3章 1話 箱庭の外で一人2
「あらあら。お久しぶりですね」
ふと声をかけられ、天は立ち止まった。
今、天は箱庭の外にいる。
外出には申請が必要ということもあり、天は箱庭の外に知り合いはほとんどいない。
少なくとも、偶然会ったからといって声をかけてくるような知り合いは。
「3ケ月ぶりですし、もう忘れられてしまったんでしょうか? だとしたら、悲しくて泣いてしまいます」
そこにいたのは少女だった。
夜を切り抜いたような黒髪。
月のように妖しげな輝きを宿す赤い瞳。
白雪のような滑らかな肌と対比するかのように黒で統一されたゴスロリ服と日傘。
深窓の令嬢を思わせる少女はあからさまな泣き真似をしている。
底の見えない美しさを纏う少女。
天は前世を含めてもそんな人物は一人しか知らない。
「……月読か?」
「はい。月読です」
少女――月読はあっさりと泣き真似をやめる。
彼女はすでに微笑を浮かべていた。
もちろん涙の跡などない。
「うふふ。天さんの活躍はよく見ていますよ」
「お、おう……」
天は微妙な表情になる。
天が月読と会ったのは、天がアイドル活動を始めるよりも前の話だ。
そんな彼女に、アイドルをしている自分について言及されるのは気恥ずかしいものがある。
「来月号は水着特集でしたよね。楽しみです」
「ぉふ」
ここでも再びトラウマを抉られるとは。
天は胸を押さえた。
「胸に手を……それは、実は天さんが隠れ巨乳であることのアピールですか?」
「ぎにゃ……」
しかも追撃を受けた。
「それにしても、本当にお久しぶりですね」
もっとも月読はそんな意図などなかったのだろう。
彼女はあっさりと話題を移した。
「やっぱり天さんも色々忙しかったんですか?」
「まあ……な」
天宮天が所属しているALICEは国民的アイドルユニットだ。
アイドル活動だけでも多忙である。
しかも天たちはアイドルだけではなく、《ファージ》から世界を守る役目も果たさなければならない。
今日の外出も、埋まったスケジュールの合間を縫って勝ち取ったものなのだ。
特に天がALICEになってから激闘続きだった。
グルーミリィ。
レディメア。
ここまで連続で強敵が現れたのはALICEが組織されてから初めてのことだという。
「実をいうと、わたくしも色々なことがあったんですよ?」
「そうなのか?」
「ええ。五月には痴漢に襲われたりもいたしましたし」
「はぁ⁉」
明らかに問題のある内容に天は声を上げた。
控えめに言っても犯罪にしか聞こえない。
「お、襲われたって大丈夫だったのか……?」
おそるおそる天はそう問いかけた。
月読の様子から考えて大事にはならなかったのだとは思うが、もしもということもある。
「ええ。確かあれは、天さんのデビューライブがあった日の夜でした」
「あの日か……」
天は思い出す。
彼女がアイドルとして生きていくことを決めた日。
アイドルとして生きることの意味を見つけた日。
その一方で、《ファージ》――それも上級であるグルーミリィの襲撃によって少なくない死傷者が出てしまった痛ましい日でもある。
その裏で、知り合いにも事件が起こっていたとは。
「夜道を歩いていたら、いきなり……わたくしを食べたいと申される方がいらっしゃいまして」
「……マジか」
「しかもその方――」
「――レズビアンだったんです」
「……………………は?」
天は月読が言った言葉の意味を理解できなかった。
そして数秒間考えて――
「つまり、襲ってきたのは女だったってことか?」
「ええ。驚いてしまい、つい撃退してしまいました」
「撃退できたのか……」
――月読には家がない。
いわゆるホームレスという奴だ。
容姿からは信じがたい話だが、事実だ。
家という拠点を持たない少女。
だからこそ自分の身は自分で守らなければならない。
案外、月読は武術の心得があるのかもしれない。
「ケダモノ方には、天さんも気を付けてくださいね」
「ああ……」
正直、男に襲われた日にはトラウマになる自信がある。
ALICEである天が一般人に後れを取ることなどありえない。
そう分かっていても、それとこれは話が別だ。
理屈の話ではないのだ。
「まあ……気を付けとくよ」
「ええ。気を付けてください」
そう月読は微笑む。
そして――
「…………!」
月読の姿が消えた。
いや。
流れるような動作で天を抱きしめてきたのだ。
彼女の吐息が耳をくすぐる。
「な、あ、ぇ……?」
月読の行動の意味が理解できずに天は困惑する。
二人の体が密着する。
フリルの多い服のせいで分かりづらかったが、触れると月読の体が織りなす起伏が柔らかさとともに――
「努々――油断してはいけませんよ」
そう月読がささやく。
その声は甘く、毒のように耳を痺れさせる。
月読は優しく両手を天の背に回した。
大切に、包み込むように。
「だって――敵だと名乗ってくれる敵だけとは限らないんですから」
「仲間だ。友達だ。君のことは裏切らない。そう言って、背後から刃を突き立ててくる敵もいるのですから」
妙に力の宿った声。
心当たりがあるわけではないのに、心に刻み込まれる。
不思議なほどの説得力を持つ声だ。
「つ……月読も。何かあったら言ってくれよ? 俺にできることがあったら、力になるからさ」
箱庭から自由に出ることさえできない身分の天だが、そう言った。
月読は友人だ。
彼女が心配してくれているように、天も彼女を心配しているのだ。
彼女の一大事なら駆け付けたい。
それこそ、箱庭を抜け出してでも。
そう思う程度には。
新しい――すべての交友がリセットされた新しい世界。
そこで出会った、かけがえのない友人なのだから。
「そうですか……嬉しいです」
そんな思いを込めた天の言葉。
だが、月読はちょっとした冗談と受け取ったのだろう。
彼女が浮かべたのは普段通りの微笑みだった。
そして彼女は唇に指を当て――
「じゃあ、もしもわたくしが頑張っても頑張ってもどうにもならなくて――女神に祈っても届かなくて、涙さえ出ないくらいに途方に暮れて、抗う心さえ折られてしまうようなときには――」
「――わたくしを助けてくれますか?」
そう言った。
なんの根拠も心当たりもない。
そんな未来が訪れるかなど分からない。
だけど。
だけど、もしもそんな日が来たのなら。
「当たり前だろ」
「もしもの時は、俺が守ってやる」
だって天と月読は、友達なのだから。
月読の存在は今後に大きくかかわっていくことになるでしょう。
それでは次回は『株式会社ALICE』です。
箱庭に新たな人物が現れます。