introduction 00 ある予備校にて。(15:49)
…だから、三十年戦争終了の1648年は屈指の重要年代で、頻出だからな。
教師のよく通る声が教室に響いて、仕切り壁にわずかに反響して消える。言葉は接がない。教室内の音に伴奏を与えていた鉛筆によるリズムが途絶える。全員が既にタイミングを知っている。授業終了一分前、ジャストタイム。
明日までにテキストのp68までを解き同種問題ならば満点が取れる状態にしておくこと。ミニテはGMARCHレベルで実施する。東大、一橋志望者には別途で論述課題を出す。教卓まで取りに来るように。…では、終わりにしよう。
チャイムが鳴る。なんてこったい、この講師の時間管理は完璧すぎる。なにもかもが、ジャストタイム。
挨拶の声に被せるように、椅子を机に納めるけたたましい音が耳を襲う。次は昼休みだというのに、みんな揃って自習室の席取りに慌てて出陣だ、やれやれ。
世は大学全入時代。とは言え人気の国公立や有名私立はむしろ倍率上昇の一途なわけで。世知辛い競争がいつも高校生の行動と規範を支配する。
「さあ、トリプルチーズバーガーでも買いに行くか。」
ぼくはと言えば、この期の授業は世界史で終わり。効きすぎた空調の自習室で受験戦士たちの覇気に気圧されてもつまらないし、飯を食ったら近くにある市役所前のベンチにでも行くさ。まだ外は太陽が暴れだす季節なわけでもなく、微かな花粉の臭いに鼻先がムズムズするものの、幸いにもぼくは花粉症ではないらしい。冬の間に閉じ込められていた湿気の匂い、草花が放つ盛った生命の匂い。四季のなかでも、今の時期ってのは、季節の訪れをまず鼻から感じるね。そういうところ、嫌いじゃないよ。この季節。部屋に閉じ籠るのももったいない。春の匂いをいっぱいに詰め込みながら単語帳でも眺めて、勉強をしたつもりになるさ。うーん、ぼくって健全な新高校3年生だなっ。
「おい、さつき。」
あ、面倒なヤツが声かけてきた。
「飯?俺もいく。」
…なぜ、つるみたがる。飯なんて一人で食えばよかろうに。かと言って、露骨に断るほど、こいつのことが嫌いなわけでもないし…。こういうとき、自分に何かしらの害があるわけでもないのに、ちょっとイラッとしてしまう。きっと、それは良くないことなんだろうな、と思う。だから、自分の心をちょっと落ち着かせなきゃいけない。それが、とっても面倒なのさ。
「ぼく、クーポン使いたいからトリプルチーズバーガー一択だよ。」
「いいね。付き合う。」
ちょっとだけため息。心のなかでは、ちょっとどころじゃないヤツ。噴射。
「あ、でも待って。アヤメと美映が来ると思うから。」
…。
「アヤメ、午後今度は日本史だってよ、ハンパねぇよな。」
「まあ、なんやかや世界史・地理とかより、日本史・世界史って受験がいいんじゃないの、受験校的に。駒場目指すヤツは大変だよね。」
そのとき、後頭部に痛いのが一発。重めの参考書。おー、これは詳説世界史か、殺傷能力あり。なかなか厳しい。
「ちょっと、他人事みたいに言った挙句、ちょっと嫌味だったよ、さつき君。」
「そんなつもりはなかったけど…。」
「あら。ごめん。私と美映もご一緒しちゃダメかしら?ごめんね、午後もあったから、ちょっと自習室の席取りに行ってたの。待たせちゃった?」
…まあ、別にいいさ。大勢の方が飯は楽しい。それにしても、いつもながら美映の低い背と、大きくて、ちょっとおどおどした瞳はかわいいな、って思ってしまう。あ、フォローしておこう。アヤメもスレンダーなモデル体型で、知性的なルックスと強烈な瞳の光は、十分に男から見て美人に分類されるべきものだ。背筋の垂直な有様は、そのまま彼女のまっすぐな性格を表現していて、見るものに若干の緊張を与えるが、本人はいたってフレンドリーだ。ただ、いつも僅かな憎まれ口の応酬があいさつ代わりになることで、お互いに異性として意識することもないまま過ごしてきたけれど。
「あ、さつき。お前、俺がついてくって言ったときはちょっと嫌そうだったのに、美映が来るとなると、黙ったな。うん、うん、お前も男だね。お父さんはうれしいよ。」
黙らっしゃい。余計なことは言わずともよろしい、この男は…。
ちょっとぼくと、美映の間に気まずい沈黙が下りたけど、そのあたりをさりげなく流して、空気をもとに戻すことについても、腹立たしい話だが、この男は非常に上手い。なんやかやと、四人でハンバーガーコースだ。一人で春が醸し出す匂いを楽しむのも嫌いじゃないが、こういう騒々しさも、ちょっと煩わしいけど嫌いじゃない。…こういう、ちょっと煩わしい感じが、なんで嫌いにならないのかは不思議に思う。煩わしさを感じつつも、どこかに居心地の良さを感じているのかもしれない。ただ、その居心地の良さを認めるのは、少しだけ億劫だ。
「そういえば、今期は日本史で維新を扱ってるんだけど、世界史と同時に勉強すると面白いわよね。主権国家体制に日本が組み込まれたタイミングってさ、いつなんだろう。」
つくづくアヤメの思考回路の柔軟さには驚かされる。目指している大学が違うってだけで、これだけ人物が違うかと思うと、ちょっとへこむこともある。いや、日本史・世界史を比較検討していることがすごいというのじゃなくて、場の微妙な空気感をたった今読んだと思うんだよね。間髪いれずに話題を勉強に引き戻したあたりが、すごいな、と。空気が読める男と女。いや、けっこうあいつはアヤメと似合ってると思うけどね。ただ、往々にして、そうした傑出した人間って、ちょっと変わっているよね。確かめてみようか?
アヤメが首から下げているイヤホンを指さす。
「…アヤメって普段、なに聞いてるの?」
「え、きっと知らないよ。八神純子。」
うん。確かに知らない。
「お父さんの書棚にあったSPで聞いてから、すごい好きなんだ。とくにね、いま聞いている曲が、なんか地球への愛って感じで、歌詞とかすごいグッとくるの。」
…うん、地雷を踏んだ感がある。振っといてなんだけど、あまり興味がなかったよ。
「ふ~ん、アヤメが言うなら俺もDLして聞いてみようかな。」
物好きめ。まぁ、こいつの場合は曲というよりは、アヤメに対しての興味ってのが大きいんだろうけどね。どんな曲なのか説明しようとして、アヤメが口ずさむ。横で覚えようとする男が、なかなか必死だ。…ちょっと笑える。
4人で歩き始める。その間、ずっとアヤメの歌声がBGM。アヤメの声自体はすごく綺麗で、上手ではあるけど、曲がいわゆる往年の「ニューミュージック」(単語としての知識でしか知らないけど…。)っぽくて、健全な高校生の一団がチーズバーガーを目指して進む際のBGMとして適切なのかは、甚だ疑問だ…。
「そういえばさ、主権国家ってなんなんだろ?」
突然、美映が聞いた。面倒なヤツが、面倒なことを聞かれたと思って顔をゆがめた。少し愉快。
「なんなんだろって何さ。あれだろ、明確な国境と独立した主権が~、みたいな。今日の授業で言ってたじゃん。」
「いや、それは覚えたけどさ。21世紀まで、世界はその主権国家なんちゃらなんでしょ?」
「主権国家体制。」
「そう、それ。」
勉強に関することについては、アヤメの訂正は早い。
「授業中に先生も言ってたけどさ、主権国家体制だと主権国家間の外交が重要でー、でも根本原理としては戦争が否定できなくてーってさ。一応国際法?があるけどヤクザの仁義みたいなもんだってさ。」
「美映って先生が言ったセリフ、すっごい丸暗記するよね。」
いや、素直に感心する。
「でも、中世のころは、そういう枠組みはなかったわけでしょ?私たちって、いつか主権国家とは違う何かにたどり着くのかな?地球連邦政府、的な!」
「あ、おれジオンがいい。」
「ぼくはザビ家はいやだな。」
「もー!ちょっと、まじめに話したのに!いいわ。さっさとトリプルチーズバーガーにありつきましょう。さつきのおごりで!」
いや、待て。おごりは聞いていない。そこは、ちょっとかわいいなって気持ちとは別枠でお願いします。受験勉強が始まるからってバイト辞めてちょっとカツカツなんだから…。春風みたいに唐突に吹き抜けたかと思えば、次の瞬間には全然別の話をする、そんな美映はやっぱりかわいいな、って思う。不思議だ。気が付けば、こいやっていつもの4人で下らない話をしているだけで、さっきまでよりちょっと気持ちが明るく、心象風景が淡く暖色に包まれていくんだから。春かー。プリマヴェッラ。ボッティチェリ。あー、なんだか海馬の記憶が受験知識で埋め尽くされていくな。まあ、そんな感触も嫌いではない。なんとなく、いろいろなことが「嫌いではない」で片づけられる、やっぱり春っていい季節だな。
…それにしても、社会が苦手なはずの美映の疑問はちょっとおもしろかったな。主権国家体制とは異なる世界の在り方ね。たぶんイカみたいなエイリアンが巨大な宇宙船で襲来しない限り全人類のインディペンデンスデイは来ないだろうし、大統領も演説のしようがなかろうさ。さもなきゃ巨人型の宇宙人が攻めてきて可変戦闘機で戦いでもしない限り、歌が人類を一つにしたりはしないだろうさ。
でも、もしも、すごく未来、今からは想像もできない世界があるんだとしたら、どんな形になってるんだろう?そのころには人類は宇宙とかに進出しているのかな?受験生だって、たまには非生産的な妄想で心躍らせても良いはずだ。そんな時代が来るんだったら、見てみたいな。
…そういえば、気が付けば、なんだか耳に残ってしまった。
アヤメが歌っていた曲。
この曲が、いろいろな出来事の前奏になっていくなんて、春には思いもしなかったけどね。