終章 30話 寂静の世界
「この世界にはもう、天ちゃんと神楽坂助広しかいない」
マリアはそう告げた。
「――オッサンがいるのか?」
天は問い返す。
見渡す限り、ここに人の気配はない。
抜け殻になった仲間たちと、気味の悪い肉壁があるだけだ。
「そりゃ当然だよー。だって、自分まで自我を失っちゃったら、この平等な世界を誰も保てなくなっちゃうでしょ☆」
「まあ――そうか」
もし自分という存在が無くなるほどにこの世界と溶け合ってしまったのなら。
術者である助広といえども、能力を制御する余裕はないはず。
ならば彼はどこかでこの世界を管理していると考えるのが自然だ。
「言い換えれば、天ちゃんならまだ世界を元に戻せる」
そして、術者がいるのなら能力の解除も可能ということだ。
本来《単一色の世界》が実現した時点で、抵抗できる者は存在しない。
しかし運命の悪戯か、天にはその資格があった。
「大切なことだから、あえて言うよ」
「神楽坂助広を――殺して」
マリアは真剣な表情でそう言う。
「倒す、じゃダメ。殺さないと、この世界は終わらない」
それも考えれば分かることだ。
意識を失えば能力が解除されるというのはよくある。
だが、助広がそうであるのなら、彼はこの世界を展開している間は睡眠さえできないことになる。
さすがにそれは考えにくい。
「これはもう……天ちゃんにしかできないことだから」
マリアは微笑む。
――その体は、消えかけていた。
「――マリア?」
「ごめんね天ちゃん。今回も、天ちゃんを助けてあげられないんだよね」
謝罪の言葉を口にするマリア。
「今、《単一色の世界》に取り込まれた人たちの自我をなんとか繋ぎ止めてるんだけど……さすがに数が多いんだよねぇ」
マリアの笑みには力がなかった。
全生物を対象にした精神の統合。
跡形もなく溶け合おうとする精神を、彼女は繋ぎ止めようとしているのだ。
いくら神とはいえ、それは途方もない所業のはず。
全生物の精神を正確に区切る。
それはつまり《単一色の世界》で自我を保つという行為を、この世界にいる生物の数だけ肩代わりしているともいえるのだから。
「でも、大丈夫。天ちゃんが世界を救うまで、誰の精神も壊させたりはしない。ちゃんと――みんな元に戻れるから」
マリアの姿が薄れてゆく。
彼女は、天に世界の救い方を教えるためだけにここに来たのだろう。
そしてこれから彼女は、この世界にいる精神を保持するために全力を注ぐのだ。
「――頼む」
天はマリアに背を向けた。
マリアは、みんなを守ってくれている。
なら、みんなを取り戻すという役目は自分のものだから。
「天ちゃん。今、君は《象牙色の悪魔》の出力をフルに使うことで自我を保っているの」
「だから今度の戦いでは、未来演算は使えない」
マリアはそう語りかけてくる。
――なんとなく分かっていた。
頭の片隅にある虚無感。
意識が戻ってからずっと、何かが足りないと感じていたのだ。
「天ちゃんはこの世界に来る前から――生まれてきたその時から《象牙色の悪魔》と共に生きてきた」
《象牙色の悪魔》は、天が生まれた時から持っていた力だ。
その力の性質をきちんと理解したのは後のことだが、片鱗という意味では物心がついたころから存在していた。
「それでも今回だけは、悪魔には頼れない」
天にとって《象牙色の悪魔》は手足と変わらない。
最初から持っていて、当然のようにそばにあったもの。
「本当の意味で、天ちゃん一人にすべてを託すことになっちゃったね」
だが、それには頼れない。
「大丈夫。天ちゃんならできるよ☆」
「……ああ」
とはいえ、無力というわけではない。
ALICEとしての身体能力。
後天的に身に着けた《青灰色の女神》――その再生能力については使用可能だ。
戦うための手札は尽きてなどいない。
「マリア」
「俺が世界を救うまで、みんなを守っていてくれ」
それほど時間はかけられない。
マリアも、永遠にみんなの精神を保護できるはずがない。
それくらい分かる。
「――15分。それが、みんなの無事を保証できる限界だと思う」
15分。
短いようだが破格の時間だ。
自力で自我を守れたものさえいないというのに、全生物の精神を守るというのだから。
「分かった。絶対に――勝ってくる」
天は振り返ることなく駆けだした。
――世界の行く末を決める、最後の15分が始まる。
そして助広との決戦に続きます
それでは次回は『虚無の世界』です。