7章 エピローグ2 願いの届かない世界で君とまた
「ここは――」
気が付くと、厳樹は見慣れない世界にいた。
何もない。
地平線どころか、足元に地面さえない。
自分がちゃんと立っているのかさえ曖昧な世界に彼はいた。
「私は……死んだのだろうな」
ふとそう口にした。
状況からして、自分が生き延びたとは考えにくい。
ここが夢の中という可能性もあるが、それほど期待できる確率ではない。
「地獄にしては随分と何もないな――」
復讐。
それは厳樹が生きた意味。
しかしそこに正当性を見出していたわけではない。
理由はどうあれ、世間一般において正義とされない行いだと理解していた。
それが泣き寝入りをするだけの理由とはならなかっただけのこと。
だから自分が死ねば、行くのは地獄だろうと思って生きてきた。
しかし行き着いてみれば何もない世界だ。
とはいえ考えようによっては、この虚無は死の象徴と呼ぶのに相応しいのかもしれない。
「ったく。さっきから何一人でブツブツ喋ってんのさっ」
そんな時、声が聞こえた。
「!?」
厳樹の体が硬直する。
突然の声に驚いたからではない。
聞こえた声が、知っているものだったから。
忘れるはずなどない声だったから。
「20年ぶりだっけ?」
そこには女性がいた。
身長は確か174センチ。
女性の中では高い身長だった。
バストやヒップは平均を逸脱した大きさで、美しい曲線を描いている。
一方で、日頃から運動を欠かしていなかったこともあって腰あたりは引き締まっている。
黒髪は肩に触れるくらいの長さ。
子供が生まれてから、手間がかかるからと学生時代から伸ばしていた髪を切ったからだ。
優しさよりも強さが垣間見える顔立ち。
その振る舞いは、淑やかというよりも豪快だった。
「久しぶり――あ・な・た」
女性は冗談めかして笑う。
「…………咎芽?」
厳樹は茫然と口にする。
彼の前にいるのは紛れもなく最愛の妻――生天目咎芽だったから。
「なぜだ――」
厳樹は目を見開き、咎芽の肩に手を置いた。
彼の問いに、咎芽は肩をすくめる。
「なぜってそりゃ……アタシたち夫婦じゃんか。迎えにくらい――」
「なぜ咎芽が地獄に堕ちているんだ……!」
「あ?」
咎芽が口にしたのは『え?』でも『は?』でもなかった。
若干、威圧が混じっていた。
だがそれに気付けるほど厳樹は冷静ではなかった。
「復讐に身を落とした私だけなら仕方がないッ……! だが、咎芽は関係ないだろうッ!」
家族を大切にし、最後まで家族を守って死んだ女性だ。
彼女は天国に行くだろう。
そして、復讐に身を落とした自分はもう彼女と会うことは叶わない。
たとえそれが死後であったとしても。
だがそれは逆説的に、妻たちが天国に行けたということなのだから悲しむべきではない。
そう思っていたのに――
「だーれーがー」
するとなぜか、咎芽は拳に息を吹きかけた。
そして――
「地獄に堕ちたってのさバカ夫ッ!」
彼女の拳が厳樹の脳天に落ちた。
「ぐふッ!?」
妙に手慣れた一撃のせいで厳樹の口から声が漏れた。
ALICEの戦いを見てきた今だから分かる。
咎芽の拳にはちゃんと体重が乗っていた。
「なんでアタシが地獄に堕ちるんだよッ。どう見ても、経歴もお肌も真っ白な美女だろうが! 余裕で天国に行ってやったし!」
「う……うむ」
厳樹は言い返せない。
――むしろ言い返せた経験のほうが少なかったが。
「ほらっ。さっさと行くよっ!」
厳樹が過去を思い返していると、咎芽はさっさと背を向けた。
彼女は首だけで振り返り、指で厳樹についてくるように合図する。
「…………行く、とは」
「アタシたちの家に決まってんでしょ」
咎芽は即答した。
「私が……俺が行っても……いいのか?」
厳樹は思わずそう問いかけていた。
我慢できなかった。
最愛の彼女を殺されたことが。
だから復讐にすべてを捧げた。
しかし、その道を選ぶうえで葛藤がなかったと言えば嘘になる。
原因は、ほかならぬ咎芽だ。
きっと彼女なら、復讐なんて望まないと分かっていたから。
そんな暇があれば、幸せに生きる方法を考えろと言われると分かっていたから。
理由は咎芽でも、彼女の意に沿わない行動だと理解していたから。
挙句の果てに、こんなところで厳樹は死んでしまったのだ。
暴走するだけして、自分なりに納得のいく結末にさえ至れぬまま。
夢破れて流れ着いたのだ。
そんな彼の姿に、きっと咎芽は怒っているだろう。
そう厳樹は思っていた。
「死んじゃったもんは仕方ないでしょーが」
「…………馬鹿」
咎芽はそう呟いた。
聞こえてくるため息。
きっと呆れているのだろう。
「復讐なんて馬鹿なことしてさ。そんなことより彩芽のこと見ててくれればよかったのに」
咎芽は背中越しにそう言った。
その言葉に、厳樹は言い返す。
本音を吐き出す。
「あの頃も今も。俺の最愛は咎芽しか考えられない。たとえ死んでも、繰り上がることはないんだ。そんな咎芽を殺した《ファージ》を許すことなど――」
「うっさい2番目っ」
「ぐふっ……!」
厳樹の言葉は、咎芽の裏拳に遮られた。
もっとも今度は軽い一撃だったが。
「に……2番目?」
とはいえ、厳樹にはそれ以上の衝撃が襲い掛かっていた。
額へのダメージなど皆無。
むしろ精神に突き刺さった言葉のほうが無視できないものだった。
「だ、誰が1番なんだ……!?」
「子供たちに決まってるでしょーが。弁えなさいっての」
「……うぬ」
厳樹は押し黙る。
どうやら、彼が一番に愛していた女性は、厳樹のことを二番目に愛していたらしい。
あくまで子供が上なのだ。
――彼女らしいと言えばそうなのだけれど。
「ほらっ。行くよ」
咎芽は乱暴に厳樹の襟元を掴むと、そのまま彼を引っ張ってゆく。
「す……スーツに皺がつくだろう……!」
「誰がアイロンすると思ってるの? アタシでしょーが」
「…………」
言い返せなかった。
「あーそうそう」
咎芽が立ち止まる。
「彩芽だけでも、生き返らせてくれてありがと」
彼女が述べたのは感謝。
あの日、厳樹を残して家族は殺された。
ALICE化を用いた蘇生。
そんな邪道さえ、咎芽を生き返らせることはできなかった。
それでも、と。
自分は死に。息子も生き返らなかった。
それでも、娘だけでも。
たった一人だけでも、子供が今を生きてくれている。
そのことに咎芽は感謝を述べていた。
――急に彼女の顔が近づいてくる。
こつん。
気が付くと、二人の額が触れ合っていた。
「……お疲れ様」
咎芽は優しくささやいた。
「もう……休んでいいんだからね」
「家に――帰ってきたんだからさ」
咎芽の言葉が心にしみこんでゆく。
あの日、厳樹は帰る家を失った。
確かに彼は生きていた。
だが、居場所を亡くしたのだ。
そして今、厳樹は帰ってくることができた。
あの日失った、家へと。
「ぁぁ……やっと、咎芽と会えた」
自然と、厳樹の表情がほころぶ。
固く、尖っていた心が溶けてゆく。
復讐者としての自分が薄れ、平凡なサラリーマンだったころのような笑みが浮かんでくる。
家族を守ることはできなかった。
復讐を遂げることはできなかった。
そんな、願いの届かない残酷な世界。
だが、再びめぐり会えた。
ここは願いの届かない、絶望がはびこる世界。
だけど、それだけではない世界。
だから、厳樹と咎芽はここにいる。
また家族として――
「それだけで俺の20年は……救われた」
こうして生天目厳樹の戦いは、終わった。
彩芽はお姉さん系。
咎芽は姉御系です。
プロポーションは母譲りとなっております。
それでは次回は『新たな拠点』です。
次回より8章『運命と誇りの天秤』が開始いたします。
8章は最終決戦へ向けての話となります。
ついにクルーエルの活動限界がなくなり決戦の準備が整いつつある《ファージ》陣営。
行方をくらましたまま暗躍を続ける神楽坂助広。
近づく決戦の予兆を前に、天に覚醒の兆しが――
大きく事態が動く章となります。
・株式会社ALICEよりお知らせ
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