見よ落下堕天の空降る黄色
夜が明けた。
シャンズンはその前から起きていた。今日の旅立ちを思うと、眠れなかったのである。
この村にいたのは十年と少し。流れ者の子供に、村人たちはずいぶんと優しくしてくれた。あるいは、そんな親の子供だからこそ、であったのかもしれない。どちらにせよ、感謝の気持ちに変わりはない。本当は、一軒一軒訪ねて礼を言いたかった。これ、つまらないものですが、どうぞ、と言って、あの殺意充填壜を手渡したかった。が、オリゾンとシャミテクスアとレーテレーテの全員に猛反対されたため、やめた。
「行くか」誰へともなく、シャンズンはひとりその言葉を口に出した。再びここへ戻ってこられるだろうかと、不意にこみ上げた不安をかき消すようにして。
「西に、<ウインドウ>という街があります。街ですから、当然村よりは大きいわけで、つまり、この<コマンド>より、ずっと栄えているのです」オリゾンが古びた地図に人差し骨を突きつけて言う。「まずは、ここを目指しましょう」
「行ったことのない場所だな」シャンズンはうなずく。「ま、他のどの村にも街にも行ったことがないんだから、当たり前だけど」そしてシャミテクスアを振り返った。「君はこの街を知っているのだろうね。天使なんだし、天使ってことは天界にいたってことなんだし、天界にいたってことは地上が全部お見通しってことだから」
「いいえ、全然知りません」あっさり否定するシャミテクスア。ありゃ? 「わたしは一番低い階位の天使で、そういう天使たちは地上を眺めるひまなんて与えられなくて、ずっと雑用をこなさなければならないのですよ」そして遠い目をする。「ああ、あのときはほんと大変だったなあ……」
「ねえ、もしかして」シャンズンの胸中にわかに湧く疑惑の雲。「仕事がいやだからわたしのとこへ来たの?」
「えっ。まさかあ」笑ってシャミテクスアは首を振る。ぶんぶん。ぶんぶん。「まさかあ。まさかあ。まさかあ」ぶん。ぶんぶん。ぶんぶんぶんぶん。
「いや、いや。いいんだけどね」あんまり首を振るものだから、ポロっといっちまうんじゃないかと心配して、慌ててシャンズンが言う。「とにかく、目的地は<ウインドウ>だね。西にあるのか」サンズンは村の地図を頭に浮かべた。西へ出る道には、ちょうどドリューアの鍛冶屋があった。
「そうだ。ドリューアがなにか作ってくれるって言ってたな」昨日の会話を思い出し(それは今まですっかり頭から抜け落ちていた。なにしろ天使やレーテレーテ……)、シャンズンは二人に言った。「昨日、約束してくれたんだよ」
「ほう、シャンズン様がいきなり家の屋根をぶち破ったときですな」オリゾンが上に目をやりながら言った。そこにはまだぽっかりと穴が空いていた。やれやれ、出発の前に修繕しなければ……
「わたしがトマトまみれになってたときですね」そう言うシャミテクスアからは、まだあの青臭い匂いが漂っていた。その証拠に、ちょっと彼女と他の二人との間には距離がある。
「出発、出発」シャンズンが口ずさみながら家を出る。「ドリューアの家へ」
「おう、お前か」汗に光るドリューアの目元には、くまが出来ていた。
「あれっ、まさか徹夜で?」シャンズンはおどろく。「そこまでしてくれたんだ」
「おれは不器用だからな。ゆっくりやらなきゃ、まともな剣一本作れねえんだ」そう言って傍らの剣を取り上げた。「ほら、お前専用の長剣よ」
「わあ」シャンズンはおそるおそるそれを受け取った。なんの装飾もないが、むしろそれが作り手の施した意匠のように思えた。つまり、感想は。「かっこいい!」
「ガキかよ……」と口では言うも、ドリューアはまんざらでもない。
「保証書はいらねえな? おれが端正込めて作った剣だ」ドリューアはにやり。「絶対に折れるはずがねえ」
「うん。わたしもそう思うよ」ドリューアが投げてよこした鞘に剣を収めながら、シャンズンも言った。「あなたは、最高の鍛冶屋だ」
「ふん、二番目ではあるかもしれんがな」ドリューアは首を振った。「絶対に最高ではありえねえよ」
「え、なんで?」
「師匠がいるからな」
「師匠?」シャンズンはドリューアをまじまじと見つめた。この老練のドワーフに、師匠だって? 「初耳なんだけど」
「初めて言ったからな」ドリューアは懐かしむような顔をしていた。「お前が旅を続けるなら、ひょっとしたら、どこかでばったり出くわすかも知れねえな……」そしてすぐ真顔になり、言った。
「殺されるんじゃねえぞ」
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「ドリューアさんが最後に言ったのは、どういう意味なんでしょうねえ?」村のなかを西へ進みつつ、オリゾンが訊いた。
「え、怪物や悪人に殺されるな、って意味じゃないの?」シャンズンは頓狂な声を上げる。
「いやいや、あの文脈では、ドリューア様の師匠に殺されるな、という意味でしょう」オリゾンは首を傾げている。傾く頭蓋骨。「そんなに凶暴な方から、鍛冶を学んだのでしょうか……」
「まあ、善人ばっかりが武器を求めるわけではありませんからね」地上から数センチ漂いながら、シャミテクスア。「少々の荒っぽさが、鍛冶屋には必要なのかもしれませんよ」
「じゃ、ドリューアが言ったのは」シャンズンははっとした。「わたしの人相が悪いぞ、ってことなのか」
「存外、そうかも知れませんな」オリゾンの目はいたずらっぽく光る……目はないけど。「いつ……ときどき、わたしはシャンズン様がおっかなく見えます」
「今、いつもって言おうとしたでしょ」シャンズンの鋭い声が飛ぶ。そして小声で続ける。「実は、わたしもそう思ってるんだ」
「あ、みなさん」シャミテクスアの声で、二人とも前を見た。延々と続いていた家々が、唐突に途絶えていた。「いよいよ旅立ちですね」
「シャンズウウウン!」突飛な大声。三人とも、思わず振り返った。「わあ」シャミテクスアは感嘆の口調。「豪華なお見送りですね」
村の全員がそこにはいた。老若男女が一斉に彼の名を呼んだのだ。だから彼の耳が今もちょっとじいんとしているのは無理のないことであった。「わっ。みんな来てくれたの」シャンズンは感激し、ひとりひとりの顔を見て。名前を呼んだ。
「リース、ガゲ、ゲイグエ、シウ、サラウ、ゴエイエ、ナアル、アイウ……あっ、ごめん。ちょっと、ど忘れ……アイゲ、ウハニ、シルバンサウリ、ネクスハグリュシ、オポロギョンネ、パピエルルユ、ヤンソランシ……ごめん、忘れた……イイウウエ、ゲバンコンゾン、ルロロツロツオ、ローシンハイツ、ピュピュビュネン、シャシュリョウシャ、キキタユラン、メーメコエンマ……えっ、だれだ君は」ちょっと記憶にない者もいたが、とにかく全員に向かって彼は叫んだ。「ありがとう。じゃあな!」
「シャンズン!」やんややんやの声が一段落したところで、レーテレーテの声が飛んで、ついでにマントと仮面も飛んだ。「おおっと」なんとかキャッチ。「ありがとうレーテレーテちゃん……でも、これは?」
「はあ、はあ。オリゾンさんに」息をはずませて答える。「だって、はあ、スケルトンが、はあ、歩いてたら、すん」途切れ途切れながらも、シャンズンにはわかった。「そうか。確かにそうだ。いくらわたしと一緒にいるからって、危険を感じる人がいるかもしれないしね」
「レーテレーテ様、恩に着ます」オリゾンは大声で礼を言い、早速もらった二つを身につけてみた。「どうですかな、シャンズン様、シャミテクスア様」そう感想を訊ねた顔が被っているのは、ドクロを模した仮面であった。
「う、うん」シャンズンはしきりにうなずく。「似合ってるよ。うん。すごく。うん。ものすごく。」
「わあ!」シャミテクスアはもうちょっと挑戦的な感想を告げた。「元とあんまり変わりませんね!」
大勢に声をかけ、かけられ、喧騒のうちに三人は村を出た。すこぶる天気のよい日であった。
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「おい、天気がいいとかいったのは誰だ!」シャンズンは叫んだ。叫びながら走っていた。さっきまでの快晴ぶりが嘘のよう。「暴風及び雷雨。これのどこがいい天気なんだ!」
「誰もそんなこと、言っておりません!」オリゾンもその横で走っている。あんなに乾いていたマントはもうずぶ濡れだ。
「もう、こういう日くらい天気にしてくれたらいいのにい」シャミテクスアは不満げに言った。「神様のばかっ」
そのとたん、雷が落ち、それは彼女の翼に直撃した。
「きゃあ」悲鳴をあげくずおれるシャミテクスア。「熱いよう。熱いよう」。純白の翼が中途で焼け焦げ、黒ずんだ断面を顕にして。
「おいっ、だいじょうぶか」シャンズンが駆け寄る。
「これのどこがだいじょうぶに見えるんですか。ああ、きっと天罰なんだ。勝手に地上に降りたりしたから……でも、もうちょっと労働時間の削減を……」
「そんなこと言ったらまた雷が落ちるぞ」
案の定、再度の落雷。今度はシャミテクスアの心の臓めがけて、「きゃ――」声にならぬ悲鳴。「あああ」オリゾンものともシャンズンのものともつかぬ怒号。まばゆい閃光が平原に満ち、降りしきる雨粒のひとつひとつに反射した。地を這う獣、空を飛ぶ鳥のすべてが一瞬、動きを止めた。
「……あれっ」シャミテクスアは目をぱちくり。「わたし、生きてますか」
「ええ、あなたは生きております。しかし――」オリゾンはため息をついた。「また、シャンズン様が……」
シャミテクスアは自分の腹部に載っているものに目をとめ、仰天した。「わっ、えっ、これっ、あっ、あのっ、じゃ、じゃあ、これが……」息を呑む。「シャンズン様……?」
「はいどうもこんにちは毎度おなじみシャンズンでございますいやあ最近めっきり日が暖かくなりましてえ」相手の無反応に、舌はまわるのをやめた。「あっ、いや、えっとお、ううん、こんにちは」シャンズンの目の前にいるのはディライティである。
「……ひとり、天使が降りてきたでしょ」鋭利なボイス。思わずシャンズンはのけぞった。「えっ、あっ、う、うん。降りた。降りました。シャミテクスアっていう天使が。それがどうかしたの」
ため息をつき、ディライティは首を振った。「いや、なんでもないわ……」
「そ、そう?」なんでもない、と言われては、もうシャンズンにはどうしようもない。一段と此度の空気は重苦しいし、さっさと地上へ帰ることにした。ゲオゲオゲゲオゲオゲオゲゴエ。ちょうど、ケルベロスの吠え声も聞こえるし。
干からびた地面を(言うまでもなく、地獄はドライアイにとって地獄のような環境だ)を駆けて行き、いつものように糸へ手をかける。猿すら嫉妬を覚える早業で昇り始めると、ディライティが声をかけた。「シャンズン」
「ん、なに」
「あのこ……いや、その天使」
「シャミテクスア?」
「ええ、その天使に」(ここでちょっとためらう)「どうか、優しくしてあげてね」
「わたしは誰にでも優しいよ」もうシャンズンは地上へ頭を半分出していた。「……ま、だいたいの人には」そして何十回目かの脱出を果たした。
「あーんあん、シャンズン様が死んじゃったよお」しくしくと、遺骸に取りすがってシャミテクスアは泣いていた。「わたしは守護天使なのにい。守護天使が、守護すべき人を死なせちゃったよお。あーんあん」
「シャミテクスア様、何度も言いますが」彼女のあんまり悲しむので、自分がしっかりしなければと思い冷静さを取り戻したオリゾンがなだめていた。「シャンズン様は、死んでも死なないのですよ」
「ええ、ええ。わたしたちの心に生きてる、って言うんでしょう」それでも泣き止まない。「でも、現実にいなくなっちゃったら寂しいよお。あーんあん」
「参りましたな」オリゾンは頭蓋骨をかく。「天使はどうやれば泣き止むのでしょう」
「肩を抱き、こう言うのだ。『だいじょうぶ、きっと君の求める人は帰ってくるよ』」
「なるほど……って、そんなことしたらわたしが消えちゃうじゃないですかあ」と言ってから、やっと一行前のセリフの発言者の正体に気づいた。「しゃ、シャンズン様!」
「よう」ぷすぷすと音を立てていた肉塊はいつの間にか生気を取り戻し、若干髪は焦げているものの、元通りとなったシャンズンがそこにいた。「また帰ってきたぞ」
「わっ、シャンズン様が生き返った」シャミテクスアは飛んで喜ぶ。「わぁい、わぁい。奇跡。ミラクル。神様ありがとー!」
その様子を天界で見ていた神は仰天。「なんだ、あの人間は」目が惑星ほどにもまんまる。驚愕のあまり、自分のしたことを説明口調でしゃべりだした。「おれの雷を喰らって生きているのか。たとえ若干の不死性があろうと――ヴァンパイアだろうがフェアリーだろうが、問答無用で絶命させる雷だぞ」
「いいえ」傍らの熾天使も呆然としている。「確かに死にました。しかし、蘇ったのです」
「おい、そこの智天使!」神が大声を出したので、真後ろを歩いていた智天使はひっくり返った。「は、はい?」
「つい一分前、新しく死んでここへ来た人間はいないか」
「はあ、ええっと」最新情報が勝手に更新される手元のリストを幾枚もめくったのち、首を振る。「いません。一分前に死んだのは蛙と羊と牛だけです」
「天界じゃない」神は無意識にあごひげを引っ張り始めた。焦ったとき、彼はいつもそうしていた。「すると、地獄か」顔をしかめる。「いやだな、あいつと顔を合わせなきゃならない」
「しかし、確認しないわけにはいかないでしょう」熾天使が諭す。「これは一大事です」
「わかっておる」ため息をつき、神は地獄行きの支度をするよう百の天使に命令した。一応、天と地獄とは対立していることになっているから、手ぶらで行くわけにもいかない。「あー、めんどくせえ」それから、熾天使のほうを振り返った。「おい、あの人間の名前はわかったか」
「はい」熾天使はうなずく。「シャンズンという名前だそうです」
「シャンズン……シャンズンね」神はまた深々とため息をついた。「きっと夢に出るぞ」