4章 9話 そしてゴングが鳴る
「もうすぐかしら。もうすぐかしら」
誰もいないビルの屋上。
そこで少女は両手を広げて歩く。
一歩でも踏み外せば地面に落ちるビルの端。
そこでも彼女の表情に一切の恐怖はない。
ゴスロリ服。
夜色の髪。
月のように赤い瞳。
少女――月読は薄く笑う。
「もうすぐ。巡ってくるのかしら」
月読はその場でくるりと回る。
黒いスカートが花びらのように広がった。
「物語のページならめくったわ」
――だから、
「世界はちゃんと、正しく回っていく」
「早く――終わらせてあげたいですね」
ねぇ? ――ちゃん。
月読は名前を口にした。
ここにはいない、友人の名を。
きっと彼女も頑張っているだろうから。
箱庭の中で、自分なりに世界を救おうと。
――悲しむべきは、
――彼女と月読の歩む道があまりにかけ離れてしまっていることか。
☆
「…………あら?」
箱庭の外、アンジェリカは女性を見つけていた。
銀糸の髪。
どこか陰があり、希薄な女性。
(……天さんがおっしゃっていた方ですわね)
アンジェリカも事情はよく分からない。
だが、天から言われていたのだ。
――彼女を見たら、見つからないように様子を見てほしいと。
女性がどんな存在かは知らない。
守るべき相手なのか。
それとも警戒すべき相手なのか。
とはいえ、天がわざわざ言うのだ、理由はどうであれ重要人物なのだろう。
理由を語らなかった理由は――誰かの過去にかかわっている人物だから。
そう考えるのが自然だ。
だが、それを詮索するつもりもない。
知りたがるのは我儘にすぎない。
本当に大切な友人であるのなら、知る必要もない。
知っても知らなくても、気持ちは変わらないのだから。
「……予定は後回しですわね」
アンジェリカは歩く方向を変えた。
女性に悟られないようにと重々言われている。
だから遠目に。
とはいえアンジェリカは目立つ。
ALICEの一員であることを差し引いても派手な容姿なのだから。
ゆえに長時間の追跡はリスクが大きい。
それこそ様子を見る程度にとどめておくべきだろう。
ともあれ、アンジェリカの追跡が始まった。
「特に……どうということもありませんわね」
拍子抜けするような日常。
女性は娘らしき少女を連れて歩いている。
手をつなぎ、時に微笑みながら。
「………………どうということもありませんが、少し羨ましくも思いますわ」
アンジェリカにはもう、家族と呼んでいい相手はいないから。
何気ないあの関係の大切さを知っているから。
(――人通りが減ってきましたわね)
親子はどんどん人通りの少ない場所に向かっていった。
彼女たちがいる住宅地はあまり交通の便に恵まれていない。
それこそ近くにコンビニが一つある程度で、店も多くない。
不便だが、それだけ土地代も安くて済む。
そんな地域だ。
――貧乏暮らしの経験もあるため、そういうこともアンジェリカはよく知っていた。
「これ以上は、厳しいですわね」
もう人通りが少ない。
いたとしても、このあたりの住人ばかり。
さすがに気づかれずに追跡というのが現実的ではなくなってきた。
「もう、お開きといたしましょうか」
何かをすることを求められているわけではない。
様子を見て――普通の親子に見えた。
ただそれだけのことだ。
はたして天が望む結果だったのかは分からない。
だが、アンジェリカの追跡が露見することに比べればマシだろう。
「それでは――」
元の予定に戻ろう。
そう思いアンジェリカは踵を返す。
その時――彼女の背後で爆発が起こった。
「なんですの……!?」
アンジェリカは振り返る。
そしてあの親子の姿を探すが――
「……何が起こっていますの?」
親子の姿はもうなかった。
☆
「なんなのよッ……これは……!」
荒須紬は走っていた。
最愛の娘の手を引きながら。
突然起こった爆発。
危険を感じた彼女が脇道に身を隠したとき、それは現れた。
「ふむッ! 逃げるがいい! お前たちが逃げたいのなら尊重するッ! それもまた正義ッ!」
彼女たちの背後には男がいた。
露になった上半身は鎧のような筋肉に覆われている。
それだけでも脅威なのだが――
「逃げるのが嫌になったら言うのだッ! その時は、お前たちの希望に沿って殺してやると誓おうッ!」
たった一度。
たった一度の跳躍で、男は紬たちを飛び越える。
「っ……!」
逃げ道が一つ消える。
紬は一瞬で視線を走らせ、逃げ道を模索する。
「こっち……!」
さらに脇道へ。
狭い道を走りながらも都市部を目指す。
人が多いところに逃げ切れば、事態が変わるかもしれない。
そう信じて。
「うぬッ! 良い逃げっぷりだッ!」
男は砂の城でも壊すかのような手軽さで塀を削りながら歩く。
それも素手でだ。
あんな手に捕まれば、人体など一瞬で潰れる。
「……………最悪ね……!」
紬は立ち止る。
立ち止まらざるを得なかった。
――そこはもう、袋小路だったから。
紬は歯噛みする。
自分だけなら良い。諦めもつく。
だが、娘だけは。
彼女だけは助けなければならない。
紬は――覚悟を決めた。
「私たちの意向を尊重してくれる、だったわね」
「うむッ! 正義だからなッ!」
「そう――」
(まさか、また使うことになるだなんてね)
紬は――懐からナイフを抜いた。
「なら、殺し合いよ」
「うぬッ! 潔くて良いなッ!」
男は腰に手を当てて笑う。
自分が負けるなど思ってもいないのだろう。
(自分が殺されるなんて……思わないのでしょうね)
そしてそれは傲慢などではない。
変えがたい現実だ。
まず身体能力が違いすぎる。
戦って勝てる相手ではない。
だが――退けない。
退くわけには、いかないのだ。
「お待ちになって」
そんな時、声が聞こえた。
狭い道に凛とした声が反響する。
「その勝負。わたくしが預からせていただきますわ」
少女――天条アンジェリカは正面から男に指を突きつけた。
ヒント:月読は天のことを『天ちゃん』とは呼ばない。
それでは次回は『肉打ち、骨鳴るリング』です。