六 十和の講釈
「先生、もうちょっと急いでよね!」
「勘弁してよ、リリーちゃん。きみたちとちがって俺は万念運動不足だしそれなりの年なんだから」
「軽口叩く元気があるならまだいけますよね」
「ひええ、勘弁して」
リリーが鹿妻の手を引いて階段を下る。
庁舎内の地下深くにはエレベーターが止まらないフロアがある。
そこには新たに作られたVRを利用した対アイテールようの訓練施設があった。
黄色の『!(エクスクラメーション・マーク)』のシールの下に『関係者以外立ち入り禁止』と記された重々しい鉄の扉をリリーは乱暴に開く。
「連れてきたわよ!」
そこには飴を舐めるルウと緊張感のない顔をした十和がくつろいでいた。
それを見たリリーが激昂する。
「こんの男どもがあ! 見てないで少しは止めるとかしたらどうなのよ!」
つかつかと歩き、リリーはバイタルサインやらなにやらが表示されたモニターの前に立つ。
マイクを引っつかむと怒鳴った。
「慧、いい加減にしなさい! そんな無茶してると、体が持たないんだから!」
強化ガラスの先の真っ白い部屋には、黒いヘルメットのようなものを被った慧が構えていた。
ヘルメットからは幾つもの管やコードが出ており、それらは天井から垂れ下がっている。
手にはグローブを嵌め、膝と肘の関節にはサポーターのようなものをつけていた。
「あなた、もうずっとアイテールだって出せてないじゃない」
「うるさい」
リリーの説得にも慧は耳を貸さず、激しい動きを繰りだす。
この装置は脳の信号や体の動きだけではなく、アイテールの動きを読み取ることができる。
VRのなかに出現する敵はアイテールを操ることのできる人間を想定しており、アイテールを出すことのできない状況の慧は、素手で銃を持つ人物と戦わなければならないほどに圧倒的に不利だった。
「先生、ほら、ボケッとしてないで止めて」
リリーが鹿妻を振り向いて呼ぶ。
「来たんだ、悠ちゃん」
「やあ、十和」
「なに呑気に挨拶なんてしてんのよ」
「止める必要ある?」
鹿妻が十和に聞く。
十和は首を横に振った。
「慧ちゃんの気の済むようにしておけばいいよ」
「もうホント嫌! なんで十和はそう呑気なのよ! 慧はもう十二時間以上戦っているのよ! 昨日の夜から寝ずにずっとよ! しかもアイテールも満足に出せず負けっぱなしじゃない。このままじゃ倒れるわよ!」
「うん。そうだね」
「そうだねじゃないわよ! 止めなさいよ! どうするのよ無理して暴発とか起きたら」
「起きないんでしょ?」
十和が鹿妻に聞く。
「ああ。そこら辺の安全設計は完璧だ。もしその危険性がでたり、脳が限界になったら電流を流して対象者を気絶させる仕組みになっている」
「だって」
「もう! そういうことを言ってるんじゃないのよ!」
リリーたちが言い合いをしている間に慧がガラスの奥で吹っ飛ぶ。
『LOSE』とモニターに記された。
だがすぐに『AGAIN』と表示される。
慧が操作したのだ。
「まだやる気なの!? 馬鹿じゃないの!」
「落ち着いて、リリーちゃん」
鹿妻が宥める。
それをリリーはキッと睨みつけた。
「先生、心配じゃないの!」
「心配だよ、もちろん。だけどきっと慧ちゃんは倒れるまでやりたいんだよ。好きにさせてあげるしかないじゃない。それをわかっているから十和も止めないんだ」
「だけど……」
リリーは十和を振り返る。
「捜査はどうするのよ? 緊急の依頼が来たら?」
「そのときは僕がどうにかするよ。そのための相棒なんだし」
「だっていままでの検挙はほとんど慧の成果でしょ。慧がいなくてやっていけるの?」
「頑張るよ。ね、ダブル」
十和の足もとで寝そべっていたダブルが眠そうに十和を見上げて、クーンと返事する。
十和もなんだかんだと言って、昨夜から寝ずにここにいるのだ。
そのとき、バシュッと空気を吐き出すような音がした。
モニターには再び『LOSE』と表示されていた。
リリーは慌てて強化ガラスの奥を覗きこむ。
そこにはヘルメット型のVRのヘッドセットを強制的に外され、意識を失って倒れている慧がいた。
リリーはロックの外れた部屋のなかに踏みこむ。
つづこうとした鹿妻の袖を十和が引いて、止めた。
「どうした、十和?」
「悠ちゃん。僕、慧ちゃんになら家族を紹介してもいいかなって、最近思うんだ」
鹿妻が驚いた表情を浮かべる。
だが、すぐに息をついて、微笑んだ。
十和の頭を撫でながら鹿妻が言う。
「十和がしたいことをすればいいよ」
鹿妻を見上げながら十和が頷く。
他人を内側に入れようなんて、慧だけではなく十和にもまた大きな変化が訪れようとしていることを鹿妻は知った。
もがいていた慧は水柱のなかで意識を失ったようだった。
確実に殺すにはあと二分間は閉じこめておいたほうがいいだろうとグロリアは考える。
ふと気配を感じてグロリアは入り口に視線をやる。
いつの間にそこにいたのだろう。
白い少女ががまるで闇のなかで浮き上がるようにして佇んでいた。
グロリアは場違いなその姿に幽霊でも見た気分になって息を呑む。
白いワンピースを着て白いリボンをして白いクマのぬいぐるみを抱きしめている。
そして、黙ったままグロリアを指差していた。
「なによ、あなた」
――グルルルルッ。
今度は窓の方から犬の唸り声が聞こえてきて、グロリアは振り向く。
ガラスのない窓の前で、逆光で影を背負ったシベリアンハスキーが水色の目を敵意で光らせていた。
グロリアは最初それを訓練された麻薬探知犬だと考えた。
アイテールであるわけがないのだ。
アイテールだとしたら触媒が接触していなければならない。
「おとなしく、そのアイテールを解いて、捕まってくれないかな?」
今度は入り口からラフな格好をした男が姿を現す。
街をふらふらとほっつき歩いていそうなその男には見覚えがあった。
客に薬物を売りつけようとしたときに、乗りこんできた違法薬物取締官だ。
子どものようにも大人のようにも見える童顔の青年だ。
無意識のうちに喉を鳴らして唾を呑みこんでいた。
なにか異様だった。
目の前の青年はまったく強そうには見えない。
だが、言い表せない違和感がある。
危機感が募る。
グロリアは、慧を閉じこめていた水柱を解く。
意識を失った慧は床に投げだされ、小さく咽る。
慧は死んではいなかったが、ダメージは大きくすぐに起き上がれる状態ではないようだ。
捨て置いても問題ないと判断し、グロリアは意識を男に集中する。
グロリアの足もとの水溜りからずるずるとなにかが這いでて来る。
それは、巨大な蛇の姿をしていた。
「行きなさい!」
グロリアが水蛇に命じる。
直感が騒いでいた。
全力で撤退すべきだと。
それには入り口をふさぐその青年――十和が邪魔だった。
蛇の牙が十和に剥く。
「……きっと思いこむんだよね」
蛇が十和に噛みつくよりも一瞬早く、蛇の頸部にダブルが歯を立てる。
蛇は十和のすぐ横の壁に激突する。
蛇はダブルを払い落とそうと身体をうねらす。
「ぐっ! そいつ、アイテールなの! だけど、アイテールは……!」
十和は苦しげなグロリアの言葉に微笑みを向けた。
「アイテールは触媒に触れていなければ消える性質があるっていうのも――」
水蛇の頸部に噛みついたダブルの口もとから火が噴きだす。
ダブルは炎の塊のようにその身体を変質させた。
水蛇の身体が蒸気を立てながら蒸発していく。
「あああああっ!」
水蛇のアイテールが負ったダメージと同等の苦痛がグロリアに流れこむ。
まるで首筋から炎が注入されるようだ。
「アイテールがひとつの形を取ったほうが、より強くなるっていうのも」
炎の塊と化していたダブルは、頭部の消えかけた蛇の暴れる身体を足で押さえこむ。
つぎの瞬間、ダブルに押さえこまれた場所から蛇は白く変色していく。
凍りついていっているのだ。
「痛い! 痛い痛いイタイイタイイタイいやああ! な、に……! なんで、こんな……! あああああああああっ!!」
グロリアの絶叫は室内にこだました。
その声に慧は意識を取り戻す。
倒れたまま、ぼんやりと視線だけ動かす。
慧はグロリアのすぐ背後でふたつの影を朦朧と見つめる。
十和の声がする。
「なんでと言われるほどのことじゃないよ」
水蛇はもう動かない。
全身が凍りつき、グロリアの足もとの水溜りにも氷が張っている。
「僕が想像するに、アイテールに枷をはめることでより研ぎ澄まされるんだろうけど、それはやっぱり想像力の限界をつくることになるんだよ」
グロリアの全身は痛みと恐怖と寒さで震えていた。
ふと、氷の彫像と化した水蛇に十和は触れる。
グロリアは十和がしようとしていることを悟ってぞっとする。
「限界って面白くないよね」
十和が手に力をこめる。
ビシビシっと音が響き水蛇にヒビが入る。
まるで全身の骨が砕けていくようだ。
グロリアは満足に声もだせず、ハッと息を呑んだのみだ。
「悠ちゃんが言うには、アイテールは触媒の脳波に反応し増幅するんだって。脳波は波だ。波は脳のなかにだけあるわけじゃない。たとえば、あそこのビルの明かりも波なんだ」
「や……やめて……」
グロリアの頬に涙が伝う。
苦痛でわななく唇をよだれが伝い、鼻水がでることも気にならない。
磨き上げてきた外見を取り繕うこともできず、ただただもうやめてほしかった。
だがそれには一切構わず十和の講釈はつづく。
「うーん。なんていうのか、つまり、世界のいたるところにあるってことなんだよ。だからこれは壊すね。苦しいし、痛いらしいし、今日の恐怖がトラウマになってアイテールはもう出せなくなると思うけど。ま、所詮、僕らはもともとただの粒子なんだし」
十和の手に力がこもる。
「やめて! お願い、やめて!」
グロリアは懇願していた。
ビュスチェの胸もとを引き下ろして胸の谷間を十和に見せつける。
「あ……あたくしを好きにしてくれて構わないわ。あなたの言うことはなんだって聞く。だからお願い。見逃して。もうやめて……」
だが、十和は首を傾げてきょとんとしている。
「それは子どもをつくる作業をしようって誘っているのかな? でも僕、いまはそういう気分じゃないんだ。早く終わらせて、慧ちゃんを病院に連れて行かなきゃ」
十和はてのひらで蛇を押した。
蛇はガラガラと音を立てて崩壊する。
四肢を引き裂かれるような痛みに声も上げられず、グロリアはその場で卒倒した。
「あっ、慧ちゃん! 目が覚めたんだ。よかった」
慧に近寄り、十和は手を差しだす。
だが、慧はその手をはたいた。
「なんでよ……!?」
「え? どうしたの、慧ちゃん」
「なんなのよ、あんたは! なんでわたしじゃなく、あんたが倒すのよ! なんでそんなに簡単に倒せるのよ! いままでのはなんだったのよ! 戦えるならもっと前からやりなさいよ! わたしがあんなに苦労していたのをずっと馬鹿にして横で見てたの!」
喚き散らした慧はゴホッゴホッと咽る。
十和はその背なかをさすった。
「慧ちゃん。落ち着いて――……」
「う、うるさい!」
慧は咽ながらも力いっぱい十和を突き飛ばした。
わけもわからないまま、目に涙が滲んだ。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい! ……馬鹿みたいじゃない、わたし……。馬鹿みたいじゃない……!」
まず目に入ってきたのは、真っ白い天井と蛍光灯だった。
どこだろうと思いながら、起き上がろうとして体がきしむように痛いことに気づく。
息をついて、まずは頭だけ動かしてみる。
「慧ちゃん。目覚めたんだね」
「鹿妻さん……」
モニターを見ていた鹿妻と目が合う。
見回してここが特殊班の居室だと気づく。
慧はソファーで寝ていたのだ。
体にタオルケットがかけられていた。
「無理な訓練は体に毒だよ」
そう言われて、慧は自分がVRの地下訓練室にいたことを思いだす。
グロリアとの戦いでの敗北が頭を離れず、病院の検査が終わると同時に訓練室に駆けこみ、無茶苦茶をしたのだ。
いや――。
慧はため息をつく。
本当はグロリアに敗北したことがショックだったのではない。
アイテールがだせなかったとはいえ慧が倒せなかった敵をいとも簡単に十和が倒し、しかも助けられたことが悔しかったし、情けなかったのだ。
慧はいままで曲がりなりにも十和を守ってきたつもりだった。
いつもぼんやりとして戦う気をみせない十和を弱いと決めつけていた。
だが、本当は――。
「わたしなんて、もういらない存在なのかもしれない」
「なにを言うんだい。慧ちゃん」
「アイテールだって思うようにだせない役立たずだ。現場にでても全然うまく戦えないし」
慧は両手で顔を覆う。
「どうして、ここに存在するんだろう。なんのために生きてきたんだろう。だれかを救うためだって思ってたのに、現実はだれも救えなくて。こんなことなら死んでしまえたらよかったのに。わたしが死ぬ機会なんてたくさんあったのに。こんな、生き恥さらして、苦しい思いして――」
鹿妻は近くのスツールに腰掛け、慧の頭を撫でた。
「慧ちゃん。辛かったんだね」
優しい声にうながされるように、慧の頬を涙が伝う。
そうやって鹿妻はしばらくただ頭を撫でつづけた。
鹿妻の手は不思議だ。
慧に我慢をさせない。
おかげで慧は泣くことに没頭できた。
少し落ち着いた慧を見て、鹿妻が言った。
「だけどね、俺は怒ってるよ、慧ちゃん。そんなこと本気で思っていたなら、俺はすべて否定するから」
鹿妻の声には叱責が含まれていた。
慧ははっとして顔を上げる。
「みんな心配していたよ。慧ちゃんがいらない存在だって言うなら、だれも心配しないでしょ。もちろん、俺も心配だった」
「……すみません」
「素直でよろしい」
鹿妻は微笑むと、ペットボトルのミネラルウォーターのフタを開け、慧に差しだす。
慧は起き上がり、おとなしく受け取ると一口飲んだ。
冷えたミネラルウォーターがしみじみと体に広がっていき、感覚を取り戻していく。
「そういえば、仕事……!」
「ああ、大丈夫大丈夫。十和が珍しく頑張るって言ってたから、きっとなんとかしてるよ。心配しないで今日は休むこと」
鹿妻が念を押す。
慧はふっと息をついた。
「鹿妻さんも知っていたんだね。十和が本当は強いってこと」
鹿妻は一瞬言葉に詰まったが、正直に頷いた。
「うん。まあ、実際は十和が強いんじゃなくて、ダブルが強いんだけどね。ダブルはさ、十和を守ることに命かけてるから」
「変なの。それじゃあ、アイテールに感情があるみたいだ」
「そうだね。変なこと言ってる。だけど、なんていうか、そういうのがしっくりくるんだ。あれはね、十和の意志の越えたところで存在することを十和自身が望んでいるから」
「……どういうこと?」
「うん。どういうことだろうね?」
「鹿妻さん、なにを知ってるの? なにを隠しているの? 十和は一体なんなの? あいつのアイテールはなんでいつも顕現したままなの? なんであいつのアイテールは動き回るの?」
「落ち着いて、慧ちゃん」
「だけど、わたし、わかんないことばっかりで。だって、あいつ……」
「前に言ったよね。ダブルには透明な首輪とリードがついていて十和と結びつけているんだって。それからダブルは戦闘に特化していない愛玩用だから、少ないエネルギーで顕現できるんだって」
確かに、そう以前から説明されていた。
そうでなければおかしいし、わざわざ嘘の説明をされる理由もないため、その説明を鵜呑みにしてしまっていた。
だが――。
「だけど、それって本当に本当のことなの? だって、ダブルはあんなに強かった」
鹿妻が眼鏡の下で目を細める。
「どうだろうね? きっとそれ以上は慧ちゃん自身の目で確かめていくべきことだと思うよ」
「鹿妻さん……。今日、少し、変――……」
鹿妻は慧と目線を合わせて言った。
「十和がね、慧ちゃんに家族を紹介したいんだって。今度の日曜日に家に招待したいって言ってた」
「え?」
「会ってあげてくれないかな?」
慧はあからさまに戸惑いの表情を浮かべる。
「え? だって、だけど、それってどういう……。鹿妻さんはそうして欲しいの……?」
「うん、そうだね。十和が家族を紹介したいなんてすごい変化なんだ。だから慧ちゃんにはその招待を受けて欲しい」
慧の頬にさっと朱が差す。
少し悲しそうな表情をしたのを見て、鹿妻は頭を撫でた。
「わかった……。わたし、鹿妻さんがそうして欲しいなら」
「よかった。ありがとう。……無理言ってごめんね」
鹿妻の心底嬉しそうな笑みに、慧はうつむき、首を横に振る。
わかっていたことだった。
鹿妻は優しいが、それは親切なだけで、それ以上でも以下でもないことを。
「それでね。俺、慧ちゃんにだいじな話があるんだ。ちょっと長くなるんだけど、いいかな?」
慧は顔を上げた。
鹿妻は相変わらず穏やかな表情を浮かべているが、眼鏡の下の目は堅く冷静だった。
「本当はね、既成概念なんて持ってほしくないんだけど。あの場所では平静を保てないといけないから、どうしても、ね――」
そう言うと、鹿妻は一瞬哀しげな表情を見せた。
*
――これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
――アームストロングですか? 丸パクりじゃないですか。
――だって、浮かんだ言葉がそれだったんだもの。仕方ないじゃない。そのときの感動を的確に言葉にできるなんて、歴史に名を残すひとたちはさすがよね。
――先生だって歴史に名を残せますよ。だけど、その偉大な先生の最初の一言がアームストロングの丸パクりだなんて、がっかりです。
――しょうがないでしょ。そう思っちゃったんだから。あ。これならどう? なぜ、デカルトは虹を研究したと思う? 虹を美しいと思ったからだよ。
――ファインマンですね……。
――ファインマンってロマンチストよね。それでもって皮肉屋なの。うっとりしちゃう。……コホン、ところで。
――はい、先生。
――やっぱり、歴史に名が残っちゃうかしら。
――残りますよ。確実です。