1章 24話 幸せの天秤
「はぁ……っく」
建物の陰で、天は壁に体重を預ける。
彼女の体には歯形が刻まれており、血が滲んでいる。
これらは激戦の傷跡だ。
「……大丈夫?」
そんな彼女を心配そうに見つめているのは莉子だった。
天は彼女を連れて戦場を離脱した。
予想はできていたがグルーミリィとの戦いは熾烈なものとなった。
このままでは莉子を巻き込んでしまうことを察し、天は彼女を遠くに逃がすことにしたのだ。
「行くか――」
莉子は充分に遠ざけた。
天はグルーミリィとの戦いに戻らなければならない。
そう思い彼女が莉子に背を向けると。
「行かないで……」
莉子が天を引き留めた。
その行動は、自分が一人になることへの不安ではない。
純粋に天の身を案じている。
「お姉ちゃん……死んじゃう」
ただの不安ではない。
莉子の目には、妙な確信が宿っていた。
「……どういうことだよ?」
ここまで断言されては見過ごしにくいものがある。
天は思わず問いかけた。
それに対し、莉子は唇を震わせながら言った。
「私を幸せにしようとしてくれた人は……みんな死んじゃう」
――これまでそうだったから。
莉子は晴れた空を仰ぐ。
彼女の目には涙の粒が浮かんでいた。
「お姉ちゃん。人生での幸せと不幸は釣り合うっていうよね?」
「ああ――」
どこかで聞いたような言葉。
誰が言いだしたのか、天は知らない。
だが人生におけるプラスとマイナスは公平であるという話は聞いたことがある。
明けない夜はない。
不幸なだけの人生なんてない。
そんな言葉と並べられる、どこかで聞いたような言葉だ。
「だとしたら――私の幸せの天秤は壊れちゃってるのかなぁ……」
莉子の瞳から光が薄らいでゆく。
希望がこぼれ落ちてゆく。
「お願いだから……行かないで」
莉子は天の服の裾を掴む。
「私が幸せになる日には、誰かが死んじゃう」
――お父さんも、お母さんも死んじゃった。
暗い瞳で莉子は天を見る。
「お姉ちゃんまで死んじゃうのは……嫌だよ」
懇願するような莉子の声。
「悪い……」
天は唇を噛む
少しだけ心が揺れる。
このまま莉子を置いて行っていいのか。
そう思ってしまう。
「俺は、行かなきゃいけないんだ」
だが、天は救世主となると約束した。
倒すべき敵がいるのなら、戦わねばならない。
「別に行かなくていいんだぜ?」
「オレが来たからな」
少女――グルーミリィの声が聞こえた。
建物の向こう側から。
「しま――」
天の隣にあった壁が爆ぜた。
壁を突き破ってきたのは、口だけの巨大な化物。
人を食い殺すためだけに生まれてきたかのようなフォルム。
あれはグルーミリィの体内から現れた化物だ。
「ぐ――ぁ」
横合いから口の化物に撥ね飛ばされ、天は呻く。
巨体ということもあり、ダンプカーに轢かれたような衝撃だった。
普通の人間なら肉片になりかねない攻撃だ。
「! 莉子――!」
さっきの攻撃があまりに突然で、天の意識から莉子の存在が抜け落ちていた。
焦りながら莉子の姿を探すが――
「良かったぁ……」
莉子の声が聞こえた。
――絶え絶えの声が。
「ぁ……」
びちゃりと、赤い粒が落ちた。
地面に広がった赤い湖は今も広がり続け、天の靴を汚してゆく。
そんな天の視線の先では――
「今日死ぬのは――私だったんだ」
壁へと磔にされたまま笑う莉子の姿があった。
口の化物の牙はすでに莉子を捕えている。
牙が食い込み、彼女の体からはおびただしい量の血が流れていた。
明らかに致命傷だった。
「そんな――」
守れなかった。
天宮天は――守れなかった。
「まあ、まずは前菜だな」
「待て――!」
口の化物はコンクリートの壁ごと莉子を――呑み込んだ。
「そ……んな」
手足が震える。
喉が渇いてゆく。
見知った人物の死。
それがどれほど恐ろしいのか。
この瞬間、天へ深々と刻み込まれた。
「《象牙色の悪魔》ッ――!」
気が付くと、天は《不可思技》を発動させていた。
未来の逆算。
求める未来は『莉子の生存』だ。
(無理だって分かってる――!)
死んだ人間は生き返らない。
不可能な未来を求めても、解は手に入らない。
だからこれは無駄な足掻きだ。
だが――
(脳味噌がぶっ壊れかねない無茶なのは分かってる! それでも――!)
それでも、そうせずにはいられなかった。
「がぁッ……!」
天の脳髄に激痛が走る。
無理な演算の行使による反動だ。
血涙が流れ落ちた。
突然のフラッシュバック。
今の自分が、あの日の自分と重なって見えた。
悪魔に身を捧げ、死んだ人間の姿と重なった。
その末路は――
「はは……」
天は小さく笑う。
その様子を見て、グルーミリィは眉を寄せた。
「なんだ? ガキ一匹で精神がイカレちまったのか?」
それに天は答えない。
答えなら――もう得ているから。
「――――――まだ大丈夫だ」
――莉子を助けられるルートはまだ……途絶えていない。
莉子を救えるルートに天は到達できるのか。
ALICEの逆襲なるか……!
それでは次回は「ALICEの戦い」です。