4章 15話 雑音に消える殺意
「っと」
美裂は身軽な動きでマスキュラの剛腕を躱す。
それだけではない。
身を屈め、彼の懐に潜り込んだ。
「らぁッ!」
全身の力を込めたチェーンソーの横一閃。
それは狙い通りマスキュラの腹を捉えた。
(マジかよこの野郎……!)
しかし予想外な事実が一つ。
飛び散る火花。
鳴り響く音は悲鳴にも聞こえた。
――斬れないのだ。
チェーンソーは火花を散らし滑るだけで、マスキュラの肌に傷一つつけられない。
「やべッ!」
美裂は反射的に足元の地面を隆起させ、射出されたかのような勢いでその場から吹っ飛んだ。
空中で身をひねり、美裂は危なげなく客席に着地する。
「腕が増えると体も丈夫になるってか?」
アンジェリカも言っていた。
肌の色が変わり、腕が増えてからは明らかに強くなっていたと。
そのせいでチェーンソーの刃が通らなくなったのだ。
「っと――」
「うおおおおおおおおおおおッ!」
美裂の足元に影が落ちる。
それは客席に飛び込んでくるマスキュラが作り出す影だ。
自分の脚力だけでドームの中央から客席まで跳ぶ。
間違いなく身体能力が向上している。
とはいえ距離が離れていた分、躱す余裕は充分にあった。
美裂は横に転がってマスキュラの突撃を避ける。
「逃げるとは恥知らずめッ」
しかしすぐにマスキュラは追撃に移り――四方からナイフを撃ち込まれた。
「ぬ……?」
マスキュラは足を止める。
彼は周囲を見回した。
ナイフの出所を探しているのだろう。
――見つかるはずもないが。
「……仲間が隠れているわけではないのか?」
釈然としない様子でマスキュラは美裂に向きなおる。
「ならば――」
マスキュラはさらに一歩踏み出す。
――彼の足元から爆炎が噴き上がった。
「ぬう……!?」
爆炎の中、マスキュラは片腕で顔を隠しながら立っていた。
――どうやら無傷らしい。
「トラップとは卑怯な……!」
「先に着いてて暇だったからな。オモチャで遊んじまったんだよ」
美裂も意図なく客席へと逃げたわけではない。
客席という死角の多い場所でならトラップを隠すことは容易いからだ。
美裂があえてトラップのないリングで待っていたのも、彼に客席を歩かせてはあらかじめトラップを見られてしまうリスクがあったから。
――天井をぶち破ってきたせいで杞憂となったが。
崩れた天井のせいでトラップが誤作動を起こさなかったのは不幸中の幸いか。
「トラップなど、正義の目を欺けはしないッ!」
マスキュラの視線が床を一瞬で滑ってゆく。
自分と美裂。
二人の間にトラップがないことをわずかな時間で見極めたのだ。
「来いよ」
美裂はチェーンソーを再稼働させる。
そして――マスキュラの隣にあった座席が爆発した。
彼の半身が爆発に呑まれる。
「どういうことだ……! まだ一歩も動いては――」
発動するはずのない罠が起動した。
その事実にマスキュラは驚きを見せる。
だがここで終わらせる気はない。
追撃として座席が連鎖的に爆発してゆく。
「問題は、どれくらい効いてるかだな」
美裂は爆煙を見定める。
チェーンソーで無傷の男が、これで死ぬとは思えない。
だがそれなりに殺傷力のある爆弾を使用している。
無傷でも困るのだが――
「悪の腐った性根など……もう見えたぞッ!」
「似た者同士だからか?」
美裂は嘲笑う。
だが、そんな挑発が意味をなさないくらいにマスキュラはすでに怒っていた。
「前触れのないトラップ。大方、起動スイッチとなるワイヤーをお前の足元まで引き伸ばしてるのだろうッ。だから、お前がワイヤーを斬ることでトラップが発動するッ!」
(馬鹿みたいな見た目で、妙に察しが良いんだよな)
――正解だ。
マスキュラが踏んだのは最初のトラップだけ。
他はすべて美裂が手動で発動させたものだ。
そもそも、マスキュラが通過してから発動するトラップでは彼の速度に追いつけない。
ゆえに、彼の動きを読んで適切なタイミングで罠を起動させることにしたのだ。
「それに……悪人らしい考え方だなッ」
マスキュラが指で示したのは――美裂のチェーンソーだ。
「隠しナイフ。ワイヤートラップ。あらゆる立ち回りはまるで暗殺者だというのに、あまりに不釣り合いな武器だ」
確かに彼の言う通りだろう。
大きくて隠せない。
駆動時には騒音をまき散らす。
暗殺とは似ても似つかない代物だ。
そんな相性の悪い武器を美裂が使用する理由。
それは――
「それは、騒音でトラップの起動音を隠すためのものだな?」
マスキュラはそう言い当てた。
暗殺とは静かなもの。
それは思い違いだ。
暗殺とは――型に縛られないもの。
確実に成功させることが暗殺であり。そのための過程に美学など持ち込まない。
静かに殺すのではない。
騒音に紛れて殺す。
そんな逆転の発想。
そこに気付くあたり、彼を侮ることは危険だ。
「そういうことなら――こうするまでだッ!」
マスキュラの腕が六方に伸びる。
そして、同時に座席を床から引っこ抜いた。
(……トラップが潰されたか)
美裂の足元に伸びたワイヤーのうち、数本が力なく垂れた。
罠までの中継地点となっていた座席が引き抜かれたことで、張っていたワイヤーが緩んだのだ。
ほんの一部だが、トラップが起動しなくなった。
とはいえマスキュラの狙いはそれだけではないだろう。
目的は――投擲物の確保。
「ふんッ!」
マスキュラの剛腕が座席を投げ飛ばす。
「ぅぉ……!」
美裂は座席を躱す。
だがそれでは終わらない。
マスキュラが手にしている座席は6つ。
しかもそれだけではない。
マスキュラは体を回転させハンマー投げの要領で座席を投げている。
そして、同時に空になった手は周囲の座席を再び引き抜いていた。
つまり投擲と補充を同時に行っているわけだ。
(やべぇな……)
跳び。時に近くの座席を壁にして。
そうして座席の砲弾をさばいてきた。
しかし徐々に投擲の狙いが正確になってきている。
美裂のスピードに追いつき始めている。
「っ」
飛んだ座席が美裂の髪に触れた。
もしも頭を掠めていれば脳震盪で動きが止まっていたことだろう。
そうしたら待つのは死だけだ。
「ひぁっ……!?」
躱した座席に意識を向けていた一瞬、美裂は何かに足を取られて転んだ。
それは座席の残骸だ。
すでに逃走経路へと投げられていた座席につまずいたのだ。
「ぬ? 今、可愛らしい悲鳴が聞こえた気がするなッ!」
「うっせぇッ!」
(やべ……避けらんねぇ)
投擲物はすでに美裂の顔面へと迫っていた。
あと1秒足らずでそれは彼女の頭を破壊することだろう。
良くて気絶、最悪即死だ。
「――――《石色の鮫》」
床が盛り上がり、コンクリートの壁が出現する。
灰色の壁は飛来物を遮断した。
窮地を脱したことで美裂は小さく息を吐いた。
だが、油断ともいえない一瞬さえも致命的だった。
「――言っただろう」
「正義は、壁を恐れないッ!」
コンクリートの壁が貫かれた。
素手で。
しかも拳を握ってさえいないのに、だ。
美裂へと迫る掌。
閉じる五指。
それは正確に美裂の首を掴んだ。
「もう逃げられんぞ」
「――――悪人め」
あと2話くらいでマスキュラ戦は終わる予定です。
それでは次回は『潜む刃』です。