おかしな少年とお菓子な少女
ある日の朝。瀬戸南中学三年生の教室にて。
佐藤という平凡極まり無い苗字を持つ少女が教室に着いてしばらくした時、転校生が来ると話題になった。
そろそろ6月も半ばに入り、進路や受験といった言葉を教室内で頻繁に聞くようになってきた、そんな頃だった。
「今日、うちのクラスに転校生来るみたいだぜ!」
朝、今日の日直だった男子が興奮しながら教室に入ってきて、いきなりそんな事を言い出したものだから、クラスメイト達は大興奮だった。
「マジで!?」
「男と女、どっち!?」
「女だったぞ! 職員室の先生の机の上で名前見た!」
「なんて名前だった!?」
「えーと、たしか姫野伊織!」
「何その名前、絶対可愛いじゃん!」
「いや、名前で判断するのはよくないんじゃね?」
「いや、姫野だぞ? そんな苗字してて、かわいくないわけがない!」
「お姫様みたいな子に決まってるだろ!」
バカみたい、と佐藤は内心思っていた。
名前と見た目に何の関係があるんだ、という気持ちと、転校生ごときで朝から大騒ぎできる生徒達への苛立ちで心の中で舌打ちをしていた。
『名は体を表す』、というかもしれないが、彼女はその言葉が大嫌いだった。
少なくとも、彼女はその言葉に反抗して生きてきた。
自分の名前が表す体はどういったものなのだ。
それに、体は変わるものだろう。
『名が体を表すならば、体が変わった時、名も変わるべきだ』というぐらいまで思っていたのだった。
そして、彼女はそれを実行に移そうとしていた。
◇ ◇ ◇
騒がしい教室内の声は、担任の先生に連れられて廊下で待機している転校生にも聞こえていた。
「えーと……あんまり気にするなよ?」
先生は会話内容に頭を抱えていたが、当の転校生はクスクス笑っていた。
「慣れているので、大丈夫ですよ」
実際、転校生にとってこんなことはいつもの事だった。
どこに行っても、似たような反応が返ってくる。
いちいち気にしていたら、きりがないほどに。
先生はそんな落ち着いた様子の彼に申し訳なさそうな顔をして、
「すまんな。……じゃあ、ちょっと待っててくれ」
転校生を置いて先に教室に入って行った。
「おーし、そろそろ席つけー。なぜか広まっているようだが、今日はうちのクラスに転校生がくるぞー」
その声に、「ウォー!」と一同が声を上げ、騒がしい教室内が、より騒がしくなった。
「センセー! 可愛い子ですか!?」
「自分の目で確かめろー。……じゃあ、入ってきてくれ」
教室中の熱い視線が前の扉に集まった。
転校生はゆっくりとドアを開け、クラスメイト達の前に立つと
「姫野伊織、中学三年生でーす! 趣味はお菓子作りです♪ 前の学校では伊織姫とか、いおりんって呼ばれました♪ みなさんよろしくおねがいしーます♪」
と、右手はピースをして顔の右に当て、片足を上げて『きゃぴっ』と効果音が出そうなポーズとセリフを言った。
教室内の空気は完全に凍り付いていた。
これが可愛い女の子が言ったとしても、あまりの痛々しさにどう反応すればいいか困るところ だが、それを言った転校生は、長髪に童顔、そして小柄な体型だったが、学ランを着た少年だったのだからなおさらだった。
教室内は驚くほど静かで、先生も、そして生徒たちもあまりの事にどうリアクションを取ればいいかわからなくなっていた。
転校生の少年からすれば、予想通りの反応だった。
自分の名前を聞いて可愛い少女が来ると思っていたクラスメイト達をからかって、楽しんでいたのだが、さすがにそろそろ何かしらのリアクションが欲しくなってきていた。
ポーズを取ったままの手と足がちょっと辛かったので。
「ぶっ……」
が、突然前の方の席に座っていた一人の少女が噴き出して笑い出した。
「くっくっくっ……」
彼女は、ちょっと変わった笑い声を上げながら、下を向いて震えながらパチパチと拍手をした。
それに釣られて他の生徒たちも、正気に返って転校生に乾いた拍手を送った。
その様子を見て、先生はほっと息をなでおろしていた。
なんとか自己紹介の体裁は保てたようだ。だがそんな中、窓際に座っていた眼鏡をかけた少女、佐藤だけは、転校生など興味が無いようで、無表情で窓の外をじっと見たまま見向きもしていなかった。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、前の席から自己紹介していって」
伊織が空いていた一番後ろの席に着くと、先生はそう言った。
新年度でクラス替えがあったり、転校生が来たりすると自己紹介をするのは定番だ。
一度に全員の名前を覚えることなど不可能だろうが、ひとまず伊織も一人一人の顔を覚えるためにそちらの方を向いて耳を傾けていた。
みなが名前と部活、趣味などを言って『よろしく』と一言添えるだけだったが、右端の列の3人目の女子は少し変わっていた。
「岡田琉優。オカルト研所属だよ。オカルト関係で困った事があればいつでも部室に来てくれ」
先ほど、伊織の自己紹介で笑った前髪ぱっつん少女だった。
物腰といい喋り方といい見た目といい、ちょっと不思議な少女だった。
それに『ルウ』とは若干風変わりな名前だな、と思った。
オカルト関係で困ったこと、と言われても、今までの人生でそんなことが起きたことがないので用事は無さそうだったが。
そんな彼女に向って、他のクラスメイトがひそひそと何か陰口を言っている様だった。
曰く、『変人』だの『オカルトマニア』だの『中二病』だの散々な事を言われていたが、彼女は一切気にしていないようで、堂々とした表情で座っている。
伊織は、『強いな』と感心していた。
彼も名前だったり容姿だったりが原因でひそひそと陰口を叩かれるのは前の学校でもよくあったが、あのように堂々とはしていられない。
できるだけ気にしないようにはしているが、それでもやはり嫌なものだからだ。
その後、途中に何人か気になる生徒がいたので覚えておくことにしたが、左端の列、一番前の 女の子は特に印象的だった。
先ほどずっと窓の外を見ていた眼鏡の地味な少女だった。
長めの髪を二つに縛って、おさげ髪にしていて、ぱっと見は図書委員のようだった。
顔は結構可愛らしいのだが、少し目つきが鋭いのがちょっと気になった。
「佐藤」
と、彼女はちらっとこちらを見たかと思うと、苗字だけを名乗ってさっと座ってしまった。
伊織はそのあっさりとした自己紹介にぽかんとしてしまったが、他のクラスメイト達はその理由がわかっているようで、ニヤニヤと笑っている人もいた。
「シュークリーム?」「ケーキ?」「クッキー?」
と、男子たちはなぜかお菓子の名前を小声で言い合っていた。
佐藤はそいつらをギロッとひと睨みしたが、特に何も言わなかった。
わけがわからない伊織だったが、先生が「静かに!」と注意して、一応はそのままつつがなく自己紹介は進行していった。
自己紹介が終わり、いくつかの連絡事項が伝えられたところで、ちょうどチャイムが鳴ってホームルームの時間が終わった。
休み時間に入ると、さっそく周りの席のみんなから質問責めにあった。
どこから越してきたか、前の学校はどこだった、部活は何をやっていたのか、彼女はいるのか、などの質問に当り障りなく答えていたが、
「ねぇねぇ、姫野君、ちょっといいかな?」
と、見覚えのある女子生徒が話しかけてきた。
活発そうな、ショートカットの少女だった。
確か名前は、
「藤村菜々美さん、だっけ」
「あ、覚えててくれたんだね」
菜々美は嬉しそうに微笑んだ。
笑顔が花のように可愛らしいく、思わず見とれてしまっていた。
「料理研究部だって言ってたから、覚えてたんだ」
「ってことは、入ってくれるの?」
彼女は、伊織の趣味がお菓子作りと聞いて、勧誘に来たのだった。
「まだ分からないけど、興味はあるよ。でも、3年生のこんな時期だけど入っても大丈夫なの?」
6月の半ばなので、3年生はそろそろ受験シーズンだ。
学校によっては、もう部活を引退していてもおかしくはない。
「うちは結構ゆるいから大丈夫だよ! じゃあ、放課後部室に寄っていってよ! 今日はマフィンを作る予定なんだ!」
「マフィンか、いいね。僕も得意なんだ。是非寄らせてもらうよ」
「ほんと? 約束ね!」
菜々美はちょっと顔を赤くして席に戻っていった。
いきなり可愛い女子と話せて、なかなか楽しくなりそうだと浮かれていたが、ふと周りを見ると男子たち数人が恨めしそうにこちらを見ているのに気付いて、肩をすくめた。
伊織の容姿は女性に人気があり、趣味もお菓子作りとあって女子とはよく話す。
そのため、男子からこういった目で見られるのは日常茶飯事だ。おかげで男友達がなかなかできないが、特に気にしたことは無かった。
その日は何も問題もなく授業が終わった。
前の学校とは授業の進み具合が大きく違うということも無く、元々勉強はできる方だったので、ちょっと復習や予習をすれば問題無さそうだった。
「姫野君、行こ」
「うん」
放課後、菜々美に連れられて、料理研究部の部室に向かった。
文化系の部室棟は教室のある校舎の隣にあった。
料理研究部の他に、パソコン部、文芸部、eスポーツ部、オカルト研などが入っていた。
変わった部活があるなぁと思いながらも、一番奥の目的地の部室に入った。
部室は、料理研究部らしくいくつかキッチンが備わっていて、冷蔵庫やオーブンなどが完備されていた。
部屋の中には3、4人の女子がいて、椅子に座って雑談をしていたが、二人が入ってくるのを見ると、そちらを向いて歓声を上げた。
「あ、部長! その人が言っていた転校生ですか? 確かに女の子みたいにかわいいですね!」
「こらっ! 本人の前でそういうこと言わないの!」
ごめんね、と菜々美は伊織に向って頭を下げた。
伊織は別に気にしていなかったが、他に気になることがあったので尋ねた。
「藤村さん、部長だったの?」
「ええ、そうよ。驚いた?」
と言うと、部員たちの方を向いて、
「さあ、今日は予定通りマフィンを作るわよ! 男子に食べてもらうんだから、気合入れて作るわよ!」
「はーい!」
部員たちは、菜々美の一声でエプロンを着け、準備に取り掛かった。
周りの様子を見るからに、確かに彼女は部員から信頼されているようだった。
彼女達の手際を感心しながら見ていると、さきほど伊織のことを女の子みたいでかわいいと言った後輩らしき女の子が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、姫野先輩、でしたっけ? ひょっとしてうちのクラスに転校してきた姫野さんのお兄さんですか?」
「ああ、妹と同じクラスなんだね。よろしくしてやってね」
伊織の一つ下の妹も、この学校に転校してきている。
必然的にこの後輩も1個下ということになる。
「あーやっぱそうなんですか! いいなぁ美男美女の兄妹で」
あっけらかんと言われて思わず伊織は苦笑してしまった。
「ねぇねぇ姫野先輩。彼女いるんですか?」
今日何度も聞かれた質問だ。
やはり、男も女も、この手の話題が大好きなのだ。
「いないよ。転校してきたばかりだし、前の学校ではそんな子いなかったしね」
それを聞くと、にやりと笑って、藤村さんの方を指さしながら、
「部長、彼氏いないし狙い目ですよ? あの人、姫野さんみたいな可愛い顔の人が好みですし」
「こらーーー!!」
菜々美は、顔を真っ赤にしながら後輩の女の子の頭をバシッと叩くと、首根っこを捕まえた。
「ごめんね。こいつバカな事ばっかり言うもんだから。気にしないでね」
そう言って、後輩を掴んだままキッチンの方に戻っていった。
残された伊織もちょっと顔を赤くして、落ち着かない様子でマフィンができあがるのを待っていた。
30分ほどで調理は終了し、机には色とりどりのマフィンが並べられた。
「はい、これはジャムが入っているやつ。こっちはチョコチップのやつ。こっちはブルーベリーね。お好きなのをどうぞ!」
伊織はジャムのマフィンに手を伸ばした。
部員たち全員にじーっと見られながらの試食はなかなか緊張したが、そのまま口に放り込み、
「うん、おいしい」
と言うと、部員たちが
「いえーい!」
「やったー!」
と手をたたいて大はしゃぎしていた。
「こら、はしゃがないの。じゃあ、私たちも食べましょうか」
菜々美もそう言って、全員でマフィンを食べることになった。
「姫野先輩、こんな時期に転校してくるなんて大変ですよね。高校受験もあるのに、知らない街で過ごさないといけないなんて」
さきほどの後輩が、そう言ってきた。
「はは。まぁ、親の仕事の都合だから仕方ないんだけどね。でも、まったく知らない街ってわけじゃないんだ。実は子供の時、この辺に住んでたんだ」
「え、そうなんだ」
菜々美も驚いたようだ。
「と言っても、ずいぶん前だけどね」
伊織自身も、当時のことを鮮明に覚えているわけではない。
覚えているのは、街はずれの神社と、そこで遊んだ女の子の事ぐらいだろうか。
「当時の友達とか、いないの?」
「うーん。どうだろう。なんせ10年ぐらい前の話だから。その時の友達は、名前もほとんど覚えて無いんだよね」
一同、同情的な目を向けてきたが伊織は笑って、
「いや、気を使わなくて大丈夫大丈夫。まったく知らない土地に行った時も同じだから」
「そうだよね。友達なんて、これから作っていけばいいもんね」
うんうん、と皆頷いていた。
「それで先輩、うちの部に入ってくれるんですか?」
と、後輩が言ったことで、またしても伊織に視線が集まった。
伊織は笑って、
「ああ、マフィンおいしかったしね。僕も次は何か作って、みんなに食べてもらいたいよ」
と、にっこり笑った。
それを聞いて彼女たちは大はしゃぎで歓声を上げた。
「やったー!!」
「わーい! 料理男子だ!」
「だから、あなた達はしゃがないの! まったく……」
そういう菜々美も嬉しそうに顔が笑っていた。
「料理研究部にようこそ! 姫野君!」
◇ ◇ ◇
その後、片づけを手伝った伊織は、菜々美達と一緒に帰ることになった。
伊織は、正門を出たところで校舎の方を振り向いた。
彼は親の都合で何度か転校を経験している。
何度やっても慣れるものではないが、少なくとも、今回は転校早々ぼっちにはならずにすみそうでほっとしていた。
あと約1年弱、この学校で普通に過ごせればいい、と思った。
その時、ふと視界の端、屋上に一人の少女がいるのを見つけた。
その少女は、屋上でじっと遠くを見つめていた。
夕焼けがまぶしくて若干見えづらかったが、その姿には見覚えがあった。
あの、自己紹介の時に苗字しか言わなかった少女だ。
「彼女、佐藤さん、だっけ」
「うん? ……ああ、そうだよ」
菜々美も伊織の目線に気づいて屋上の方を見た。
「そういえば、彼女は料理研究部じゃないの?」
「違うけど、なんで?」
意味が分からかったようで、不思議そうに伊織の方を見た。
「彼女の自己紹介の時、男子たちがお菓子の名前言ってたから、てっきりお菓子が好きなのかと思ったんだけど」
「違う違う」
なぜかクスクス笑っていた。
「それは彼女が……」
◇ ◇ ◇
「はぁ、はぁ、はぁ……」
気付いたら、校舎の階段を駆け上がっていた。
菜々美達には、「先に帰ってて」とだけ告げて、呆然とする彼女達を置いて脇目も振らずに屋上に向かっていた。
普段そこまで運動をする方では無かったので、4階建ての校舎の屋上まで一気に上るのはなかなか大変だったが、一気に駆け上がった。
そして階段を一番上まで上ると、屋上へと続く扉の前まで来た。
だが、ドアノブに手をかけたところで、動きが止まった。
開けるのが、恐かったのだ。
しばらくそうしていたが、いつまでもドアの前でじっとしているわけにもいかない。
意を決してドアを開け、屋上に足を踏み入れた伊織が最初に見たのは、金網を登ろうとする、佐藤の姿だった。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて思わず彼女の腰に飛びついて、金網から引き剥がそうとした。
「きゃ!? え? ちょ、何!?」
彼女は、何が起きているのかわからず、悲鳴を上げた。
「事情は良くわからないけど、とりあえず、死ぬのはやめて!」
「だ、誰が死ぬって……うわぁ!!」
不安定な体勢で飛び掛かられたこともあって、そのまま二人ともバランスを崩して後ろに倒れてしまった。
少女は頭を押さえながら起き上がって、伊織の姿を見ると困惑したように、
「痛い……あなた、今日来た転校生……? 一体何なんですか?」
「何があったのか知らないけど、お願いだから死なないで! 君が死んだら悲しむ人がいるよ!」
伊織も起き上がり、彼女の両肩を掴んで必死に説得しようとする。
が、彼女は憤慨したように、
「死なないです! あたしは、あのボールを取ろうとしただけなんです!」
金網の方を指さす。
そちらを見ると、金網の間に小さなゴムボールが挟まっていた。
「落ちてたボールを思いっきり投げつけたら、金網の間にささっちゃったんです!」
伊織は彼女の顔とボールの方を交互に見て、自分が大変な勘違いをしていた事に気づき、
「なーんだ」
と、脱力して再び後ろに倒れた。
「なーんだ、って……」
少女は呆れたように伊織の方を見下ろしていた。
「いや、さすがに屋上の金網を上ろうとしている人がいたら自殺しようとしていると思うでしょ。普通」
伊織の言うことにも一理あると思ったのか、彼女はため息を付いた。
「そうかもしれませんけど……ほら、靴も履いてますし、遺書とかも無いですよ」
「咄嗟にそんなこと判断できないよ」
もっともな意見だった。
「ううん……。まぁ、確かにあたしが悪かったです。ごめんなさい」
と、ぺこっと頭を下げた。どうやら根は素直ないい子らしい。
「じゃあ、あたしもう帰るので」
「あ、待って」
少女が立ち上がり、鞄を持って立ち去ろうとした所を伊織は呼び止めた。
「なんですか?」
不思議そうな目をして伊織の方を向いた彼女に向かって、
「佐藤……エクレア」
彼女の名を、呼んだ。
エクレアという、お菓子な、おかしな名前を。
◇ ◇ ◇
彼女は、それを聞いてたっぷり30秒は固まっていた。
下を向いてしまって表情が見えなかった。
だが、突然伊織の方に向かってツカツカと歩いていく。
「えっと、エクレアちゃん?」
伊織は名前を呼んで戸惑った顔を向けたが、彼女は彼の目の前まで来ると、
「その名で……」
「はい?」
何か呟いたと思ったら、突然顔を上げ、拳を振り上げた。
「その名で呼ぶなぁぁぁぁぁーーー!!」
伊織は思いっきり顔面にパンチを食らい、後ろに吹っ飛んで倒れた。
「ぐへぇ!」
彼女は、再び地面に頭を打ち付け悶絶する伊織の上にのしかかり、
「誰に聞いた!? ええ!? これ以上あたしの名前を知る人間を増やさないように黙ってたのに!!」
伊織の胸倉を掴んでブンブン振っていた。
「せ、先生だよ……」
咄嗟に機転を利かせて、藤村さんに危害が及ばないように先生に犠牲になってもらうことにした。
「チッ!! あのセンコー、人の名前をベラベラ喋りやがって!!」
そもそも同じクラスなのだから、名前を知る機会なんていくらでもあるだろう。
名前を教えた人を恨むというのも筋違いな気がしていたが、伊織は賢明にもそれに関しては黙っていた。
「えっと、エク……佐藤さん?」
「なんだよ、転校生」
マウントを取られたまま、ギロッと睨まれる。
その鬼のような表情に怯えながらも、伊織は質問する。
「そんなに……自分の名前が嫌いなの?」
「嫌いに決まってんだろ!! 舐めてんのか!!」
さっきから、およそ女子中学生の言うセリフとは思えない言葉が出てくるが、これが派手な見た目をした不良少女ならともかく、一見したところではまじめな図書委員か学級委員長のような見た目をした少女の口から飛び出してきているので、ギャップが凄まじい。
さっきまでの丁寧な口調はどうやら演技で、こっちの方が素らしい。
「お前も、エクレアなんて名前を付けられてみろ!! 人生嫌になるぞ!!」
自分も女の子っぽい名前を付けられて多少は苦労しているつもりなのだが、やはり黙っていた。
教室の様子を見る限り、やはり彼女の方がより深刻そうだったということもある。
「しかも、しかも……漢字にすると『絵久珍』なんだぞ!」
漢字を初めて知った伊織は、ぐふっと変な声を出して顔をゆがめてしまった。
思わず笑ってしまいそうになったがここで笑うと命に関わると思い全力で堪えたのだが、そんな顔を見て彼女は舌打ちをし、
「絵と久はまだわかる、でも珍と書いてレアは無いだろ!? 女の子の名前に珍って入れるか、普通!?」
少なくとも、あんまり女の子の口から連呼して欲しくない単語であることは確かだ。
「まったく、うちの親は頭おかしいとしか思えないぞ……」
「いや、でもちょっと変わった名前だってだけでしょ? そこまで言わなくても……」
その言葉に、またしても恐い顔で思いっきり睨まれ、伊織は黙ってしまう。
「お前、他人事だと思って好き勝手言いやがって。こんな名前だから、漢字だけじゃまず読み方が伝わらないし、読み方教えたら他人にはバカにされるし、おまけにこんな名前付けるなんて常識の無い家なんだって思われて将来は就職しづらいって聞くし……良いとこなんて一つも無いんだぞ!」
彼女は早口でまくし立ててきた。
その年で就職のことまで考えているのは立派だとは思うが。
「あたし、これでも我慢して生きているんだぞ? 名前が派手だから、ちょっとしたことでもすぐ悪い噂が立つから、せめて見た目は地味に見えるようにこんな格好しているし、学校ではおとなしくしてるんだからな」
それで、そんな図書委員みたいな見た目だったのか。
口調と見た目にギャップが激しすぎると思ったが、当然だったらしい。
『名は体を表す』と言うが、彼女の場合はあえて自分の名と体をばらけさせているようだった。
「今はキラキラネームだとかDQNネームだとか言われるし……お姫様みたいな名前だからエクレア姫だなんて言われてバカにされてるし……ほんとむかつく。好きで、こんな名前で生まれてきたわけじゃないってのに」
「…………」
伊織は何か言おうと口を開けたが、結局何も言えずにそのまま口を閉じた。
そんな様子を見て彼女は笑った。
「でも、もうすぐこの名前ともお別れできるんだ」
「え、どういうこと?」
名前にお別れと言われても、残念ながらピンとこない。
「15歳になると、改名できるんだ」
彼女の話によると、15歳になると、家庭裁判所の許可を取れば親の許可が無くても改名の申立ができるそうだ。
読みにくいだとか、日常生活で支障をきたすといった条件が必要らしいが、『絵久珍』と書いて『エクレア』と読む彼女の名前は十分該当しそうだ。
「7月1日にあたしは15歳になるから、そしたらすぐに裁判所に改名の申請を出してやるんだ」
そう言って、彼女は立ち上がった。
「あんたも、二度とあたしの名前を呼ぶなよ」
「……ちなみに、呼んだらどうなる?」
エクレアはにっこりと笑うと、伊織の頭に手の平を乗せた。
エクレアは特に長身というわけではないが、伊織が小柄なこともあって、彼女の方が身長が高いので簡単に手が乗る。
そしてちょっと手に力を込めて、
「潰す」
と短く言った。
恐ろしく抑揚の無い声だった。
◇ ◇ ◇
「エクレアちゃん、おはよー」
ガタン、とエクレアは椅子からずっこけた。
次の日、伊織は登校して教室に入ると、まっすぐに窓際のエクレアの元に向かって、大声で彼女の名前を呼んで挨拶した。
周りのクラスメイトたちも伊織がエクレアの名前を呼んだことに驚いてざわついていた。
「てめぇ! 名前を呼ぶなっつっただろ!」
と、エクレアは起き上がりながら、小声で彼に掴みかかる。
だが、伊織は平然とした顔で、
「学校ではおとなしくしてるって言ってたから、学校では名前を呼んでも潰されないかなーって思って」
「このやろう……」
彼女はギリギリと音が聞こえそうなぐらいに歯噛みしていた。
そして、昨日のように彼の顔面を殴るために拳をぐっと握ったが、
「ほらほら、みんな見てるよ?」
伊織の言うとおり、教室中の視線はこちらに集まっている。
「ぐぬぬ……」
その握った拳のやり場に困るエクレアだった。
その後、エクレアは学校で伊織とほぼ常に一緒にいることになった。
もちろん、エクレアから近寄って行ったわけではない。
伊織が彼女の傍を離れようとしなかったのだ。
例えば体育の授業の時は、
「へい! エクレアちゃん。柔軟のペア組もうぜ!」
「姫野。今、体育の授業中だよな」
「うん。そうだね。それにしても、やっぱり女子の体操服、下は今のズボンより、昔のブルマの方が動きやすそうじゃない? エクレアちゃんもブルマ履いてみたら?」
「あんなほぼパンツみたいなもん、履くか! そうじゃなくて、男子は今日グラウンドでサッカーだろうが! 女子に混ざってんじゃねぇ!!」
が、それを聞いた他の女子たちは、
「えー? 姫野君なら混ざってもいいよー?」
「そうそう、どうせなら私たちと柔軟しようよー!」
これには伊織も思わずにやけて、
「えっほんと? いいの?」
とだらしない声を上げたが、
「よくねぇぇぇ!!」
エクレアの叫びが体育館中に響いた。
また、美術の時間は、
「へい! エクレアちゃん、二人組でお互いの顔を描く課題、ペア組もうぜ!」
「嫌だ」
「そんなこと言って、エクレアちゃん他に組む人いないんでしょ?」
「……いないけど」
残念ながらぼっちのエクレアは、この手の課題の時だいたい余った人か、先生と組んでいる。
「じゃあ、よろしくね! やった! 合法的にエクレアちゃんの顔をじっと見ていられるぜ!」
「じろじろ見るな。目をつぶって描け。もしくは目を潰すぞ」
「どっちにしろ見えないじゃん」
教室で行われる授業なら、席も遠くて問題無いと思っていたエクレアだったが、
「はい、では今日は席替えをします」
「エクレアちゃん、よろしくね!」
「お前、なんであたしの横にいる」
「エクレアちゃんの横の席だった人と交換してもらっただけだけど?」
「てめぇふざけんな! 学校にいる間は四六時中あたしと一緒にいるつもりか!? あとエクレアって呼ぶな!」
「やだなぁ。部活の時間は残念だけど一緒じゃないじゃない。それとも、料理研究部入る?」
「死んでも入るか」
とにもかくにも、おかしな名前の少女と、おかしな少年の二人は、こうして共に学園生活を送ることになったのだった。