四畳半の病室
小さな村の一角、田には既に水が張られ、青々とした稲がその体を真っ直ぐに伸ばしている。とても静かで、心地よい。都会の喧騒はなく、聞こえるのは鳥のさえずりと、どこか寂しく吹き付ける風の音だけ。
私には親が居ない。と言っても捨て子などではなく、私が幼い頃に事故で亡くなってしまったのだ。身寄りの亡くなった私は親戚の家を転々として過ごした。両親のいない悲しみはあったし、常に自分だけが世界の外側にいるかのような感覚さえ感じていた。それでも、毎日を必死に生きていた。
それだけ必死に頑張ったけれど、どうやら神様は私がお気に召さないらしかった。
高校2年生の夏、真夏の肌を焼く暑さの中で私はグラウンドを走っていた。私は陸上部に所属していて、走ることが好きだ。走っている間は何も考えることは無い、私という人間ではなくそういう自然の中に溶け込んでいる感覚にひたれるのだ。けれどもその日、私は熱中症で倒れてしまった。すぐに顧問の先生が救急車を呼んでくれたらしく、私は近くの大学病院に運び込まれた。そして、倒れた時に頭を打ったかもしれないと精密検査を行ったらしい。その時に見つかったのはもう手術で取り除くことが出来ないほど大きく肥大化した脳腫瘍だった。
目を覚ました後私はその話を聞いた。余命が1年であることも。初めは訳が分からなかった。状況を理解するにつれ、どうして私だけが毎回不幸になるのか、普通に生きることさえ許されないのかなど、負の感情ばかりが浮かんできた。その夜は喉がかれるほど泣いた。自分の無力さが、やり場のないやるせなさが私の心を灰色に塗りつぶしていた。
それからは荒れに荒れた。私を育ててくれていた親戚は海外での治療を検討しないかと言ってくれた。けれど私はこれ以上迷惑はかけたくなかったし、何より生きていくことが辛かった。両親が唯一私に残してくれた命だからこそ精一杯生きてきた。それでも、神様ってやつは自分勝手で、現実はどうにも思い通りにならなくて、世界はきっと私が嫌いだった。
それから半年は大学病院で過ごした。病院での生活は窮屈で、食事も味気なかった。時折、同級生や部活動の仲間がお見舞いに来てくれることもあった。みんなが心配してくれるのはとても嬉しかったけど、同時に少し悲しくなった。来年の今頃には私の居場所はないという事実が、私の胸を酷く締め付けた。
3ヶ月経つ頃には頭痛と吐き気に悩まされるようになった。毎日続く酷い頭痛や吐き気に、何度も死にたいと思った。しかし、日本に安楽死の制度はない。腕に針を刺して液体を流し込み、惨めに生きていくしか無かった。
5ヶ月経つ頃には少しずつ手足が痺れるようになった。これがまた恐ろしく、自分の体が自分ではなくなっていく感じがした。最初の頃は自販機や購買など、病院内でも自由に動き回れた私だったが最近は専ら病室から出ることが出来ない。
その頃であった、母の弟、つまり私の叔父である人物から母の故郷に来ないかと誘われた。叔父は母の故郷の村で小さな医院をしており、私の状態を親戚から聞いて提案してくれたのだという。私はとても迷ったが母の故郷には行きたかったし、この鬱屈した白い部屋を出たいと思っていたので叔父に甘えることにした。
私は叔父の待つ医院に移った。初めて叔父を見た時に形容できない安心感に包まれた。言葉の一つ一つ、よれたTシャツにきっちりとした白衣を着た姿、私に優しく、それでいて悲しげに微笑んでくれる。私が懐くまでそう時間はかからなかった。きっと亡き母の面影を重ねているのだと思う。叔父はそんな私の気持ちをきっと知っているのだろう。優しい彼は幼くして母をなくした、姪である私を母の代わりに愛してくれているのだと思う。
それから私はこの医院で暮らしている。四畳半の狭い病室ではあるが不思議とあのただ広い白い部屋より居心地が良かった。叔父さんは他の患者さんがいない時は私のそばにいてくれる。たまの休みには車椅子に私を乗せて、村の中の色々なところに私を連れて行ってくれた。
ある時は紅葉を見た。青々とした緑色だった木々が朱に染まる化粧をする。さながら恋する乙女のような鮮やかな緋色は、私の悲しみを払ってくれた。ある時は雪を見た。東京にいた頃は見ることがなかった辺り一面の銀世界白く染った山々に、人の存在しない異質な光景。どこか別世界のようなそこは、私を排斥した世界とはまた違った存在に見えた。私の知らない世界は、私の知る世界よりもとてもとても優しかった。
そういった風景の一つ一つを大切に噛み締める私に、叔父は時折悲しげな視線を向けていた。それでも私が気づいてそちらを向くと、にっこりと優しいほほ笑みを向けてくれた。叔父は無口な人であったが、その不器用な優しさが私はとても嬉しかった。
そして現在、私は病室から桜を見ている。春になると咲き誇り、風に吹かれて散りゆく様はどこか親近感を覚えた。体はもう完全に動かず、耳もほとんど聞こえない。それでも確かに、窓の外を吹き抜ける柔らかな春の風の音を、私の手を優しく握ってくれる叔父の手のひらの温かさを、私は覚えている。叔父の方を向けば、目じりに涙を浮かべながら、いつものように優しく微笑んでくれた。私はゆっくりと微笑み返し、春の微睡みの中昼寝についた。
夢の中でお父さんとお母さんの間に挟まれ手を繋ぎ、私はスキップで桜並木を進む。
(叔父視点)
僕が彼女を初めて見た時、とても痛ましい気持ちになった。目に光がなく、この世の中全てに絶望しているかの表情だったのだ。姉さんと義兄さんも酷いことをしたと思う。姉さん達がいれば彼女がここまで追い込まれてしまうこともなかったと考えるほどに、辛い気持ちが込み上げてくる。あるいはもっと早く僕自身が彼女を助けるべきだったのではないかという自責の念さえ感じる。姉さんの代わりにはなれなくても、せめて僕だけは僕は彼女の理解者で、常にそばにいてあげようとそう思った。
彼女が僕の医院で療養するようになってから、僕は様々なものを彼女にみせた。彼女は表情がなく感情が分からない。僕にお礼を言ってくれたり、沢山話してくれるのだが笑うことなどがないのだ。余命を宣告されて辛いだろうに泣くことも無い。1度泣きたい時はないてもいいとは言ったが、彼女は「幸せです。」の一点張りだ。僕はどうにか彼女を笑わせてあげたかった。もみじを見た時、彼女はとても綺麗と言った。雪を見た時、彼女はこんなものは見た事がないといった。それでもいつも表情はなかった。僕はそんな彼女を見るのが辛くて、彼女に見つめられる時は愛想笑いをうかべることしか出来なかった。
終わりの日、彼女は桜を物憂げな顔で見つめていた。段々と目を閉じていく彼女に、僕は笑いかけることしか出来なかった。彼女が泣かないのに僕が泣く訳には行かないと思い必死に笑って彼女の手を握った。彼女は目を閉じる寸前、僕に笑いかけてくれた。僕は嬉しくて何度も彼女を揺すった。しかし彼女は何も反応をしない。柔らかな微笑みを浮かべたまま昼寝をするように眠りについたのだ。僕は彼女に何もしてあげられなかった。僕は涙をこらえることができず、その日は医院を休んでしまった。彼女の人生を思えば辛いだけの日々だったと思う。齢20もいかない少女に課せられた残酷な運命を嘆かずにはいられなかった。
今、彼女は姉さん達と共に小さな石の下にいる。どうか死後の世界があるならば、今度こそ彼女に優しい世界であって欲しいと、ただそれだけを僕は祈っていた。
久しぶりに投稿します。やはり文字を書くのは楽しいですね。医療が関わるお話ですが作者自身医療関係に疎いので矛盾点などがあったら申し訳ありません。