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夜の女神


 08 夜の女神



 旅籠で一泊したフィンクとルーエイは、翌朝、唐突に飛び込んできた予期せぬ新たな情報に驚かされる。


 従業員に呼び出されて、一階のエントランスへ下りた二人を待っていたのは、フリーケだった。

 フィンクは、彼の方から進んで接触してくるなんて、昨日の今日でまた自分も調査に参加したいとか言い出すのでは

 なかろうかと訝った。

 それでも、何事もなかったように澄ましてみせた。


 「あらフリーケ、おはよう。

  なんかあったの?」

 挨拶も返さず、フリーケは少し興奮気味に話し始めた。

 「今朝、事件があった。

  旅行者みたいな人達が逮捕されたんだ」

 「逮捕?」


 サンロジは、ロジェ伯爵領で最大の都市である。

 旅行者が立ち寄るのも珍しい事ではないし、中には問題を起こして保安当局の世話になる者だっているだろう。

 どういう理由であれ、それでフリーケが慌てる必要はどこにもないはずだし、フィンクもまた、全く関係ない情報に

 いちいち対応する道理もない。


 「それがどうしたのよ、あたし達と何の関係があんの?」

 フィンクの冷淡な反応をもっともだと感じたフリーケは、気持ちを落ち着かせて事の次第を説明する。

 「俺は、いつもみたいに城門のところで商人の仕事を探して待ってた。

  俺達はいつもと同じだった。

  同じ顔馴染みの仲間が集まってた。

  ただ、いつもと違って門に武器を持った兵士がいっぱいいたんで、なんか変だなっ思ってた。

  そこへやってきた馬車のうちの一台が、番兵に取り囲まれて、乗ってた旅行者のグループが降ろされて、そのまま

  どこかへ連れていかれたんだ」

 「ふーん・・、それで?」

 「連れていかれる時、一人の女の子がルーエイルーエイって何度もあんたの名前を呼んでたから・・・もしかしたら

  関係ある人なのかなって思って知らせにきた」

 「俺の?」


 横で聞いていたルーエイは首を傾げる。

 この辺りで彼の名を知る女性がいるとすれば、フィンク以外だとすると、もうあの人達しかいない。

 「それって・・・、あんたの仲間達じゃないの?」

 「どうもそうらしい・・仲間じゃねえけど」


 二人の想像に違わず、状況はフリル達の事を指し示している。

 フォーシュが目的地だったはずの彼女達が、なぜサンロジまで来たのか。


 「追っかけてきたのかな、ここまで」

 「わざわざか?、面倒な奴等だな」

 「罪作りな男だねぇ〜」

 「俺のせいにすんな」

 「でも、なんであの子達が逮捕なんかされなきゃなんないの?

  何かやったのかな?」

 「けっこう危ねえのも混ざってるからな、怪しまれたって仕方ねえだろ。

  女だけで旅なんかするからこんな事になるんだ」


 そこに、フリーケが情報を付け加えた。

 「女の人は一人だよ、他に若い男の人が二人一緒にいた。

  自分達は近衛師団の兵士だとかって言ってたけど、番兵は問答無用だった。

  あるじに神の啓示があったとか言い返してたな」


 フリルに男の同行者がいた。

 しかも、近衛師団兵を名乗ったという。

 どういう事か。

 事の仔細は以下の通りである。


 フリルは、フォーシュに着いた時、ボーデのホテルに逗留している父親に無事到着を知らせる手紙を出していた。

 手紙を受け取ったウルスは、ちょうど見舞いに訪れていた自分の部隊の部下二人を娘の迎えに差し向ける。

 その兵士達が彼女と合流したのが、ルーエイがフォーシュを発ったまさにその日だった。

 どうしてもルーエイに会いたい彼女は、ボーデに帰る前に是非ともサンロジに寄ってみたいと申し出たため、兵士達は

 それに従ってつき合う事になり、ロワールとペルスネージュとはそこで別れた。

 そして、サンロジ入城と同時に逮捕される事になる訳だが、その現場に偶然フリーケが居合わせた。

 なぜ、彼女達は逮捕されたのか、そして、なぜ城門には通常の衛兵の他に武装部隊が配備されていたのか。

 その理由は後に判明する事になる。


 ☆


 この事態に、フィンクとルーエイはどうするか思案した。


 「なんであの子が逮捕されるかな。

  どう見てもそんな風な子には見えなかったけど。

  何かの勘違いなのかな」

 「近衛将校の娘だからな、自分が何かすれば父親にも影響する事ぐらいは知ってるだろ」

 「やっぱり誤認逮捕」

 「だろうな」

 「どうする?、って言っても、あたし達が何か言ってもどうなるもんでもないでしょうしね」

 「極秘任務はどうすんだよ。

  俺達は俺達のやるべき事をやるだけだろ」

 「放っとくの?」

 「放っとく」

 「赤の他人って訳でもないのに?」

 「どうせ、王都に知れたら向こうが黙ってねえさ。

  ここで俺達がどうこうしたって余計に話が拗れるだけだ」

 「あたし達の任務とは関係ない?」

 「関係ねえだろ、関係あるか?」

 「分かんない。

  分かんないけど、なんの理由もなしに逮捕されるって、なんかおかしい。

  とりあえず、どこに連れていかれたかは確認しておくね。

  知らないよりは知ってた方がいいもんね」


 フィンクの中には、自分達の活動に無関係な人を巻き込むのを避けたい思いがある。

 フリーケは関係者の関係者という微妙な立場にいる人物ではあるが、同様に考え一定の距離を置いておくのが肝要と

 思っている。

 一方で、フリルは完全に無関係だ。

 もし、今回の逮捕が自分達の任務と何某か関係しているのであれば、それは看過出来ないというのが心情だ。

 ただ、それを確認する術すら持てない現実では、むやみにその件には関われない。

 とりあえず、その日の調査で、フリル達は町の中央にある城内に連行された事までは突き止めた。


 ☆


 ロジェ伯爵が静養している別荘は、町を取り囲む城壁の外にあるという話だが、6ヶ所ある城門は、全て日没と共に

 閉鎖されてしまう。

 次の開門は夜明けまで待たねばならず、その間、一般の出入りは完全に制限される。

 もうすぐ陽が暮れる。

 今なら時間的にはまだ間に合うものの、この時間になって城門を外へ出るのはスラム街の住人だけで、旅行者などが

 出る事はまずない。

 近隣の町までは距離があって宿泊する施設がないため、門番が許可しないのだ。

 フィンクは、周囲から怪しまれる行動は避けるべきと考え、焦らず夜になるのを待つ事にした。


 ルーエイと共に旅籠近くのレストランでゆっくり夕食を取り、それが済んだら二手に別れて仕事に取りかかる。

 「じゃ、いよいよ作戦開始だよ。

  くれぐれもバレないでよね。

  あの子がお城の中のどこかに拘束されてるけど、今は何もしないでよ」

 「おうよ」


 別荘が町の北側の外の丘の上にあるのは、昼間のうちに調べがついていた。

 フィンクは、そこに一番近い城門へ向かって歩き出す。

 夜の町は、酒場の周りなどには人影が多数見受けられるも、それ以外の住宅街には灯りも人気も全くない。

 進むこと30分、目的の城門に辿り着いた。

 門の上の櫓には、夜警の番兵が詰めているはずだ。

 彼女は、自分の体内に憑依しているエイルニルスに呼びかけた。

 「門番を調べてくれる?」

 その言葉に応じ、悪魔が行動を開始する。

 とはいえ、悪魔が動き出してもその姿は誰にも見えず、憑依を解かれたフィンク自身にも変化はない。

 ほんの十数秒で、エイルニルスが戻ってきた。

 「大あくびで退屈そうにしている間の抜けた兵士が一人おるわ」

 その声は、フィンクだけに聞こえる。

 脳に直接語りかけているからだ。

 「良かった、一人なのね。

  じゃあお願い、門を開けさせて」

 「造作もない」


 悪魔は、再びフィンクの元を離れ、今度は門番の兵士に憑依する。

 取り憑かれた兵士は、その瞬間に意識を失う。

 悪魔は兵士の体を我が物のように扱い、櫓から降りてくると鍵と閂を外し、難なく門を開ける。

 フィンクはそこを何事もなかったかのように通り抜け、門を閉じた悪魔は兵士を元の櫓に戻してその体から離れた。

 兵士は床に倒れ、そのまま昏々と眠り続ける。

 退屈の果てにとうとう居眠りしてしまったに違いないと、見た人はただそう思うだろうし、記憶がない以上、本人で

 すらも釈明の余地はない。


 門を出た外の周辺には林が広がり、その中に市民権のない人達のバラック小屋が幾つか点在し、それらを真っ二つに

 分断するように、北へ向かって緩やかに傾斜しながら並木道が真っ直ぐ延びている。

 これが、伯爵の別荘へ続く道だろう。

 綺麗に舗装された石畳の道は、夜の暗がりの中でも歩き易く、行く手を邪魔する物は何もない。

 10分近くも歩いたろうか、目の前に石の壁と門が見えてきた。

 同時に、別荘を守護する衛兵の気配も感じられるようになるが、フィンクは臆する事なく歩みを進め、門の手前まで

 きた。


 案の定、その横に立っている衛兵がドスの利いた厳つい声をかけてくる。

 「おい、そこで何をしている」

 フィンクは、平然と笑って答えた。

 「お散歩」

 すると、衛兵は怪しむ素振りを見せるどころか、ごく自然に、子供に注意する親のような口調で言う。

 「もう夜も遅い、いつまでも外にいないで早く部屋に戻れ」

 なぜか、衛兵はフィンクを部外者と認識していない。

 悪魔・エイルニルスによる洗脳で、別荘の関係者だと思い込まされているのだ。

 戦争も政争もない平和なこの時期に、身元不明の不審者が別荘を訪れる事などほぼあり得ない。

 しかも、こんな夜遅く、門前を堂々とである。

 このような心理の者を、それに沿って洗脳するのはさほど難しい事ではない。

 そうであろうと思っている者を、そうに違いないと思い込ませてやるだけなのだから。


 「そうね、そうするわ」

 そう言い残して、別荘を取り囲む石塀沿いに続く遊歩道の方へ向かうフィンク。

 衛兵の影が見えなくなるまで歩いたところで、独り言のようにエイルニルスに質問した。


 「ここに悪魔いる?」

 「私がいる」

 「他にはいないのって聞いてんの」

 「そう言っているのだがな」

 「なぁんだ、こっちは外れか。

  じゃあ、ルーエイの方が当たりって事か・・・。

  大丈夫かな、あっちは」

 「何度も言うが、あの煩悩男を信用してはならんぞ。

  あれは自分の欲でしか動かんならず者だ」

 「悪魔が言うかな、それ」


 ここに悪魔がいないとなると、伯爵自身が呪われているというフィンクの予想は当たらなかったのか。

 伯爵が政治の一線を離れてしまったので、悪魔も離れてしまったのかも知れない。


 ☆


 ルーエイは、町の中心、広場を見渡すように聳える城の前にいた。

 夜も更けてきたこの時間に周辺を歩く人影はなく、ただ静寂だけが世界を支配している。

 「こんな所で一人でいたら余計に怪しまれちまうな、さっさと始めるか」

 独り言を呟いて、いよいよルーエイの真価が発揮される。


 広場の北側には城壁が張り巡らされ、その先に大きな庭園が配置され、城は更にその奧に鎮座する。

 城壁に連なる城門の警備は、おそらく領内で最も厳重と思われるが、ルーエイは衛兵の目の届かぬ位置を見つけると、

 高さ3メートル以上はあろう壁を例の軽業でスルスルと登り、逆バンクさえ物ともせず一気に乗り越えてしまった。

 庭園内に潜り込んだ彼は、低木の植え込み伝いに歩きつつ、城の様子を探ってみる。

 悪魔の気配は感じない。

 「城にはいねえのかな・・・、こっちだと思って期待してたのに」


 庭園を抜け城に近づくと、そこにも衛兵の姿があった。

 数人が一団となって、玄関口付近を中心に何度も往復を繰り返している。

 ルーエイは、月明かりの下のその兵士達の表情や様子を見て、警備は厳重だが警戒心は薄いと判断した。

 彼等にとっては、夜警の任務も普段と変わらぬ日常的なルーティーンの一部であり、特別な事をしている訳ではない。

 殊更に異常な何かが起こるでもなく、このまま何の変化もなく夜が明けるのも、予定調和として既定路線化している。

 要するに、給料分の時間をそこで過ごしているだけ。

 平素の夜警任務とはそんなものだ。

 そんな者達の目を盗むのに、いちいち手間暇をかけて工作する必要はない。

 彼は、巡回する衛兵達に一度も違和感を感じさせる事なく、まるで夜の散歩を楽しむ猫の如き軽快さで、城の外壁に

 到達した。


 城とはいえ、戦時下に備えた堅牢な城郭は一部だけで、手前の大部分は多くの窓やテラス、ベランダやバルコニーを

 設えた大きな建造物で、風通しは良さそうだ。

 開口部が多ければ多いほど、それだけ隙を見つけ易い。

 さっそく鍵のかかっていない窓を探すと、それはすぐに見つかった。

 「何から何まで不用心な奴等だ」

 清掃用具などを収納している狭い納戸の窓だったが、おかげですんなり中に入れた。


 ☆


 城内は、外にも増して暗い。

 一階部分は迎賓館でも兼ねているのか、立ち並ぶ太い円柱が目を惹く大広間があったり、肖像画や煌びやかな装飾に

 満ちた広い部屋が、幾つも連なっている。

 果たして、目的の孫はこのだだっ広い城のどこにいるのか。

 「さて、バカ孫はどこにいる?・・・、奥の院に決まってる」


 シーンと静まり返った無人の廊下を、カーテン越しに差し込む微かな月の青白い光線が、薄らと照らす。

 普通の一般家屋に例えるなら何軒分通り抜けただろうか、初めて訪れた場所であるはずなものが、歩いているうちに、

 次第に進むべき方向が正確に見えてきた。

 微弱な悪魔の気配を感じ始めたからだ。


 陰湿で冷たく、重く澱んだ気配・・・、間違えようがない。

 アロマか蜂蜜のような、甘い香りも漂ってくるのは気のせいだろうか。

 気配を辿って歩いていると、先の廊下の角から、スッと音もなく一人の人影が現れた。

 ひんやりした大理石の上を裸足で歩いている。

 女性のようだ。

 シースルーの薄手のローブを羽織ってはいるが、全身の透き通るような白い肌が露わになって、暗がりの中で一層に

 浮き上がって見える。

 要するに、ほぼすっぽんぽんの丸見え。


 距離を取るためルーエイが足を止めた時、合わせたようにその女も彼に気付いて立ち止まった。

 こちらを向いた長い黒髪の女は、暗闇の中でカナリートルマリンの如き妖しい輝きを放つ黄色い瞳で彼を見つめた。

 その目映いこと美しいこと。

 今まで出会った全ての女性を、軽々と蹴散らしてしまうほどの美貌の持ち主だった。


 更に、古代の女神像でさえ霞む、均整という次元すら超越した究極の造形美とも言うべきプロポーション。

 はちきれんばかりに実ったたわわな乳房、引き締まってくびれたウエストと大きなS字曲線を描いて膨らむ見事な腰、

 そこからこれ見よがしに伸びる圧倒的存在感を湛えたムチムチの太股。

 この世の物とは思えないほど妖艶にして官能的、艶やかで滑らかな曲線を描くその肉体は、無我に無性に男の性欲を

 刺激し掻き立てる。

 全てにおいて非の打ち所がない、その強烈な魅力と誘引力に抗えうる男は皆無だ。

 もしいるならば、それを生物学上のオスと呼ぶべきではない。

 エロい、エロ過ぎる。


 そのエロい肢体を隠そうともせず、恥じ入る様子など微塵も見せる事なく、薄微笑みさえ浮かべている。

 美しくも愛らしい、その笑顔に惑わされてはいけない。

 彼女から発せられる邪気で分かる。

 これぞまさしく悪魔である。

 そして、モロに好みである。


 潜入がバレて、ルーエイは開き直った。

 今更あたふたしてもかえって猜疑心を煽るだけだし、このまま逃げてもフィンクに叱られバカにされるのがオチだ。

 こっそり情報収集という当初目的が破綻した以上、作戦の変更は当然許される。

 「こりゃおったまげた。

  ベリーダンスの踊り子でもいるのかと思ったら、まさかこんな所でサキュバス様にお目にかかれるとはね」


 一目で悪魔と見抜かれた女は、些か驚いたような表情を見せつつも、少し間を置いて透き通る愛らしい声で返す。

 「あら、よく分かったわね」

 「前から、一度でいいからお相手してもらいたいと思ってたもんでね」

 「あなた誰?

  城の者ではないわよね」


 ルーエイは、この女悪魔の言葉の意味を考えた。

 素性を見破る能力を持った者は城内にはいないはずだという主張とも受けとめられるし、彼の粗末な出で立ちを見て

 部外者と推定するのも頷けるが、城に従事する全ての人物の顔を記憶しているとも思えない。


 「ほほう、城の者でもあんたに会っちゃいけないのかな?」

 「男でいつでも私に目通りが叶うのはヴァレフォールだけよ」

 「ヴァレフォール?、ああ、孫か」


 なるほど、孫が悪魔に取り憑かれていたのだと納得する。

 言葉から察するに、城でこの悪魔の存在を知る者は多くはない。

 恐らく、ほとんどの者はただの愛人だと説明されていると予想される。

 その上で、これだけエロ要素満載の女が城を自由に歩き回っていたら、それを見た男はどこまで平常心を保てるかと

 考えるに、孫が彼女を人目から通避けるよう周囲を規制していたとしても不思議はない。

 いつの間にか、城の禁域、最奥部にまで入り込んでしまっていたようだ。


 「で、あなたは誰?

  よそ者がこんな時間に城の中にいるなんて尋常じゃないわ、どうやって入ったの?」

 「道に迷った旅人ですよ」

 「下手な言い訳ね、ここは観光地などではなくてよ。

  何の用?、泥棒?」

 「んー、人の物を取る趣味はねえな」

 「じゃあ、何しにきたの?」


 女悪魔は、侵入者を見ても少しの慌てる様子もなく、話しかけながら一歩ずつ距離を詰める。

 その発する一言一言が、色気がある中にも幾許かの可愛らしさを含んでいる。

 こんな話し方をする者には会った事がない。

 おまけに、扇情的な魅惑に満ちた熱い視線で見つめ続けられると、言葉を濁して場を凌ぐ事の無益さを実感し、嘘を

 ついても空恍けても無駄だと思わされる。

 これも、悪魔の魔力なのだろうか。


 「伯爵の孫に会いたかったんだが、どうでもよくなった」

 「なぜ?、暗殺でも企んでたの?」

 「暗殺者が普通に廊下をのこのこ歩くかよ、しかも手ぶらで。

  ただ話が聞きたかっただけなんだが、手土産くらい持ってくりゃ良かったかな。

  貴族は嫌いなんで挨拶の仕方も知らん」

 「何が聞きたいの?」

 「なんだっけな、忘れちまった」

 「それで恍けたつもり?」

 「いや、本気で忘れた。

  あんたを見たら綺麗さっぱり頭から消えた。

  逆に、あんたには聞きたい事がいっぱいありそうだ」


 蕩けた眼差しと緩んだ口元のルーエイを見て、完全に腑抜けて自分の魅力に囚われたと確信した女悪魔は、接近して

 彼の手を取り愛らしく笑った。

 「あらそうなの?

  なら私と気持ちいい事しましょ。

  私を感じさせてくれたら、なんでも教えてあげる」


 据え膳食わぬはなんとやら。

 その卑猥過ぎる肉体を目の前にして、拒む理由を持つ者などいるものか。

 ありがたくその恵沢に浴するに躊躇はない。

 ルーエイは、女悪魔に誘われるまま、廊下の端の部屋へ入って行った。


 ☆


 「ここは私の部屋よ。

  ヴァレフォールが用意してくれたの」


 広い部屋、だが何もない部屋。

 ただ一つ、天蓋付きの大きなベッドがあるだけ。

 いや、ベッドが目立ち過ぎて他の物にまで気が回らなかっただけかも知れない。

 必要な物だけ把握出来れば、後はどうでもいいのだ。


 「その孫はどこにいる」

 「今頃は、自分の部屋で満足していい気分で眠ってるわ」

 一戦終わった後だったか。


 この女は孫に取り憑いて一体何を企んでいる・・・。

 そう考えていると、目の前に歩み寄った女悪魔が両腕を差し伸べ彼の首に巻き付け、顔に顔を寄せて蠱惑の眼差しで

 見つめながら口唇を重ねてきた。

 そのまま強い力で胸を押されてベッドに倒され、彼女がすぐにその上から覆い被さり、手際よく服を脱がせにかかる。

 女の動きには一切の澱みがなく手慣れている・・・、当たり前か。

 男の精を吸い尽くして死に至らしめる、サキュバスとはそういう生き物だ。


 「その前にちょっと聞かせてくれ。

  なんであんたはここにいるんだ」

 「なんでだと思う?」

 「まさか、カニが食いたいからとか言うなよ」

 「フフフ、はずれ〜。

  ヴァレフォールが連れてきたからでした」

 「連れてきた?」


 「南の方に大きな湖があって、その湖の真ん中に小さな島が浮かんでるのよ。

  舟でしか行けない、寂しい無人の島。

  そこには古い神殿が幾つもあって、その一つに私が封印されていたの。

  そうね、一年くらい前かしら、そこを訪れたヴァレフォールが私の封印を解いてくれたのよ。

  そして私を連れ帰った」

 「孫にはそんな力があるのか?」

 「ヴァレフォールは神秘主義に入れ込んでるから、書物にあった呪文を見様見真似で試してみただけよ。

  彼にそんな力はないわ」

 「偶然か」

 「執念かもね」

 「なんでそんな事したんだ」

 「言ったでしょ、彼は神秘的な物が好きなのよ」

 「つまりは、ただの好奇心か・・・」


 興味本位で悪魔の封印を解き呼び覚ます・・・、伯爵の孫とはそこまで愚か者だったのか。

 それで自分自身が呪われていれば世話はない。

 フリーケの説明である程度の印象は掴めていたが、完璧なアホだとは思わなかった。


 「彼は、私が悪魔かどうかなんてたいして気にしてないわ。

  最近ではほとんど人が近寄らなくなった孤島に、わざわざ観光目的と偽って乗り込んだのも、そこに私が封印されて

  いると書物で知って興味を持ったからで、それ以上でもそれ以下でもないのよ。

  きっと、本人は囚われの美女を助け出した白馬の王子様のつもりにでもなっているんじゃないかしら」


 本、恐らく禁書で知った女悪魔に惚れてしまったか・・・。

 それが本当なら、やはりどうにも救いようのない、白痴に等しい虚け者だ。

 とは思ってみても、この女悪魔を夜の女神と履き違えてしまう気持ちも分からぬではないのは、男の悲しい性か。


 「じゃあ、あんたの望みはなんだ」

 「もちろん、自由に生きる事よ。

  せっかく封印を解かれたんだもの、たくさん楽しまなきゃ」

 「そのために孫を誑かして操ってるって訳か。

  生かしてるのは利用価値があるからか」

 「誑かすなんて人聞きの悪い、私が恩人を殺すと思うの?」

 「恩人ねえ・・・。

  だが、誑かすんなら伯爵の方が良かねえか。

  ここの一番の権力者だろ」

 「伯爵?

  ああ、あのおじいさんね。

  老人は誘惑しても面白さに欠けるし、第一美味しくないもの」

 「じゃあ、お前が伯爵を傀儡にした訳じゃねえんだな」

 「何の事?」

 「クルトワーズ伯爵に毒を盛った」

 「あれは、ヴァレフォールが勝手にやった事よ。

  老い先短いロジェ老人は、孫のヴァレフォールに跡を継がせるために、そろそろ嫁を取らせようと考えた。

  そこで、相手として白羽の矢を立てたのが、隣りのクルトワーズ伯爵家の一人娘だったのよ。

  伯爵はクルトワーズを茶会に呼んで、その事を申し入れた。

  でも断られた。

  クルトワーズ家にも後継者は要るものね。

  それを知ったヴァレフォールは怒って、クルトワーズの土産物に毒を忍ばせ、ついでに祖父も呪い殺せって私に指示

  したのよ」

 「なぜ、そんな指示をした」

 「もちろん、早く跡を継ぐためよ。

  あの娘と結婚すればクルトワーズ家の領地がついてくるかも知れないし、なにより伯爵の地位が欲しいのよ」

 「じいさんはまだ生きてるよな」

 「殺してはいないわ。

  まあ、あと少し弱らせればすぐにでも死ぬと思うけど、欲のない人間ほど厄介なものはないわね」

 「ほお、あんたでも持て余す人ってのはいるんだな」

 「聖職者は嫌いよ、基本的に。

  そういえば、私と情を交わした事を悔いて自ら死を選んだ愚かな神父が一人いたらしいわね。

  他の司教や司祭達は私の股の下や腹の上で喜々として昇天していったのに」

 「て事は、ここいらで神父を殺しまくったのはお前か」

 「だって邪魔なんですもの。

  ヴァレフォールに色々言い含めて私を排除させようとしたり、よそから能力者を呼び寄せて退治させようとか画策

  するから頭にきちゃって」

 「王都から来た役人もか」

 「ああ、あの坊やね。

  あれは、関わらなくてもいい事に自ら首を突っ込んだ向こうが悪いのよ。

  大人しく自分の仕事だけしていれば死なずに済んだものを、なにやらあちこち嗅ぎ回ってたみたいだし、王都にも

  頻繁に連絡していたらしいから、怪しいなと思って餌を撒いたらまんまと引っかかった。

  でも、結局私の誘いを断ったから殺してあげたわ。

  生真面目な男って何考えてるのかしらね、自分の信念を貫いて死んでたら意味がないでしょ」


 話をしながらも、女悪魔は休みなくルーエイの体を愛撫し続けていた。

 その、なんとも言えないしなやかな指の動きと舌使いに、彼はたちまち夢心地に陥る。

 商売女のサービスには慣れている彼も、この悪魔の甘遇の前では赤子も同然だった。

 甘く芳しい女の汗の匂いに気持ちよくなってすっかり脱力してしまうと、進んでその上に跨って腰を沈めてくれる。

 こうなると、たとえ彼女に精を吸い取られてしまうと分かっていても、生殖本能が機械的にその任を遂行する。


 「でもおかしいわね、王都から来た怪しい者達は拘束してあるはずなのに」

 「それって今日の事か」

 「あの役人の坊やが死に際に言ったのよ、必ず報いを受ける時がくるって。

  だから、いずれは王都から刺客が送られて来るのは分かっていたわ。

  そこへ、近衛師団の兵士を名乗る者達がこっちへ向かってるって使い魔達が教えてくれたから、ヴァレフォールに

  言って兵を動かして逮捕させたのよ。

  そうしたら、すぐにあなたがやって来た。

  仲間を助けにでも来たのかしら?」

 「だったらどうする?」

 「あらあら、悪魔と知ってその態度。

  人如きが私に抗えるとでも思ったの?」

 「そりゃ無理だわ」

 「そうよ、あなたはこのままここで死ぬんですもの。

  誰も逃れられはしないわ。

  でも悲しまないで、人生の最期に人生で最高の快楽を味あわせてあげるから」


 女悪魔の口は終始滑らかだった。

 腰の動きはそれにも増して滑らかだった。


 ☆


 女の体から発せられる芳香・・・。

 悪魔の肉体による至高の饗応・・・。

 めくるめく快楽と愉悦の極み恍惚境の中で、急速に時間の感覚が失われていく。

 果たして、何度注ぎ込んでしまったか・・・。


 のぼせきって女の動きに身を任せるだけのマグロと化した彼に顔を寄せ、女悪魔は優しく囁く。

 「あなたが何者でも、私には関係ないわ。

  どうせ初めから殺すつもりだったんですもの。

  けど、お別れに名前くらいは聞いておいてあげるわ、なんて言うの?」

 「・・・ルーエイ」

 「ルーエイ・・、おかしな名前ね。

  じゃあルーエイ、そろそろお眠の時間よ」


 彼が、虚ろな目で掠れ掠れに尋ねる。

 「あんたは・・・」

 「リル・・、アルダート・リルよ」

 「そっか・・・・」

 「もう少しよ・・・、今、楽にしてあげるからね」


 命の炎が燃え尽きる・・・、彼女がそう思った時、ルーエイは藪から棒に突飛な事を言い出した。

 「あんたさあ、ショートカットの方が似合うぞ、きっと」

 言いながら、徐に腕を伸ばし、リルの長い髪をうなじの根元辺りでむんずと鷲掴みにする。

 更に、そのままガバッと上体を起こして態勢を入れ換えるなり、彼女の体をベッドに俯せに強く押し付けて馬乗りに

 なった。


 「い、いや!

  なにすんのよ!」

 ルーエイの突然の行動に、リルは驚き焦った。

 あと少しの命だと思っていたのに、瀕死の男がなぜにこうも機敏に動けるのか。


 「な、なんだお前は、なぜ・・・」

 「俺がもうすぐ死ぬとでも思ってたのか?

  あり得ねえって、あんた程度の魔力じゃね。

  俺にはちっとも効かねえよ」

 「な、なんですって?

  まさか・・・、信じられない。

  一生分の精力を吸い尽くしてやったのに・・・」

 「気に入らねえならもっと続けるかい?」

 「お前は、一体何者だ」

 「あんたも聞いた事ぐらいはあるだろ、邪眼ってヤツ」

 「じ、邪眼?、まさか!」


 リルは、そこで初めてルーエイが初見で彼女の正体を見破った理由を知った。

 邪眼とは、魔を見抜き、その力を滅し、あるいは人を自在に操り、または癒やし、呪い、死を司る力。

 男を惑わす術に秀でたサキュバスの魔力を以てしても比較の対象にすらならない、そんな上級悪魔並みの超絶能力を

 身につけた人間がいるなんて、そんな話は未だ嘗て一度として聞いた事がない。


 「どういう訳だか、俺にはその力があるらしい。

  なんで、あんたの力を帳消しにすんのは訳もない、煙草に火を着けるより簡単だ」

 「そ、そんなバカな、じゃあ私は何を・・・」

 「夢を見てたのはあんたの方さ、俺の術に引っかかった。

  楽しかっただろ」

 「あ、悪魔に幻術ですって!?」

 「立場が逆転したな」


 ルーエイは、リルの髪を握ったまま周囲を見渡し、部屋の中に何があるのか改めて観察した。

 ベッドの脇にはテーブルがあり、オレンジやグレープを乗せた皿が置いてある。

 彼は、その皿の横に置いてあるフルーツナイフに手を伸ばした。


 「あんたはここから出て行け。

  二度と戻ってくるな。

  言う事聞かねえと、この髪ぶった切るぞ」


 髪は女の命。

 それは、女悪魔であっても同じ事。

 髪は魅力の源であり魔力の源でもある。

 それを切られてしまったら、魔力の大幅な減衰は免れない。

 しかも、相手が邪眼の持ち主となれば、彼女の勝算は限りなくゼロに等しい。


 「わ、分かったわ、あなたの言う通りにするから、もう放して!」

 「・・・・悪い、もう遅い」

 彼の左手には、バッサリ切り落とされた無惨な髪の束が・・・。


 「キャーーーッ!」

 リルの甲高い悲鳴が響く。

 「返事する前に切る奴がいるか!、このバカァ!」

 「き、気にすんな・・、ほら、その方が可愛げがあっていいぞ、魅力倍増だ、俺が保証する」

 「そんな保証いるか!」


 リルは、潤んだ目でルーエイを睨み怒鳴りつけながら、ベランダの方へ向かって走り出す。

 「おーい、出てくんなら今朝の逮捕は誤解だったって孫に言ってからにしろよ」

 「知るか!、自分でやれ」

 捨て台詞を残し、掃き出し窓を開け放って、外の暗闇の中に姿を溶け入らせて消えてしまった。


 「あ〜あ、行っちまった。

  勿体なかったな、いい女だったのに・・・」




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