ビューティフルライフ ~ 敗北者の栄光 ~
「beautiful my life(美しき人生)!」
そう私に言った彼はもういない。
その答えを私は持っているが、漠然とした答えとなってしまい自分でさえ納得が出来ない。
自問自答した結果なら…私は答えを持っていないのかもしれない。
何が美しいのか…なんて私には答えかねる。
この小さな頭と、矮小な私の身では到底辿り着けない、想像の埒外にあるものなのかもしれない。
都市部の近郊にあるこじんまりとした総合病院、ここが私…青井の勤め先だ。
赴任してもう10年近くになる。勤め始めた時は、病院事態が建て替えの後ということもあり新鮮な気持ちもあったが、今となると目新しい部分を探す方が難しい。
都市部の近郊と言えば聞こえこそはいいが、周囲は都市とも田舎とも言えない中途半端な開発が進んでおり、緑豊かな自然が見られる訳でもなければ、大型のショッピングモールやネオン街がある訳でもない。勿論、風情のある情緒もない。
都市開発も流行りに乗っただけなのか、高速道路のなり損ないや、貫通出来ず妙に広いだけの道路。ショッピングモールを誘致しようとしたのが、失敗した後らしき巨大な駐車場。それらがこの町をよく現わしている。
開発の完成を待つことなく途中で投げ出された姿が散見される、捨てられた町。
中途半端だ。この町は私と同じだ。
院内を歩いていると不意に風が私の髪を遊んだ。
換気の為に窓を開けているのは、最近、流行り始めたウイルスのおかげか、所為かというべきだ。
それでも代わり映えのしない院内に、少なくとも換気がよくされる変化が起きており、嗅ぎなれた消毒液の臭いではなく、刈り取られた草花の草いきれの臭いまでしてくる。
風に遊ばれた自分の長い髪を適当に纏めながら、無機質なビニル製の床を踏みしめ、院内の廊下を歩いていると、
「よお、久しぶりだな先生!」
肥満の男性が声を掛けてきた。
肥満とはいってもそれはBMP値の値から、そう呼んでいるに過ぎない。
また、私は彼をそう呼び表すのが適切だと思っている。
見た目は確かに太っているのだが、服からこぼれるぜい肉と呼べるものは、中年太りの腹周りだけであり、肩幅や足回りはがっちりとした筋肉質である。
顎下には多少肉は乗っているが、一般的には、見た目はぽっちゃりとしているというのが正確なのだろう。
それでも、大の酒好きらしいので内脂肪率と腹の出っ張り具合だけは隠せない。
数値上も肥満なので、私は彼を『肥満』の男性と呼んでいる。
そもそも、彼はその太っているという事実も中年太りも隠そうとはしていないので、どう呼ぼうと関係ないのだろうが。
肥満の男性に声を掛けられ、挨拶として、
「ええ。お久しぶりです。また倒れられたのですか?」
私がそう聞くと、肥満の男性はため息にも似た息を吐きながら、
「おいおい。俺がまるでワーカーホリックみたいなこと言わないでくれよ」
「事実、それで一度倒れられたのですよ。体はもう少し労わって下さい」
私の言葉に肥満の男性は憮然としながらも口元を綻ばせている。
初対面の時こそ柔和に話すことに努めていたものの、彼のフランクさに呑まれた、というより、彼の気心が知れてしまい医者らしくない会話をしてしまっている。
いずれ彼が投書なりをすれば改めようとは思っているが、彼なら投書やクレームをつける時間よりも仕事や酒、タバコをする方が大事なのでしょうが。
「いやいや、そう言われると返す言葉もねぇな。」と肥満の男性は弱ったとでも言いたげな雰囲気だけ出していた。
きっと私が何と言っても改めないのは、この十年間で察しがついている。
私と彼の出会いは10年前になる。赴任してきたばかりの私の下に、過労で倒れた彼が運び込まれてきたのが出会いだった。
治療後の経過観察の際には、検査の結果、彼が複数の生活習慣病の予備軍だったこともあり、何かと私が健康のアドバイスをした。そして、何一つ聞き入れなかったことから印象に残っている。
彼が唯一大人しく従がったのは院内での禁煙のみだ。
トイレで隠れてタバコを吸っていたので、生まれて始めて年上を怒鳴りつけたのは私としても苦い思い出だ。
「今日は何の御用ですか?」
私がそう聞くと、肥満の男性は剛毅にだが、院内ということもあり小声で笑いながら、
「はは。実は癌検診でな」
その答えに驚いた。
彼でも癌検診には来てくれるということに。
「タバコはまだ続けているのですか?私は500円になったら止めると聞いていましたが?」
私は早口でそう言ってしまった。口調はいつも通りに努められたが、正直なところ嬉しくて興奮していた。
生涯、男性で約65パーセント、死亡率27パーセントをも誇る癌。
医者であれば忌み嫌い、唾棄すべき敵。
それと前向きに戦ってくれる姿に、私の健康についてのアドバイスというのも無駄ではなかった…と少し報われた気がした。
肥満の男性は照れたように頭を掻き、「おいおい。その話は頭が痛いぜ。先に俺の話を聞いてくれよ。」と照れ臭そうにしてからポケットからタバコの箱を取り出し、
「まぁ、タバコは止めてないぜ。けど、先生との約束を忘れた訳でもねぇからな」
その一言で自分の興奮が冷めていくのが手に取るように分かる。
「じゃあ、今日が止め時でしょうね」
「残念。俺は銘柄を変えて今は490円のやつを吸ってるんだ。約束守ってるから怖い顔すんなよ!」
肥満の男性に指摘され、自然と細めていた目と、力を込めていた眉間の緊張を解く。
そうすると、呆れた、という感情がふつふつと浮かんできてしまい、「早死にしますよ」と医者にあるまじき言葉を吐いてしまう。
これも私が未熟で性格が悪いから出てしまった言葉。身から出た錆びとでも言えばいいのだろうか?
「それが医者の言う事かよ?」
肥満の男性の言葉にごもっとも、と今度は自分に呆れてしまう。
肥満の男性はそんな私の何が面白いのか、あっけらかんとしている。
私が未熟で、性格が悪いのはそうなのだけど、それ以上に彼には、誰に対しても気が置けない仲となれる、才能があるのだと思う。
私はため息をワザと吐いてみせ、
「その様子ならあと50年は生きそうですね。体には気を付けて下さい。あとタバコは止めるように」
いつものようにそう返すと、肥満の男性は驚いた顔をしていた。
いつもなら「俺があと50年生きたらバケモンじゃねぇか」とか、「安い銘柄のタバコならあと50年は吸えそうだ」と返してくるのに。
初めて…いや二回目だ。それでも珍しい。
前は隠れてトイレでタバコを吸っていた時に、私がトイレに乗り込んで怒鳴りつけた時だ。
肥満の男性は照れたように頬を掻き、困ったような笑顔を浮かべながら、
「いやー、それがよ、余命宣告されちまってさ」
その一言を聞いた時、丁度私の髪をまた風が弄んだ。
風の流れる音がしっかりと耳に届き、木々の揺れる音が耳を打つ。
息すら忘れた。手に力が籠る。動悸が鳴りやまない。
目が目の前の彼の表情を捉えれない。
興奮…いや違う。これは絶望だ…。
唇の端を噛み締め、
「…そうでしたか。申し訳ありません」
そうとしか言えなかった。本当に私は未熟で、性格が悪い。それしか言えないのか?と私を糾弾したくなる。
肥満の男性は慌てたように手を振りながら、
「何言ってんだよ。俺と先生の仲じゃねぇか。死にかけた俺を一度は助けてくれた人に無礼だとか思わねぇって」
無礼…それもある。指摘された事が自分の至らなさに歯がゆさすら感じる。
「無礼とは思っていませんよ。ただ、自分の軽率さに…」
言いかけた言葉を遮るように肥満の男性が私の肩を叩いた。
熊のような手だ。ごつごつしている仕事一筋だった彼らしい手。
大きく、そして優しい手。
肥満の男性の笑顔がようやく私の視界に入った。
「難しいことわっかんねぇよ!先生はさ、ほら、もっと笑ってくれよ。俺が入院中も怒った顔しか見たことねぇからよ」
彼は…本当に良い人なのだろう。
優しい大人と呼ぶべき人なのだと、私は思っている。
だから、私も言える。
未熟で性格の悪い…年だけ重ねて大人になってしまった子供っぽく嫌味を。
「それはあなたが隠れて喫煙していからです。ちゃんと言う事を聞いていれば私だって笑顔で応対しましたよ」
私はそこまで言って後悔した。
いや、むしろ私にはSMでいうならMの気質があるのかもしれない。
態々足元を掬われにいくような発言をするというのは、そういうことなのだろう。
「本音は?」と肥満の男性に聞き返され言葉に詰まる。
言い訳を考えたものの、結局何も浮かばず、
「…本音…です」
何とか絞り出した答えに肥満の男性は大声で笑い出し、私が睨み返すと慌てて口を閉じた。ここは院内だ。静粛にして貰わないと困ります。
私にも責任の一端があるので、自分のことは棚に上げているのが私らしい。
肥満の男性は小さく笑いながら、
「嘘が下手だな。まぁ、先生のそういう正直なところは好きだぜ」
「治療はどうされる予定ですか?」
私の問いにまたもや肥満の男性が大仰に笑おうとし、今度はその寸でで止め、
「どうも末期癌らしくてよ。若い頃から保険とかよく分かんねぇから一個も入ってなかったもんでね。治療費聞いたら目玉が飛び出るかと思ったぜ」
自分が死ぬかもしれないというのに彼はあっけらかんとしていた。
「そこまで法外ではないでしょうに?」と私は呆れるより粘着していた。
私の思いは決まっているのだから。
肥満の男性は私を見ると、また笑った。
私が可笑しいのではなさそうだ。どちらかというと少し嬉しそうにも見える。
肥満の男性はそのまま窓の外に目をやり、
「そうだな。だけど受けないことにした。そしたら医者の先生が怒っちまってな。余命もその時に聞いちまったよ」
この病院では基本的に余命宣告というものはしない。
余命宣告は患者にいらぬ誤解を生むことが多い。
統計上、50パーセントの者が亡くなる段階を伝えるのが余命だ。
あくまで目安でしかない数字を、精神面で弱った患者に、追い打ちをかけるように伝えることに、少なくとも私はには意味があると思えない。
少しでも前向きに、生きる希望を持って前へと進む。その為に治療を受けて貰えればいいと思っている。
勿論、これが全てではないのは分かっている。
強い人はそこから立ち上がり、病に立ち向かえる人もいる。だけどそれはほんの一握り。追い詰められ、死ぬかもしれないと不安になっている人が、告げられた絶望にどん底から立ち上がれる可能性等無いに等しい。
違うな。私が弱いからそうして欲しくない。
弱いからこそ足掻きたい人間だから、ただ人に押し付けているだけ。
「私も同じ気持ちですよ」
自分の言葉に誰に対してなのかと言いたくなった。
「俺とか?」と聞き返され、少し逡巡してしまう。
「いいえ。同僚の怒りに」
絞り出したた答えに、肥満の男性は明らかに口元を緩めた。
肥満の男性はゆっくりと私の方へ向き直ると、
「そう言うなよ。俺は、今すげぇ晴れ晴れとしているんだ。だって…」
「死に求める事などありません。生きるからこそ人間には成し遂げられるものがあります」
私でも驚くような遮り方だった。
医療は科学に他ならず、しかし医は仁術に徹するべき。これは受け売り。
医療の発達の為に科学はなくてならず、犠牲はつきもの。しかし、医者であれば最善の為に払われた犠牲を無駄にしない為にも、患者の不安を解消し、協力を得られてこそ初めて治療は完成する。
それすら私には出来ていない。本当に情けない。
白衣を今すぐ脱ぐべきなのだろう。私には過ぎたものだ。
「怖い顔すんなよ」
不意に聞こえた肥満の男性の声に、また私が眉間に皺を寄せていたことに気付いた。
「失礼」と謝罪ですらないような言葉しか出なかった。
肥満の男性は気にすることもなく、タバコの箱を見つめ「あと10本かよ」と呟いてから、軽く叩き一本を取り出す。
私が「禁煙です」と釘を刺すと、「わかってるよ」と取り出した一本を再度箱の中へとも出した。
肥満の男性はゆっくりとした動きで窓に手を掛け、空を見上げた。
「先生。俺はさ、自分が遊び呆けることが精一杯でな、子供もいなけりゃ、嫁さんもいねぇ。積み上げてきたもんは空いたタバコの箱と酒瓶だけだ」
彼の歩んできた人生がどんなものであったか…それは私には分からない。
彼の言う無為なものを積み上げてきたのだろうか?そうでないと言ってあげたい。
彼には素晴らしい部分があると…。
「あなたには仕事もあったでしょうに」
「そいつも昨日クビになったんだ」
私の言葉は一瞬で葬られた。言うべきでなかった。
分かっていたはず。仕事の人間の彼がこんな日中に好き好んで病院に来るわけがないのだから。
「それは…」
「おっと、勘違いしないでくれよ。クビになったのは俺だけじゃねぇ。俺以外も全員だ。倒産って奴だな」
おどけた様子で言ってくれたものの状況が悪化している。
彼は仕事に人生を費やし、それは間接的とは言え会社の為にしていたはずだ。
彼の人生基盤であった仕事すら守れなかった。私なら…きっと立ち直れないだろう。
肥満の男性に掛ける言葉もなく、ただ彼の横顔を見ていると不思議に思った。
その顔には後悔も不安も何もなかった。
「俺はさ、満足してるんだ」
彼に言葉に理解が追い付かない。
何かも喪ったのに…そうは言えない。だから…
「何に満足しているというのですか」
これは否定だ。しかも彼の人生を否定している。
私の発した言葉が同じ意味のことを言っているのは自分でも分かっている。
後悔が生まれてくる。
「アオイ先生!」
私を呼ぶ声が聞こえる。話過ぎた私を叱りにきたのかもしれない。
私も大概、怠惰を好む凡百に過ぎないのだろう。
「申し訳ありません。仕事がありますので失礼します」
私が会話を切るために、この場から逃げる為にその言葉を残すと、私の背中に、
「さっきの答えは全部だよ。俺は、この人生全部に満足しているのさ!」
肥満の男性の答えが返ってきた。
思わず振り返ってしまった。彼は既に私に背を向け歩き出していた。
窓から差し込む光に照らされながら、片腕を上げ。
「beautiful my life(美しき人生)!」
そんな片言のような言葉と共に彼は去っていった。
きっとお世辞にも英語は得意ではなかったのだと思う発音。
それでも彼は「それがどうした?」とでも言わんばかりに自信に満ち溢れてた姿であった。
一通りの診察や業務が終わったのは既に日が沈んだ頃だった。
明日の準備も終え「今日は早い方ですね」と一人ごち、着替えを始める。
帰っても家には誰もいない。今日も帰りに惣菜とパックのご飯を買って寝るだけになるのは目に見えている。
それは私が独身だから。
一時期は犬かネコでも飼おう、と考えたものの留守がちな私の所為でひもじい思いをさせたくない。私の寂しさを紛らわす為に一つの命を健康且つ十全に保たせられないのは私の矜持に反する。
着替え終わり職員出口から出たところで、
「お疲れ様です」
そう聞きなれた声に呼び止められた。
振り返ると数年前にこの病院に赴任した後輩の男の子がいた。
男の子という語弊があるのかもしれない。まだ30歳にもなっていないと言うべきかもしれないが、研修医で何かと私と組むことが多い彼とは割と距離感が近い。
「×××さんの容態についてですが」
と肥満の男性の名前を口に出した。
私はそれで少し納得した。多分余命云々の話は彼がしてしまったのだろうと。
今日、一度も見かけないと思ったら多分こってりしぼられていたのでしょう。研修医がいらないことを言うな、とでも老年の先輩に。
後輩の男の子は私を真っ直ぐに見つめると
「アオイ先生…彼とはお知り合いでしたよね?」
そう聞いて来たので私がうなずいて返すと、彼は興奮した様子で
「何とか言ってください。彼は死ぬと分かって尚、へらへらと笑いながら治療を拒否したんです。彼はまだ50でしょう。まだ生きられるのに、まだやれることがあるのに…何故彼はそれをしようとしないのか分からない」
矢継ぎ早だった。まるで問い詰められているようだ、と思ったものの彼の言動の意図は分かる。
自分の中にある正義感を否定された。だから、話しやすい私に端的にいうと慰めて欲しいのだろう。
普通に考えればあまりいい気はしないものの、後輩で子犬のような彼に言われると求められる通り慰めてあげたくなってしまう。
これは彼のいいキャラが成せる技だと思う。
願わくばそのキャラとこの職業を悪用して女の敵にならないことを願いたい。
「どうして…彼は」
彼が絞り出すように出したものの、その先は出てこない。
相当怒られたのでしょう。
私は軽く肩をすかし、「金よりも命だと分かってくれないんだ…ですか?」と言い当てると彼は目を丸くしていた。
この流れから分からないとも思えませんが、かなり、まいっているようなのでそれも仕方のないことですね。
普段の彼なら恥ずかしげもない言っていたに違いないのに。
「相当な様ですね。申し訳ありません不躾でした」
私が謝ると、彼はギョッとしたように目を見開き、手を大きく横に振りながら、
「あ、いえ!アオイ先生は悪くありません。すみません…最近、上手くいかないんです。死を悟ることを英雄譚の物語の美談として思っているような患者が多くて。ただ、生きて欲しいんです。生きて欲しいだけなのに、何故諦めるのか…私には分からない。私は…金の為に医者になった訳じゃないのに…」
彼がややもすれば泣き出しそうな声色を出してくる。
アニメやマンガの医者を見て、この仕事を目指した彼はこういうところは素直に変わっているが良いところだと私は思う。
理由が低俗だと言う人もいるが、私にはそうは思えない。
アニメやマンガが原点でも彼は「人を救いたい」という気持ちを持ってこの職についた。それは高潔と呼ぶべきなのではないのだろうか?
「生活の安寧と割り切るのは最終手段です。耐えられなくなれば、家庭の為と割り切るしかないですし。」
私が淡々とした口調で返すと、彼は思っていた答えと違ったのか少し慌てた様子をした。
こういう姿を見ると少しくすぐられる気持ちになる。
SかMではMよりかもしれないものの、どうやら私はSの気もあるらしい。
つまりはただの変人なのだろう。
私はゆっくりと驚く彼の前に人差し指を持っていき上を差し、
「ですが、今はまだ情熱を持ってお互い頑張りましょう。私も彼には怒り心頭ですから」
私が笑顔でそう告げると、彼は少しだけ安堵したものの、まだ表情は暗い。
「そうですが…それでも…」と彼は食い下がってくる。
余程お説教が効いているらしい。
考えれば数時間はお説教されたいたのでしょうし、考えただけでため息すらです。
私はおどけた様子をしてみせ、
「ふむ。こういう時は飲みに誘うというのがいいのでしょうか?しかし、アルハラという言葉も出来ている以上前時代的ですね」
私が彼にそう伝えると、彼は軽く吹き出した。何故なら、
「そうですね。それに、私も、アオイ先生も下戸ですしね」
彼の言葉に私はゆっくりと頷く。
酒が嫌いというより、飲めない私達はちょっとした飲み会でも本気で行きたくないとさえ思っている。だからこそ、私達には飲み会で気晴らし等と言う選択肢はない。
「ええ。酒で忘れたい等と思えない体でしてね。ならば刻み込むしかないのですよ。」
こんなことを言ってはいるものの、私自身弱い人間なので、現実逃避することも多い。
本当によく言えたものだと自分の口の軽さにも嫌気がする。
「お互い、不器用な星の生まれですね」
彼の言葉に私は頷き、
「ええ。そうですね。不器用ですから情熱しか武器がないのですよ」
若い医者にそう告げ、お互い帰るべき家へと向かう。
既に日が落ち町は暗い。
まばらな街頭のせいで暗闇が一定間隔で私を包む。
時折走る車のヘッドライトがなければきっと月明りが最もな光源になっていたに違いない。
そんな中、私は心の中でずっと彼に治療を受けさせるべきか…という私らしくない自問を繰り返していた。
縁と言うのは奇妙なものだ。
一年に数度会う程度、月に2度も合えば多いとさえ思っている人とばったり合うこともある。
それは病院で肥満の男性から会ってから、2週間程経った頃。
久しぶりの休日に、することもないので日用品を買いに行こうと町を歩いていると、
「お?先生じゃねぇか!?」
そう声を掛けられた。それがあの肥満の男性だった。
いつものような野暮ったい服装に、赤ら顔。つまり飲んでいたのだろう。
時間を見るとまだ午後4時頃だった。
かなり早くから飲んでいたであろう彼には思わず肩を落としてしまう。
「奇遇ですね。何をされているんですか?」と分かり切ってはいるが聞いてみると、
「決まってんだろ。酒飲みにきたんだよ。先生もどうだい?」
決まったことに答えるように即答した。
しかし、一つ間違っている。
飲みにきた…ではなく、飲んでいたの間違いだ、と指摘はしないことにした。
「下戸ですので遠慮しておきたいですね」
「じゃあ、ノンアルならイけるよな?」
耳を疑った。
「断ったんですけどね」
「堅いこと言うなよ。ははは!」
肥満の男性に無理矢理肩を掴まれ、そのまま近くの居酒屋へと連れ込まれる。
こういうのをアルハラというのだろうか?いや、彼は上司ではないので、拉致か誘拐、監禁にあたるのかもしれない。
連れ込まれた居酒屋はこじんまりとした屋台風の場所だった。
古い木造建築に、風化しかけている紙に、かすれた文字で品物が書かれている。
言いようによっては風情あると言えるのかもしれない。恐らく大衆的には古い、ボロいと言うべきだろう。
店に通され、カウンターに座らせられると、肥満の男性が手を叩き出し、
「おい!シェフ!シェフを呼べ!いなけりゃ大将だ!」
軽快に大声を出すと、カウンターの奥にある暖簾をくぐって店主らしき80は超えているであろう男性が顔を出した。
店主らしき男性は肥満の男性を見ると、呆れたようにため息を吐き。
「クマちゃん、俺は明日で店じまいするつもりだぜ!今日くらい休ませてくれよ!こっちは365日働きづめだったんだから、一日くらい休んだってお天道様は見逃してくれるだろうって思ってたのによ!」
店主も大声で、楽しそうに話だし、肥満の男性はニカリと大きく笑い。
「おうおう!ご苦労だな!俺は仕事もなくなっちまったし暇で暇で仕方ないからよ。まだ仕事してるところ見にきたんだ!大将もおふくろさん亡くしてから暇だろ?だから俺が来てやってるんじゃねぇか!」
こちらも大将に負けじと大声だ。耳が痛い。
「よくしゃべりやがるよ!クマならサケでも摂って来いよ。しっかり捌いてやるぜ」
「だからサケを摂りに来たんだよ!」
「川行ってから言えよな!もう、材料があんまねぇし適当でいいか?いいだろ!それしかねぇからな!」
「残飯以外で頼むぜ大将!」
「喰いかけのクリームパンを箸でグシャグシャに掻き混ぜて…」
「ゲロみたいじゃねぇか!」
そんな話を永遠と話だし始め、正直私は頭痛がした。
酒も苦手な上に、耳に刺さる程の大声。さらには話が下品になっていく。
勘弁して欲しいと思っていると、私の前に小さな小鉢が出された。
茄子が透き通った出汁に浸かった料理だ。
何と言うのかは分からないものの、繊細な色付けといい、茄子の色見を損なわない見た目といい店主の腕の高さが分かる。
ただ一つ残念なのは、私が味音痴ということだろう。
ややもせず肥満の男性にも小鉢が出された。里いものにっころがしのような料理に、肥満の男性は苦笑いをし、
「俺、里いも苦手なんだけど?」
「好き嫌いするから腹なんて壊すんだよ」
店主は取り合わない雰囲気で調理を始めた。
どうやら相手でお通しは決めているらしい。私には濃い味付けは合わないだろうと思っての判断なのだと思うものの、食べれればいいという私にその気づかいは無用だと言ってあげたい。
肥満の男性が里いもを摘まみながら、「ビールは残ってるかい?」と店主に尋ねると、店主は少し考えるように「飲みかけしかねぇな。缶でいいなら姪っ子に買わしにいくけど?」と提案してくれた。
さすがにそれは悪い。何も関係ない犠牲者をこれ以上増やすのは…
「おう、んじゃ…5本!いや、10本だ!あとノンアルも1本!」
私が言う前に肥満の男性が頼んでしまった。こういうのを厚顔無恥というのだろうか?
店主は大声で「あいよ!」と答えてから、ふと顔を上げ私を見返すと、
「若いの、お前は飲めねぇのか?」
私は何とも答えられず「はぁ」と気の抜けた返事を返すと、店主は口元を綻ばし。
「なら…最初で最後のお客さんを連れてきてくれたからには安いビールじゃダメだな」
店主が調理の手を止めると暖簾の奥へと行く。
状況が分からず戸惑っていると肥満の男性が私を肘で小突き、
「あれが出てくるぜ!」とウキウキとした表情だった。訳も分からずぽかんとしていると、店主はややもせず、戻ってきた。
その手に一升瓶…日本酒を抱えて。
店主はニカリと笑い、おちょこを二つ用意し注ぎだし、そして私達に差し出してきた。
一言で今の状況を言うならば、意味が分からない。
受け取ったものの、私は酒は飲めないと言ったのにビール以上にきつい酒を出されても困る。
どうすればいいものかと思案していると、店主はとびきりの笑顔をみせ。
「あんた、先生だろ?」
院内ではそう呼ばれることに抵抗はないものの、どうもむず痒い。
「…アオイと申します」
そう返すしか出来なかった。店主は少しかしこまった
「アオイ先生。こいつはないい酒だよ。一口でいいから。」
そう言われたものの、肥満の男性に視線を向けどうすればいいか助け船を求めた。
彼は首を軽く縦に振り、飲めと合図してくる。
ため息が出る。家に着いた頃には吐くことになりそうだ。
諦め半分でおちょこに口を付け軽く口を付ける。それに合わせるように肥満の男性も飲み始めた。
驚いた。
透き通るような甘味が口の中に広がり、そして喉へと抜けていく。
体を奥から温かくしてくれる優しさが包んでくれる。
日本酒等、どれも生臭さがあって飲めたものではないと思っていたのはどうやら勘違いだったようだと認識を改めさせられた。
「和を以て貴しとなす」
店主が人懐っこい声でそう告げ、酒瓶をカウンターへと置いた。
言葉の意味を考えていると、店主が酒瓶を軽くつつき、
「皆仲良くするのがいいってことだよ。あんた怖い顔してたしな。たまには肩の荷を下ろしな」
店主の言葉に慌てて眉間を触れてしまう。
そんな私に二人が大声で笑い出した。
「そういう意味じゃねぇって!」と肥満の男性。
店主も「素直でいい!若い者はそうじゃなきゃな!」と楽しそうだ。
状況についていけない。本当にどういうことか教えて欲しい。
その後も店主は調理を続け、小さな小皿に乗っていくつかの料理が出てきた。
味音痴なので何とも言えないものの、美味しい料理には違いない。一つ一つを食べながら、水と共に食事を進めていると、肥満の男性が不意に日本酒を飲む手を止めた。
「先生、まだ迷ってんだろ?」
その言葉に思わず手を止めてしまう。
彼には敵わないな、そう素直に認めながら「私は…」と言いかけたところで言葉を飲んでしまう。
まだ答えが出ていない。それだけは確かなこと。
そして、何故出せないのか…それですら疑問になっている。
肥満の男性を見返すと、彼は相変わらずの笑顔だった。
「俺は先生と喧嘩したいんじゃないんだ」
その一言にふと酒瓶へと視線を移してしまう。
酒瓶に書かれた文字を見つめ、「私もです」と素直に答える事が出来た。
彼と喧嘩したいのではない。ただ、譲れないものがある。それだけだ。
忌み嫌う酒に後押しされるようでヘンな気分だが、ようやく私の言葉が決まった。
「治療を受けて下さい」
私の言葉に肥満の男性は満足したように頷いた。
おちょこに残った酒を飲み干し、ゆっくりとカウンターへ置くと、
「悪い。俺には俺なりの生き方がある」
その答えくらい分かっていた。だからこそ、諦めていた。
…それでいいのでしょうか?
拳に力を込めて、自分の高揚を確かめる。手が熱い。胸が高鳴る。
使命感等と恰好は付けない。私はただ…
「私はあなたに…」
言いかけたところで、肥満の男性が体をかがめた。言葉が出なかった。
ややもせず肥満の男性はうずくまり、息を荒くし始めた。
「クマちゃん!」と店主の怒鳴り声が響いた。それによってようやく我に返り、慌てて席から立ち上がる。
押さえている部分を確認し、真っ白になっていく頭に必至に血を送り込み思考を続ける。
鞄から携帯電話を取り出し、
「救急車を呼びましょう。少しだけ待っていて…」
「やめろ」
肥満の男性の手が私の携帯電話を押しのけた。
満足な力を込めていなかった私の手は簡単に携帯電話を離してしまい、地面に転がっていく。どうして?なんて言葉すら出てこなかった。
肥満の男性は額に脂汗を浮かべながら、不格好にも笑顔を見せ、
「ただの食い合わせが悪かっただけだ。胃薬のみゃ治るって」
嘘だ。
そんなのは見ただけで分かる。恐らく内臓にまで転移している。その激痛がどれ程なのか、身を以ては知らなくとも、今まで何人も患者を見てきた。
だからこそ、その尋常ではない痛みに耐えられる訳がないと分かる。
「そんな訳がないでしょう!あなたはすぐにでも治療を!」
「いらねぇよ。こいつで死ぬなら俺の人生だ。そういうもんだ…」
肥満の男性は頑なに拒否し、無理に体を起こし、酒へと手を伸ばす。
私は慌てて酒を掴み抱き寄せるように手に取り、
「自分の事を何とも思っていないのですか!」
私が声を張り上げると、肥満の男性は目をしばたたかせたものの、大人しく席に座り、大きく息を吐いた。
「先生こそ、俺がどんな人間か知らねぇだろ?」
その言葉に臍を噛む。
知っているのはカルテと、仕事人間で酒とタバコを好む…ただそれだけ。
私と彼はただの赤の他人であることに変わりない。
見ず知らずの者を救い続ける…それが医者の使命だと割り切れればどれだけ楽か。
夢や理想に溺れ続けられればどれ程楽か。
それが出来ないから私は捻くれている。私は変人で、中途半端な未熟者なんだ。
―だったら、どうした。
私の思いは決まっている。ずっと前から決まっている。
肥満の男性に掴みかかる勢いで顔を見つめ返し、
「私はただ、あなたに生きていて欲しいんです!」
私に残された、最初で最後の説得。
喧嘩したいんじゃない。これは我儘なんだ。ただ、生きていて欲しいという私の思いしかない。
肥満の男性は力なく頷くと。ポツリと「そうか」と溢し、私を見返した。
私は震える足で彼を見つめ返すことしか出来なかった。
「先生…人生は何を成したか?なのか?」
肥満の男性がそう話し始めた。
何を成したか…そう聞かれて私は何も答えられなかった。
「歴史に名を刻むことが偉いのか、忘れさられるのが愚かなのか。何にも残せなくて、何も果たせなくてそれが愚かなのか?」
何も残せなかった…それは彼自身が自分の人生を差しての事だと分かる。
イバラの道を歩いてきた訳ではない。
ただ、荒涼した大地に何も植えなかった。全てを捨ててきた彼の道。
「俺は何にも残せない。何も残らない。」
肥満の男性はそこまで言うと私を強い瞳で見返した。思わずその瞳に体を射すくめられてしまう。
強い瞳がまっすぐ私を見つめている。それだけで、私の虚勢が崩れる程に。
「だがな、それが俺が俺であることなんだ!」
肥満の男性が言い切ると、私は自然と椅子に腰かけてしまっていた。
本当に私は弱い。たった、これだけで心が折れかかっているのだから。
肥満の男性はゆっくりと深呼吸をすると、おちょこを手に取り私に差し出してくる。
ここが分岐点だと分かっている。
だけど、弱い私には抗う事が出来なかった。
差し出されたおちょこに酒を注ぎ、彼が飲み干すのを見ていることしか出来なかった。
肥満の男性は飲み終えると、私が抱えていた酒瓶に手を伸ばし、今度は私のおちょこへと酒を注いだ。
私はおちょこを受け取り、軽く口に付け、おちょこを机に戻す。
肥満の男性は、ゆっくりと頷き。
「この店での最後が、あんたとでよかったよ」
肥満の男性はゆっくりと日本酒に栓をし、店主へと返す。
店主は受け取り、「クマちゃん」と少し心配そうな声色を出したものの、ゆっくりと頷いた。
この二人がどれ程の仲なのか分からない。それでもきっと長年の付き合いだったのは間違いない。
肥満の男性は、息を吐き出すようにし、天井を見上げ。
「好きに生きてきた。だから好きに死ぬまで、納得するまで生きさせてくれよ。俺は自由を愛しているんだ。自由に生きたんだ。死ぬまでな。
自由の為に色々切り捨てた。遊ぶ時間が欲しくて…まぁモテないのもあったが嫁さんは作らなかった。時間を束縛されるからと、付き合った女には面と向かって子供はいらないと伝えた。俺にとって大事なのは時間だ。だが、ただの時間じゃない。俺が自由でいられる時間なんだ。」
そう言えば彼は『警察にお世話になったことないぜ』と嬉しそうに話していたのを覚えている。束縛されたくない、だからルールを守ろうとするのが彼なのだろう。
それでも院内でタバコを吸ったのは許せないが。
「俺は自由の為に、色んなもんを捨ててきた。悪いことをしなかったり、恋愛を捨てたり、それでようやく手に入れてきた自由なんだ。」
彼の手に入れた自由…それがきっと…。
「俺は自由に生きたい。だから、最期まで通させてくれよ。」
彼の思いに負けた。
始めから負けていることなんて分かっていた。どうにもならない決意の前に私は考える事すら出来ていなかった。
言葉すら思いつかずただ私はおちょこに残った日本酒を飲み、気持ち悪くなりながらもその後はただ、彼らの思いで話を聞くに留めた。
それしか出来ないから。
彼の訃報が届いたのはそれから3ヵ月後だった。
彼の訃報から1週間が経った頃、私の手元には1通の封書が届いていた。
院に届いていたらしく、私が忙しく飛び回っていた時期なので、すぐには私の元へは届いていない。理由としては宛名が『顔の怖い先生へ』となっていたので別の先生の下へと届けられていたらしい。
若い男の医者が間違いに気付いてくれたらしく、彼…肥満の男性からの手紙だと分かり私の手元へやっときたというのが事のあらましだ。
彼は葬式すらあげず、親族もなく…誰にも看取られることなくこの世を去ったと聞いた時には心が痛んだ。
それでも自分に出来る事は既になかったと諦めざるを得なかった。
彼からの封書は妙に分厚く何か手紙以外の物が入っているのは明らかだった。
ただ軽いので紙か何かだと思っている内に、クシャリというビニルの擦れる音で察してしまった。呆れながら封書を開くと、中からまず『先生へ』と書かれた手紙が出てきた。
手に取り手紙を広げると、結構な文字量が書いてあるのが分かった。
彼らしくない、そう思いながらも文に目を走らせていくことにした。
『先生へ。
いつも顔の怖い先生へ。あんま学が無いんで内容が小便みたいなもんだけど勘弁してくれ。あの日、言いたいことがあったんだ。だけど、先生に気圧されて言えなかった。だから、あの日行った店主に頼んで俺が死んだら先生へ出しといてくれって頼んでおいた。
俺は、先生が正しいと知ってる。先生が言っていることはいつだって正しい。死ぬことに意味なんてない。死を望むことが時間の無駄だって分かっているつもりだ。
だけど、俺は死を望んでいた訳じゃねぇんだ。
ただ、生きてるだけの時間が嫌なんだ。何かに焦がされるような、命を削るような時間がないと生きてると実感出来なかったんだ。
生きている人間は素晴らしいし、生きていることに真っ直ぐな人間は偉大だ。先生はそういう人達の為に全力を尽くしている。俺にはそれが眩しかった。だから俺も、ぶっ倒れるまで仕事をしてたんだと思う。あんた達みたいな熱と光に焦がされるように生きていたかったから。
真っ直ぐに俺を見て”生きていて欲しい”って、言われた時は本当に迷っちまったよ。先生の情熱が俺にも届いたからな。だからこそ、俺は先生に謝りたかった。俺は先生を傷つけてしまったと思ったんだ。曲げられないってだけの我儘で、先生を傷付けちまった。本当に申し訳ない気持ちだ。
今、思い返すと、タバコは増税するし、過労で倒れるわ、職場は倒産するわ、おまけに癌と。思わず笑いそうになったよ。俺の不摂生を的確に突いてきた、と。神様はいるんだな、と。こんな生活の奴には天罰を!みたいなさ。
そんな俺にも先生達は手を差し伸べようとしてくれたのは、本当に嬉しかったんだ
俺の人生を笑う奴もいるだろうな。嫁も子もなし。家族もいない。最終的には無職の酒飲み。挙げればいいところなんて一つもねぇ。そんな俺でも言った通り、俺は自分の人生にこれっぽっちも未練も後悔もないんだ。いや、未練も後悔もあるかもしれない。だが、それも俺の人生として納得している。後悔も失敗もなくちゃならいんだ、と俺は思っている。それが、人を前に向かせてくれるんだからな。
先生にも後悔して欲しくないんだ。先生は間違っていない。あの時、先生と会えて本当に良かったよ。おかげで一つだけやり遂げようと思ったからな。俺は精一杯生きたぜ。生き様を変えずに自由に自分の時間を使ってさ。
俺は好きに生きて、好きに死ぬ、ただそれだけが俺の生き方なんだ。』
『PSPだっけ?なんかオシャレな追伸の書き方あったよな?同封しておいたから見てみな!驚けよ!俺だってやる時はやるんだぜ!』
手紙を読み終わり、彼らしい文章に思わず笑みが零れた。
彼は最後まで彼らしく生きてくれた。ただ、その別れに哀しさがない…なんて嘘は言えない。それにしても、PSで止めればいいものを、と思いながら入っている物に手を伸ばそうと思うともう一通手紙のようなものが入っているのに気付いた。
そう言えば、追伸で同封していたと書いていた。
そう思い手紙を取り出して、言葉を失った。
「これは…」と感嘆の声しか出なかった。
10年前、彼が運びこまれ、トイレで隠れて喫煙していた。
その時にまだ新人の私が彼に突き付けた…と言えば自分を擁護してしまうので、文字通り私が彼に投げつけたものだ。
10年前の日付を上から今年に書き換えた禁煙ラリーの用紙。
それも、コンビニでコピーしたのかガタガタの用紙を何枚かつけていた。
「禁煙ラリー…頑張ったのですね」
彼は努力していた。少しでも生きようとしていた。
惰性に生きるではなく、彼の言ったように焦がれるように情熱を持って戦っていた。
それなら分かる。だからこそ入っているんだと。
封書の中の最後の一つ…それは10本だけ入ったタバコ。
再開した時に彼が持っていたものだ。口が空いているから、湿気ていて何本かは折れている。
思わずタバコを胸に抱き、彼を思い出してしまう。
彼は最期のその時まで絶望なんてしていない。ただ、戦っていたんだ。
私達が唾棄すべき敵、癌と。
昼食の休憩時間で、時間も惜しい。それでも、私にはすべきことがあった。
席から立ち上がり、喫煙者の医者に、
「少し外に出てきます。ライターを借りてもいいですか?」
私がそう聞くと医者はギョッとしたものの、「アオイ先生も吸うんですね?」と言いながらライターを貸してくれた。
「変ですか?」と聞き返してみたところ、喫煙者の医者は困ったように笑い。
「いやぁ…いっつも『煙草撲滅!滅ぶべし!』、『禁煙ラリーしなさい!』、『煙草は癌を誘発する!』、『人類種の天敵と書いて煙草と呼びましょう!』とか言ってるから、喫煙者の僕もいつか一緒に消毒されるのかと…」
彼は本気でそう思っていたのかどうかは不明なものの、その物言いが少し彼を思い出させてくれた。
「私は明日から禁煙しますので、あなたもどうですか?」
私の言葉に喫煙者の医者は罰が悪そうに口に掌を宛てて小さな声で「勘弁してよ」と泣きそうな声を出していた。
私は白衣を脱ぎ、一度外に出て従業員用の喫煙スペースまで歩く。
普段は絶対に来ない場所の所為か、私を見ただけで他の従業員達がそそくさと逃げ行ってしまう。
その姿も少し微笑ましく見える。人は変われるのだと少しだけ実感してしまう。
「一人の患者に感情を移入し過ぎてはいけませんから、一本だけですよ。仏教には紫煙に乗って天へと至る…みたいなことがあったと思いますしね」
喫煙スペースにつき、湿気た煙草を取り出し、軽く伸ばしてからライターで火をつけようとしてみたものの上手く火がつかない。
湿気ているから?と思いながら、思い出してみると、そう言えば口に加えて吸いながら火を付けていたことを思い出した。
タバコに火をつけた瞬間、目の前が歪んだ。一気に肺に異物が混入してくる感覚に襲われ、息苦しさと痛みで涙すら出てくる。
「げほっ…!うぅ、よくこんなものを…好んで、ごほっ!吸えます…ね!最低な気分ですよ!」
何度かむせてから「本当に煙草は最低ですね!」と誰にいうでもなく一人ごち。
もう一度吸って見てやはり気持ち悪くなる。
肺に入った煙を吐き出し、我慢しながら一度目をつぶると彼の顔が浮かんできた。
「あなたは怠惰に生きるのではなく、死と向かい合うからこそ、傷つきながらも生を輝かせる。それを選んだのですね」
人生に正解などない。私も常々そう思っている。
結婚をしていないからといって、後ろ指をさす者もいるが、それがどうした?と思う事もある。
何の意味もなく、理想もなく、ただ本能に従って生きるのは私の好きじゃない。
考え、苦悩し、泣き腫らし、絶望しながらでも前へと進んでいきたい。
「ただ生きているだけは嫌ですか。あなたらしい」
あの手紙を呼んだからこそ分かる。時に文字の集合体でしかない文とは人に掛け替えのない印象を与える。だからこそ分かる。
「きっと、私はあなたと似ていたのでしょうね」
私は同類として彼を大切に思っていた。いや、彼が私にとっての理想だったのかもしれない。
不器用で、自分らしく生きていく姿。焦がれるような熱と光を求め、傷付きながらもただ前にしか進めない。それが私と彼だったのだろう。
煙草を口につけ、軽く吸って、むせて、吐いて、
「患者に、私のエゴを押し付けていたのでしょうね。私が怠惰に生きない為に…」
私が求める人々の健康。それは所詮エゴだ。
分かってはいる。医者の勤めは体を治すこと。
だけど、それだけじゃ私は満足が出来ない。私が望むのは、
「なら、私がするべきことは、患者が前を向いて歩けるよう治療することです。生きる希望を見失わせないように」
決意とともに最後の一吸いをし、むせてから灰皿へと煙草を落とす。
「私はあなたに会えてよかったと思っていますよ。ありがとうございます。」
感謝の言葉と共に喫煙室から出て、軽いめまいを覚える。
ああ、本当に煙草は最低だ、と溢しながら、空を見上げる。
天国や地獄なんて存在は認めていない。それは私が無神論者だからではなく、ただ単にそれ程興味がないからだ。
たまにはナイーブに浸りたいこともある。同類であり理想であった彼の冥福を。
「それでも、私はあなたに生きていて欲しかった」
空に向かってそう一言告げ、
「ああ、むせ過ぎました。あなたの所為ですよ」
そっと目じりを拭い私は業務へと戻ることにした。
何の美しさもない、戦えすらしていない。惨めな敗北だって生きていく為にはきっと必要なものだから。