終章 28話 世界調和6
「!」
天の小指が、わずかに触手を掠めた。
一瞬、意識が混濁する。
気が付くと天は足をもつれさせて転んでいた。
その隙を突き、触手が彼女へと殺到する。
「っく……!」
迫る触手。
その襲撃密度から、自分の体が通り抜けられる隙間を割り出す。
天は瞬間的に指の力を強化し、体ごと吹っ飛ぶ。
かなり強引な形になってしまったが、天は触手の包囲網を抜け出した。
「面倒だな――」
クルーエルは格子状に影を展開する。
賽の目状に切られてゆく触手。
だが次々に触手は伸びてくる。
終わりは見えない。
――天は助広を盗み見た。
彼は特に何をするでもなく立っている。
彼の周りの空間にはノイズが走っているが、彼自身には大きな変化は見られない。
「もう良い。こいつらの対応をしても無意味だ」
クルーエルはそう口にした。
触手を斬り続けても終わりは見えない。
これは、彼の能力を破壊する手段となりえない。
「能力の暴走を考えて後回しにしておいたが――」
「死ねッ!」
クルーエルが影を助広に伸ばす。
術を潰すには、術者を始末する。
シンプルな理論だ。
しかし助広を殺すことで能力を制御する者がいなくなり、世界が滅亡する可能性もある。
ゆえにクルーエルも別の方法を試してみたのだろう。
だが、それも難しいと判断した。
だからこそ助広を狙うことにしたのだ。
「――――――」
助広は動かない。
消滅の影は鞭のように彼を狙い――ノイズに弾かれた。
「な――!?」
クルーエルが驚愕の表情を見せる。
彼女の影は触れたものを消滅させる能力がある。
防御という概念が存在しない攻撃なのだ。
なのに――弾かれた。
術者であるクルーエルを除き、誰も影に干渉できないはずなのに。
「このノイズは世界の歪み。世界が壊れて、異世界との隙間が可視化したもの。だから、世界を渡る資格のない君の攻撃は通過できない」
もしあのノイズが物理的な壁であったのなら、消滅の影はノイズを切り裂いただろう。
だが助広の言葉によれば、あれは物理的なものではない。
世界と世界の境界線。
そんな概念的なものだ。
ゆえに、この世界だけのルールなど無力でしかない。
「! クルーエル!」
天は叫んだ。
消滅の影が防がれるという想定外。
その動揺を突き、触手がクルーエルに迫っていたのだ。
消滅の影が触手を薙ぎ払う。
しかし、そのうちの一本がついにクルーエルの手首を捕らえた。
「ッッッ――――――――!?」
クルーエルの体が跳ねた。
制御を失い、影が霧散する。
そうなれば押し切られるまでに時間はかからなかった。
「ッ!? ッ――――!?」
触手が続々とクルーエルの四肢を捕らえてゆく。
そのたびに彼女の体が揺れる。
意識が侵蝕されているためか、彼女の膝はガタガタと震えていた。
「くっ……!」
クルーエルの援護に向かおうとするも、他の触手が天の道をふさぐ。
「こ、の――――」
脂汗をにじませながらもクルーエルは抵抗の意志を見せる。
そんな姿に、助広は感心の声を漏らした。
「驚いたよ。無意味とはいえ、精神力だけで自我を保つだなんて」
そして助広は指を鳴らす。
「でも、こっちもそれなりの対応をするだけさ」
助広の合図により、クルーエルを襲う触手が増えた。
触手は蛇のように彼女の腕を這う。
そのまま脇まで滑ると、袖口から黒ワンピースの中へと侵入した。
「っ、っ…………!」
彼女の胸元が激しくうごめく。
意識を汚染され始めているのか、彼女の目の焦点が徐々に合わなくなる。
そして彼女はその場で膝をついた。
最初は何度も痙攣していた体から抵抗が失われ、やがて力尽きてゆく。
クルーエルの体がふらふらと揺れる。
10秒とかからず、彼女はのけぞった姿勢のまま気を失っていた。
「いくら《ファージ》の王とはいっても、しょせん生き物の一つに過ぎない。すべての生物の集合意識に一人で対抗するなんて不可能なのさ」
自我を失い、集合的無意識に統合される。
この世界に存在するすべての意識と接続され、その一部となる。
圧倒的な個としての力を持つクルーエルであっても逃れられない。
強い覚悟を持った精神も、数えきれないほど膨大な精神に押し潰されてしまう。
「さあ。最後は天ちゃんだ」
「しま――!」
衝撃的な光景に動揺してしまっていた。
ゆえに、天は足元に出現した触手に気付かなかった。
天を中心として花弁のように広がっていた触手。
それは罠に獲物が触れたことを察知したかのように、花弁を一気に閉じた。
「んんっ……!」
天が状況を理解したときには、巨大な触手によって腰から下が丸呑みにされていた。
運悪く両腕まで吞まれており、上手く動かせない。
「ぐ……!」
(これは……やば)
眩暈がひどい。
掠めただけで襲ってくる精神汚染。
直撃してしまうと、ここまでの影響なのか。
天は一瞬で途切れそうになった意識を必死につなぎとめた。
だが時間稼ぎだ。
触手が収縮するたび、彼女の体はさらに深く吞まれてゆく。
呑まれた中では、大量の触手が下半身に絡みついている。
接触面積が増えるたび、精神汚染の速度が上がってゆく。
胸が引っかかり丸呑みは避けられているが、すでに意識は混濁し始めている。
赤子のように涎がこぼれてゆく。
景色は見えているのに、脳まで情報が届かない。
(もう……)
消えてゆく。
塗りつぶされてゆく。
意識も、記憶も。
自分だけのものだったはずの情報が流れだしてゆく。
誰のものか分からない情報と溶け合ってゆく。
自分と、そのほかの境界線が消えてゆく。
「れん、げ……」
大切な人の名前を最後に、彼女の意識が途絶える。
その日、すべての生物の意識が統合された。
不要となった個別の肉体は、抜け殻として打ち捨てられた。
その光景はまさに――世界の終わりだ。
世界が終わっても、戦いは終わりません。
それでは次回は『すべてが終わった世界』です。