見てはくれない』。いつも見ているのは、昔。……俺たちとの旅をしていたころをずっと見ているようだとな。興味も抱かずに、人を愛する方法があれば是非教えてほしいな、薬水の聖女様」


 ぞっとするような冷たい声色がグレイコーデの喉からこぼれ落ちた。今度こそ、アトリーナの顔色が変わった。


「それは……違う……違うのよ」

「お前はただ、自分に酔っているだけだ。魔族との共存を歌う美しい信念、それを持つ自分自身に。愛していると言いつつ、弟子の眼差しも捉えない。お前は一体何なんだ?」


 グレイコーデがアトリーナの目を覗き込む。

 彼女は、耐えきれずにその目を逸した。


 ──それが答えか、アトリーナ。


 振り向いて、扉に手をかける。


「もう用は済んだ。明日、この街を立つ」

「では、ユーリは……!」

「魔族は殺す。お前の弟子でも関係ない。あいつは俺から妻を奪った」

「っ、」


 一瞥もせずに、呟く。


「お前は正しく慈悲深い薬水の聖女だ。ただの聖女に成り下がった。──変わったな、アトリーナ」


 扉が閉まる音が二人の相違を表すように、無情に響いた。

 そこには頭を抱える老婆と、子どもっぽい装飾を施したやすりがきらりと涙を落とすように光を流していた。


『人は変わるんですよ、いつだって』


 その言葉は、正しかった。

 長い時間をかけて、アトリーナの価値観は変貌していた。

 グレイコーデもそれにならうべきなのかもしれない。時代の変化を認め、魔族と手を取り合う道を歩むべきなのかもしれない。


 だが、信念は変わらない。


 変わらない信念こそ、【暗灰】の勇者グレイコーデの唯一の性質だ。

 それこそ、魔王を討ち果たした武器なのだ。

 だから、グレイコーデは信念を曲げない。

 決して、曲げない。


 曲げられない。


 ♰


 ──わたしは、勇者になりたかった。


 普通の村で、貧乏でも裕福でもない家に生まれて、両親の愛を受けて育ってきた。

 将来は畑作か果樹栽培か。夢は叶わないけれど叶わない夢を両親と語り合って、笑い合うことは出来た。それが子どもの頃は楽しかった。


 そのまま一生暮らすのだろう。


 十五になれば、家を継いで。隣村のちょっと気になるあの子と結婚して。

 愛し合って子どもを産んで、その子を育てながら普通に、幸せに、老いて死ぬまで生きるのだろう。


 ──わたしには、そんな幸せすらなかった。


 魔族という枷に縛られたユーリには、その程度の幸せを望むことすら許されなかった。

 両親は、普通の人間だった。ユーリだけが魔族として生まれてきた。

 醜い骨と筋肉が浮き出た身体。人間のものではない黒くてゴワゴワとした獣毛。頬には焼き印を押されたように刻まれた魔族の紋様。

 忌むべき魔族の形をして生まれたユーリを、それでも両親は愛してくれた。

 家に閉じ込められたものの、それは自分の姿が外に伝わらないためであり、ひいてはユーリの自身のためでもある。幼い頃より賢しかったユーリは、そんな両親の意図を汲み取り、家で、一人で過ごしていた。

 魔族の本能。肉を切り裂き、擦り潰し、喰らいつきたい。そればかりは抑えきれず、両親が狩ってきた野生の動物を喰らうことで衝動を発散してきた。


 ユーリはそれでも幸せだった。


 病弱で家からは出れずに引きこもっているお肉が大好物な子ども。

 実際、そうだった。それだけだった。

 忌々しい外見さえ除けば。

 あの時、部屋に入ってきた蝶につられて窓から外に出てしまわなければ。

 あの時、ちょうど隣村のあの子が通りかからなければ。

 あの時、通り過ぎたあの子に駆け寄って、呼び止めたりなんてしなければ。


 全てを失った。


 まず始めに村から追い出された。食べ物もなく当て所なくさまよう家族に、まるで誰かが仕込んだかのように騎士崩れ──野蛮な盗賊のような人たちが襲いかかって、全てを奪っていった。


「おとうさん、おかあさん、おきて……ねぇ、おきてよ……っ!」


 ユーリを庇って傷を負った両親は、その二日後に死んだ。

 魔族の身体能力と生命力は、人間とは比べ物にならない。一緒に死ねなかったことを、ユーリは激しく後悔した。


「……なんで、わたし……」


 そして、気づく。口元が濡れていることに。その液体が、自分の流したよだれだということに。

 両親の死体を見て『よだれ』が出てしまう。そんな魔族の身体を酷く憎んだ。


「……こんな、もの」


 魔族には必ず生えている頭頂部の捻れた角。

 魔族の証。


 ──この角が、おとうさんを奪った。

 ──この身体が、おかあさんを殺した。

 ──魔族である、この自分がッ!


「……こんな、ものッ、いらないッ!」


 両手で右の角を持ち、震える身体と激しく鼓動を打つ心臓を抑えて──へし折った。


「────────────────」


 確かに一瞬、心臓が止まった。

 意識が漂白されるほどの激痛、激痛、激痛、激痛、激痛。激痛の波。奔流。視界が赤く染まる。止まらない。灼熱の鉄を折れた角から頭の中に流し込まれるような感覚。数万の白熱した刃で切り刻まれるような感覚。

 魔族の角は、その者を魔族足らしめている所以なのだとユーリは後になって知った。

 直感で分かった。もう片方の角も折ってしまえば、自分は死ぬ。


 死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 自分で自分の命を殺す。両親が生んでくれた命を。育ててくれた命を。両親が命を引き換えて守った命を、自分の手で捨てる。


「あ、あああああああああああああああああッ!」


 折られた角から血が溢れ出す。魔族は角の中にも血が通っているということに、魔族でありながら始めて気づいたユーリは、どこか他人事のように血を眺めていた。

 冷たくなっていく頭が、考え始める。


 ──わたしは、勇者になりたかった。


 ユーリは本が好きだった。いつも寝る前には母にせがんで本を読み聞かせてもらっていた。

 母は、意図的に勇者を題材にした本を避けていた。

 それは、ユーリと同じ魔族を懲らしめて、世界を救う話だったのだから。

 だが、ユーリは。


『おかーさん、おかーさん! あれ、ゆーしゃさまのほん、またよんでっ!』


「──なにが……」


 ユーリは、自分が魔族であるにも関わらず、勇者に憧れを持っていた。

 確かにユーリと同じ外見をした魔族がばったばったと勇者に倒されていくのは、悲しい。だが、それも仕方ないと思えた。物語の魔族は、悪い事をしたから勇者に倒されるのだ。

 逆に考えれば、悪いことをせずに、良いことをすれば、勇者とだってお友だちになれるかもしれない。

 もしかすれば、一緒に、冒険にだっていけるかもしれない。


『ねぇ、おかーさんっ!』


 だから、ユーリは、幼い魔族は、満面の笑顔で。


『わたし、いい『まぞく』になる! それでね、それでねっ! いっしょにね、ぼうけんにつれていってもらうのっ!』


 魔族でも良い存在になれると、無条件に信じていたのだ。


『だから、みててね、おとーさん、おかーさん!』


「なにがっ……!」


 もう、ユーリを見ていてくれるおかあさんはいない。おとうさんもいない。

 魔族というだけで、村から追放し、弱者をいたぶるような盗賊の下卑た視線を浴びて。


「……なにが、なにが勇者様……!」


 昔、勇者と呼ばれた人が魔王と呼ばれた魔族を倒したらしい。

 その魔王は、魔族のための世界を創ろうとしていたとか。

 魔族のための世界。そんな世界なら、両親はこんな目に合わなくて済んだのではないか。魔族が自由に暮らせる世界なら、ユーリも普通の幸せを手に入れられたのではないか。


 つまり、勇者とは。


 魔族の世界を否定した人なのだ。

 ユーリを否定した人なのだ。

 ……ユーリを守ろうとした両親を否定した人なのだ。


「……勇者なんて……大っ嫌い……ッ」


 通りの奥がざわめく。騎士崩れが戻ってきた。下卑た笑い声が不愉快にキンキンと鳴る。


 ──そういや、あの貧乏クセェやつらをヤッたのって確かにここらへんだったか。

 ──ガキがわんわん泣いてそりゃあうるさかったのなんのって。

 ──まだいるかもしれねぇぞ。ガキのモツは高く売れるんだ。血とモツを抜いて砂でも詰めて川に落とせば足はつかねぇ。探せ!

 ──ギャハハハッ、おっかねぇ!!


「っ、」


 怒りが再熱してきたところに、騎士崩れの声が聞こえる。こちらを捕まえるつもりだ。

 途端に身体が震え出す。カチカチと歯の鳴る音が聞こえる。口に手を当てて息をするのも噛み殺す。


「ふぅ……ふぅ……!」


 今出て行っては、殺される。その思考が、身体を石のように固める。

 無力だった。

 ユーリは、ただひたすらに無力だった。

 やがて騎士崩れが両親の死体をあさり始める。散々に痛めつけて殺した両親を、更に蹂躙する。服を剥いで、金品を盗み取る。その服すらも騎士崩れに奪われ、両親の死体は路上に放置される。


 許せない。だが、怖い。許させるはずがない。だが、怖い。

 今出て行かなくてどうする。だが、怖い。


 ──怖い、怖い、怖い……ッ!


 恐怖に思考が空転する。

 出て行かなくては、両親は死を侮辱される。

 だが、出て行っては、両親と同じ目に合わされる。


 カチカチ、カチカチ。


 じわりと下半身から生温かいものが広がる。

 ユーリは、ただひたすらに耐え忍ぶことしか出来なかった。



「そこまでですよ、悪党」



 月明かりをこぼしたような、白金色があった。

 車椅子に座っているのは、小さな老婆だ。顔に刻まれているしわの数から相当の齢を重ねていることが見て取れる。白い、ぱりっとした内着とゆるく開いている黒の外套を着込んでおり、どこか厳格な気配が漂っていた。

 身なりからして上等の者であるのは間違いないが、車椅子を引く従者の姿はない。


「あらあら、これはひどいですね……」

「何だぁ、テメェはよぉ」


 騎士崩れの乱暴な問いかけに対し、彼女はため息をつく。


「だから、外に出たく無かったんです。世界は醜い……私たちが守ってきた世界が、そうであると直視させられるのが堪らなく辛いんですよ……」


 彼女は、そっと目を伏せた。


「ぶつぶつと何わけわかんねぇこと言ってやがる。身なりからして、テメェは貴族連中だろ? こんな所に一人で大丈夫かぁ? 俺たちが『親切』してやってもいいんだぜ?」


 老婆は軽く息を吐くと、小声で呟いた。


「……はぁ。バカばっかでやになるわねぇ」


 瞬間、老婆の目の前にいた騎士崩れの一人が、仰向けに倒れ込んだ。

 ぼこぼこと肌に火傷のような水ぶくれができており、血が物凄い勢いで溢れ出す。


「な」


 口から泡を吹いて、茹で上がった魚のように目を飛び出させて卒倒した騎士崩れを見て、他の騎士崩れは恐怖に一歩下がった。

 だが、そんな恐怖も一時的なもので、すぐに怒りに上書きされる。


「……テメェ! こいつに何しやがったッ!」

「あなたもお試しになりますか?」


 素早く回り込んだ老婆の手が男の脇腹にそっと触れた。

 ぼこぼこと水ぶくれが生まれ、血が溢れ出して粗末な服が鮮やかな朱色へと染まっていく。


「痛い、痛い痛い痛い、ああああああぁぁぁぁあっ!!」

「っあ、ま、魔女……!」

「『魔女』ですか。意外と良い響きですね、聖女と違って」

「逃げろ、逃げろっ!」


 騎士崩れたちは化け物を見るような視線で老婆を睨みつけ──いや、恐怖に震える視線を向け、卒倒した仲間を担いで走り去ってしまった。

 先ほど傷つけた騎士崩れも、脇腹を抑えて、身体を引きずりながら走り去る。


「悲しい人たち、よねぇ」


 騎士崩れたちは知らない。この老婆はかつて勇者パーティの一員であり、一行の治癒師を務めており、教会からは『薬水の聖女』と呼ばれていることを。

 治癒術は相手の体内を直接操作することに長けた術だ。修練を積んだ治癒師がそれを行えば、どんな傷でもたちまち癒えていく。

 しかし、身体を操作する術だ。応用すれば、治癒の奇跡でも致死の術へと変わる。

 聖女と呼ばれた彼女は、かつて戦場にて自分が独自開発した『致死術』を用いて、多くの魔物、魔族、人間を屠ってきた。

 聖女にあるべき行いではないと教会に隠蔽されたが、少なくとも、敵を殺したのは勇者だけではなかったという、紛れもない事実。その一端の力を見せただけであの有様だ。教会の判断は間違えていないのだと老婆は思う。


「…………ふぅん」


 やがて、老婆は両親の死体を見る。服は剥ぎ取られ、流れ出る血は黒く固まっていた。

 その両親の死体がもたれている木の背後に、ユーリは息を潜めて隠れていた。

 騎士崩れを撃退してくれたはいいものの、所詮見知らぬ他人。何よりも死体を見て悲鳴の一つも上げないとなると、ますます怪しく思えてくる。

 その老婆が、両親の死体に手を伸ばす。

 それを影からじっと見つめるユーリは、前かがみになり、無理のある姿勢をとっていた。


 じくり。


 折れた角が熱を持つ。ぴくりと反応した身体がバランスを崩して老婆と目が合ってしまった。


「……あ」

「……あら」


 ユーリの全身を一目見て、ぽつりと呟く。


「血の臭いに釣られて魔族ですか……なるほどなるほど、そうですか。グレイコーデの言うように、確かに醜悪でどうしょうもない。死体ですらお前たちにとってご馳走ですか」

「ち、ちが……」

「人里の近くに魔族なんて、魔王が倒されてから初めてですね」


 そう呟く声色に、感情はなかった。雑草を抜くように、害虫を殺すように老婆の手がユーリに迫る。

 魔族の本能が、ユーリに警告を示した。老婆の手に触れれば、一瞬で命が終わる。身体の中をぐちゃぐちゃにされて、血を吐きながら絶命する。

 だが、後ろには木がある。折った角はじくじくと痛みながら血を流している。震える手足は思い通りに動いてくれそうもない。


「ひっ、あ……助けて……助けて……」


 恐怖に思わず涙を浮かべる。


「……?」


 そんなユーリの恐怖を感じ取ったのか、老婆の目が細められた。


「もしかして……今、恐怖を感じていますか?」

「……ぇ」


 伸ばされた手がゆっくりと下ろされる。そして、しげしげと折れた角、魔族の紋様、異形の身体が舐め回すように見られる。


「角を自分で折ったんですか……? ……異様に人間らしい風貌、恐怖する心……もしかして」


 老婆の目の前にある二つの死体。


「この二人があなたの両親ですか?」


 ユーリはその質問に反射的に頷く。


「わたしの、おとうさん、おかあさん……」

「……あらあら」


 老婆が迷う素振りを見せた。そして、何かを決心したように眉を上げるとユーリの前に手を差し伸べた。


「しょうがないですね、いいでしょう」


 不思議そうに手を見るユーリに、老婆は一言。


「私の弟子になりませんか?」

「……え?」


 ──なぜ、魔族なんかを。


 それは、ユーリにとって純粋な疑問だった。


「理由は二つあります。まず一つ目に、近頃増えているという『人間から突然変異として産まれてくる魔族』が欲しかったから。色々と試したいこともありますし、実験動物としての側面ですね。魔王の欠片がどの程度ばら撒かれているのかの指標になればいいのですが……」


 当時幼かったユーリは、老婆の言ったことを半分も理解出来なかった。

 だが。


「……実験、動物……わたし、実験動物……」


 実験動物。その言葉は強くユーリの頭を打った。

 魔族として生まれてきた自分は実験動物としてしか、価値を与えられないのだ。捨てられれば、迫害され殺されて、忘れられる。

 堪らなく悔しくて、涙が流れそうになる。

 そして、老婆は二つ目の理由をどこかためらうように、口にした。


「二つ目の理由は……いいえ。元より理由は一つしかありません。先ほど言ったのはあくまで建前。教会に入れる建前に過ぎません」


 固く無機質な言葉が。



「やぁねぇ。小さな子どもを見捨てるような真似出来るわけないじゃないの。例え魔族でもなんでも、ぽろぽろ涙流して助けて助けてって叫ぶ子どもを殺したら、終わってるわよぉ」



 途端に暖かく語尾が丸まった。老婆の腕がそっとユーリを包む。


「ごめんなさい。私が言えた義理じゃないけれど……どうか、私たちを嫌いにならないでください。君も『人間』なんですから」

「う、あ……」


 涙が溢れ出す。


「私と一緒に行きましょう。もう、絶対に傷つけたりはさせませんから。……約束しますよ」


 そう言って、老婆はしわくちゃな指をユーリの小さな手に絡めた。


「私の名前はアトリーナ。シンメリー・サリエル・アトリーナ。あなたの名前はなんですか、小さな魔族さん?」


 老婆は、泣きじゃくるユーリに自分の黒い外套を被せた。

 その黒い外套は、フードの形に直して今でも大切に使っている。



 それが、ユーリとアトリーナの出会いだった。

 アトリーナの気持ちに嘘はないと思う。

 やすりをくれた。可愛くてカッコよくて、きらきらとしたやすり。それで角を丁寧に削ってくれた。削らなければ、魔族の本能が目覚めるから。

 ただの作業だったのかもしれない。だが、ユーリにとって、温かなアトリーナの腕に身体を預けて、自分の角が優しく削られていく感覚は、他のものには代えがたいほどの幸せだったのだ。

 しかし、アトリーナの望んでいることは違うことだとユーリは魔族の直感で、賢しい頭で気づいていた。

 ふと空を見上げる瞳に映っていた景色。


 ──アトリーナ様は、昔に戻りたい。仲間と一緒に旅をしていたあの頃に。


 ユーリもかつて勇者に憧れていたから分かっていた。今のアトリーナの老いた身体は、冒険に相応しくない。昔に戻れば、仲間たちと一緒に、幸せになれる。アトリーナは、過去に心を囚われている。

 分かっていた。分かっていたはずだった。

 アトリーナは冒険をもう一度望んでいる。

 だから、かつてアトリーナの仲間だという本物の勇者が来たときは、期待していた。

 アトリーナが勇者と話して、元気な姿を取り戻して欲しいと願っていた。

 だが、その勇者は、グレイコーデは……アトリーナと同じような顔をして、アトリーナと同じような色を瞳に浮かべて。

 死にたいと、そう、口にして──。


「…………」


 気づけば、グレイコーデの一番大切なものを奪っていた。


ユーリの過去……。

グレイコーデは魔族ぶっ殺派閥の精鋭です。

彼にも色々なことがあったのです。

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