越章 3話 とある日の朝3
「ほ、本当に買うんですか……?」
彩芽の頬を冷や汗が流れる。
現在、彼女は自室でパソコンと向き合っていた。
彼女が行っているのはネットショッピング。
そして画面に映っているのは――卑猥な道具であった。
俗にいう、男女がより営みを愉しむための……。
「…………」
すでに商品は買い物かごに入っている。
あと1回。
あと1回クリックするだけで購入完了だ。
しかし彩芽の指先は凍りついたように固まっていた。
それを見かねたのか、美裂が彩芽の肩に顎を乗せる。
「彩芽。考えてみてくれ」
そして、ささやく。
甘く。毒を流し込む。
「これは天たちの未来のための行動なんだ」
「そんな大袈裟な……」
彩芽は反論するも、その声は弱々しい。
「いいのか彩芽? これからの未来、二人の関係が上手くいかなくなっても。その時『ああ。もっと夜の生活が順調に進んでいれば』って後悔する日が来たとしても」
「ぅ……」
「どんな状況だそれ」
天がそう口にしたが、その声は彩芽には届かない。
目が回るようなプレシャーが彼女の感覚を著しく劣化させていた。
「天。プラトニックを神格化するな。恋人っていうなら、そういう部分も含めての相性だろ」
これ幸いにと美裂は天を丸め込みにかかる。
美裂は天の両肩に手を置いた。
「エロは恥じゃない。愛とエロスを区別しなくていい。エロを邪険にすることが正しい愛ってわけじゃないんだ」
「お、おう……」
美裂が語るのはきっと極論に過ぎない。
だが自信をにじませた声音が妙な説得力を生む。
気付くと天は頷きかけていた。
「彩芽はどうなんだ。彩芽は――天のためにクリックできるのか?」
美裂だけではない。
天、アンジェリカ、月読。
この部屋にいる全員の視線が彩芽に注がれる。
「ぅぅっ…………」
彩芽の目に涙がにじむ。
彼女はすでに、この上なく精神的に追い込まれていた。
「それはエログッズを買うか否かのクリックじゃない。天を応援できるかの――応援を行動で示すことができるかのクリックなんだッ」
「……それは」
「彩芽ママ。それは彩芽ママにしかできないクリックなんだ」
「ぇ――」
「ですわね。わたくしも応援いたしますわ彩芽さん」
アンジェリカがそう追撃した。
どうやら美裂の味方をすることに決めたらしい。
「そうですね。クリックするのは彩芽さんでも、それはここにいる全員の想いが乗ったクリックといえます。――彩芽さんがおやめになるのであれば、水泡に帰してしまいますけれど」
月読は微笑み、彩芽の傍らに立つ。
「それは……」
右の美裂。後方のアンジェリカ。左の月読。
そして前方には――パソコンの画面。
逃げ場を封鎖され、彩芽の顔色が悪くなってゆく。
「彩芽。どうなんだ」
「どうなさいますの?」
「天さんのため、では動機足りえないのでしょうか」
「えっと――」
三方向からの責めに彩芽は戸惑う。
「さあ。ここからは覚悟の話だぜ」
そして美裂の手が、彩芽の右手に添えられた。
重なった二人の手は依然としてマウスの上にある。
「彩芽ママッ。買うのか買わないのか――どっちなんだ……!」
「どちらですの……!?」
「どちらなのでしょうか?」
「ぅ……ぁ――」
「「「さあっ……!」」」
「か、買い……買います~~~~~…………ッ!」
三人から背を押され、ついに彩芽は身を投げた。
カチリというクリック音。
そしてパソコンの画面が切り替わる。
「購入決定ッ!」
「やりましたわね天さんっ!」
「ぜひ旅行先でお楽しみくださいね」
美裂たちが手を取って喜び合う。
自分のことでもないのに、自分のことのように。
もっとも、実行者である彩芽は机に突っ伏していたけれど。
(これは……喜ぶべきことなんだろうな)
天のために本気で話し合って、本気で行動してくれる。
ふざけ合いながらも、彼女たちの気持ちが伝わってくる。
そんな仲間に出会えたことはきっと幸運なことで――
「………………あ」
――天の口から声が漏れた。
思い出してしまったことがあったのだ。
「どうしたんだ?」
美裂の問いに、天は微妙な表情を浮かべた。
「いや……今さっき思い出したんだけどさ」
「俺たちがネットで買った商品って確か……検閲されたよな?」
「「「あ」」」
「…………え?」
彩芽の顔には――絶望が湧き上がっていた。
☆
「うむ……」
数日後、氷雨は難しい表情を浮かべていた。
口元に手を当て、彼女は咳払いする。
そして目の前にいる女性――彩芽に語りかける。
「まあ……なんだ。以前も話したと思うが、もうこの世界は救われたんだ。これからはもっと自由な時間を作ってやれる」
「ひゃ……ひゃい」
彩芽の体はふらふらと左右に揺れており、今にも倒れそうだった。
それを見かねたのか、氷雨は少し目を逸らすと――
「だから――まだ焦らずに……な?」
「ッ、ッ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
ついに限界を迎えたのか、声にならない絶叫を上げながら彩芽は逃亡した。
――ちゃんと例の荷物が入った箱を抱えて。
「あらあら」
そんな光景の一部始終を眺め、月読はそう漏らした。
「さすがに悪かったな」
気付いていなかったとはいえ、彩芽は精神的に致命傷を負う結末となってしまった。
そのことを反省しているようで、美裂は頭を掻く。
「天。使ってからでいいから、ちゃんとママに貸してあげるんだぞ。蓮華が天の部屋に行ってるときなら、ママも独りで愉しむ時間はあるだろうし」
「…………鬼ですわね」
美裂の言葉にアンジェリカはそう漏らすのであった。
今回で『とある日の朝』編は終了いたします。
そして次回からは『ALICE ALIVE』編の開幕です。
それでは次回は『ALICE ALIVE』です。