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毒殺と決闘


 05 毒殺と決闘



 一行を乗せた船は湾を横断し、ロジェ伯爵領の玄関口に当たる港町エピノーシュに到着した。


 数時間に及ぶ内海の船旅は、天候にも恵まれ終始穏やかで、まるで遊覧船に乗るが如く快適だった。

 おかげで、体力的にはたいした消耗もしていなかったが、その日は無理をせずにそこで一泊した。

 陽が西に傾き始めてから出発しても、その先には夜を凌げる場所が見つからないと分かっていたからだった。


 ロジェ伯領は、小さな集落が比較的短い間隔で幾つも点在していたこれまでの諸領とは、少し趣を異にする。

 一旦町を離れてしまうと、次の町までは丸一日を要し、途中には人っ子一人住んでおらず、手つかずの雑草と雑木の

 荒野地が延々と続く。

 いわゆる、長閑な田園風景というものが見られない。

 よほど計画的に進まないと、徒歩移動の者は確実に野宿に迫られる事になるくらいだ。

 これは、他の地域との産業構造の違いを意味し、小規模経営の農業従事者が極端に少ない事の現れとも言える。

 気候のせいなのか、土壌のせいなのか、理由は地理的条件なども含めて多々あるのだろう。

 北端部以外は全て海に囲まれた縦に細長い半島では、住民は漁業関係の仕事に就く方が手っ取り早いのかも知れない。


 翌日、港町を出た一行は、北側に鋭く切り立つ巨大な岩の山脈を遠く眺めつつ、それを迂回するように延びる街道を、

 ゆったりと馬車に揺られながら進み、日暮れまでにはクルトワーズ伯爵領に入った。

 パラス嬢にとっては、約一年振りの故郷の地である。

 これで、お姫様の心持ちも幾らかは軽くなるだろう。

 他の皆も安心して一様に気が緩み、その日の宿ではお姫様の労いで簡単な祝宴も催された。

 小さな田舎町の宿なので、晩餐もさして豪華とは呼べないながらも、楽しそうにそれに興じる傭兵達の顔を見ていて、

 フリルは、彼等のリラックスの度合がこれまでとは違うと感じた。

 勝手知ったる地元に戻った事で、任務終了間近を実感しているのに違いない。


 彼女が特に珍しく思ったのは、ルーエイが一人で出かけずに宿に留まっていた事だった。

 こんな事は、この旅始まって以来初ではないか。

 彼は、周りと同調して和気藹々とするでもなく、部屋の隅で一人でちびちび酒を飲んでいた。


 「あれ、今夜は外出しないのね」

 「たまにはな」

 「あなたも気が抜けたの?

  みんなはもう仕事が終わったみたいに緩んじゃってるわよ」

 「関係ないね、この町に遊び場がないだけだ」

 「あなたの仕事はまだ終わってないって?」

 「まあな。

  あんたはこの先どうする気なんだ。

  フォーシュって町に行きたいんだろ、いつまでこいつらと連んでる気だ」

 「うん・・・。

  でも、お姫様も気になるから最後までついて行くよ。

  お父さんの代役を気取るつもりはないけど、ちゃんと見届けたいなって思うから」

 「やれやれ、お気楽なこって。

  俺は早くあんたを送って解放されたいんだ、余計な真似はしないでくれよ」


 そうだ、彼はお父さんの依頼でフォーシュまでは一緒に行ってくれるけど、町に着いたら別れなくちゃならないんだ。

 いよいよ幼馴染みのルネに会えるのは嬉しいし、楽しみでわくわく感は出発前より一層高まっている。

 だけど、それと引き替えにルーエイと離れるのは嫌だ。

 知りたい事、聞きたい事が山ほどあるのに・・・。

 父親と離れた事による一抹の寂しさも癒えない中で、新たな別れが避けられないと突き付けられると、一段と複雑な

 気持ちになる。


 帰りも送ってくれないか、頼んでみようかな・・・。


 ☆


 三日後、クルトワーズ伯爵領の領都アヴァシーに到着。


 アヴァシーは、非常に大きな町だった。

 それにも関わらず、雑多でゴミゴミした雰囲気は一切なく、主要な通りはどこも花や街路樹で彩られ、むしろ瀟洒で

 落ち着いた大人の町という印象を与える。

 ペルスネージュの言っていた通りに、多数の傭兵共が我が物顔で闊歩しているかと思いきや、一見してそれと分かる

 ような粗野で無頼な男達の姿は見受けられない。

 路上で見かける住民達は、最前線の国境からは少し離れた場所故か、緊張感も警戒感もなく、殺伐ともしていない。

 国内で最も戦争に近しい領地ではあっても、非戦時は平和そのものだ。

 一行は、伯爵の住む邸宅に向かって馬車を走らせた。


 クルトワーズ家の当主、ガーナシュリー・ド・クルトワーズは、一時的に重篤な状況に陥ったものの一命は取り留め、

 現在の症状は比較的安定している。

 出迎えた白髪の執事長コナールにそう教えられ、パラス嬢はひとまず胸を撫で下ろす。

 ラドルと共に、メイド達を従えて父親の寝室へ向かったお姫様を除く一行は、邸宅内の控えの間に通されて、そこで

 待つように指示された。

 招かれざる客であったフリルは、政府随行員の関係者という事で、傭兵達と共に入邸が認められていた。

 その中に、ルーエイの姿はない。

 彼は、馬丁のトレナールと共に馬車に残って、荷下ろしの手伝いをしていたはずだったのに、フリルが呼びに戻った

 時には、既に人知れず敷地から姿を消していた。

 トレナール曰く、館でメイドに手を出すと後々面倒臭いので、外であそびめを探すつもりなのだそうだ。

 彼らしいというか、彼ならではというか、何よりもそっちを優先するのは彼以外にはいない。


 数分後、久々の対面を終えて戻ってきたお姫様の表情は、到着時とは段違いに落ち着いていた。

 父親は就寝中だったにせよ、無事をその目で確認出来たのは、精神衛生的には大きい。

 再び顔を揃えた一同を前に、コナールが事態の経緯を説明した。

 それによると、ガーナシュリーはある日突然、激しい腹痛と発熱を訴え、更には頭痛、嘔吐、手足の痙攣に見舞われ、

 終いには意識障害を起こして意識を失ってしまい、その後三日間に渡って生死の狭間を彷徨った。

 コナールは、すぐに王都にいるパラス嬢に緊急事態を告げる手紙を出し、迎えを出す準備を始めた。

 そして、傭兵達が出発した翌日、四日目にしてようやく意識を回復し、以降は徐々にではあるが快方に向かっている

 という。

 その上で、床に伏せったままゆえ政務の方が滞ってしまっていると、政治家の執事として嘆ずるのを忘れなかった。


 キオードは、その症状に覚えがあった。

 「毒のようだな」

 「毒!?」

 その呟きに、一同の間に動揺が広がる。

 まさか、そんな事が本当にあるのか。

 確かに、貴族の社会では陰に隠れて密かに様々な策謀が渦巻き、暗殺、毒殺などという話も聞かぬではない。

 さりとて、それが現実に身近で起こるとは中々予想し辛い。

 クルトワーズ家では、これまで一度たりとも、そうした国内の政争などに巻き込まれた事もなかったし、隣国からの

 軍事的越境侵攻を除けば、代々一貫して平和で安定した領政が運営されてきた。

 そのため、ガーナシュリーが暗殺の対象になるなどとは、誰一人として考えてもいなかった。


 お姫様の顔から血の気が失せた。

 「な、治るのですか?」

 「何の毒か分からなければ解毒は難しい。

  種類を間違えると逆効果にもなる。

  だがまあ、既に峠は越えているので、それで死ぬ事はないだろう」

 以前、セランがフリルに語ったように、キオードは暗殺の専門家である。

 針を用いてターゲットを刺殺するのが彼の得意技で、状況によっては毒を塗ったりする場合もあるので、毒物関係の

 知識は人並み以上に持っている。


 セランが核心に触れる。

 「だが、伯爵を毒殺しようとした奴がいるってのは確かなんだな」

 「可能性は高い。

  自分で飲まなければ誰かに飲まされるしかない」

 「一体どこのどいつだよ、伯爵の飯に毒を盛るなんて。

  外部の人間には難しいよな」


 これを聞いたコナールが憤慨する。

 「な、なんじゃと!

  この傭兵風情が、出過ぎた事を口走るでない!

  貴様等如きに疑われる謂れはないわ!」

 下に見られ怒鳴られても、セランはいつものようにヘラヘラしている。

 「他に誰がいるよ。

  この屋敷に出入り出来る奴が真っ先に疑われて当然だろーが」

 「あり得ん、あり得んぞそれは。

  ここの使用人は長年、それこそパラスお嬢様がお生まれになるよりも前から仕えさせて頂いておる者達ばかりじゃ。

  旦那様とて、昨日今日のおつき合いではないのじゃぞ」

 「誰かに買収されたのかも知んねぇぜ、金の力でな」

 「お主等と一緒にするな!

  そんな物で軽々しく動かされるような者達ではないと言うておる」

 「そんなに青筋立てんなって。

  貴族の世界じゃ権謀術数は日常茶飯事だって言うじゃねぇか。

  伯爵が死んで得をする奴は幾らもいるんだろうぜ。

  何が起こっても不思議じゃねぇんだろ」

 「滅多な事を言うでない!

  そもそも、毒などどこから手に入れる。

  私にはその術さえ想像もつかん」


 「多少の知識があれば難しくはない。

  植物や動物のみならず、土や石の中から採れる物もある。

  庭のその辺に生えている草花でさえ、毒の成分を持っているものもあるかも知れない。

  そういうのは魔導師の方が詳しいだろう」

 キオードの言葉に反応するように、一同の視線はその場にいる唯一人の魔導師であるペルスネージュに向けられるも、

 彼女は、目を伏せたまま紅茶のカップをすすって、無関心な素振りをする。

 この話に干渉する気はないらしい。


 「要するに、素人でもその気になりゃ毒は作れるんだな」

 「だが、普通素人はやらない。

  毒殺を企てるなら、少量でも確実に殺せる致死率の高い猛毒を使うのが常道だ。

  それは、扱いを間違えば自身も死ぬ危険がある物でもある。

  非家がその場の思いつきで安易に手を出せるような代物ではないよ。

  毒性の低い毒を使って徐々に体を弱らせ、死に至らしめる方法もあるにはあるが、時間がかかる上に今回のような

  急性中毒の症状が現れる事はないから、実行者には高い計画性と忍耐力が求められる。

  即効性を期待する常人なら別の方法を考えるだろう」


 「一番怪しいのはコックだな」

 「おのれまだ言うか!

  ここの者達ではないと何度言わせる」

 疑うセランと否定するコナール。

 キオードはそこを鋭く突いた。

 「その言葉、心当たりがあると解釈していいのだな」

 「そ、それは・・・・」

 コナールは一瞬口籠もる。


 「なんだそうなのか、そうならそうと早く言えっての」

 「あまり、曖昧な事は言うべきではないのだが・・・。

  3週間ほど前、ロジェ卿のお招きで園遊会へ赴き、帰った翌日の朝から容体が急変して・・」

 「ほお、伯爵が伯爵を毒殺しようって企てたのか。

  パーティーに呼んで飯に毒を盛る、ちょっと分かり易過ぎやしねぇか」

 「だから、拙速には決められぬと申しておるではないか。

  旦那様とロジェ卿はそんなご関係ではない。

  それほど親しい間柄という訳でもないが、決して疎遠な仲ではないのじゃ。

  折りに触れては茶会や園遊会などにも招待し合っており、時には往来もある。

  とてもにわかに信じられる事ではないのじゃ」

 「そうなのか?、お姫様」


 ずっと神妙な面持ちで聞いていたパラス嬢は、自らの記憶を呼び起こしつつ答えた。

 「そうですね・・・。

  わたくしも、一度ならずロジェ卿にはお会いした事がありますし、お屋敷にお伺いした事もあります。

  わたくしの知る限りでは大変温厚なお方で、とてもそのような事に関わる方とは思えません。

  ですので、何かの間違いではないかと考えています」


 「疑う理由がない、か・・・」

 セランは、お前もなんとか言ってやれと言いたげな視線をキオードに投げた。

 「そんな顔で俺を見るな。

  もっと不思議な事に気付かんのか、お前は」

 「なんだ?、それは」

 「考えてもみろ、ロジェ伯の邸宅からここまではどのくらいある。

  少なくともここから領境まででも馬車で三日はかかるんだ」

 「俺が知るか。

  どうなんだ、じいさん」

 「ロジェ卿のお住まいのあるサンロジまでは馬車で四日、途中エピノーシュから船に乗り海路で更に一日かかる。

  もちろん全行程を陸路で行く事も可能じゃが、その方が時間がかかってしまうからの」

 「つまり、邸宅で食事をしてからおよそ一週間後に発症した事になる。

  それほど潜伏期間が長いのに、意識を失うほどの重篤な症状を引き起こすものだろうか。

  だとすると、俺達が使う毒とは違うな」

 「今更何言ってる、最初に毒だっつったのはてめぇだろ」

 「園遊会での混入を否定したまでだ、他の可能性は排除しない」

 「他の可能性って何だよ」

 「執事長はまだ言い足りない事がありそうだぞ」

 「そうなのか?、だったら隠してないでさっさと言え」

 「そ、そんな事はない。

  お主等如きが知る必要のない事じゃ」

 「おいおい、俺達ゃ出発前から伯爵が重病だって知ってたんだぜ。

  今頃になって部外者扱いはよしてくれ」


 「実は・・・、旦那様はご帰宅した翌日のご朝食に、ロジェ卿からお土産としていただいた海外産の輸入物のハムを

  お召し上がりになったのじゃ」

 「やっぱり犯人はコックだったか」

 「違うと言うに!」

 ふざけるセランとは逆に、キオードは至って真面目に質問する。

 「食したのはハムだけか?」

 「そうではないが、他は野菜もワインもいつも召し上がっている地場物ばかりじゃ」

 「焼いたのか?」

 「火は通しておらん。

  燻製ハムがそうそうすぐに傷むとは考えんじゃろ」

 「その残りはどうした」

 「まさかとは思ったのじゃが、恐ろしかったのですぐに処分するよう命じた」

 「なるほど・・。

  ただの食中毒かも知れんし、外国の見知らぬ病原菌かも知れん。

  病気の可能性もあれば単純に暗殺を疑うのも憚られるが、事故を装った謀殺も否定出来ない。

  だから歯切れが悪かった訳か」

 「その通りじゃ」

 「医者や魔導師はなんと言った、診せたのだろ」

 「お主と然して変わらん。

  毒にしろ病気にしろ、その原因物質を特定出来なければ根本解決にはならんとな。

  その後回復の兆しが見えて事無きを得たのじゃが・・・。

  なればこそ、事を荒立てる訳にはいかんのじゃ。

  外に知れたらどうなるか、分かったものではない」

 「という事は、ロジェ伯の方には確認していないのだな」

 「無論じゃ。

  お主等にも堅く口止めしておく、一切他言は無用じゃぞ」


 キオードは、コナールの言葉に無言で了承する意思を示した。

 一方のセランは駆け引きを怠らない。

 「いいぜ。

  ただし口止め料は別料金だ、弾んでくれよ」

 「この強突張り共め」


 伯爵が毒殺未遂か、というキオードの衝撃発言に、一度は戦慄した一同ではあったが、そう簡単に結論出来るほどに

 単純な話ではないとも分かった。

 その上、伯爵の病状も緩解しつつあるとあって、それを深く追求しようとする者は現れなかった。

 事が事だけに、憶測だけでの軽率な言動は厳に慎まねばならないのは、誰もが承知している。


 ☆


 それから二日後、この旅で命を落としたオラージュとバローの二人の葬儀が執り行われ、それをもってパラス嬢護送

 任務の全てが完了し、一団は解散となった。

 身支度を調えて、控えの間に集まった傭兵達には報酬が支払われ、その際、コナールから、今後お嬢様が王都へ戻る

 機会が訪れた場合に備えての、再雇用に関する話がされた。

 要は、いつでも速やかに連絡が取れる場所にいる事を要求されたのだ。

 アヴァシーの近郊から離れるな。

 それは、パラス嬢以外の後継争いの諸派閥に買収されないよう、釘を刺されたようなものでもある。

 ガーナシュリーが存命中の間は、後継者争いなど起こりようもない。

 だが、もし今回の暗殺未遂かも知れない事案が彼等の知るところとなったら、それが一気に具体化してしまう。

 親族にさえも情報を伏せねばならない貴族社会の世知辛い現実が、そこにはあった。


 話を聞き終えたセランは、立ち上がって私物の入った大きめのバッグを肩にかけた。

 「そんじゃあ、金も入った事だし、街へ行って酒でも飲むか。

  辛気臭いのは性に合わねぇ。

  お前も一緒に行こうぜ、キオード」

 「遠慮する。

  仕事が終わった後まで行動を共にする義理はない」

 「その言い方はねぇだろ。

  つくづくつき合い甲斐のないヤツだな、お前は」

 「気にするな、短気で粗暴な奴が嫌いなだけだ」

 「あーそうかいそうかい。

  じゃ、あばよ。

  二度と会わん事を祈ってろ」

 二人は、悪態をつき合いながら部屋を出て行った。


 それを黙って見送るフリルに、背後からペルスネージュが声をかける。

 「フリちゃんどうするの、これから」

 「うん、明日出発しようかなって思うんだけど、ルーエイがどっか行ったまんま帰ってこないんだよね。

  どこ行っちゃったんだろ・・、これじゃ連絡も取れやしないよ」

 「見事な鉄砲玉。

  いかれブーメラン」

 「そんなとこで感心しないでよ、こっちは焦ってるんだから」

 「あんなヤツ放っとけばいい。

  私が一緒に行く」

 「え?、一緒に行ってくれるの?

  ネージュちゃんが?」

 「うん」


 無表情の中にも心弾む感情を覗かせながら、コクリと頷くペルスネージュ。

 フリルは、その思いもよらない発言に嬉しさが込み上げる。

 ただ、同時にある一つの迷いが生じて、すぐには答えを返せなかった。

 諸手を挙げて喜んでくれると期待していたペルスネージュは、その反応を意外に思った。


 「ダメ?」

 「そ、そんなことないよ、すっごく嬉しいよ。

  嬉しいけど・・・、傭兵を雇うお金はないなぁ」

 「大丈夫、商売抜き」

 「でも、この近所から離れないようにって、さっき言われてたよね」

 「問題ないのです。

  カニ食べに行くだけだから。

  海鮮フルコース、食べ放題」

 「カニかぁ・・、私も食べたいな」


 内陸部の王都では、目玉が飛び出すほどの価格をつける最高級食材のカニ。

 フリルですら、これまで口にしたのは僅か三度だけ。

 しかもフルコースで食べ放題だなんて、それこそ夢のような話だ。

 考えただけでよだれが止まらなくなる。

 幼馴染みに会う他に、楽しみが一つ増えた。


 二人の会話に、更に一人が加わった。

 「そういう事なら、私も同行しよう」

 「ロワールさん」

 「食事に行くのは誰も止められない。

  ロジェ伯領の海鮮料理は傭兵達の間でも有名だ。

  こっちで新鮮な魚介を口に出来る事はあまりないから、休暇を利用して足を伸ばす者はよくいる。

  それに、あの男なら心配は要らない。

  トレナールに聞けば、あいつは様子を窺いに毎日こっそり顔を出していたらしい。

  なので、お前が明日発つ事もすぐに伝わろう。

  朝になればひょっこり現れるさ」

 「トレナールさん?」

 「馬車を用立ててくれるよう頼みに行った。

  伯爵家のは使えないし、定期馬車は乗り合いだから遅い上に時間の制約が多いので鬱陶しい。

  彼は請け合って御者も買って出てくれた」

 「ロワールさん、馬車を手配してくれたんですか?、私のために?」

 「それとも、お前は徒歩で行く気だったのか?」

 「い、いやあ・・、すっかり忘れてました。

  ありがとうございます、助かりました」

 「脳天気な奴だ。

  先が思いやられるな」

 「大丈夫ですよ・・・、たぶん」


 ロワールとペルスネージュは、それぞれの思惑でフリルに同行を申し出たのだが、図らずも二人の目的は同じだった。

 海鮮料理目当てと口では言っていても、それは実質的には二次的な名目上の目的と言っていい。

 彼女等の真の目的は、ルーエイの不思議な力を見極める事にある。

 彼はなぜ魔剣を持っているのか。

 普通に考えて、魔剣とそれを操る魔力を有する浮浪者などいるはずがない。

 魔剣などそんじょそこらにある物でなし、しかもそれを振り回せるだけの魔力を持っているのであれば、それ相応の

 特別な訓練を受けていなければならず、当然それに関連した職業に就いていて然るべきだ。

 希少性を考えるまでもなく引く手数多である。

 そんな男がなぜ無職なのか。

 彼には、必ず隠された秘密があるはずなのだ。


 あと一つ、強いて目的を挙げるとすれば、ルーエイの毒牙からフリルを守る事だろうか。

 若い男女が二人きりで旅行をすればどうなるかは、深く考えずともその先は予想がつくし、ルーエイが女好きなのは

 これまでの彼の行動から察しがついていた。

 まだ乙女と思われるフリルを、あのような掴み所のない助平男の側に置くのは危険過ぎる。

 もっとも、彼女が自らそれを望んでいる節もあるので、あまり強硬な振る舞いは避けるべきなのかも知れない。

 フリルを守らんとする二人にとっては、いずれ判断を迫られる場面も来るだろう。

 それはそれで煩わしい。


 ☆


 夜が明けて、いよいよ出発の朝が来た。

 まず、ロワールとペルスネージュが徒歩で邸宅を後にし、次いで、フリルがパラス嬢や執事など世話になった関係者に

 別れの挨拶をして、トレナールが用意してくれた馬車に乗り込み出発した。

 門を出て少し行った所で、先発の二人と合流してピックアップする手筈になっている。


 「なんだ、前に使った荷馬車とたいして変わらんのか、小型になっただけだ」

 馬車を見て不満を口にするロワール。

 フリルは違いをアピールする。

 「でも中は違いますよ、ベンチシートが付いてるんです、ほら。

  これで、横になっても痛くないですよ」

 言ってる側から、真っ先に馬車に乗り込んだペルスネージュが、すかさずそのベンチシートの上でゴロンと横になり、

 気の抜けた声で一声発する。

 「いざぁ、しゅっぱつぅー」


 動き出した馬車の中で、フリルは改めてロワールに感謝を述べる。

 「本当にありがとうございます。

  私なんかにつき合っていただいて」

 「礼には及ばない。

  それに、お前との手合わせもまだだったしな」


 あやや、しっかり憶えていたんですね、ロワールさん。

 いかに負けず嫌いのフリルでも、あれだけの実力差を見せつけられてしまうと、もはや試合などする気力もない。

 出来れば忘れていてくれればと願っていたのに・・・。


 「あ、あ、あれは・・・。

  あれは社交辞令って事で・・、ヘヘ」

 「ふん、そうか。

  それならそれでいいさ、私も余計な気を遣わなくて済む」


 さもありなんと言わんばかりに鼻で笑って、ロワールは目を閉じた。

 フリルが自身の力量を正確に把握していれば、百戦錬磨のロワールと試合をしたところで、腕試しにもなりはしないと

 すぐにでも分かるはずだ。

 そればかりか、自信を喪失して二度と立ち直れなくなってしまう可能性すらある。

 二人の差はそこまで隔絶していると、ロワールは考えていた。

 であればこそ、フリルの辞退は至って賢明な選択なのだ。


 フリルは、その件にはもう触れないでと言いたげな表情を見せ、顔を御者席に向けて別の話題を持ち出す。

 「それよりトレナールさん、本当にルーエイは来るんですよね」

 「へい、途中で拾うように言われとりますんで。

  ちゃんと待っててくれさえすれば問題ありやせん」


 トレナールは余裕の笑顔で答えるも、その言葉にはやや気懸かりな点があった。

 「途中って、どの辺?」

 「さあ」

 「さあって・・・」

 ちゃんと約束してたの?、いい加減だなぁ。

 これだから男って奴は。

 しっかりと、待ち合わせの場所や時間を確認していない男共に不安を感じるフリル。

 彼女の父親ならば、この程度で人を心配させたりする事もないだろうに。


 ☆


 その肝心のルーエイが・・・・、街角に立っているのが見えてきたのは、それから暫くしてからの事だった。

 そこは、町外れに近い、住宅街とは異質の雰囲気を持つ細い路地へと続く交差点だった。

 一目で狭斜街と分かるそこを、彼は根城にしていたのだ。

 馬車を見つけて接近し、後部荷台に乗り込んだ彼は、そこに見知った二人の女性の姿を見てゆくりない顔をする。


 「なんだお前等、一緒についてきたのか。

  暇だな」

 ロワールが冷たい視線を返す。

 彼の第一声にカチンときたらしい。

 「否定はせんが、お前に言われると胸くそ悪いな。

  斬り刻んでやりたくなる」

 「よせやい、せっかくの馬車をあんたの血で汚す気か」

 「本気で殺すぞ貴様」

 ルーエイの減らず口にムッとするロワール。

 彼の発する一言一句がいちいち癇に障る。


 「殺すなら美味い飯食った後にしてくれ。

  ひもじいまま死ぬのは勘弁だからな」

 「心配するな、寝首を掻くような真似はしないさ。

  貴様如きには計算も駆け引きも要らん。

  ただし、フリルに余計な真似をしたらその時は問答無用だぞ」

 「なんだお目付役か。

  俺がなんかやるとでも思ってんのか」

 「やりかねんから言っている」

 ロワールをフリルの護衛のためについてきたと解釈したルーエイは、それ以上彼女と話すのをやめた。


 あからさまに不機嫌で喧嘩腰なロワールとは対照的に、ペルスネージュは素直に応じる。

 「お前は何しにきたんだ、ペル」

 「カニ食べ。

  ペル言うな」

 「カニか、俺にも食わせろよ」

 「いいよ。

  代わりに魔法教えて」

 「知らねえよ、魔法なんて」

 「嘘つき、知ってるくせに」

 「別の事なら手取り足取り教えてやれるんだがな・・、やめとこう」

 「何それ」

 「お前の乳がもっと成長してからの話だ。

  それまではおあずけだ」

 「ぶーぶーぶー。

  足るを知れ、エロルー」

 「なんだ?、お前のはそれが限界か」

 「・・くそ〜、泣いてやる、呪ってやる」

 「分かった分かった、俺が悪かった」


 ☆


 馬車は、のんびりとロジェ伯領を目指して街道を南へ進む。

 道中、フリルは、クルトワーズ伯爵の症状についてルーエイに話して聞かせた。

 ずっと一緒に旅をしてきたのだから、他言無用なれど事の顛末は知っていてもいいはずだと考えての事だった。

 せっかく気を利かせてやったのに、あいにくと、彼は時折相槌を打つ程度でほとんど関心を示さなかった。

 毒がどうの伯爵家の今後がどうのと言われても、それで何を答えればいいのか、彼にはとんと分からない。

 ただ、その中にロジェ伯爵の名前を聞いた時、表情が一瞬だけ変わった。

 フリルはそれを見逃さなかった。


 「どうかしたの?」

 「いや、別に。

  ロジェってどんな奴なんだろうなって思っただけさ」

 この旅で、初めて彼が女性以外に興味を示した。

 「なんか知ってるか?」

 「全っ然。

  あっでも、とっても穏やかな人だってお姫様が言ってたよ」

 「お姫様は会った事があるのか・・・」

 ブツブツと呟くルーエイ。

 「え?、今なんて言ったの?」

 「いや、なんでもない」


 これを横で聞いていたロワールが口を挟んだ事がきっかけで、のんびり旅が激変してしまう。

 「ふん、どうせ、今頃になって手をつけておけばよかったと後悔してるのさ」

 「あ〜まあ、そんなとこかな」

 この、いい加減な他人事のような答えが、ロワールの機嫌を逆撫でしたのだ。

 ずっと彼に対して抱いていた不満、鬱憤が一気に爆発する。

 「首を出せ、ぶっ殺す!」

 よほどこの男が嫌いらしい。


 鞘に手をかけ、今にも剣を抜きそうなロワールをフリルが宥める。

 「ま、まあまあロワールさん、そんなに興奮しないで」

 「そうだそうだ、余計に腹が減るだけだぞ」

 「だから一生腹が減らないようにしてやると言っている!」

 「落ち着いてくださいよ、どうせもうお姫様に会う事もないんですから」

 「まったくだ、冗談も通じねえのかよ、この女は」

 「貴様のは冗談ではない、挑発だ」

 「あんたなんか挑発して何の得になるんだ、暇つぶしでもそれはやらん」

 「なんかとはなんだ!」

 とうとうロワールがブチ切れた。


 彼女は、出し抜けに馬車を飛び降りると抜刀し、ルーエイに向かって降りてこいと怒鳴りつけた。

 もはや怒り心頭に発し、腕ずくで黙らせないと気が済まなくなっている。


 「やれやれ、面倒臭い女だな・・」

 激情型の女は度し難いと、煩わしそうに頭を掻くルーエイ。

 「フリル、お前の剣貸してくれ」

 「や、やめなさいよ、無事じゃ済まないかもよ」

 フリルは不安げな顔をして止めようとする。


 命の恩人は無敵のヒーローである。

 その彼が負けるはずはないと思いたいが、相手はあの二枚刃の黒姫なのだ。

 未だその実力の全容を見せたとは言えないロワールと相対して、いかにヒーローとて到底無傷で終わるとは思えない。

 「心配すんな、真面目にやる気なんかねえよ」

 彼は、そんな懸念すらどこ吹く風。


 借りた剣を手に馬車を降りたルーエイを見て、ロワールは更に怒りを増幅させた。

 「貴様ぁっ!、自分の剣で戦え!」

 「いやだ」

 「私に折られるのが怖いか」

 「そんな血走った目で俺の剣が折れる訳ねえけど、なんならそこに転がってる棒っ切れでやってもいいぞ」

 「おのれ・・、どこまで愚弄する気だ!」

 「おいおいちょっと待てよ。

  あんたはやりたい放題やったらそれで満足するんだろうがよ」

 「何が言いたい」

 「俺が勝ったら何してくれる?」

 「フン、百歩譲ってもあり得ないがいいさ、好きにすればいい」

 「なら、その体で払ってもらおうかな。

  後から四の五の言わせねえぞ」

 「とっとと地獄へ行け!」


 叫びながら、遂にロワールの剣戟が炸裂する。

 ダッシュと同時に、一瞬で距離を詰めて斬りつけた。

 だが、その剣は空を斬る。

 ルーエイは素速い身の動きでその切っ先を躱していた。

 ロワールにとってそれは織り込み済み。

 彼女は両手に剣を持っている。

 すかさず踏み込んでもう一方の剣で斬りかかる。


 ルーエイは、軽くジャンプして後ろへ退き間合いを取った。

 「残念でした。

  二刀流が一撃目を陽動にして二撃目で狙ってくるのは読めてるっての」

 「それがどうしたっ!」


 いよいよ、ロワールが本気を出し始める。

 彼女は、驚異的なスピードと剣捌きで立て続けに攻撃を加えた。

 離れて見守っていたフリルには、とても目で追いきれるものではない。

 その息をもつかせぬ速さ、鋭さ、正確さは、今まで見たどの剣士をも凌駕する。

 こんなのは、生まれて初めて見た。

 両手に二本の剣を持ち、舞うように軽やかに、華麗に俊敏に、間断なく刃を突き放つ。

 それはそれは、美しくもあり、恐ろしくもある。

 二枚刃の黒姫の二つ名は、伊達ではなかった。


 ところが、その圧倒的な攻撃も、ルーエイの珍妙な体の動きによって悉く無効化されてしまう。

 彼は、まるでサーカスの曲芸か何かのような、奇抜極まりない身の躱し方を見せた。

 およそ武道家のそれとは一線を画している。

 飛んだり跳ねたり転んだり、はたまた地面に突き立てた剣の上で逆立ちしてみたり。

 一見してふざけているかのようでもあるものの、その身軽さは予想していた以上に並外れていた。

 予測不能で、ロワールの剣は常に後追いにならざるを得ない。

 しかも、彼はアクロバティックな体術で剣を受け流し続けるその一方で、全く反撃しようとする素振りもない。

 イライラが募る。


 「何のつもりだ貴様!

  チョコマカと逃げてばかりじゃないか!

  その剣は飾りか!」

 「そりゃねえだろ。

  俺だって一生懸命やってんだ、死にたくねえからな」

 「だったら攻撃してこい、そのまま逃げ続けていたのでは私には一生勝てんぞ」

 「カウンターを狙ってんだろ。

  悪いが無駄だよ、あんたの剣は見切っちまったからな」

 「ならばかかってこい!

  このピエロ!」

 「その手には乗らねえっての」


 なおも、ルーエイは逃げ回り続けた。

 なぜ、彼は反撃してこないのか。

 見た事もない曲芸以外にも、まだ何かを隠していそうだ。

 何から何まで忌々しい・・・。

 ロワールは怒りを迸らせ、小癪なピエロの化けの皮を剥いでやろうと一段と躍起になった。


 彼女は、本気で殺すつもりだった。

 そのつもりで全力でぶちのめしにかかった。

 それだけに、ここまで執拗に攻撃し続けていても一太刀も浴びせられないのは、剣豪として名を馳せる彼女にとっても

 初の事であり、精神的ダメージは計り知れない。

 どんなに激しく厳しく斬り込んでも、まるで手応えが得られない。

 ルーエイは常に同じ間合いを取り、こちらが踏み込むとたちまち曲芸まがいの変な技で逃げる。

 このきりきり舞いを延々と繰り返す。

 なぜだ、なぜなんだ・・。

 次第に動揺し始める。

 動揺は焦りを生み、正確性を欠く闇雲な勢いだけの攻撃が増えていく。

 鈍った剣戟は、体力の無駄な浪費でしかない。

 さすがの黒姫も、翻弄され続けて疲れが見え始めた。

 自分の勝利を信じて疑わなかった彼女も、このまま続けて勝てるのかという不安が一瞬頭を過ぎる。

 いや、相手も疲れているはずだ。

 いずれ必ずチャンスは訪れると思いつつ見ると、なんとルーエイはヘラヘラして余裕の表情を見せている。

 こっちは肩で息をしているというのに、なぜあいつは疲れない。

 一体、あと何時間続ければいいんだ・・・。


 フリルは、二人の対戦を目を円くして呆気に取られたまま眺めていた。

 尋常ではないはずのロワールの剣戟が、ルーエイには全く通用していない。

 こんな事があるのか。

 これは現実なのか。

 これが決闘ではなく、二人で打ち合わせして台本通りに演技しているのだとしても、そのスピードは常軌を逸していて

 観客には追いつけないのである。

 ブーイングする暇もない。

 そうだ、自分はあり得ないものを見ているに違いない。

 さすがは命の恩人、無敵のヒーローは簡単に不可能を可能にしてしまう。

 こんな超人的な人同士の決闘など、どんな劇場でも戦場でも目にする事はまず出来ないであろう。


 やがて、ロワールの体力にも限界が訪れる。

 ルーエイの急な方向転換に付いていけず、足を縺れさせて転び、地面に手をついてしまった。

 ゼェゼェという荒い息と共に、汗が滝のように滴り落ちる。

 すぐに立ち上がろうとして膝をガクガク笑わせるロワールを見て、ルーエイは逃げ回るのをやめた。


 「やぁめた。

  もう終わり、腹減った」

 「ま、待て!

  まだ決着はついてないぞ・・・」

 「もういいよ。

  あんただって気付いてるはずだぜ、このまま続けても、いや、何年やっても結果は変わらねえってな」


 悔しいかな、彼の言葉は事実だった。

 ロワールは、どうやったら彼に手が届くのか分からなくなっていた。

 「なぜだ・・、なぜ、お前は疲れない」

 ルーエイは飄々と答えた。

 「別に、いつもやってた事をやってるだけだからな。

  このぐらいじゃ、たいして疲れもしないさ」

 「いつも・・・?」

 「ガキの頃、旅芸一座に雇われててね。

  朝から晩まで仕込まれたもんさ、血反吐吐くまでな。

  体に染みついちまってるんで、何も考えなくっても勝手に動いてくれる。

  慣れない動きに惑わされたあんたとは違う。

  俺なら、あと丸一日は飲まず食わずでも同じ事を続けられるが、あんたはそうはいかんだろ。

  初めからあんたに勝ち目はなかったのさ」

 「この・・、卑怯者め・・・」


 土を握り締めて悔しがるロワールに近寄って放ったルーエイの一言は、彼女の敗北感を一層に煽るものだった。

 「気にする事はねえよ、あんたは十分強い。

  まあ、俺の敵じゃねえけどな」

 「貴様がまともに立ち合わんからだろう」

 「なら、また続きやるかい?」

 「・・・もういい」


 ロワールは、初めて自分の剣でも殺せない人がいる事を知った。

 世の中には、自分の想像の上をいく強者がいる。

 それを、まだまだ修行が足りないと前向きに考えられるだけの心の余裕はない。

 剣豪を自負する彼女の精神的衝撃は、一人では立ち上がれないほどに疲弊した体に重くのしかかっていた。


 ☆


 些かうやむや気味に終わった対決は、ロワールには非常に後味の苦いものだっただろうが、観客のフリルからみれば、

 二人とも無傷という意味で最も理想的な幕切れと言っていいものになった。

 ロワールの凄まじいまでに卓越した剣の腕前を見て、本物の剣豪の実力というものを知る事が出来たし、ルーエイの

 常人離れしたサーカス芸にヒーローたる所以を見た気がした。

 この二人が無事なればこそ、フリルはその収穫を喜ぶ事が出来るのだ。


 再び移動を始めた馬車の中で、ずっと惰眠を貪っていたペルスネージュは、世紀の一大イベントを見逃してしまった

 事を知って、この上もなく口惜しがっていた。

 結果を問われたフリルは、我がヒーローの勝利を声高に吹聴してやりたい気分に駆られた。

 しかし、目の前にプスッと黙りこくって刺々しいオーラを漂わすロワールが座っているので、それは無理だ。


 「ひ、引き分け・・・かな?」

 苦し紛れにお茶を濁しても、ペルスネージュは理解しない。

 ロワールに限って、そんな中途半端な結末はあり得ないと思った。

 「・・そんな決闘ない」

 「だって、二人ともピンピンしてるんだよ。

  怪我もしてないんだよ。

  やっぱり引き分けだよ」

 「ロワールは納得してるの?」


 ロワールは憮然として吐き捨てた。

 「するはずなかろう。

  無効に決まっている。

  あんな茶番につき合わされたのは初めてだ」

 「ルー・・、イカサマしたな」

 「イカサマではないさ。

  ヤツがやったのはイカサマ以下のピエロ芸だ」

 「ピエロ・・・、サーカス・・・、見たい」

 「私は二度と御免だ」


 重ねて残念がりながら、ペルスネージュは向かいのルーエイの方を見た。

 彼はフリルの横で何事もなかったかのようにグーグー寝ている。


 「今なら殺せるよ」

 「・・・いや。

  寝首は掻かんと約束したからな」

 ロワールは、どんなにプライドを傷つけられたとはいえ、前言を反故にするほど落ちぶれてはいないと滲ませた。

 「いずれ必ずケリをつけてやるさ」


 ロワールの遺恨を残しつつ、旅は続く。


 ☆


 ロジェ伯領に入ってすぐ、馬車は街道から外れて右側の道路へと進路を取る。

 フォーシュという町は、内湾に面したエピノーシュとは反対側の外洋に面して立地している。

 ここからは、外海を目指して行かねばならない。


 街道を外れ、変化のない殺風景な田舎道を淡々と進んでいると、ある時点から徐々に空気が変わっていくのに気付く。

 風が変わったのだ。

 雑草木だらけのつまらない景色に飽き飽きして退屈の極致にいたフリルは、思考まで鈍ってしまっていたせいもあり、

 ペルスネージュが指摘するまでその事にすら気が付かなかった。


 「潮の香りがする」

 「え?、塩?」

 「海風です」

 「海!?、海!?」


 海と聞いて、フリルの脳がようやく覚醒した。

 いそいそと馬車の外を覗く。

 そこで初めて、周囲の植生が今までと変わって灌木類が増えてきている事を知り、風が湿気を含んでいるのを感じる。

 磯の匂いこそしないが、そう思うと遠くで微かに潮騒が聞こえるような気までしてくる。

 「海かぁ〜・・・」


 それからほどなくして、遂に待望の海へ到達する。

 「海だ!、海だ!

  すっごい、大っきいねー!」


 子供のようにはしゃぐフリル。

 生まれて初めて見る、視界の端から端まで切れ間のない一直線の水平線。

 眼前に広がる果てしなく広大な大海は、自然の大きさと人間の存在の小ささを再認識させてくれる。

 フリルは、これが見たかったんだと感動する。

 そして、ようやくルネに会えると思うと無性に胸が高鳴る。


 いよいよ、フォーシュが近付いてきた。




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