第七話 『涙を殴り飛ばして』
ユーリは先走ったレイツェルに追いついていた。
しかし。
「っ、」
その背後から柱に身を隠していた巨大な蜘蛛のような魔物がも同時に姿を見せる。レイツェルの視線は前を向いているため、気づいていない。
背中に刃のような黒光りする外骨格を突き刺そうと、魔物蜘蛛は脚を振り上げていた。
──【風舞】
ユーリの指印が魔力を繰る。
鋭く纏まった風が鈍器のごとく上から魔物蜘蛛を押し付ける。一瞬の差で魔物蜘蛛の攻撃はレイツェルの柔肌を切り裂かずに固い壁を抉るのみですんだ。
「え」
レイツェルが今更のように背後に目を向ける。
レイツェルが見たのはユーリの剣が振り抜かれ、魔物蜘蛛の脚が二本同時に根元から切り落とされていた光景だった。
透明な体液を散らしながら、魔物蜘蛛の脚が宙を舞う。
その体液には芳醇な魔力が含まれている。
すなわち──こういうことも、できる。
ユーリは地に飛び散った魔物蜘蛛の体液を指で掬い、円をくるりと描く。
魔法陣とは何か。それは図形的性質を魔法的要素に落とし込んで魔法を補助する刻印の一種。指印と規模や規格はまったくの別物でありながらも基礎原理が同じ技術だ。
魔法陣とは魔法を補助するためのものである。極論をいえば補助するのみであり、魔法自体に魔法陣はいらないのだ。
アトリーナは、ユーリに魔法を教えていた。
戦闘中にいちいち魔法陣を描くような時間はない。だが、簡単な指印では複雑な効果を持つ魔法は描けない。
アトリーナは、ただの聖女ではない。内地に籠って人を癒し続けた聖女ではないのだ。
アトリーナは、戦う聖女である。
ゆえに、そんなアトリーナから魔法を教わったユーリも実践向きの魔法技術を一通り修めている。
「【媒介:簡易魔法陣経由──教導封印】」
ただの円が魔法陣の効果を発揮する。それは正規のものよりも歪で力の弱いものではあるが、弱小魔物相手には十分だ。
魔物蜘蛛の全身の外骨格が粉々に砕かれた。悲鳴を上げる間もなく、脚は折りたたまれ首は折られ、魔物蜘蛛の身体は圧搾されていく。
封印とは名ばかりの圧縮魔法。
正しい魔力と乙女の使い手。満月の夜に、とある彗星の欠片を飲み込んだ山羊の羊皮紙を使って、遠大な魔法陣を描けば、千年の封印も可能だというが。
アトリーナはそんな正規の効果を笑って受け流しながら、魔物を圧死させるために頻繁にこの魔法を使っていた。
やがて、拳大の立方体にされた魔物蜘蛛だったものは、そこらへ投げて捨てられる。
ユーリが一息ついた。
「魔物に、気をつけてください」
「何よ……」
レイツェルが普段とは違う泣きそうな声を出す。困惑したのはユーリの方だ。
「……え、どうしたんですか」
普段ならば「あんな危ない真似しなくてもあたしは魔物程度ボコボコにしてたわ! 余計なことしないでよ!」と助けたにも関わらず元気な言葉でこちらを罵ってくるはずだ。
「どういう意味よ……!」
少し涙ぐんでいるレイツェルに、ユーリは事態がいよいよ切迫していることを自覚した。
レイツェルが座り込んでいる前には、いくつものガラスの箱があった。透明度の高いガラスで、中がくっきりと見える。そのガラス箱には何本もの糸が吊り下がっており、その糸は魔法陣の形を象って魔力の光を走らせていた。
中身は様々なものだった。分厚い本や古い絡繰り、砂を詰めた瓶に黒く泡立つポーション。
だが、レイツェルの触れているところは。
「……粉々に、壊されてる」
ガラス箱が滅茶苦茶に打ち砕かれており、ガラスの欠片が散らばっているだけだった。魔力を通す糸も途中から引き千切られている。
その中に、異質な箱の残骸があった。金色の歯車と銀色のネジがバラバラにされて、打ち捨てられている。……それらはガラス箱の中は乾いているにも関わらず水に濡れていた。
「……この中に、『人の聖杯』が入ってたはずよ」
「『人の聖杯』は、もう壊れ──」
「そんなことないっ!」
レイツェルが大きな声で叫んだ。まるで悲鳴のような声だった。
だが、あの小さなオルゴールのような絡繰りが『人の聖杯』だと嫌でも分かった。
壊れていても部品の存在感が桁違いだった。神話級の金属を使って精緻に組み上げられたものだと予想できる。
「小さい頃、よくここで見せてもらってた。このガラス箱の中には光で編まれたような小さな絡繰りがあったのよ……なんで、こんなになってるのよ……!」
悲嘆に暮れるレイツェルに、ユーリは何も出来なかった。レイツェルの傍に立ち、壊された『人の聖杯』だった物に手を伸ばす。
「触るなぁっ!」
レイツェルの肩が跳ねて、ユーリを押し倒した。
憤怒に燃える瞳が涙に濡れている。両腕はレイツェルに押さえつけられ、爪がギリギリと食い込んでユーリの腕に真っ赤な跡を作っていた。
痛い。だが、レイツェルの心の痛みはどれほどか。
「……レイツェルさん」
「あたしの……あたしの父さん母さんがいたっていう証拠なのよ……? 二人がいなくなっても、これだけが……これだけが二人をあたしに認めてくれたのよ……?」
過去に失敗した『人の聖杯』を実用まで届かせたレイツェルの母。環境を整えるために作ったヒストリアという学者団体。団長であるレイツェルの父。
全てが『人の聖杯』に集約されているのだ。
それが今、レイツェルの目の前で粉々に壊されている。
──これは、自分と同じ。
ユーリは涙をこぼしながら吠えるレイツェルを見て、そう思った。
両親を失い、夜道で泣いていたユーリとこの場で泣いているレイツェルは同じなのだ。
ユーリは師匠であり、母でもあったアトリーナと出会い、喪って、今──ここにいる。
そして、レイツェルは──。
「……違いますよ、レイツェルさん」
「何が違うっていうのよ……!」
「この『ガラクタ』はご両親を──」
その瞬間、ユーリの右頬に衝撃と熱さが叩きつけられた。口の端が切れて、血が飛び散る。拳を固めて振り切ったレイツェルの姿がユーリの上にはあった。
「訂正しなさいよ……あたしの宝物を良くもガラクタなんて呼んでくれたわね……!」
目を怒らせて凄むレイツェルにユーリの心は萎縮しかけるが、それを強引に抑え込む。
──だって、頼まれたから。
目の前で涙をこぼす女の子に。
「……いいえ。それは、ガラクタです」
今度は左頬に拳が叩きつけられた。口の中に血の味が広がる。
だが、ユーリは真っ直ぐとレイツェルを見つめる。
「わたしは、それがガラクタだとしか思えません。壊される前までは世界を救えるかもしれない道具だったかもしれない。けど、今は役立たずのガラクタで……あなたを縛る、鎖です」
「っ、」
振り上げられた拳がゆっくりと下ろされた。
「あなたには、いるじゃないですか……本物ではないけど、本物よりも本物な家族がいるじゃないですかっ!」
「ルドヴェルはそういうのじゃないわ!」
「その言葉を、本人の前で言えますか! 憎しみも知らずにここまで生きてきて、育てられて……それでもまだルドヴェルさんを父と認めることはできないんですか!?」
その瞬間、レイツェルはユーリの首元を掴んで、噛みつくように叫んだ。
「君に、いったい何が分かるっていうのよっ! ……父さん母さんがいなくなって、ルドヴェルに引き取られて、育ててもらった! けどね、時々ルドヴェルがあたしを見て、本当に辛そうに、泣きそうに顔をしかめるのよ……? それを見たら分かってしまったの。あたしの父さん母さんがいなくなったのには……ルドヴェルが噛んでいるって、分かってしまったのよ!」
レイツェルはぐしゃぐしゃな顔で続ける。
「本意じゃないことは分かってた。ルドヴェルがあたしの父さん母さんを殺したんじゃないって、分かってた。……けれど、怖いのよ。憎みそうで、憎んでしまいそうで。人生で最初に憎む相手がルドヴェルになりそうで、怖くて、怖くて……たまらなかった。こんな相手を自分の父親になんか認めてしまったら、いけないのよ。……だって、ルドヴェルが、かわいそうじゃない。こんな自分に、憎まれて父親にさせられるルドヴェルが、かわいそうじゃない……っ!」
「レイツェル」
「な」
ユーリはレイツェルと目があった瞬間、右頬を拳で殴りつけた。後ろに吹き飛ばされ、尻もちをつくレイツェルを、尻を払って立ち上がったユーリが見下す。
その瞳は、紫色に濡れていた。
「ルドヴェルさんはあなたに愛をくれている。その愛を素直に受け取れないことも分かった」
逆転した二人の立ち位置。レイツェルは頬の痛みと衝撃で次の言葉が出ない。
「甘えないで。あなたはルドヴェルに甘えている。世話を焼いているルドヴェルを拒絶して、そんな自分に酔っているだけのただの子ども。それがあなた」
「……そんなこと」
「分かる。わたしがそうだったから、良く分かる。それを自分で解決しないで、時が過ぎて、そして、大切な人に本当の自分を最後まで明かせなかった。それがわたし。レイツェルには、そうなって欲しくない」
ユーリはかがみ込んで、レイツェルの頬に手を当てた。
「──【流水の御手 アルタークの旅は道の果てに通ずる】」
光が漏れ出し、殴りつけた痛みと傷を優しく溶かしていく。
「……治癒術……? 君、治癒師だったの……?」
「グレイコーデ様には、内緒にして。わたしが暴力を振るって……それを隠すために使ったなんて知られたら、破門される……」
【人に危害を加えない】
グレイコーデとの約束をユーリは初めて一つ破った。そんな自分が心底情けなくなり、ユーリは口を歪ませる。
レイツェルを見ていたら、身体が勝手に動いた。レイツェルの頬を殴りつけて、説教臭い言葉まで吐いてしまった。……それも全てアトリーナやグレイコーデからの受け売りだ。
恥ずかしくて、穴に潜りたくなる。
それでも。
「ルドヴェルさんを認めてあげて。こんな『人の聖杯』なんてものに、ご両親の面影を見出すよりも。……あなたの親は、すぐ傍にいるんだから」
「…………」
レイツェルはユーリを押し退けた。ユーリの治癒術は未熟であり、どんな浅い傷でも一瞬で治すことなど出来ない。
レイツェルはまだ赤く染まった頬を撫でて。
「もう、いいわ」
「え……」
「この痛みは残しておくことにするから。君の言葉と一緒にね」
「そう……ですか」
ユーリの頬が痛みを思い出す。口に指を突っ込んで血止めをしてから、ぼそっと呟いた。
「……拳で顔を殴らなくても、良かったじゃないですか……」
そんな抗議に、レイツェルはそっぽを向いた。
そして、ユーリと同じ口調で呟く。
「拳で乙女の顔を殴らなくてもいいのに」
「……同じだってこと分かってますか?」
「ふふっ」
レイツェルは立ち上がり、尻を払ってからちらりと壊された『人の聖杯』を見やる。
「ルドヴェルに会わないと」
「もういいんですか?」
その言葉にレイツェルは少し悪戯げに微笑んだ。
「あんな『ガラクタ』なんかに用はないわ」
「……なんか、ごめんなさい」
「良いのよ、別に。あたしの目を覚まさせてくれたのは、君だもの。……それに──」
胸元をぎゅうと握って。
「父さん母さんは、いつだってここにいる。そう気づいたから」
輝かしい笑顔にユーリは目を細める。
ふと、部屋の窓から地下遺跡の底が見えた。そこは深い水色の結晶が覆っており、そこから大量の水が重力に逆らって逆向きの滝として地下遺跡に上がっている。そんな滝の中心には金色の輝きがあった。
「あれが……」
その時、ユーリの魔力視に赤黒い波紋が広がった。
「っ」
じくりと折れた方の角が痛み出す。
「どうしたの?」
「……グレイコーデ様と、ルドヴェルさんが危ないかもしれません……!」
「なら、急ぐわよ!」
不安がユーリの心の中に広がる。
レイツェルの笑顔を思い出すが、その笑顔が赤黒い波紋にかき消されていく幻視を見た。
──ようやく、レイツェルがルドヴェルと心を通わせられる。
そんな時に見た最悪の光景。
させるものかと、若い二人は駆け出した。
女の子の顔面を躊躇いもなく殴るユーリ……(語弊)
恐ろしい子です。