さっさと出発しろ
「……なんだ、これっ」そう言って咳き込むドリューア。手に持ったランタンが恐ろしげな影を投影する。「埃だらけじゃねえか」
「昨日開けたのが十年ぶりくらいだったんだよ」ゴホゴホしてるシャンズンには右腕がない。失われた片腕の現在の持ち主はレーテレーテ。「旅を諦めるまで返しません」とのこと。ははは。……いや、笑えないぞマジで。
シャンズンの(厳密に言うとシャンズンの両親の)家の床、一見してなんの変哲もなさそうであるが、実のところ変哲はあった。ドタドタその上を駆けまわってみると、ドスドス、ドスドス、の後、とすとす……という、あれっ、元気ないね? って感じのサウンド。明らかに下があることの証明。シャンズンの両親はそれの存在を彼に教えなかった(三歳児に教えることは無理だったろう)が、彼らの旅立ちののち五分後、あっさりと幼児シャンズンに発見されるところとなった。
「たぶん、そのとき吸った埃がマズかったんだろうな」当時を振り返るシャンズン。足は冷たい階段の上。「だからこんなにパーになっちゃったんだ」
「埃のせいにするのはよくないな」とドリューア。「お前は元からそんなんだったんだよ」
「あっ、そう?」びっくり顔のシャンズン。「それを聞いて安心したよ。これからは堂々と開き直れる……」言うが早いか叫んで駆け出す。典型的な狂人のポーズ。で、階段の上でそれをやったもんだから、案の定大転倒。だいたい三十段くらいをゴロゴロと転がってった。あらら血が出た。
「痛っい!」階下の埃溜まりでシャンズンは嘆く。「走るんじゃなかった」
そんな彼の目の前に広がっているもの。ガラクタの集合体のように見える。あの陰から飛び出た細長いのは? 足元に絡まるヘビのようなひもは? さっぱり、シャンズンにはそれぞれが元々どういう用途であったのかが窺い知れない。
「キャットオナインテールだ」降りてきたドリューア。「お前の足に絡まってるヤツ」
「は?」汚いものを触るかのように(じっさいかなり汚かった)人差し指と親指でそれをつまみ上げるシャンズン。「なにそれ?」
「鞭だよ鞭」なんでそんなに無知なんだ? とでも言いたげなドリューア。「ほう、ヒドラの皮が張られているな」
ランタンの中心に灯った炎――レーテレーテがシャンズンの髪につけたやつを拝借――が照らす。その鞭の表面には歪んだ水たまりのような模様。彼にはそうとしか見えない。なんでこれがヒドラの皮なの。
「ヒドラには頭がいっぱいあるだろ」それくらいは知ってるよな、って感じのドリューア。知ってるよと不満げなシャンズン。「切り落としてもまた生えてくるんでしょ。あの水辺に棲んでる怪物」切断面に火をつける必要があるのだ。彼はそのことをよくわかっていた。というのも、テニスに火をつけられてから、思いっきり背中を蹴っ飛ばされ、燃え盛る砲弾のように突っ込み……
「引き延ばされているだろう?」シャンズンには見えないものが見えるドリューアは、その鞭の先端部を指差す。えっどこ? 「この部分で首が分かれているんだ。つまり、そこから剥ぎ取られた皮ってことだな」ふーん。「ヒドラの皮には毒があるから、こういう鞭にするにはもってこいだな」ふーん……えっ。
「触っちゃいましたけど?」シャンズンは左手の親指と人差し指を確認。あれっ、ない! 下を見るとぐずぐずに崩れた肉が見える。おー……あれか。
「なにやってんだ、馬鹿」さんざん言われて聞き慣れた罵倒をいま一度。するとやっぱり慣れないもんで、それなりにシャンズンは傷つく。が、いまもっと傷ついてんのはこの指だ。「教会行って治してもらえよ」それはご勘弁……
「役に立つ武器を探してくれるんじゃないの」指がデフォルトから減少した左手を眺めながら、シャンズンはつぶやく。「このガラクタ山のなかから」
「ガラクタだと? これがガラクタに見えるのか」ドリューア呆れる。「お前の両親はなんにも教えてくれなかったんだな」
「ま、それはそうかも。父さん母さんから教えてもらったのは……」とっておきの自虐を披露。「避妊の大切さくらいのもん」笑えドリューア。
「あそこにもなにかあるな……」おい無視か。ドリューアは壁際へ近づく。どこもかしこも埃をかぶって、これが雪だったんならもうちょっときれいだったんだろうけど、もしそうだったらこの部屋はもっと寒かっただろうから。でも、埃と違って咳き込む羽目にはならないだろうし……
「剣だな」ドリューアがシャンズンを呼んだ。地面を埋め尽くす種種の武装に足を取られまいとして歩き、やっとこさで接近。「ショートソード、ロングソード、ツーハンデッドソード、シミター、ファルシオン」シャンズンにはわけのわからぬ名前の羅列。そもそもあの夜、彼がショートソードを携えて行ったのは、それくらいしか彼の知っている武器がなかったからなのだ。
「えーっと、それ、なにが違うの?」首をかしげて尋ねる。「名前の長さ?」
「マジでなんも知らねえんだなお前」ドリューアは呆れを通り過ぎ……るとなにがあるんだ? ま、とにかくそんな境地。宇宙人を見るような目でこっちを見ている。
「いや、いや、ごめん。だけど、わたしべつに鍛冶屋ってわけじゃないし。詳しくなくたってさ、しょうがないんじゃないのかな」比較的説得力のあるような言葉を口にしてみる。
「でもお前、この村を出るんだろ」とドリューア。「だったらこれくらい覚えとけ」そうして解説を始めてくれた。
なんだかんだ言っても、ドリューアはシャンズンのことを心配しているに違いない。この村の宿屋<スノーボール亭>の二階、VIPルームで着床したシャンズンが十何年前に産まれたとき、そして数年後彼の両親が三歳児とスケルトンを置いてまた旅に出たとき。その両方の朝を、ドリューアはいまでもくっきり、絵に見るように思い浮かべることができる。どうして? ……さあ? 彼は基本的には寡黙だから、自分の考えとか心情をべらべら喋りはしない。それでも、彼に子供がいないところとか、幼いシャンズンがずいぶんと彼を慕っていたあたりから、ま、わりと正確に、その思いを推測することはできるだろう……
「……ってわけだ。覚えたか?」ドリューアの目の前に目を閉じたシャンズン。「……おい」額をこずく。どてん、と麻痺を喰らったコボルトのようにひっくり返った。鈍い音響かせ石の床に頭を打撲されてから、ようやくシャンズンは目覚めた。
「おれの話聞いてたか?」
「えあ、はい、はい、聞いてましたよ」特大のたんこぶをいたわりつつ、ほつれまくった記憶の糸を繰り出す。「えーっと、ショートソードは短くて、ロングソードは長くて、ツーハンデッドソードは重くて、シミターは曲がってるんでしょ」満点だよねって、って感じの自信に満ちた解答。
「……ま、いいだろう」うさんくさそうな表情だけど。「なにも知らないよりマシだ」
「で、わたしに似合うやつはあったかい?」
「ない」即答するドリューア。「この部屋にあるのはどれもこれも、一癖も二癖もあるようなやつばっかりだ。お前の両親の趣味が知れるな」そんなこと言っても、ぼそりと、おれは好きだがな、なーんてつぶやくのは忘れない。そういうとこあるんだよね。
「じゃあ、どうしよう」不安そうにつぶやくシャンズン。まさか徒手ですかい? 「それをやってのけるには、ちょっと毒持ちが多すぎだよね」これ以上指を溶かしたくはないし。
「おれが作ってやる」あっさりと言うドリューア。
「ええ、いいの」
「それなら安心だしな」
「あら、他の鍛冶屋は信用できないと? 馬の骨の武器なんて? そんなんに大事なシャンズンくんは預けられないと?」
「ぶん殴るぞ」と言ったときにはもう手が出ていた。言うまでもないが、鍛冶屋の腕力とは相当なものであり……
「ぎゃー」と叫んで一挙に地上へ。シャンズンは星のごとくぶっ飛ぶ。ママー、あれえ。幼子が空にぷっくりした人差し指を向ける。あら、一番星? 今日は早いのね……
「なんか最近、やたらこんな目にあう気がする」落下しつつシャンズンは考える。地上の景色はぐんぐんと。ミクロからマクロへ継ぎ目なく。「先が思いやられるな」ぐしゃっ。
この音はべつに彼が破裂した音ではない。そのころ地上では犬と子供がトマトを投げて遊んでいた。トマトは食べ物だし、食べ物を投げるのはあんまりよくないんじゃないか。そう考えた物理を司る神により、トマトはありえない軌道を描いて東へ飛んだ。あぜんとする一匹と一人を尻目に、ぐんぐんと高度も速度も上がってく。その速度は音を越えた。だからぐしゃっ、という音が聞こえたときに、もうそのトマトはなにかに当たっていて、その被害者は天使だった。中空にいた天使。
「あれっ?」ぶっ飛ぶシャンズンにも彼女の姿が見える。「今日の行き先は違うのかな」あの世って日替わりなのか? それはまずい。地獄の勝手はだいぶわかってきたけれど、天国にはまだ一度も行ったことがない。もしそこに連れて行かれたらどうやって脱出すればいいんだろう。シャンズン考える。すぐにひとつの解法を発見。あっ、下に降りればいいのか。だって天国って上にあるし、地獄は下にあるし。下にある地獄から脱出するためには上に行けばいいんだから、上にある天国から脱出するためには下に行けばいいんだよね。あーかんたん。これくらいの謎は解けなきゃだよね。
「こんにちは!」元気いっぱい、笑顔いっぱい、教会で見せられる図画とはまるで違う天使。なんとまあかわいらしいことよ。純金のような髪が風にされるがまま。やっぱり実物を見なきゃわからないもんだ。
「天使さん? わたしを連れて行くのですか」シャンズンは尋ねる。落下しながら発声したもんだから、声は風に邪魔されて散り散りだ。「それはちょっと困るんだけど」
「あー! そんな他人行儀な!」えっ、なにこの人。シャンズンは怪訝そうな(というか怪訝そのものの)目。他人行儀なのは当たり前じゃないか。どこの世界に普段から天使と喋ってる人がいるんだ。高位の聖職者かジャンキーくらいのもんでしょ。
「わたしはあなたの守護天使なのですよ」光輪と白い羽の彼女。「あなたが産まれたときから、ずっと」手を下に組んでもじもじ。「もうちょっと、馴れ馴れしくしてもいいのですよ?」
「きみが? わたしの?」シャンズンは頭がくらくらしていた。高度千メートルから落下しているんだからそれも当然だ。「それって、あの、びっくりだな……」
天使とは……神によって生み出された、羽と光輪を持つかわいい女の子のことである。(世界辞書二四〇〇ページより)
その定義によれば、いまシャンズンの目の前にいるヒト型生物は、ばっちり天使のようである。それは彼にもだんだんわかってきた。が、なぜそんな天使がいま降臨したのか、守護天使というのは本当か、検討することはできなかった。なにせ、もうちょっとで土気色の地面へ……だからシャンズンはとりあえずの願い事を口にする。
「助けてくんない?」
「お安い御用!」
細腕に見合わぬ大力(わたしのまわりってマジでこんな人ばっかり……)で、激突の四コマくらい前、シャンズンは地上数メートルで静止した。シャンズンにとって初めての飛行体験だ。いままでに体験したものは全部落下だったから。
「サンキュー。助かったぜ」背後の天使へ声をかける。「名前はなんていうの?」
「はい。シャミテクスアと申します」そう言ってにっこり。「シャンズン様の旅に同行するため参りました」
「え、ホント?」彼の目はまんまる。自分の決断が、まさか天界にまで影響を及ぼしていたとは。そこまで大げさにするつもりはなかったんだけど。「そのためにわざわざ来てくれたの?」
「そうですよ」ゆっくりと地上へ。シャンズンは無事五体満足(じゃないけど)で生還。「詳しく説明しましょうか」
「じゃ、わたしの家へ」とシャンズン。「そもそも、わたしはそっからぶっ飛んで来たんだよね」
「わっ、シャンズン様。そちらの方は……?」驚愕のオリゾン。思わず身構えている。ひょっとしたら触れられるだけで昇天しかねないからだ。
「天使の、シャミテクスアだって」シャンズンが紹介する。「あ、わたしの守護天使ね」
「オリゾンさんですね。よろしくお願いします」
「はあ、守護天使……」オリゾンはまだ遠巻き。骨が粒子になって、ちょっとずつ浄化されているように見えるのは気のせいか? 「すごいですな、シャンズン様。守護天使が降臨するなんて。歴史に鑑みてもほとんど……」
「珍しいんだね」
「珍しいってもんじゃありません。いやしかし、羨ましいですな。わたしの守護天使はいったいなにをやっているのでしょう。こんな骨の身体になっても、ずーっと黙っておられる……」
「あ、オリゾンさんの守護天使は堕天しました」世間話の気軽さで、あっさりとシャミテクスアが言う。「横領が原因で」
「横領」抑揚なくオリゾンが繰り返す。「それなら、ま、仕方ありませんな……」
「わたしの旅に付いてきてくれるんだってさ」念を入れて再確認。「だったっけ?」
「ええ、ご一緒させていただきます」笑顔のシャミテクスア。いままでずっとその表情が変わることはなかった。石膏像みたい。
「すると、敬語のヒトがふたりになるなあ」シャンズンはつぶやく。「ややこしくないかな? それって」