2章 エピローグ3 記憶の欠片・天条アンジェリカ
「……歯に染みますわ」
アンジェリカはそうつぶやいた。
とはいえ、食事をやめるわけにもいかない。
だからアンジェリカは薄い味噌汁をすすった。
出汁もロクにとっていない、腹を満たすためだけにワカメをやたらと突っ込んだ味噌汁を。
彼女がいるのはとあるアパートの一室。
安さだけを理由に選んだ部屋は貧相で、家具にオシャレさなど欠片もない。
「家賃。虫歯の治療……お金が足りませんわ……」
何度目か分からないため息。
以前では考えられない悩みだった。
天条アンジェリカが生まれたのは名家。
お金に困ることなどなかったし、欲しいと思えば大概のものは手に入った。
――夢以外は。
そんなたった一つのために家を飛び出したのが二年前。
アルバイトをしながら生活費を切り詰めて、夢のために邁進してきた。
「そろそろ、見ないといけませんわね……」
アンジェリカの視線が横へと移動する。
「見ないと……いけませんわよねぇ……」
そしてため息。
彼女の視線の先にあるのは封筒だ。
――オーディションの結果が入った封筒だ。
歌手。
それこそが、アンジェリカが追うと決めた夢。
安定した未来を捨て、厳しい道を選ぶに至った理由だ。
「……それではっ」
意を決してアンジェリカは開封した。
そこに書かれていたのは――
「……………………やりましたわ」
そこにあったのは『合格』の二文字。
数秒の静寂。
そして理解した。
ついに。ついに夢が叶う――そのための一歩を踏み出す権利を得たのだと。
「やりましたわ! やりましたわぁっ!」
アンジェリカは狂喜する。
高笑いとともに部屋を飛び跳ねた。
『うるせぇ!』
「も、申し訳ありませんわぁ!」
隣人から怒鳴られた。
――ここは壁が薄いのだ。
ガンッ! ガンッ!
何かで床を突き上げられた。
「ほんの出来心ですのぉ!」
――残念ながら、床も薄かった。
ガツンッ!
「あひぃん⁉」
アンジェリカはタンスの角に小指を打ち付け、床で悶えた。
――この部屋は、跳び回るには狭すぎた。
「ぐすん……これは……嬉し涙ですわ」
アンジェリカは目元を拭う。
涙の理由は――伏せておく。
「やっと……やっとですわ」
ようやく現実に心が追い付いてきた。
衝動のまま乱舞する段階を超え、未来を実感できるようになった。
「これで……少しは生活も楽になりますわね」
水のような味噌汁を飲まなくても済むようになる。
歯医者にだって行ける。
もしかすると、もう少しシャレた服も着られるようになるかもしれない。
いずれ歌手として活躍するのだ。
化粧品や服装にも気を配って――――
「お母様もお父様も……喜んでくださいますわよね……?」
半ば家出のように別れた家族。
あの時は、家族のことを『夢の邪魔をする人』だと疎んじていた。
だけど今は違う。今なら分かる。
両親はアンジェリカのために反対していたのだ。
そのまま彼らのレールに乗ったのなら、順風満帆な未来にたどり着けるから。
今の生活を続けてきたから分かる。
険しい道を歩いたから分かる。
彼らの用意したレールは甘えてしまいたくなるくらい優しかった。
だけどその先には、彼女自身の夢がなかった。
幸せにはなれても、夢は叶えられない。
(今なら、お二人の優しさが分かりますの)
両親は両親なりに、アンジェリカを幸せにしてくれようとしていた。
アンジェリカが夢を追うことに難色を示すのだって、親の心情としては当然のものだったのだろう。
歌手なんて、目指してなれるものではない。
夢に破れ、絶望する娘を見たくない。
そんな親心だったのだろう。
(それが分かるようになった今だからなおさら、会いたいですわ)
夢を叶えるキッカケなら掴んだ。
今なら胸を張って再会できる。
また仲良くできるはずだ。
そうしたら――
「………痛っ」
頭が痛んだ。
数日前からこうなのだ。
散発的に頭痛が襲ってくる。
「きっと、疲れているんですわ」
アンジェリカはふらつきながら布団へと歩いてゆく。
「……最近、忙しかったですものね」
アンジェリカは微笑む。
「夢への道が見えて、緊張の糸が切れたんですわ」
だから疲労が一気に出たのだ。
「今日は早く寝ましょう。そうすればすぐに良くなりますわ」
アンジェリカはそう自分に言い聞かせた。
部屋の電気を消し、布団に入る。
そうして目を閉じる。
そうすれば、また明日が来る。
さらに明後日が来て、日常が続いてゆく。
そうして夢を叶えていつか――
(ああ…………頭が痛いですわ)
――これは、天条アンジェリカが死亡する三日前の記憶だ。
満足している(悲惨でないとは言っていない)。
そんなアンジェリカの過去です。
客観的に不幸だったとしても、それを嘆き立ち止まることはない。それがアンジェリカという少女。そんなエピソードでした。
……2章で『1日2話投稿』は終わりの予定だったんですが。
これから年末年始ですし、それこそキャンペーン的な何かがあってもいいかと思ったりもいたしまして。
というわけで、『1月3日まで1日2話投稿』続行いたします……!
それでは次回は『撮影会・8月号』です。
サマーライブが迫るALICEに新たな敵が現れます。
・株式会社ALICEよりお知らせ
箱庭では、ファンの皆様の声をお待ちしております。
皆様の声(ブクマ、感想、評価)は推しアイドルに届いたり届かなかったり、スタッフに美味しくいただかれたり、箱庭の運営資金となります。