5章 1話 小さな歌姫
「ん?」
天は立ち止まった。
歌声が漏れ聞こえてきたのだ。
――箱庭にはカラオケボックスが存在している。
ここはアイドル事務所だ。
当然ながら本格的な機材も存在している。
しかしそれはレコーディングやレッスンの際に使用するものだ。
娯楽のために使うことはない。
だから、カラオケボックスが存在しているのだ。
カラオケが趣味なスタッフはもちろん、ALICEのメンバーも訪れることがあるという。
これまで天は来たことがなかったのだが。
(この声――)
防音が施されているためほとんど聞こえない。
だがどうにも聞き覚えのある声のような気がしてならない。
「…………行ってみるか」
そうして天は、前世を含めて初めてのカラオケボックスへと踏み出した。
☆
とはいえ別段変わった光景が待っているわけではない。
廊下に扉が3つ。
そもそも箱庭にはALICEとスタッフしか入れないのだから、これくらいの部屋数であるのは妥当だろう。
そして昼だということもあり、使用されている部屋は一つだけだった。
「やっぱり莉子だったか」
カラオケルームの中では、一人の少女がマイクを片手に熱唱していた。
莉子。
かつて天が《ファージ》から助けた女の子。
しかし一度、《ファージ》に捕食されてしまったことで、彼女の存在は世界から抹消されてしまっている。
だから今は、スタッフとして箱庭に働いてもらっている。
おそらく今日は休日で、人のいない時間を狙ってここを訪れた。
そんなところだろう。
「帰るか……」
あまりジロジロと見るのも野暮だ。
天はそのまま立ち去ろうとして――立ち止まった。
(この曲……)
莉子が歌っている曲に覚えがあったのだ。
もう一つのBirthday。
それは、天がデビューライブで歌った楽曲だった。
そして、彼女が初めて莉子に聞かせた歌だ。
そんな思い出深い曲を今、莉子が歌っている。
一度や二度ではないのだろう。
莉子の歌は様になっており、何度も練習したことがうかがえる。
(ファン1号、か)
天はふとそんな言葉を思い出した。
莉子と初めて会った時、彼女に言われた言葉だ。
あの後、彼女を取り巻く環境は大きく変わってしまった。
でも変わらずこの世界で生きていて、天たちと同じ歌を歌っている。
その事実が感慨深く、思わず莉子の姿に見入ってしまっていた。
――自分が見えているということは、相手側からも見えているということを忘れて。
「…………へ?」
莉子の歌が止まる。
ガラス越しに、二人の目が合ってしまったのだ。
サビに突入したメロディだけが流れてゆく。
「「……………………」」
続く沈黙。
そして――
「ッ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
莉子が赤面した。
顔から煙が出そうなほどに頬を紅潮させ、その場で座り込む。
「わ、悪い……」
歌うところを見られる――それも、その歌を歌っている本人に聞かれるなど辱めに等しいだろう。
さすがに申し訳なく思い、天は頭を下げるのであった。
☆
「…………なあ」
天は消沈しながら莉子を見た。
「ひょっとして……俺って音痴か?」
――91点。
それが天に与えられた評価であった。
羞恥する莉子に償いとして天は歌わされていた。
天とて遊びでアイドルをしているわけではない。
ボイストレーニングもしているし、なにより自分の持ち歌だ。
100点とまではいかずとも、それに近い点数が出るものだと思っていたのが――
「お姉ちゃん。歌手が自分の歌を歌うと点数が低いっていうのはよくあることだよ?」
「…………そうか?」
「本人だとアレンジが入っていたりするせいで点数が下がったりするんだって」
「そ……そっかぁ」
天は胸を撫でおろす。
これまで音痴であることを自覚せずに歌っていたのかと不安になってしまった。
……より一層レッスンを頑張ろうと誓った。
「そういえばさ」
「?」
「こっちでの生活はどうだ?」
天はそんなことを尋ねていた。
莉子は事情があったため強制的に箱庭へと連れられている。
天の目から見て、彼女が箱庭での生活を嫌がっているようには見えない。
だがそれは結局のところ天の主観でしかないわけで。
「大変だけど楽しいよ」
莉子は答えた。
「いっぱいお仕事もあるけど、お姉ちゃんと一緒にいられるから」
そう彼女は笑う。
初めて会った頃の莉子はこんな風に笑う子ではなかった。
確かに笑顔を見せてはいた。
しかしそれは周囲を想って作られたものだった。
そんな彼女が今、自分の意志で笑えているのなら、天の戦いにもきっと意味があったのだろう。
(そういえば……)
天は思い出す。
過去を思い返す。
彼女がこの世界に来るキッカケとなった出来事。
天が、誰かのために戦う動機となった事故。
(あの子はどうしてるんだろうな)
降り注ぐ鉄骨から救った少女を思い出す。
確か、莉子と同じくらいの少女だった。
母親に抱かれていたせいで顔を見ていない。
覚えていたとして、再会することはないのだけれど。
彼女は今、どんな人生を送っているのだろうか。
天は前世で蓮華の顔を見ていません。
蓮華の顔は生前から変わっていないので、もしもその時に目撃していたのならば天はもっと早くに蓮華の正体に気が付いたことでしょう。
それでは次回は『箱庭の外で二人with蓮華』です。