3章 エピローグ1 欠けさせねぇよ
「……………んん」
ベッドの上で女性――生天目彩芽が身じろぎした。
「!」
天は跳ねるようにして彩芽の顔を除き込む
ただの衣擦れの音。
それがどれほど待ち遠しかったか。
そしてついに――彩芽の目が開いた。
「……おはよう、ございます」
小さいが、それでもしっかりと彼女はそう言った。
「……寝坊だよ。何日もさ」
天は安堵の息を吐く。
そのまま崩れ落ちるように椅子に座りこんだ。
「生きて……いたんですね」
彩芽は緩慢な動きで天へと顔を向ける。
眠り続けていた反動か、まだ意識がおぼろげなようだ。
「大切な仲間なんだ。簡単に欠けさせねぇよ」
――あの日、間違いなく彩芽は死んでいた。
だが、天には諦めるつもりなど毛頭なかった。
ジャックは発言をすべて現実にする。
ゆえに彩芽の死は避けられない。
――なら、そこから蘇生すればいい。
心臓が止まるとは、すなわち死んだということ。
だが不可逆ではない。
この時点でジャックの言葉は実現した。
だから――そこからの筋書きを変える。
止まった心臓が再び動き出すことはあるのだ。
もちろん、確実性のある方法ではない。
しかし《象牙色の悪魔》ならその確率は限りなく100%に近づけてゆくことができる。
心臓マッサージの際の力の入れ具合。回数。リズム。
あらゆる要素を悪魔の演算によって最適化させたのだ。
あの日、あの時の状況。
1ミリの誤差もなく、『あの瞬間の彩芽を蘇生させるため』だけの心臓マッサージ法を確立させた。
過去にも未来にも一生訪れない、あの瞬間だけの最善を演算したのだ。
だからこそ、あの瞬間だけは彩芽を蘇生させるための最善手となりえた。
(それでも、かなり賭けの要素が強かったけどな)
ジャックの遺言は、彩芽を強く死へと固定していた。
迫る死の闇を引き剥がせるのか。
最終的には、彩芽自身にすべてが委ねられることとなった。
彼女の生命力、そして生きようとする意志に委ねられた。
結果として彼女が生き返ったということは――そういうことなのだろう。
「気分はどうだ?」
天は彩芽に尋ねた。
最善は尽くした。
それでも何らかの障害が残っていてもおかしくはない。
「……そうですね」
彩芽は仰向けになり、天井を見上げた。
「夢を見ていました」
「……良い夢だったのか?」
「どうでしょうね」
彩芽は柔らかく微笑む。
「……そっか」
天も小さく笑う。
あんな表情ができるのだ。
どんな夢だったかなど聞くまでもない。
「本当に……良かった」
☆
「あんたが来るなんて意外だな」
「…………」
彩芽の病室の前。
天は廊下の壁に背を預け、男を出迎えた。
渋面に腕組みという、明らかに歓迎していない雰囲気を醸しながらだが。
「会議室ならあっちだけど」
「自分の会社の構造くらい熟知している」
男――生天目厳樹はいつも通りの表情でそう言った。
表情は変わらず、視線は鋭いままに。
「気が向いた時だけイクメン面する男は嫌われるっすよ」
厳樹が彩芽を愛しているというのなら構わない。
負傷した娘を見舞いに来たのだと納得できるだろう。
しかし、この男がそんな殊勝な人間には思えなかった。
「娘の見舞いに来るのがおかしいか?」
「あんたがやる場合はな」
二人は対峙したまま睨み合いになる。
「それとも、彩芽が死にかけたって知ったら……少しは情が湧いたのか?」
彩芽への想いを改めたのか。
そう天は問いかける。
違うというのなら、会わせられない。
意識を取り戻したばかりの彼女に、こんな男を会わせるわけにはいかない。
「くだらんな」
そう厳樹は一蹴する。
「家族くらい愛しろって言うのがそんなにくだらないのか?」
「分かっているのなら聞く必要があるのか?」
厳樹の表情に変化はない。
「家族だろ……? なんで同じくらい愛してるって言えないんだよアンタは」
「同じではないからだ」
「だから――」
「では聞くがッ!」
初めて厳樹が声を荒げた。
ガンッ。
厳樹は壁に勢いよく手を突く。
厳樹と壁に挟まれる形となった天は思わず肩を跳ねさせた。
二人の顔が近づく。
わずかに気圧されながらも、天も彼の目を見つめ返す。
目を逸らしたら負けだ。
そう言い聞かせて。
「咎芽は……妻は、私が選んだ女だ」
「…………?」
「一生をかけて守り抜くと誓った女が、娘より大事で何が悪い」
「な…………」
わずかに気持ちを削がれたのが分かる。
ほんの少しだけ、彼が言わんとすることが分かってしまったから。
彼の気迫に、圧されてしまったから。
「妻の忘れ形見などいらない。私は、咎芽に生きていてほしかった」
家族の優先順位。
それこそが厳樹の答え。
一生連れ添うと決めたから。
妻という存在がそれほどに大きかったから。
彼の中には――優先順位がある。
彼の中では、妻が揺るぎなき一番なのだ。
「あいつは、咎芽の復讐のために必要だ」
そう言うと、厳樹は天に背を向けた。
「私はしばらくここに滞在する」
彼の背中が離れてゆく。
「ライブが近い。あいつには、体調を早く整えるよう言っておけ」
言霊そのものに抗うのではなく、言霊による結果が過ぎ去ってから軌道修正する。
ある意味で、ジャックの能力に正面から対抗する唯一の手段といえます。
それでは次回は『サマーライブ』です。