消えたエクレア
しかし、物語はここでは終わらなかった。
「……ん? あれ……ここ……」
気づいた時、エクレアは例の神社の境内に立っていた。
辺りは霧がかかったように真っ白で、周りの様子はよく分からない。
「えーっと……あたし、なんでこんなところに?」
昨日は、改名の申立書を出しに行き、その後遅刻して学校に行って、伊織とルウの3人で一緒にテスト勉強した後、家に帰って寝たはずだった。
間に色んな人に怒られた記憶があるが、それは今はどうでもいい。
問題は、昨日はきちんと自分の家の、自分の部屋のベッドで寝たはずなのに、どうしてこんなところにいるのか、だった。
よくよく自分の格好を見てみると、パジャマのままだった。
もしかして、寝ぼけてこの神社まで来てしまったのか、自分には夢遊病でもあったのか、と思って慌てて帰ろうとした、その時だった。
「やぁ。久しぶりだね」
いきなり、声をかけられた。
男とも、女とも聞こえるような、不思議な声だった。
エクレアは振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「えっと、誰?」
「わたしは、わたしだよ」
「いや、誰だよ」
思わずつっこんでしまった。
だが、声の主は面白そうに、
「わたしは、わたしとしか言えないんだ。わたしには、名前が無いのだから」
「名前が、無い?」
「ああ。だから、君に、お願いがあってきたんだ」
エクレアは、この名無しの存在の喋り方に、どことなく覚えがあった。
昔、どこかで会ったような、そんな気がしているのだが、思い出すことはできなかった。
「君が、名前を捨てる時がついに来たね」
「ん? ああ、そうだけど……」
「わたしは、この時をずっと待っていたんだ」
名無しの存在は、なぜか嬉しそうだった。
「君が捨てる、絵久珍という名前を、わたしに」
「絵久珍!! そろそろ起きなさーい!!」
ドテッ
エクレアはそんな音を立ててベッドから転がり落ちた。
痛む体を労わりながらゆっくりと起き上がると、そこは自分の部屋だった。
「なんだ、夢か……」
顔を洗ってリビングに行き、朝食を食べる。
そして制服に着替えて、鞄を持って家を出た。
彼女のいつも通りの朝だったが、いつもと違う所もあった。
鞄に、神社で拾った御守りがついていた。
どこからともなく現れた不気味な御守りだが、少なくとも顔も見たことが無い自分の兄の幽霊に襲われるよりはマシだろうと思って、裁判所に行った後もつけっぱなしにしていたのだった。
そのおかげなのか、あれから不思議なことは起きていない。
昨日は無事に裁判所に行けたし、その後家でおかしな事も起きていない。
例の看板が落ちてきた日以降、道を歩くのが少し恐くなってしまっていたが、あれからは特に何も起きていなかった。
いたって平和なものだ。
あとは申請の結果を待つだけで、全ては解決したのだ。
そう思うと、すがすがしい気分になった。
普段は学校に行くのが嫌で嫌で仕方なくて、登校中は体がとても重かったが、今は思わず駆け足になるぐらいに軽い。
なんならスキップしてもいいぐらいだ。
まぁ、もしそんな所を伊織に見られたら思わず死にたくなってしまうので、そんなことはしないが。
ドキッ
伊織の事を考えた途端、自分の胸から、そんな音がした気がしたエクレアだった。
同時に、自分の顔が熱くなっているのを感じた。
いやいやいや。
無い無い。
ブンブン頭を振る。
いくら伊織が、子供の時に仲良かった男の子で、王子様で、自分のことを助けてくれたとは言え、そういう感情では無い……と思う。
モヤモヤした気持ちのまま学校に着き、教室までやってきて彼女が最初に見たものは、
「このクッキー、すっごくおいしい!」
「姫野君、すごーい!」
「いや~大したことないよー」
女の子達に囲まれて、だらしなくデレデレした顔をした伊織だった。
例え恋していたとしても100年の恋も冷めるというものだ。
「これはちょっとコツがあって、隠し味に……あ、エクレアちゃん! おはよー!」
そんな伊織がエクレアに気づいて、手をブンブン振ってきたが、無視して彼の隣の自分の席に座った。
「何? 感じわるーい」
「せっかく姫野君が挨拶してるのに」
伊織自身は特に気にしていなさそうだったが、周りの女子たちがそんな事を言ってきた。
他人からの陰口には慣れているが、伊織絡みで言われるのはあまり経験のないことだった。
「エクレアちゃんも食べる? 僕の作ったクッキー」
「いらない」
そのせいか、いつもよりちょっと言い方が冷たくなってしまっていた。
「そっか。まだいっぱいあるから、欲しくなったら言ってね」
言われた側はそう言って笑って、再び女の子たちの方に向き直った。
ちょっぴり罪悪感を抱きながら、鞄を置き、本を取り出して読み始めた。
そこに菜々美が登校してきて、伊織の所に女子たちが集まっているのを見ると彼らの側に寄ってきた。
「あ、伊織君。何それ? クッキー?」
「おはよう。藤村さん。はい、どうぞ」
彼女は受け取ったクッキーを口に運んだ。
「あ、すごくおいしい。これ、どうしたの?」
「昨日、家に帰ってからちょっと作ってみたんだ。料理研究部のみんな用の分もあるよ」
「うーん。さすがね、伊織君。私の作るやつよりおいしいかも」
周りの女子が猫なで声で、
「あー姫野君と結婚したら毎日こんな料理食べれるのかなぁ」
「それいいねー。姫野君、私と結婚しない?」
「ちょ、ちょっと! 伊織君が困っちゃうでしょ! やめなさいよ!」
なぜか、菜々美が必死になって他の子たちを止めていた。
一方で、伊織はと言えば、
「あははは。いやー困っちゃうなぁ」
実に、だらしない顔をしていた。
そのだらしない顔を見たエクレアは、非常にムカムカした。
◇ ◇ ◇
エクレアのムカムカは、残念ながらそこで終わりはしなかった。
放課後、なぜか伊織は鞄を置いたまま、周りの目を気にしながらコソコソと教室を出て行った。
「…………」
そんな様子を見ていたエクレアは、その怪しい行動が無性に気になったので、後を付けることにした。
伊織はどんどん階段を登っていき、いつもエクレアが昼食を食べている屋上にたどり着いた。
辺りをキョロキョロ見渡し、誰もいないことを確認すると、フェンスにもたれかかってスマホをいじっていた。
エクレアは屋上へと続く扉の前で、扉の隙間から伊織の様子を伺っていたが、下の階から誰が階段を登ってくる足音が聞こえてきたので、あわてて階段に脇にあった掃除用具入れに隠れた。
誰かはそのまま、扉を開けて屋上へと足を踏み入れた。
「あ、伊織君待たせちゃってごめんね」
藤村菜々美だった。
エクレアは、掃除用具入れから音を立てないように出て、こっそりと屋上の会話に聞き耳を立てていた。
「ううん。それより、用って何?」
どうやら、彼女が伊織をここに呼び出したらしい。
とても嫌な予感がする。
放課後に、人気の無い場所に女の子が男の子を呼ぶ出す理由なんて、そうあるとは思えなかった。
「伊織君……その……今付き合ってる人、いないんだよね」
「い、いないけど……」
エクレアは、自分の嫌な予感が的中したことを確信した。
「佐藤さんとも、何とも無いんだよね?」
「……えっと……無い、です……」
確かに無いのだが、はっきりと無いと言われるとそれはそれで面白くなかった。
「わ、私……伊織君のこと、好きなの!」
そう、彼女は叫んだ。
「その……もうすぐテストだし、なんならもうすぐ受験の時に、こんなこと言ってごめんね。でも、その……伊織君と、一緒の高校行けたらいいな、とか思っちゃって……」
普段のしっかりした彼女からは考えられないくらい、しどろもどろになっていた。
なんだか、聞いてはいけない物を聞いている気がしてきていた。
「だからその……私と、付き合って欲しいんだけど……」
最後の方は、ほとんど消え入りそうな声だった。
「あーっと……」
伊織は、何と言うか考えているようだった。
エクレアは、断れ、断れ、断れ……と念じていた。
「えっと……ありがとう。嬉しいよ」
嬉しそうな、伊織と藤村さんの声が聞こえてきた。
これ以上、聞いていたくなかった。
エクレアは、音を立てないように、その場から離れた。
◇ ◇ ◇
「あれ、エクレアちゃん。まだ残ってたんだ」
「…………」
伊織は、屋上から鞄を取りに教室に戻ってきた。
そこで、あの後同じく鞄を取りに戻り、帰ろうと教室を出ようとしていたエクレアと鉢合わせることになった。
「そうだ。今日も一緒に勉強していこうよ」
「……断る。っていうか部活あるんじゃないの」
さっきの事があって、エクレアの態度は刺々しい。
おまけに、伊織の顔がちょっと赤かったのが、余計に腹立たしかった。
一方の伊織は彼女がなぜ不機嫌なのかわからなかったので、不思議そうな顔をしていた。
「テスト前だから、もう部活は休みだよ。一人で岡田さんの勉強を見るのも大変だから、一緒に来て欲しいんだけど。……彼女、元々頭良いのに全然勉強してなかったみたいだから教える事多くて……」
また別の女か。
エクレアは心の中で舌打ちした。
「知らない。だいたい、彼女と一緒に勉強するのは、お前が勝手に約束したんだろ。あたしには関係無い」
そう、冷たく突き放したが、伊織は戸惑ったように、
「……まぁ、そうなんだけど……ほら、彼女、エクレアちゃんの件でも協力してくれたしさ」
「だから、あたしには関係無い」
自分でも意地になってしまっているのはわかっていたが、もう引っ込みがつかなくなっていた。
そのまま、走り出そうとしたが、伊織が彼女の腕を掴んだ。
「どうしたんだよ、エクレアちゃん。らしくないよ」
彼にしては珍しく、いつもとは違って、真剣な目をしていた。
「らしくない? お前に、あたしの何がわかるっていうんだ」
そんな事、本心で思っていたわけではない。
だが、売り言葉に買い言葉で咄嗟に口から出てしまっていた。
そんなエクレアを見て、伊織は悲しそうに、
「もう、自分の悩みは解決したからって、そんな事言うなんて……エクレアちゃんは、そんな事言う人じゃないと思うよ」
「うるさい! バカ!」
叫んで、伊織の手を振り払って、まっすぐ家に走っていった。
家に着いて、そのままベッドに倒れこんだ。
「バカ……バカ……!!」
その言葉が、伊織に対してなのか、自分に対しての言葉なのか、彼女自身にもわからなかった。
◇ ◇ ◇
「……ってことがあったんだよね。エクレアちゃん、どうしたんだろう」
「ふむ」
昨日に引き続き、オカルト研の部室で、伊織とルウはテストに向けて勉強をしていた。
それ自体は約束していたことだが、その途中、伊織は今日のことを話していた。
いつの間にかルウは伊織にとって良き相談相手になっていたのだった。
「私の想像するにそれは……」
「それは?」
「女の子の日だな。男の君にはわからないと思うが、急にイライラしてしまうものなんだ」
「岡田さん、初対面の時から考えると信じられないくらい印象が変わったよね」
隠れていたポンコツな部分がどんどん表面化しているとも言える。
「そ、そうかい? そんな事を言われると、ちょっと照れてしまうな……」
何を勘違いしているのか、顔を赤くしてもじもじしていた。
「……まぁ、岡田さんのそういう所、いいと思うよ」
少なくとも、中二病全全開のミステリアスキャラよりは接しやすい。
「そういえば、稲妻の子の御守りは、まだ彼女が持っているのかい?」
「うん。あれのおかげで、幽霊に悩まされずに済んでるみたいだよ」
「そうか……いや、神社に突然現れたという御守り、ぜひ詳しく調べてみたかったんだがね」
確かに、緊急時だったのであまり気にできていなかったのだが、冷静に考えると不気味な事この上ない代物だ。
「あの御守り、一体何なんだろう。どうしてあそこにいきなり現れたんだ?」
「私の想像するにそれは……」
「それは?」
「あの神社に祀られている神が、彼女の真摯な願いを聞き届けて、御守りを授けたって所じゃないかな」
オカルト関係になると急にまともな事を言い始めるルウだった。
「神様ねぇ……」
ルウの説明を聞いても、伊織はあまり納得していなかった。
「何か、腑に落ちない所があるかい?」
「あの神社を訪れる人が何人いるかわからないけど、その人たちの願い全部をそんな風に叶えているなんてことはありえないでしょ? なんで、エクレアちゃんだけ特別扱いなのさ」
伊織の疑問に、ルウはしばらく考えていたが、
「ふむ……彼女、幽霊に邪魔されたりしていたりと、オカルト関係と縁があるようだからね……そういう物を引き寄せやすい何かがあるのかもしれないね」
そういうものなのか? と伊織が首を捻っていた。
「明日こそは、彼女を連れてきてくれるかな。少し、聞きたいことがあるんだ」
「エクレアちゃんが素直に来てくれたらね」
◇ ◇ ◇
その日の夜。
「あれ、またここ?」
いつの間にか眠っていたエクレアは、気づいたらまたしても真っ白な例の神社の境内に立っていた。
「やあ。今日も来てくれたね」
「またあんた?」
またしても姿は見えないが、昨日と同じ不思議な声が話しかけてきた。
「あたし、何でここにいるの?」
「君は、わたしの力の一部を持っているからね」
「力の一部? それって……もしかして、ここの神社ってことは……」
思い当たる節が無いわけではない。
「あの、御守りのこと?」
「ああ、そうだよ。あの御守りは役に立っているようだね」
エクレアは驚いた。
あの御守りをくれたのがこの謎の声の主ならば、正体はおそらく。
「もしかして、あなた神様?」
「この神社に祀られている存在、という意味ならそうなるよ」
あっさりと言われて、慌てて頭を下げた。
「えーと……ありがとうございます。あなたのおかげで、幽霊に邪魔されることなく、改名の申請ができました」
それを聞いて、神らしき存在は笑ったような声を出した。
「構わないよ。わたしは、あまり現世には干渉できないのだが……わたしにも、望みがあるからね」
「望み、ですか?」
神にも望みなんてものがあるのかとエクレア考えていた。
「ああ。何、大したことじゃない……君の、『絵久珍』という、君が捨てる予定の名前を、わたしにくれないか?」
「な、名前を?」
それが、あまりにも意外な物だったので、思わず聞き返していた。
「ああ。君にとって、もう、それは必要のない物だろう? わたしは、その名前が欲しいんだ。もちろん、タダとは言わない。君の願いをわたしが叶えてあげよう」
「…………」
「何、難しいことは何も無い。君が『譲る』と言えば、それで事は済むんだ」
自分にとっては、『絵久珍』という珍妙な名前は、間違いなく嫌で、憎くて、不必要な物だ。
親にも、親戚にも、クラスメイトにも、誰にもこの名前で呼ばれたくない。
ただ、一人だけ、この名前で呼んでもいいと思っている人間がいる。
もし自分がこの名前を捨てたら、彼はもう自分のことを『エクレア』と呼べなくなるのだろうか。
そう考えたが、今日の教室での彼のあの女子たちに囲まれて緩み切った顔を思い出した。
そして、屋上での菜々美の告白を思い出した。
………………。
あいつ、散々自分に気があるような事を言っていたのに……何が王子様だ。
「ええ、こんな名前でよかったら、あなたにあげますよ」
そんな顔を思い出したせいか、イライラして思わずどうでもいいや、と思ってしまい、そう言ってしまった。
それを聞いた謎の声は、嬉しそうな声で、
「ありがとう。君の願いは必ず叶えよう」
少し後悔が襲ってきたが、まぁ、いいだろう。
だが、長年の悲願だった改名申請を済ませた自分には、願いと言えるような物はすぐには思いつかなかった。
何を願おうかと思ったが、気づいたら自分の部屋にいた。
ベッドから起き上がり、時計を確認した。
まだ、夜の7時過ぎだ。
5時過ぎに帰ってきたから、眠っていたのはだいたい2時間といったところか。
両親はまだ、店の方だろう。
明日の仕込みもあるので、しばらくはこっちには戻ってこないはずだ。
冷蔵庫から用意されていた夕食を取り出し、レンジで温めて一人で食べ、その後は風呂に入り、9時前には再びベッドに横になった。
なんだが、今日は疲れている気がする。
いつもよりも、ちょっと体を動かしただけで体力が消耗しているように感じる。
本当はテスト勉強をしたかったが、また明日にしよう。
そう考えた彼女は、そのまま再び眠ることにした。
今度は、例の神社には行けなかった。
◇ ◇ ◇
ピピピピピピ……
携帯のアラームが鳴り、手を伸ばして枕元に置いてある携帯を取った。
時計を確認すると、7時20分。
いつも通り、起きる時間だった。
この時間、両親はもう店の方で開店の準備をしている。
たまに起こしにくることもあるが、基本的には自分で起きないといけないのだ。
眠い目を擦りながら用意してあった朝食を食べ、着替えやら学校へ行く準備をしていたが、
「あれ?」
ふと鞄を見ると、御守りが無くなっていた。
もう改名の申請はできたのだから、必要無いと言えば必要無いのだが……元々突然現れた物だ が、無くなる時まで突然だとは思ってはいなかった。
何とも言えない気持ちになりながら、店の方へ行った。
別に家を出るのにわざわざ店の方に行かなくても裏口から出る事はできるのだが、昔から親に学校に行く時は表から出るように言われているのだ。
そこで見たものは、店の中央で血だらけになって倒れている両親だった。
「え? ……は?」
エプロンも、服も、全身が真っ赤になっている。
「父さん……母さん……!!」
正直、ふざけた理由でこんな名前を付けられて、嫌いだと思ったことも、憎いと思ったことも何度もあるが、死んで欲しいと思ったことは無かった。
「エク……レア……」
「父さん!! 大丈夫!? 一体何があったの!?」
息があったことに少しほっとしたが、父親は、こちらの方を向いていなかった。
何かうわ言のように呟いていた。
耳を父親の口元に寄せてみたが、
「ごめ……ん……エク……レア……」
そう言って、気を失った。
何を今さら謝っているんだ。
そう思ったが、今はそんな恨み言を言っている場合では無い。
慌てて救急車を呼んだ。
「瀬戸南町のエクレールSATOです! 両親が血だらけで倒れていて……!」
「ご両親の意識はありますか?」
「ありません!」
「わかりました。あなたのお名前は?」
「あたしは、娘の佐藤×××……」
……あれ?
「すみません、もう一度お願いできますか?」
「佐藤×××……」
名前が、言えなかった。
◇ ◇ ◇
両親は救急車で搬送され、病院で緊急手術を受けることになった。
病院の手術室の前で待ちながら、考えていた。
細長いシュークリームにチョコを乗せたお菓子はなんだ?
「エクレア」
言えた。
じゃあ、自分の名前は?
「佐藤×××」
やっぱり言えなかった。
「どうなってんだ……」
彼女が、しばらくそうやって頭を抱えていたら、いきなり声をかけられた。
「あなた、佐藤さんの娘さん?」
見ると、二人の男性が側に立っていた。
小太りの男と、背の高い男の二人だったが、小太りの男の方が警察手帳を出しながら、
「警察です。今回の事は、明らかに事件のようですからね。お二人を襲った犯人について、心当たりはありますか? 誰かに恨まれていたりだとか、誰かとトラブルがあったとか」
犯人、か。
一応考えてみたが、両親からそんな話など聞いたことが無い。
心当たりなどあるはずなかった。
「そうですか……しかし現金や貴重品などが盗まれていなかったようなので、強盗ではなさそうなんですよね。怨恨絡みでなければ一体どうして彼らが襲われたんでしょうか」
そう言われても、困ってしまう。
戸惑っていると、さっきからじっとこちらの目を見ていた背の高い方の刑事さんが助け舟を出してくれた。
「これ以上は、やめましょう。この子も、両親が大けがをして混乱している所でしょうから」
小太りの刑事は不服そうな顔をしていたが、彼女はほっとしていた。
感謝の意を込めて少し頭を下げたが、向こうは笑って、
「私も、君と同じくらいの息子と娘がいるからね。まぁ、あの子たちは私なんかがいなくても大丈夫だろうが……」
そう言って、刑事さん達は去っていた。
それから数時間後。手術は終わったようだが、まだ両親の意識は戻らないらしく、面会もできなかった。
行く当ても無かったが、気が付いたら学校に足が向いていた。
昨日の事もあって、来たくなかったし、誰かに頼りたいと思っているわけではないが、学生の性というやつかもしれない。
時刻はもうすでに夕方になっていて、下校する生徒たちとすれ違いながら校門をくぐった。
そういえばまたしても無断欠席になってしまっていたことに気づいた。
受験も控えているので内申点に響きそうだなと少し落ち込んだが、まぁ緊急事態だったから多めに見てくれるだろうと前向きに考える事にした。
そんな事を考えていたら、校舎に入ったところで担任の先生が廊下を歩いていた。
思わず走り寄って頭を下げた。
「先生、無断欠席しちゃってすみません。ちょっとうちで事件があって、連絡ができなかったんです」
「おお、そうか。大変だったな。それはいいんだが……」
先生はこちらの顔を見て戸惑ったような顔で、
「えっと、すまん。君、名前なんだっけ? うちのクラスにいたっけ?」
「は?」
何を言ってるんだこの教師は。
自分のクラスの生徒の顔も忘れたのか?
「いや、佐藤ですけど……」
「ああ、佐藤か……え? 佐藤? うちのクラスの佐藤は君じゃないと思うんだが……」
「……え?」
嘘をついているようには見えなかった。
この先生は、本気で自分のことがわからないのだ。
嫌な予感がした。
困惑している先生を放り出し、走り出した。
もし、彼まで自分のことをわからなかったら……。
そう考えるだけで、胸がしめつけられるようだった。
彼がどこにいるかわからなかったので、当てもなく走っていたが、途中で見知った顔に出会った。
「藤村さん!」
菜々美は教室から出るところだった。
友人たちと一緒に帰るところだったらしい。
呼び止められて、振り向くと不思議そうな顔で見ていた。
「藤村さん、伊織がどこにいるか知らない?」
「伊織君? わからないけど……」
菜々美は戸惑った様子で、
「あなた、誰? 伊織君とどんな関係?」
明らかに警戒していた。
伊織に近づく新しい女とでも思っているのだろうか。
「あ、あたしは佐藤だけど……」
「佐藤? 佐藤さんならうちの学年にいっぱいいるけど、佐藤誰?」
……どう考えても、自分の事を知らないようだった。
名乗ることができないが、そもそも名乗っても通じるかわからなかった。
「伊織君、周りに変な女の子にばっかりだし、これ以上変な子増えないで欲しいんだけどな……」
どうやら前から変な女の子だと思われていたらしい。
「そういえば、姫野君なら、さっき森君達に呼び出されたとかでどこかに行ったみたいだけど……」
後ろにいた女の子の一人がそんなことを言ってきた。
森という名前に残念ながら聞き覚えが無かったが、どうやらクラスメイトだったらしい。
「バスケ部の森? うちのクラスの? なんであいつが伊織君を?」
「ほら、あいつ菜々美の事狙ってるっぽいし、姫野君のこと気に入らないんじゃない? ちょっと締めてやろうってことかも」
「ちょ、なんでそれを言わないの!?」
藤村さんが友人に掴みかかっていたが、そんなことに構っている余裕は無かった。
聞いた瞬間、走り出していた。
料理研究部の部室や、体育館や、他の教室など学校中の様々な場所を探し、最後に屋上にやってきた。
そこで、伊織が、傷だらけで、フェンスに寄りかかって倒れていた。
「ちょっと、しっかりして!!」
慌てて傍に寄って、ふと気づいた。
もしかしたら、伊織も自分の事をわからないかもしれない。
そんな恐怖に襲われていた。
「ん……?」
目をつぶっていた伊織が目を開けた。
「君は……?」
それを聞いて彼女は、目の前が真っ暗になったかのように感じた。
「……ああ、なんだエクレアちゃんか。今日休んでたみたいだけど、どうしたの?」
しばらく放心していたが、その呑気な声に怒りが湧いてきた。
涙を流しながら、力無く伊織の頬をビンタした。
呆然とする伊織の顔を見て、ようやく安心し、そのまま抱き着いた。
「……えーっと……なにこれ。ご褒美? 僕、何かしたっけ?」
「うるさい。黙ってろ」
しばらくそのままぎゅっと掴んで、離そうとしなかった。
◇ ◇ ◇
「いやー藤村さんと別れろ、これ以上近づくなって言われたけど、そもそも付き合ってすら無いんだよね。勘違いだって言っても聞いてもらえないし、まいっちゃったよ」
「何やられっぱなしになってんだ。逃げろよ」
『付き合っていない』という言葉に実はとてもほっとしていて、同時に詳しく聞きたかったのだが、今はそれどころでは無かった。
「向こうも3人がかりだったからねー。ありゃどうにもならないよ。僕みたいなモヤシ男一人相手に、大げさだよね」
伊織の傷を、水で濡らしたハンカチで拭きながら、
「……あたしの名前を、呼んでくれ」
「……どうしたのエクレアちゃん。ちょっと前まで、名前を呼ぶなって言ってたのに」
もっともな話だったが、それには答えず、
「……あたしのこと、わかるよな?」
「年齢は15歳。誕生日は7月1日。趣味は読書。好きな物はお菓子。好きなパンはカレーパン。スリーサイズはまだ教えてもらってないからわからない」
「教えるか、バカ」
いつものふざけた調子に、正直かなりほっとしていた。
この男にまで、自分のことを忘れられていたら、世界で自分が一人になってしまった気分になっていたかもしれない。
そんな様子に、伊織はわけがわからないといった顔をしていた。
「エクレアちゃん。何があったの?」
「あたしが知りたいよ」
力無く、答えた。
「朝起きたら両親が誰かに大怪我させられてたり、自分の名前を言えなくなったり、みんながあたしの事をわからなかったり、何が起きたらこんなことになるんだよ」
「…………」
伊織はしばらく考え込んでいたが、ふいに立ち上がって、
「とりあえず、行こうか」
「どこに?」
「困った時のオカルト研」
「お前、ほんとにあそこ好きだな」
呆れたように答えた。
だが、とりあえず他に行く当ても無かった。
◇ ◇ ◇
「ふむ……」
ルウは、二人の顔を見比べながら、首を捻っていた。
「君が、本当に、佐藤さんなのかい?」
「そうだけど……あなたにもあたしがわからない?」
それを聞いてルウは難しい顔をしていた。
「わからない……というべきなのかな。少なくとも、私は佐藤絵久珍という人物の事を覚えている。プリンセスと仲が良く、名前のことで苦しんでいて、先日ようやく改名申請ができたということも覚えている。……だが、君の雰囲気が私の記憶の中の、佐藤絵久珍とは一致しないんだ。……顔は、一緒……だと思うんだが。別人だと頭が認識してしまっている」
彼女も、わけがわからないようだった。
「でも、この子は間違いなく僕のエクレアちゃんだよ」
「誰がお前のだ」
どさくさに紛れて変なことを言った伊織にはしっかりつっこんでおく。
「君がそう言うのなら、おそらくそうなんだろう。私は少なくとも、佐藤絵久珍という少女に関しては、私の認識よりも君の判断を信じるよ」
随分な信頼関係だ。
「一つ考えられるのは……君という存在が、何者かによって奪われたということだ」
「存在が?」
「奪われた?」
存在が奪われるなんて言われても、どういうことなのか想像し辛い。
ルウはポケットから手帳を取り出すと、絵を描き始めた。
へたくそな人型の絵を描いたと思うと、その絵の上に『絵久珍』と書いた。
「これが、『佐藤絵久珍』という存在だ。この存在の中身、心の部分には、君が入っていたわけだ」
人型の真ん中に、○を描いて『絵久珍』と書いた。
「ところが、昨日から今日の間に、何者かによってこの存在が奪われた」
今度は真ん中の○の『絵久珍』という文字を消しゴムで消し、『???』と書いた。
「これで、『佐藤絵久珍』という存在は『???』の物になったわけだ。周りからは、この『???』が『佐藤絵久珍』に見えるし、認識される」
存在を奪われるということがどういうことかはなんとなく分かったが、それだけでは納得できない。
「じゃあ、ここにいるエクレアちゃんは?」
「はじき出された『佐藤絵久珍』の本来の中身……なんだろうけど……なぜ、プリンセスがこの子を『佐藤絵久珍』と認識できているのか、それがわからないんだ」
ルウは彼女の方をじっと見て尋ねた。
「何か、昨日と今日の間で、変わったことは無かったかい?」
変わったこと、と言われても彼女にも思い当たる節は……一つだけあった。
「えっと……何か、変な夢を見たような……名前が欲しいとか言ってるやつが出てきたような……」
「名前?」
なんせ夢の中のことだ。
たいがいは起きたら忘れてしまうものだし、そもそも今日は朝から両親の事があったせいでほとんどうろ覚えだった。
「そうだ、確か神社で……御守りをくれた神様が、名前が欲しいからちょうだいって言ってきて、あたしはあげるって言ったような……」
「それだ!」
ルウが大声を上げる所を始めて見た彼女は驚いた。
「名前、そう名前だ!」
納得したように何度もうなずき、
「君は、名前を奪われたんだ」
◇ ◇ ◇
「名前というのは、大きな意味を持つというのは以前話したと思う。名前を奪われるということは、存在を奪われる事と同義だ。君の名前が、その夢に出てきた神に奪われ、その結果君は『佐藤絵久珍』の立場を追われ、なんだかよくわからない存在になってしまったんだ」
「なんだかよくわからない存在って」
「そんなこと、簡単に起きることなのかい?」
「普通の人は、そんな事にはならないだろうね。だが、君は改名の申請をしている最中だ」
彼女は、現在『佐藤絵見』という名前に変えようとしている。
「つまり、君は『佐藤絵久珍』と『佐藤絵見』で揺れ動く、中途半端な存在だということなんだ。この期間は、存在が非常に不安定で、名前を奪われやすい状態になっていても不思議じゃない」
「じゃあ、僕だけエクレアちゃんの事を覚えているし名前を呼べるのは……?」
「そうだな……君たちの間に、名前に関して何か特別なことは無かったかい?」
二人は顔を見合わせた。
名前に関することなら、色々あるが、おそらくは。
「……あたしは、こいつだけには名前を呼ぶことを許してる」
ちょっと恥ずかしそうに答えた。
それを聞いて、ルウは頷いた。
「それだな。君は名前を捨ててもいいと思ったが、プリンセスにだけは名前を呼ばれてもいいと思っている。そのおかげで、わずかに君は存在を保つことができた」
「こいつがいたから、あたしは存在を保てた?」
「名前というのは、他人と、つまり他の存在と区別するための物でもあるからね。私たちは、他者との繋がりによって存在できている。名前を奪われるということは、その繋がりを奪われるのということなんだよ」
世界に自分ひとりだけだと、名前なんて必要はない。
他者がいるから、名前が必要なのだ。
名前というのはすなわち他者との繋がりそのものである。
「君は、プリンセスとの繋がりによってだけ存在している、非常に脆い存在だ。……このままだと……君がいつ消滅してしまうかわからない」
◇ ◇ ◇
「問題を整理しようか」
そう言って、ルウは手帳のページを捲って次のページに書き始めた。
1絵見(仮)の名前を奪った神の目的は何なのか?
2絵見(仮)の両親を襲ったのは誰なのか?
3どうすれば絵見(仮)の消滅を防げるのか?
「わかりやすいのはいいけど、絵見(仮)って何だ」
「君は今、『佐藤絵久珍』という存在を奪われているからね。かと言って、まだ改名したわけではないから、『佐藤絵見』でもない。私からすればこう呼ぶのが一番適切なんだよ」
なんとも言えない顔の絵見(仮)に向って、伊織は、
「僕はエクレアちゃんって呼ぶから大丈夫だよ!」
「うるさいバカ」
気を使ってくれているのはありがたいとは思っていたが、恥ずかしそうな絵見(仮)だった。
「それにしても、神か」
ルウは手帳を見ながら難しい顔で呟いた。
「神が、人の名前を奪うなんて、聞いたことが無いな……それはつまり、人間の名前に縛られ、神から人間に堕ちたのと同義だ。神としての力も使えない、ただの人間になるということだ」
「つまり、そんなことをするメリットが無いってことだよね?」
ルウは頷きながら、
「それに、絵見(仮)に御守りを渡したりと、この神には謎が多すぎる。……少し調べてみる必要がありそうだね」
「調べるって、どうやって?」
「瀬戸南神社に関する資料を一通り調べてみるつもりだよ。……物が物だから、ネットに載ってる情報も限られてくるだろう。他の方法も試してみないといけなさそうだ」
「他の方法って?」
「図書館とかで、歴史書とか……そういうネットには載って無さそうな情報を手探りで探すってことさ」
なかなか骨の折れそうな作業だった。
「1はとりあえずそれでいいとして…2の絵見(仮)の両親を襲った犯人についてもひとまず警察に任せるとして……問題は3だな」
それは、絵見(仮)にとっても伊織にとっても、一番大事なことだ。
「おそらく、改名の申請が通れば『佐藤絵久珍』という存在が消滅し、『佐藤絵見』という存在に置き換わるから、自動的にここにいる絵見(仮)が奪われた物を全て取り返せるとは思うんだが……」
絵見(仮)は首を振って、
「最低でもあと2週間はかかるって聞いたけど」
ルウは絶望的な表情で、
「その間に、君がいつ消滅してしまうかわからない……君が存在を取り戻すまで、できるだけ、二人は一緒にいるべきだと思うよ。君に残っているわずかな存在を保つためには、プリンセスとの繋がりだけが頼りだ」