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七 大守家への招待

 その住宅街は閑散として、ひとの気配がしない。

 まるで沼に沈んで忘れ去られた街に訪れた気分だ。


 時刻は午後三時。

 日はまだ高く、さっきまで晴れた空が見えていたはずなのに、ここら一帯だけ霧が立ちこめ薄暗かった。


 けいは前を行く十和とわとアイテールのダブルの背中を見つめる。

 ひとりと一匹はまるで本当の友人のようにときどき視線を交わしながら上機嫌に先導している。


 慧はというと、少なからず緊張していた。

 鹿妻かづまにはなにが起こるかわからないためなるべく感情を乱さず、平静を保つようアドバイスされていたが、果たしてどこまでそうできるか疑心暗鬼だ。


 ここははじまりの場所。

 ミセリコルディアの名を広く世間に知らしめることとなった暴発のあった現場だ。

 十和たちはその中心地へ向かっている。

 中心部に近づくにつれ、霧はより一層深くなっていくようだった。


 グラウンド・ゼロから半径五百メートル内はミセリコルディアの汚染の恐れがあるとのことで、いまだ立ち入り禁止区域となっていた。

 住宅街に突如として出現し立ちふさがるバリケードや簡易なフェンス、コーンやロープでそれ以上は進んではいけないとわかるようにはなっているが、決して常駐の警備がついているわけではなく、だれでも立ち入ろうとすれば簡単に入れそうだった。

 現に、十和と慧はフェンスやらバリケードの間を抜けて足を踏み入れている。

 だが、好奇心に駆られた一部の人間を除いて、その場所に決して足を踏み入れたいと思うわけがないのだ。

 その場所にはよくない噂が絶えず、まるで裏付けるかのように、どんなに天気がよくとも常に霧が立ちこめている。


 噂とは、いわく、立ち入ったものはこちらにはもう戻ってこれないとか、万が一戻ってこられたとしても毎夜悪夢にうなされ気が狂ってしまうというもの、ひとの悪夢が具現化していて怪物が現れるというものや、政府の人体実験に使用されており足を踏み入れたものは人体実験の対象にされてしまい二度と帰ってこれないなどという不気味で不吉な悪い噂ばかりだ。


 だが、それも仕方ないのかもしれない。ここではその悪い噂以上の悪夢としか言えない事故が起き、実際に約四万人もの人間が命を落としているのだから。


 それにこの霧は、鹿妻の話によると、アイテールの残骸のようなものらしい。

 この場所に一般人があまり近づかないに越したことはないのだ。


 不意に、風が巻き起こる。物思いにふけっていた慧ははっと息を呑む。


 すぐ目の前に男がいた。

 ワイシャツにスラックス、眼鏡をかけ、会社勤めをしていそうな中年の男性だ。

 だが、シャツの上からも鍛えられた肉体を持つとわかる体格の良さで、手には物騒なことにバットを握っている。


 その鋭い眼光が慧を捉えた。


「父さん!」


 十和が駆け寄る。

 中年の男は姿勢を正して、十和を振り返る。


「このひとは大丈夫だよ。侵入者じゃない。説明しただろう。知り合いを連れてくるって。彼女は間宵慧まよいけいちゃん。同僚だよ」


 慧は十和の父だという男の視線を受け、思わず頭を下げる。


「初めまして、間宵慧です。十和さんにはいつもお世話になっています」


 男は黙ったまま頷くように軽く会釈をすると、その場で跳躍した。

 ふと視線を上げると、すでに霧のなかでグレーの影となって一軒家の屋根の上にいる。


「父さんは、この辺を見回っているんだ。変な人間が侵入しないようにするのが父さんの仕事なんだよ」


「へえ。そうなんだ」


 上機嫌な十和に対し、慧の笑みは引きつっていた。

 慧は数日前の鹿妻との会話を思いだしていた――。






「十和の家は、グラウンド・ゼロにある」


「え?」


 鹿妻の言葉の意味がわからなくて、慧はぽかんとして聞き返す。

 鹿妻はそれに対して柔らかい笑みを返しながら、言い直した。


「十和はいまのところ暴発を起こした最初で最後の触媒カタリストなんだ」


「そんなまさか……。だけど、あの暴発に巻きこまれて生き残ったのはリリーとルウだけだって」


「そのとおりだよ。直径一キロに渡って最後まで生き残っていた被害者はふたりだけだ」


「それはつまり……」


 慧は自分の鼓動が跳ね上がるのに気づいていた。

 本来なら触れていはいけない事実に自分は触れようとしている。

 その自覚があった。


「あの事件の加害者は生きていて、それが十和だってこと?」


「正確に言えば十和は純粋な加害者とは言えない。あれは不可抗力な事故だったといえる」


「だけど……!」


 あの事件がなければ、約四万人にのぼる被害者は命を落とすことはなかった。

 あの事件がなければ、ミセリコルディアが世に名を知られることはなかった。

 あの事件がなければ、夢幻が広まることはなく多くのひとが夢幻の被害に遭わずに済んだはずだ。

 あの事件がなければ、慧の家族はもしかしたら生きていて、慧だって――。


「慧ちゃん」


 穏やかな声に促され、慧ははっと顔を上げる。


「慧ちゃんの気持ちもわかるよ。だけど、まずは俺の話を聞いてくれると嬉しい。それに俺はきみみたいな理解者が増えることを望んでいるんだ」


「鹿妻さん。だけどわたし、そんなの、無理です」


「うん。無理にそうしてくれって言うわけじゃないんだ。話だけでもとりあえず最後まで聞いてくれればいいよ。そこからどうするかは、慧ちゃん次第だって、俺もわかっている」


 慧は躊躇ためらいながらも小さく頷いた。

 それは十和のためではなかった。

 鹿妻があまりに真摯しんしに望んでいたからだ。


「よかった」


 ふわりと鹿妻が微笑む。


「だけど、いざ話そうと思うと、一体なにから話せばいいのか、迷うね」


 複雑な表情を浮かべ頭をかきながら鹿妻が呟く。


「そうだな……。やっぱり、こういうのは最初からかな。俺がね、十和と初めて会ったのは、十和がまだ小学校にも上がってもいない幼いときだった。目がクリンクリンしていてね、いまも二十歳すぎてるとは思えないくらい童顔だけど、そのときは本当に可愛い子どもだったな」


「そんなにむかしから……?」


「うん。そうだね。俺は十和のお母さんと同じ大学の研究室にいたんだ。十和と初めて会ったのも、十和のお母さん――茉莉まつりさんって言うんだけどね、茉莉さんの論文が賞を取って、その授賞式だったと思う」


 父と母に手を引かれた十和は七五三のようにかしこまった格好をして、いまにも泣きだしそうだった。

 顔は母親似だったが、大胆で物怖じしない性格の母親とは違って人見知りでかんの強い子どもだった。

 そんな十和はなぜかひと目で鹿妻に懐いた。


「茉莉さんは、脳を直接ネットワークに繋げるデバイスを開発する研究をしていた。たとえば、いまはなんだかの通信機を介して俺たちはネットワークに繋がっている。十年前から比べれば持ち運びもできるし、端末は小さくなった。だが、それでもなんだかの電子機器を持ち運ぶ必要があるし、充電や外部操作が必要だ。茉莉さんが目指したのは、そういったことをせずに、頭のなかで考えただけでネットワークに繋がることのできる次世代のデバイスだった」


「次世代のデバイス……?」


「まあ、デバイスと言っても手に持てるような端末じゃない。ひとつひとつを目で見ることも困難なナノマシンだ。概要だけ説明すると、ひとがそれを体内に取り入れることで、脳内のニューロンの発火を電磁波に変換し共振器を介して発信する。逆に脳に取りこまれたナノマシンはある周波数の電磁波をキャッチすることで相互通信を可能にする。それは未来の技術だ」


 それができれば、ひとは想像するだけでたくさんのことができるようになる。

 ある人物のことを頭のなかで考えるだけで、その人物との通信が可能になるだけではなく、クラウドに接続することで必要な情報を好きなときに知ることができたり、通信機能を持った電化製品や家具を文字どおり思うがまま動かすことも可能になるのだ。


「茉莉さんはそのデバイスの実現に没頭した。昼夜も忘れて作業していたから、研究室に泊まることも多かった。小学生になった十和が研究室にきて、そんな茉莉さんの着替えやときにお弁当を届けに来ていたのを覚えているよ。内向的だけど利発な少年で、暇があれば研究室の人間が茉莉さんに変わって十和を歓待していた。だけど、中学生になったくらいから、十和の足はぴったり途絶えたんだ」


 ふうと、鹿妻はひとつ息をついた。


「最初は思春期だし、母親のところに来るのは恥ずかしい年頃なんだろうって軽く思っていた。もちろんそれもあったんだろうけど、多分、それだけじゃなかった。十和は中学校でいじめにあっていたらしい。そして、だれにも相談できないまま追い詰められていたんだろう。ある日、自殺を図った」


「え――? まさか、十和が……」


 慧が驚きで言葉を失う。

 いつも能天気にしている十和にそんな過去があったとは想像もしていないかったのだ。


「十和を見つけたのは久々に家に帰った茉莉さんだったって聞いている。自室で首を吊っているのを見つけたらしい。発見は幸い早くて一命は取り留めたんだけど、それからずっと目を覚まさなかったんだ。MRIでも脳に大きなダメージや異常は見つからなかったらしいんだけど、医者からは心因性による可能性も高く、いつ目覚めるかわからないって言われたようだよ」


 どんな窮地でも笑って乗り越えてきた茉莉が取り乱したのを、そのとき鹿妻は初めて見た。

 息子の異変に気づけず、研究に没頭しつづけた自分を責め、だがいまとなっては昏睡状態の息子の生命維持装置を動かしつづけるために金は必要不可欠で、それゆえに仕事を辞めることもできなかった。

 まるでいまにも引き裂かれ、後を追いそうだった。

 だが茉莉はギリギリで、研究者らしい決断をする。


「茉莉さんは、自身が開発しようとしていたデバイスを、医療で使えないか考えるようになっていた。そのナノマシンはニューロンの発火を増幅させるため、脳が活性化する。それにナノマシンの試作機プロトタイプでは、遺伝子操作をして無力化したウィルス――ベクターの利用も考慮していたし、そのナノマシンを利用することで、たとえば運動機能が失われていたとしても、他の脳機能が正常であれば、外部とコミュケーションが理論的には可能だ。仕様の変更をかければ医療分野でも十分利用可能だった。

 だから、それを使って脳の内側から十和を目覚めさせることを考え始めていたんだ。

 そして、茉莉さんは大学を辞め、声のかかっていた製薬会社の研究職に就く選択をした」


「待って、鹿妻さん。それって、やっぱり」


「うん。さすがに想像つくよね。そのとおりだよ。十和のお母さんである茉莉さんや俺たちがミセリコルディアのもとになるものを研究していたんだ」


 話の流れで想定していただろうが、実際に言葉を突きつけられた慧は少なからず衝撃を受けていた。


 見開いた目でこちらを見る慧には謝罪の言葉もない。

 だがいまは謝るよりも話を進める必要があった。


「俺も茉莉さんの助手として製薬会社に勤めることになってね、いままでにない最新の薬として最初は脚光を浴びていて、理論は大学にいたときにできていたわけだから、開発もふつうにはないくらい早いペースで進んで、順調だったんだ。ミセリコルディアが脳細胞を刺激することでアルツハイマー病で萎縮いしゅくした脳の回復も、マウスの実験で判明したりしてね」


 その頃の茉莉は以前のように笑顔を取り戻しつつあった。

 いつかこの薬で十和を救うという希望を抱くようになっていた。


「だけど、フェーズⅠの臨床試験で、思わぬ副作用がでる。アイテールの出現だ。マウスの実験ではわからなかった想定していた以上の発火をひとの脳は起こした。それによってナノマシンから必要以上の電磁波が放出されたんだ。

 本来、立てていた仮説では通信には送信機と受信機になるものが必要で、それがミセリコルディアの役目だった。だが、アイテールはミセリコルディアを摂取していない人間にも見えてしまったんだ。

 これは自説だけど、ひとの脳にはミラーニューロンと言われる共感性ニューロンがあると言われていて、それが放出された電磁波で刺激され、ミセリコルディアを摂取していないひとの脳にまで幻覚を見せてしまったんだと思う」


 これにより、研究は暗礁あんしょうに乗り上げる。

 平たく言えば、そんな得体の知れない副作用を前に、上層部が怖気づいてしまったのだ。


 薬の量を適切に守れば、そんな副作用は起こり得ないと何度も説明する茉莉だったが、その意見はことごとく却下された。

 茉莉は再び追い詰められ、そして再び決断を余儀なくされる。


「開発には普通にないペースで進んでいたんだけど、それでもそのときすでに五年が経過していた。十和は十三で寝たきりになったんだけど、そのときにはもう十八になっていたんだ。茉莉さんは眠ったまま成長する十和を見て焦っていたと思う。子どもの五年は大人の五年以上にかけがえがないからね。薬の開発の打ち止めが決定したある日、茉莉さんは開発途中のミセリコルディアを持ちだす。そのとき、十和は改築した自宅で療養していたんだ。そして、茉莉さんはミセリコルディアを十和に注射し、――暴発が起きた」


「そんな……」


 思わず慧は呟いていた。


「そこでなにが起きていたのかわからない。ただ、辛うじて巻きこまれなかったが、付近にいたひとたちからの調書では、暗雲が住宅街を覆い、まるで阿鼻叫喚のような悲鳴がしたらしい。暴発により直径一キロ内にいた住人は命を失う。もちろん、茉莉さんも支えるために専業主夫となっていた夫も、帰宅していた十和の妹もそれに巻きこまれて亡くなったよ。そんな状況下で十和はひとり目覚めた――」


 重い溜息を鹿妻が漏らす。

 十和はこのときのことを語ろうとはしない。

 そのため、十和が発動したアイテールがどのような形をなしていたのか形すらなさなかったのかわからない。

 だが、自殺を図ってから一切目覚めることなく眠ったままだった十和の心を占めていたものは、きっと明るい感情ではなかっただろう。

 もしかしたら、五年という長い間、十和はずっと絶望のなかで苦しみつづけていたのかもしれないのだ。


「確かに十和は加害者なのかもしれない。だけど、十和も茉莉さんもこんな結果を少しだって望んでいたわけじゃない。不幸な事故だった。そうとしか言えないんだ。慧ちゃんやたくさんのひとがそのせいでひどい事件に巻きこまれたのは知ってる。だけど、十和は責められるべき人間じゃない。もし、だれかが責められるとするなら開発者のひとりである俺なんだと思う」


 膝に拳をおいて、苦しげに鹿妻は頭を下げた。


「ごめん。慧ちゃん。謝って済むことなんかじゃないってわかってる。だけど、本当にごめん」


「鹿妻さん、ひどいな……」


 声がかすれた。

 慧は小さく咳をする。


「うん、ごめん。泣かせちゃったね」


「泣いてなんかない」


 そう言いながらも慧の頬を涙が伝う。

 わかってしまったのだ。

 あのとき、十和があかねを殺そうとした理由も、かたくなに耳を貸そうともしなかった理由も。


 慧がそうだったように、十和もまた茜に自分自身を重ねていたのだ。


「ごめんね、慧ちゃん」


「残念だよ。わたし……そんな話を聞いて、だれかを責められるほど、子どもじゃなかったみたい」


 慧はゆっくりと笑顔を作った。

 頭を下げる鹿妻に笑いかける。


「慧ちゃん、ごめん。いままで黙っていたこともごめん」


「それは、ホントだよね。わたしは洗いざらい話してきたのに、実は壁があったってことだよね。ホントひどいな、鹿妻さん」


「本当にごめん」


「そこはちょっと許せないかな」


「ごめん」


「冗談だよ。もういいよ、鹿妻さん。年上の大人の男の人に頭を下げつづけられるのって意外と気まずいし。それに、本題が残ってるよね。なんで、わたしにこんな話したの? 十和の招待とどんな繋がりがあるの?」


 顔を上げた鹿妻は神妙な顔をしていた。

 そして、重い口を開いた。


「それは――」






 ――十和はいまもあの家に住みつづけていて、そこには十和の家族がいるんだ。


 鹿妻はそう説明した。

 それはどうやら自ら作ったアイテールの家族と十和が暮らしつづけているということらしい。

 鹿妻の話によれば、この直径一キロに渡って存在しつづける霧自体も十和のアイテールのようなものなのだ。


 そこではなにが起こるかわからない。

 だから慧にせめて平静を保つよう鹿妻は忠告したのだ。

 他人のアイテールのなかで、激しい感情がどういった作用をもたらすか、まだわかっていない。

 霧はひどく深く、住宅街はまるで幻想のなかでまどろむようにおぼろげだ。


 だが、本当にここは十和のアイテールのなかだというのだろうか。

 慧はにわかには信じられない。

 アイテールを思いのままに操作するにはかなりの集中力が必要とされる。

 だから戦闘で利用されるアイテールのイメージは固定化され、触媒カタリストと接触していなければならない。

 触媒カタリストから離れたアイテールはひどくもろいものなのだ。


 それなのに、この霧は、十和がこの街を離れても、消えずに存在している。

 それにきっと十和の家族も。


「とーちゃーく! 慧ちゃん、ようこそ。ここが我が家だよ」


 不意に振り向いた十和は無邪気な笑みを浮かべていた。

 慧は十和が示した家を見上げる。

 それはどこにでもある一軒家だった。

 なんの特徴もない一般的な二階建ての住宅だ。


 十和は入り口の黒い鉄柵状の門扉を開けて、なかへ進む。

 少しびているのかキイと甲高い音が響いた。


「ただいまー」


 招かれた家の中は不自然なほど明るかった。

 この街にはもう電気は通っておらず、外は霧で覆われているため、部屋は薄暗いはずなのに。


 パタパタとスリッパの音がして、十和の母親が姿を現した。

 アイテールの母親は白いエプロンをして長い髪をひとつに結わえた、良妻賢母という言葉がピッタリと当てはまりそうなほんわかとしたきれいな女性だった。

 鹿妻から聞いていた茉莉の印象とは随分違う。

 慧が挨拶をすると、母親は笑顔を浮かべて会釈をし、リビングに招き入れた。


 広々として掃除の行き届いた明るいリビングからは対面キッチンが見え、対面キッチンの奥には、ときどき現場で姿を見せる十和の妹の蛍琉ほたるがいつもと同じように白いくまのぬいぐるみを抱いて立っていた。

 ふたりの姿を見た蛍琉はキッチンの奥に姿を隠してしまう。

 鹿妻の話では蛍琉は享年十三歳だったはずだが、その姿はそれよりもずっと幼い。

 十和が意識を失った以前の姿を留めているのかもしれない。


「ごめんね。蛍琉は人見知りなうえ、僕自身もあまり好かれてないから」


「そう……なんだ」


 十和の言葉はまるで蛍琉が生きて意思を持っているような言いようだ。


 ソファーにかけることを勧められて、慧は腰掛ける。

 その横に十和も座った。リビングには庭に面した大きな窓があった。

 その窓からは小さな庭が見え、緑の芝生には赤い屋根の犬小屋があった。

 ふと視線をあげると青空が見えて、慧は気づく。

 この部屋の明るさも清潔さも、十和のアイテールが見せている幻なのだ。

 この幻覚が解かれれば、もしかしたらここはすたれ、荒れ果てているのかもしれない。


 母親はキッチンの奥でなにやら調理をしている。

 夕飯の支度のようだ。

 そのスカートの裾を心細そうに蛍琉は握りしめている。


 十和は背負っていたリュックサックから水筒と紙コップ、茶色い紙袋をだしてテーブルに並べる。

 紙袋にはマフィンが入っていた。


「この家の外をお父さんが守っていて、なかをお母さんが守っているんだ。僕らは家族なんだよ」


 慧はその言葉に眉をひそめる。

 十和の意図が計れずにいた。


「十和はなぜわたしをここに招待したの」


 十和は紙コップに紅茶を注ぐ。

 セイロンティーのいい香りがただよう。


「僕のだいじな家族を紹介したかったんだ。僕はね、家族を命にかえても守りたいって思ってるんだ」


「十和はわかってるの?」


「わかってるって、なにを?」


「だから……その……」


 慧には珍しく、言いよどんでいた。

 言葉を選んでいるのだ。


「わからないの?」


「ああ、この家族が僕のアイテールだってこと?」


 十和は微笑み平然としていた。

 慧のほうがかえって動揺の色が濃い。


「わかってるよ。もちろん。僕の家族は死んだんだ」


 十和の足もとで伏せていたダブルが心配そうに十和に視線を送る。

 十和はダブルの頭を撫でながら言った。


「ダブルだけはね、僕が長い眠りにつく前に寿命で死んじゃったんだけど、それ以外の家族は僕が殺したんだよ。もちろん、知ってる。安心していいよ。僕は錯乱してないし、現実を受け止めてる。僕がここでひとり暮らしてるのも理由があってのことだよ。この家族だってこの場所を守ってもらうために必要だから存在するんだ。だって家って家族みんなで守るものだろう」


 慧はゴクリと喉を鳴らして唾を呑みこむ。


「十和って、なんなの……?」


「変なこと言うね、慧ちゃん。僕は僕だよ」


 慧はその言葉に首を横に振る。

 いままで仕事のパートナーとして長い間一緒にいたはずなのに、十和がまるで見知らぬ他人のように思えた。


「こんな十和、わたしは知らない」


「慧ちゃんが僕にどんなイメージを抱いていたのか僕にはわからないけど、僕は僕でしかないんだよ。僕じゃないなにかになりたくったって僕は結局僕でしかなかったんだ。ねえ、慧ちゃん。お茶、せっかくだから飲んでよ。冷めちゃうよ。マフィンも美味しいんだよ。ここのね、クランベリーとナッツとキューブ型のチョコが練りこんであって表面はカリッと焼き上げていて、なかはしっとりなんだ。ね、だから、食べてみてよ」


「……そんな気分じゃない」


「美味しんだけどなあ」


 十和はマフィンを頬張る。

 ポロポロとくずが落ちるが、気にしたようすもない。


「慧ちゃんはさ。暴発を起こしそうだったあの娘を僕が殺そうとしたとき、必死に止めてくれたよね。あの娘のせいじゃない、あの娘が悪いわけじゃない、そう言ってくれたよね。僕、実はそれ、結構心に響いたんだ」


「なに言ってるんだ。だってあのとき、十和は全然言うこと聞かなかったじゃないか」


「それはそれ、これはこれだよ。だって、僕にも守りたいものがあったし、あれが最善だって思ったからね。だけどね、慧ちゃんの言葉が嬉しかったっていうのは本当なんだよ


 ぺろっと指をめ、十和は慧を見て微笑んだ。

 子どもっぽいのに穏やかな笑みは、ひどくアンバランスで目が離せなくなる。


 そして、十和はおもむろに口を開いた。


「ねえ慧ちゃん。僕たち、家族になろうよ」




         *




 ――受賞おめでとうございます。先生の名声が高まるたび、またひとつ遠くへ行ってしまったように感じます。


 ――なにを言っているんだか。こんな手も届く距離で。


 ――こんなにも偉大な研究者なのに、あなたは清々しいほど変わられないのですね。


 ――立場で変わる研究者ほど信用におけないものはないんだよ、ワトスン博士。

   わたしは生涯いち研究者でありたい。


 ――立派なお言葉です。ときに。


 ――なんだね。感激に耐えなかったのかな。


 ――そんなに立派なお言葉を残せるんですから、受賞のスピーチくらいご自身でお考えになったらどうです。


 ――いつも助かるよ。さすが右腕のワトスン博士。


 ――本当、調子いいんだから。

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