二者択一
始めのほう、その影を人間のものだとは三人の誰も思わなかった。これまでにこの巨大魚の死体の元へ集まってきたのがどれも怪物や動物だったから。ヒト型の怪物なんて、今どき珍しくもない。
「なんでしょう。サキュバス、インキュバス、ヴァンパイア、リッチ、ジャイアント、ボジャノーイ……」いくつもの名前をオリゾンは挙げたが、彼自身あの影がそのどれに該当するかはわからなかった。それに、少しばかり疑ってもいた。ヒト型をしているということはヒトに近い能力を持っているわけで、すなわち知能もかなり高いから、わざわざ平原に放置された死骸へ飢えを満たしに赴くとも思えなかった。
影は段々と近づき、するとその全貌が明らかになった。前話で明らかにした通り、これは<ウインドウ>の街娘である。シャンズンは自分の生まれ育った<コマンド>しか比較のための尺度を持っていなかったから、オリゾンやシャミテクスアは<ウインドウ>の規模を説明するのに苦労した。
「えー。人口は、<コマンド>の四倍」とオリゾン。
「広さは<コマンドの>四倍」シャミテクスアが続ける。
「建物の数も四倍」
「店の数も四倍」
「全部四倍なのか」シャンズンはおどろく。「なら、犯罪の数も四倍なのかい」
「御冗談を、シャンズン様」シャミテクスアが答える。「十六倍でございます」
そんな説明をされたものだから、シャンズンの心の中で形成された<ウインドウ>の風景は惨憺たる有様だった。街路樹は酒をかけられ枯れ果て、石畳の大通りはところどころ剥げ落ち、住人は目だけを光らせうつむき歩く。そうするのは誰とも目を合わせずに済ませるためで、というのも目が合ったら最後、彼らはどちらかが死ぬまで血みどろの闘争を演じなければならないのだ。演じる、というのは彼らが本心から望んでそんな愚かしい振る舞いをしているわけではないことを示す。そう、強制されているのだ。この腐った舞台に拉致された手足のない人形として……
「そんなことないよ」わっ。突然声をかけられ、シャンズンは身をすくませた。誰もいないと思って入った他人の家に他人がいたような感じ。わかるかなあ。不意をつかれた驚きをさらに強めていたのは、その声がまったく聞き覚えのないものであったこと。女声であったから、間違いなくオリゾンの原理不明の低声ではなく、かといってシャミテクスアの賛美歌の音程で奏でられる声でもない。じゃあ誰の。この人の。「こんにちは」
「これは、ご丁寧に。どうも」シャンズンはとっさに頭を下げる。そうしたことでまた発声源の顔を確認する機会は失われてしまった。とはいえ、そこまで焦るほどのことでもない。そうだ。いきなりではあったが向こうさんは「こんにちは」と言ってくれた。「こんにちは」の意味が<コマンド>からちょっと離れたこの地域でも同じであればの話だが、だいたいそれは昼過ぎくらいに交わし合う挨拶。相手への敬意と敵意のゼロを表明するための。そういう文化的な振る舞いを見せてくれた相手に対し、返事もせず、まじまじとその顔を見つめるというのはどうだろう。「えっ。この人。耳が聴こえないのかな?」なんて純真な誤解を抱かせてしまうか、もうちょっと現実的な想定をしてみるなら、「えっ。この人。頭がないのかな?」いや、見たらわかるでしょ。あるんだよ。ってなわけでシャンズンは自分が無遠慮に女の子の顔をじろじろ見つめる悪漢などではない、ということを示したくて、そのようにしたのであった。初対面の人にすら格好をつけたくなるのは、全生物のサガである。
……なんて言ってはみるものの、やっぱり気になるそのお顔。そろそろ拝見願わくば、面を上げる失礼を。ぱっ(これはシャンズンが顔を上げた際の効果音のようなものである)。あら素敵。
シャンズンに挨拶をしたのは女の子であった。これはもう、文章の中ではさんざん説明したことだから、そろそろ飽きがきたんじゃないかと思うしこないならこないで異常であるから通院をすすめるが、彼にとっては若干予想のついていたこととはいえやはり顔を見るのと見ないのとでは大きな違いが確固たる城壁のように存在していて、それを成し遂げた今やはりまたこの説明を繰り返さなければその心情を説明できはしないだろうと思うのである。
「このマグロ、あなたたちがやっつけたの」人、(ドクロの仮面をつけた)人、(なんとなく神聖な雰囲気をただよわせる)人。三人の顔を彼女は見つめた。どうせこのあとすぐ自己紹介するから、先に言ってしまうが、彼女の名前はナイテーンである。<ウインドウ>に生まれ<ウインドウ>に育ち、だいたいあと十分後に死んでしまう……もちろん、誰も助けなかった未来に過ぎないが。過ぎない、と決めつけてしまうのは、そりゃあこの場に誰もいないのならもう間もない彼女の死を嘆き、同情的になり、戒名を付けてもらうためのカンパを開始したりするのだろうが、ここには誰もいないということはなく、むしろいすぎて、そいつら(二人)がナイテーンを助けないはずはないから、過ぎないと書いたのだ。先の展開をあんまりばらしてしまうのはよくないのかもしれないが、あらかじめこういうことが起こりますよと司会者が言っておけば、ショーの内容がどうであれ、観客は「ああ。本当にそうだったな」という感想くらいしか持たないで済むのだ。なんと言ったって、期待はずれほど人の気分を害する感情もそうそうないのである。
「あー。うん。そうだね。わたしたちが倒しました」シャンズンはもうほとんど骨も残っていない(骨を食う動物なんて珍しくもない)マグロを見やった。「急に襲いかかってきたもんだから」
「そうなんですよ。いや、マグロが陸上に上がって人を襲うなんてえ。えー、世も末ですね」その原因がほぼ間違いなく目の前の二人にあるなんてことを、シャミテクスアは一言も漏らさなかった。余計な一言で大惨事を巻き起こす体験は、もう胃もたれを起こすほど天界でたっぷり味わっていた。
「あなたは、どうしてこちらへ?」シャンズンが訊ねる。
「いや、平原のど真ん中に怪物や動物が集まっているんですよ」ナイテーンの答えは至極常識的なものだった。「気にならないほうがおかしいでしょ」
「確かに、これはとっても目立ちます」周囲で動くあまたを見ながら、オリゾン。「空からすら見えるかもしれませんね」
「じゃあもしかしたら」とシャンズン。「上をぶんぶん飛んでるドラゴン。自分の餌が隠れる場所も何もない平原に選挙でもやってんのかってくらいどっさり集結してるのを発見して、襲ってくるなんて」笑。「さすがに、ないか」
あります。
唐突に、あたりが暗くなった。
「あれっ。もう日が暮れたのか」
「そんなはずはありません。まだ空は明るい明るいオレンジの」
「でも、暗いですよ」
「ああ、でも、たまにこういうことってありますよ」
「晴れてるのに雨が降ったり」
「そうそう。世の中には不思議なことがいっぱいあるもんなんです」
「ふうん。でもこれはあんまり不思議じゃないね」とシャンズン。指先を上の方。「原因がはっきりしてるもの」
こんにちは、という意味がどう考えても含まれていそうにもない咆哮が、一帯に響き渡った。
「わあ」とシャミテクスア。「マグロより怖いですね!」
ドラゴンとカラスの違い。
ドラゴンは空を飛ぶ。カラスも空を飛ぶ。
ドラゴンは肉食。カラスもまあ肉食。
ドラゴンは火を吐く。カラスは吐かない。
最後のポイントが重大だと教えた教師がいた。その教師は教室を去り校庭へ出た直後にドラゴンの鉤爪に襲われ死んだ。この痛ましい事件を教訓に、首都を中心に次のような標語が広まった。
「ドラゴンとカラスはぜんぜん違う」
「そういうのはもうちょっと早く教えてほしかったな」シャンズンはオリゾンに文句をつけた。「こんなふうになる前に」
今まさに、彼はドラゴンの鉤爪に捕獲されていた。怪物や動物がふだん暮らしているのは自然界であり、そこは人間界よりずっと厳しい環境だから、少しの判断の遅れが死に(誰かの生でもあるわけだが)繋がる。そして判断が正しくしかも迅速だったとして、それでも足が遅ければ結局誰かの腹の中。そういうわけでありとあらゆる生物は、第一に俊足を求めた。その念願は見事に叶い、ほんの十秒前まで仲良くマグロをつついていたなんたらドンとかなんとかゴンとかいう怪物も動物も、皆逃げ出してしまっていた。そして後には極めて足の遅い種族だけが残された。これがいわゆる、今日における人類である。
ドラゴンは燃え盛るような色のウロコで全身を武装していた。弱点としてもっぱら腹が柔らかいことが言われるが、このドラゴンのそれはぜんぜん柔らかそうではなかった。胴体から細長く伸びた首に接続された頭は、隙なく地上に残された三人を睨みつけていた。それだけで並大抵の生物なら威圧されてしまう。ドラゴンは生まれつき、生態ピラミッドの上の方(頂点ではないにせよ)に君臨することを運命づけられていた。堅牢なる皮膚は下位生物の貧弱な牙を逆に砕いてしまい、口から吐かれる高温のブレスは気に食わぬものすべてを炭に変えた。そんな強者のオーラとでも言うべき説明不能のなにかが、あらゆる生物の腰を砕きすくませるのだった。ナイテーンは恐怖にすくむ。
が、どうやら他の三人はその限りでないようだった。
「シャンズン様、今お助けしますぞ!」オリゾンは大声を張り上げた。彼がドラゴンの威圧にも屈しないのは、ひとえにその経験の故。どのスケルトンにも言えることだが、そういうふうになってしまうまでには、それはそれは語るも涙な背景があって、それはあまりにも長すぎ、とてもこの物語の中ではやってらんないような長演説を要求するのであった。
「気ぃ張ってくださいねー。ファイトお!」シャミテクスアも叫んだ。彼女がドラゴンの威圧に屈しないのは、ふだんからドラゴンなどよりずっと上の存在、つまり神々と接していたためであった。いくらドラゴンが強靭で凶暴だろうと、神々の横暴とわがままには敵わない。もーほんと、嫌になるくらい、彼女はそのことを理解していた。
「おー。みんな、よろしくねー」シャンズンも威圧には屈していない。彼がそう振る舞える理由は、単に無知であるためだった。実際ドラゴンがどれほど恐ろしいのか、彼は十分の一もわかってはいないのであった。
オリゾンは弓を構える仕草を見せた。もちろん、形だけであり、実物の弓を引いていたわけではない。<矢>には多様な発動経路があり、選択するものによって、実際に力がどのように表現されるのかは全く異なる。適当に指を指して唱えるだけなら、放たれるのはちょっとヤケドを負うくらいの威力。しかし今のオリゾンのように、しっかりと弓を引くように詠唱するならば、
「そりゃっ!」鋭く叫んで手を放す。とたん、今までは不可視であった力の蓄積が可視の矢となり、輝く赤い尾を空中にただよわせドラゴンの土手っ腹目指し突き進む。命中。ドラゴンが咆哮したところを見るに、なかなか堪えたらしい。
「おっ。すごいな」シャンズンは目をみはる。「ここからだと空が近く見える」もうじき夕方。
シャミテクスアもオリゾンと似たような形態の魔術を発動させようとしていた。ただし彼女のそれは<矢>ではなく「<槌>です」だそうである。
大きく振りかぶって振り下ろす。その若干大げさとも思えるパントマイムからは、彼女がイメージしている<槌>が常識はずれなほど大きいことが窺われる。空中を飛ぶドラゴンの頭に届くほど。
クリティカルな衝撃がドラゴンを襲った。やたらと大きい悲鳴を上げ、地上へ落下。それに伴ってシャンズンも落下。ひゅう。下でオリゾンとシャミテクスアが待ち構え、彼がぐしゃぐしゃにならないよう最大限の努力を見せる方向で調整。少し離れたところではまだへたり込んでいるナイテーンがいる。
と、突風。びゅー。するとシャンズンもびゅー。大幅に落下地点がずれ、それはつまりオリゾンやシャミテクスアの腕の中ではなく、ナイテーンの頭の上。そう、本当なら彼女はここでシャンズンの尻に頭を潰され、なんにもわからないうちに死んでしまうはずだった。しかし先述したように、そうはならない。なぜならここに、頼りになる仲間が二人もいるのだから。
「きゃー危ない!」シャミテクスアはとっさに<鞭>を発動。シャンズンは東へぶっ飛んだ。おかげでナイテーンは初対面の変なやつに圧死される憂き目を見ずに済んだ。
一方のシャンズン。これは死んでしまった。残念だが仕方がない。また地獄から帰ってきてもらおう。なにか一つを得ようと思うなら、もう片方は諦めなければならないのだ。