必修科目の結末
「お姫さまってわけじゃあないけれど」勘違いを正すテニス。「とにかく、月に帰らなくちゃなんないの」
特別開講、シャンズンと学ぶ文法の基本その一。「だれが?」対象の開示は基礎中の基礎。
「わたし以外にだれがいるのよ」
そのニ。「いつ?」まさか今日ってことはないだろうがもしかすると今日かもしれない予定を尋ねる。
「明日の真夜中よ」
その三。「どこで?」ひとりだけ別大陸のパーティー会場へ行きかねない。
「すぐそこの砂浜」
その四。「どうして?」もしもの時、裁判で有利。
「期限が来たからよ」テニスのため息。「あっという間ね」
その五。「どうやって?」まさか歩いていくわけじゃあるまい。
「迎えが来るらしいわ」
「テニス様、それはほんとうですか」オリゾンが訊く。「月へ帰るというのは」
「ええ、そうよ」
「じゃ、もうシャンズン様をいじめることは……」
「残念ながら、できなくなっちゃうわね」嘆息。「まだまだ弱っちいのに……」
「シャンズン様、よかったですな!」オリゾンはまた歓喜。頭蓋骨でどうやってそんな表情を作るのか。「もうあなたは蹴られたり踏まれたり殴られたり切られたり刺されたり焼かれたり溺れたり……」エトセトラエトラセラ。「……たりされずに済むのですよ!」
「オリゾン、なにを言っているんだ」シャンズンは一喝。「わたしはまだまだテニスちゃんに教わらなくちゃいけないことがたくさんあるんだぞ」
「しかし、また地獄に行く羽目になったらどうするのです?」
「蜘蛛の糸を登るさ」
「仏の顔も三度までと言いますぞ」
「じゃ、あの糸を垂らしてるのは仏じゃないんでしょ」
「シャンズン様……そんなにテニス様のことがお好きなのですね」オリゾンは諦めてうなずく。
「ええっ」動転するシャンズン。「いまさら気づいたの?」
「……とにかく」テニスの咳払いに二人は振り返る。「そういうわけだから、じゃあね」立ち去った。
「……オリゾン、聞いたか」とシャンズン。
「ええ、聞いておりました」オリゾンはうなずく。
「迎えが来るらしい」シャンズンは月を睨む。ただ柔らかな光をくれるだけだと思っていたその天体が、急に敵意を抱き始めたかのように思える。「そいつらをなんとかすれば……」
「テニス様は帰らずに済む、というわけですな」
「忙しくなるぞ」
「腕が鳴りますな」
「さんざんいじめ抜かれた成果を」シャンズンは息巻く。「テニスちゃんの目の前で披露するチャンスだしね」
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海は静寂。表面には波ひとつ立たず、ただ浜辺の砂をさらう音だけが聞こえる。頭上を見やれば百万の星が見え、その中心に堂々と月が構える。これだけ空には輝きがあるのに、夜が昼より暗いのはなぜだろうか……
同一人物の足跡が、砂浜に道を作っている。作り主の名はテニス。はるかな世界を旅した風がその頬をなでる。ぶるると身震い。その風はとても冷たかった。約束の時刻まではもう少し。とくに後悔は胸にない……はずだったのに。シャンズンったら、どうして家にいないのかしら? けっきょく夜になってももぬけの殻。見送りは……? そう思ってしまう自分に破顔。なにを期待していたのかしら?
来訪は唐突だった。月がひときわ輝いたかと思うと、一筋の光を放射し、それはまっすぐテニスのもとへ伸びていく。もうちょっと目立たないやり方をすればいいのにとテニスは思う。月の民は派手好きは変わらない。そりゃそうでしょうけど。たった十年じゃあ……
この光はレールである。迎えはこの道を辿ってやって来る。光は極めて優れた移動手段で、月の海と海の間も数秒で移動できる。月の光は弱々しく見えるけれども、より集めればこんなにも明るい。まるで千年蜘蛛の糸のよう。その糸はミスリルなどより硬いともっぱらの評判なのだ……
フラッシュ。目の前が真っ白に。流石に派手すぎない? きっと<コマンド>にまで届いちゃったんじゃ……「久しぶりね」再び目を開くと、そこにいるのは見知った顔が数十。十年前テニスをよこしたのと同じメンバー。律儀なことね。意味は、まあ、ないんでしょうけど。みな白い衣をまとっている。汚れなき白。
「お迎えに参上しました」わかりきったことを先頭の者は言う。「さあ、テニス様……」
どうやらここがわたしの出番。右手には殺気充填壜――バジリスクの毒腺とハオウスズランの雫とコカトリスの息とヘイゲンサソリの尻尾のアレとエンマグリセリンダケの引火性胞子と……その他もろもろポイズンまみれの内容物! シャンズンは思いっきり月の民のもとへそれをぶん投げ……てから後悔。
「あっ。テニスちゃんのこと忘れてた」顔面蒼白。「やべえ、殺しちゃう」
「これくらいで死ぬお嬢さんでないってことは」傍らにいるオリゾンはニヤリ。「坊っちゃんが一番よくお分かりでしょう?」
「そういやそうだ」自分の杞憂に大笑いのシャンズン。「よし、行けぇ!」
今後十年この海岸を使えなくした犯人とは、この二人であった。
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おおむね無理のない軌道で飛んでった壜。白い浜辺にゆうゆうと着地(着弾、といったほうがいいかも?)。ただちに爆発。地上に現出した阿鼻叫喚。致死性の煙がもうもうと立ち昇り、百代に渡ったヤドカリの家系図はいま途絶えた。しかし、月の民までがそうなったわけではない。
数十人のうちだれかが、何人かが、<破風>の呪法を口にする。これはいわゆる霧散らし。せっかくシャンズンがあちこち駆けずりまわって調合した猛毒も、あっという間に雲散霧消。身を守るためだけならふつーに防護の呪文でもいいんじゃないの? とはそれを上から見ていた名もなきツルの感想。けれどこんなまわりくどさこそ、月の民が月の民たる由縁なのだ。少なくとも彼ら自身はそう信じ切っている。
「あれえ?」断末魔ひとつ聞こえぬ静寂の浜。不審がるシャンズン。「声も出さずに逝ったのか?」
「シャンズン様……」事態をいち早く察したのはオリゾンだ。「ちょっとマズいような気がします」
「マズいって、どんなふうに?」
「気づかれました」言うが早いか、彼は身をかがめる。ちなみに二人がいるのははるかな背後の岩の影。海岸にはよくあるヤツ。だから向こうさんからは見えるはずないよねって、安心しきっていたのだが。
前方確認。いや見るべきは上空。赤青緑、無数の<光矢>が降ってくる……
「わあ、きれい……」危機に瀕してなお恍惚とさせる美麗さ。月の魔法は地上のそれとはまるで違う体系をとっている。詳しく解説してやりたいが、しかし、いまはちょっとそれどころじゃない。
「シャンズン様~!」骨の手でオリゾンはぼけっと突っ立っている彼を影に引きずり込む。そのとたん巻き起こる無数の光の炸裂。岩がバターのように削れていく。「やばいやばい!」シャンズン叫ぶ。「ちょっと予定の想定外!」
あそこだ、あそこだ! なんて侵入者発見時の紋切り型のセリフが、はるかな前方から聞こえてくる。ええっ、こんな距離からバレちゃった? シャンズンはいまさらながら、自分の見立てがどうしようもなく甘かったことに気づく。どのくらい甘いのかって、膵臓が血を吐くくらい、アリがゲロ吐くくらい。とにかく甘い。こんなものはゴミ箱に捨て、回収業者の思うに任せよ。
「えーと、こんなときはどうするんだっけかな……」シャンズンはこちらへ駆けてくる――そのスピードは異常に速い。加速が付呪されてんのかと彼は思ったが、実のところ、まったく素の足力であった――月の民を岩越しに確認しつつ、記憶を辿る。思い当たる。「そうか、逃げるんだった」さあ砂浜のランニング。用意はいいか? 「老体には堪えますな……」フライングしたのはオリゾン。だがもちろん、こんなシチュエーションに用意されたレギュレーションなんてなし。
<月光><日輪><流星><分離>……魔道士なら垂涎モノの、地上ではめったに見られないような魔法が次々と二人に向かって繰り出される。それに対して彼らがとれるのは、ただ走って逃げるというだけ。アウストラロピテクスにも劣る対抗手段だ。
「魔法が使えたら、って」呼吸を忘れるほどの逃走のなか、シャンズン。「このときほど思ったことはないよ」
「えー、はっ、わたしもです」呼吸器など見当たらないオリゾンもゼエゼエ。「生き延びられたら通信教育を受講しましょうか」
「そりゃいい」とシャンズン。「希望があるってのは、いいもんだね」
そんな言葉を吹き飛ばす<大爆発>。「あーっ!」四肢も五臓六腑も東西南北にぶっ飛ぶのをシャンズンは感じる。……うーん、ここまでひどいのは。シャンズンの最後の思考。
六回目ってところかな?
「二十一回目よ」昨日ぶりの地獄へようこそ。ディライティは呆れ顔。「ほんと、普段なにしてんの……」と言い終えたとき、シャンズンはもう蜘蛛の糸の天辺
「悪いねー、ディライティちゃん」シャンズンは腕を動かしながら叫ぶ。「いまちょっと急いでんのよ。今度来るときはもうちょっとゆっくりできる気がするから。うん、じゃ、よろしく」
「何者なんでしょうか」月の民(いい加減くどい書き方だとは思うが、しかし他に言い方が思いつかない)のうちの一人が、テニスに尋ねる。「もう、欠片もなくなっちゃいましたけど」
「……さあ?」テニスは無感情に努めている……つもりらしいが、どうにも隠しきれない嬉しさが声にはある。「酔っぱらいかなにかじゃない?」
「酩酊者が、あんな凶悪な調合できますかね?」むむむと唸る。「あとちょっと気づくのが遅ければ、我々みなタダでは済まなかったでしょう」背中に鳥肌が立つのを彼は感じる。
「……さ、邪魔者もいなくなりましたし」そう言って手を月の方へ。光はあの喧騒の間もずっと輝いていたが、今一度回帰した静寂のなか、それは光度を増している。「お帰りください」それに続いて他の民も、
「お帰りください」
「お帰りください」
「お帰りください」
「お帰りください」
「あんたらが」
「お帰り……え?」うろたえる七人目。「ちょっといま、変な声が交じってませんでした?」
「はい」飛び散った部位は空へと結実し、上空からの帰還と相成るシャンズン――「わたしの声です」いつだって奥の手はポケットのなか。「それでは引き続きどうぞ!」壜の在庫は盛りだくさん。
もう十年、海岸は使えなくなってしまった。
ちなみにオリゾンがなにをしているのかと言うと、地獄でケルベロスにしゃぶられていた。
「あんたは新顔ね……」ディライティはつぶやく。
「シャンズン様~!」切なる悲鳴も地上の彼には届かない。
その彼は現在絶賛大立ち回り中。実際月の民は丸腰で、近づいてしまうとほとんど無力であった。それでもずば抜けて高い身体能力により、なすすべなくやられるわけではなかったが……
「あなたがた、茹ですぎたジャガイモみたいすね」秘伝のショートソード(地下室のチェストの)をぶんまわしながら、シャンズンは言う。「あっ、歯ごたえがないって意味で」
「テニス様~!」月の民の泣き言。呪法を唱える暇も与えられない。シャンズンの壜が彼らを殺すことはなかったものの、色々と悪いな状態にしてしまったことは確かだ。本来の力の半分の半分も発揮することができない様子。
「月の人なんでしょ?」テニスは体育座りでそれを見ている。「ほら、シャンズンなんかに負けてどうするの」
「知り合いなんですか? テニスさ……ああっ!」失神する民。麻痺の付呪はまだまだ健在。たしかに、このショートソードは地下室で埃まみれだった……
「静電気とは別原理なんだろうけど、まっ」剣を一振り砂を払い、右手で額の汗を拭う。「どうでもいいよね」もう立っているもののいないことに気づいたのはそのときだった。そして座っている彼女に気づいたのもそのとき……「テニスちゃん!」
「シャンズン」立ち上がるテニス。「やっぱり、ちょっとはマシになったのね――」シャンズンへ近づくテニス。拳を振り上げるテニス。……って、えっ、テニスちゃん?
「……おぉぅ」みぞおちに隕石が突っ込んだかのような衝撃。シャンズンは砂浜にくずおれる。理由を尋ねる声も声にならず喉元で消える。
「……あのね、シャンズン」テニスちゃんはこちらを見ない。見ているのは月だろうか。「帰るのが、いやっていうわけじゃないのよ。わたしがその気になれば、こんな迎え、どうとでもできるはずじゃない?」そりゃそうだ。違いない。でも、わたしは――「帰るわ、シャンズン」
うつむくシャンズンはなにも言えない。主に痛みのせいだがみぞおちの痛みばかりではない。きっと地獄に落ちて生き返っても治らないであろう痛み……「でも」およっ? シャンズンは顔を上げた。いつの間にかこちらを向いていたテニスと目が合う。
「きっと来てね……」ゆらりと浮き上がるテニス。月から伸びていた光と重なる。月光を背にして神々しく彼女は飛ぶ。あらら、とうとう神様になっちゃったよテニスちゃん――「月へ」
そして消えた。まわりに転がっていた月の民もろとも。あとにシャンズンと、割れた壜と、知られず死んだ百のヤドカリの死体だけを残して。
ようやく立ち上がったシャンズンは、海へと歩いていく。自殺するつもりだった。
まったく、世話の焼ける執事だぜ……