五 因果の糸
「共同戦線なんてヤになっちゃう」
物陰に隠れながらリリーが不満をこぼした。
「局長はリリーたちの手柄にするつもりだって言っていたじゃない? これじゃあこれまでのリリーたちの努力はなんだったのかしら」
「敵は目前だ。もう少し声を落とせ」
背後の警視庁の機動隊のひとりがリリーを厳しくたしなめる。
「あら。ごめんあそばせ」
緊張感もなく平然とリリーは告げる。
椚の言い出した特殊班の密かな捜査は実を結ぼうとしていた。
ただし、警察との合同捜査という条件つきではあったが。
ダッドの事件以来、世間にミセリコルディアの危険性が再認知され取り締まりは強化されていた。
それにより予算は追加され、捕まえた売人の協力もあって、特殊班と椚が密かに進めていた捜査は佳境に差しかかっていた。
しかし、ここにきて椚は警察との合同捜査を命じたのだ。
しかもリリーにとってなにが一番不満だったかと言えば、慧の態度だ。
こういうときはいつも先頭切って抗議するのが慧なのだが、よりによって警察と違法取締部との関係性もあるだろうし、恩を売っておくのも必要だと言って文句も言わなかったのだ。
あの事件以来、慧はどこか腑抜けて気合が足りなかった。
無論、ここまで大きな作戦となると、手が不足しているのはリリーだってわかっていた。
アイテールでは本格的な銃撃戦になってしまっては出る幕もない。
だがこれまでの努力を思うと、しゃしゃりでてきたくせに我が物顔の警察官にどうしてもイライラしてしまう。
ひとつひとつの事件の点から線を導き出し、ミセリコルディアの精製場所であるここを突きとめたのだって特殊班なのだ。
リリーたちがいるのは、とあるテナントビルの前だった。
街金や聞いたこともない会社、それに歯医者の看板が掲げてある。
そこにとある大学の教授が数ヶ月前から通っていた。
表向きには歯医者に通っているという体で。
ミセリコルディアは他の違法薬物と違い、密輸に頼らない。
その代わり専門的な知識と道具を必要とする。
そのため精製には病院関係者やなんだかの研究機関に勤めていた経験のあるものが関わっていると睨まれていたのだ。
そして、その大学教授は、以前、研究の予算獲得に奔走していたが、最近では潤沢な資金を手に入れたらしいこともわかっていた。
今日は、週に一回ある『納品日』だった。
運搬用のトラックがビル前に停まっている。
教授と運搬業者を装った男たちがそのビル内にいるのは確認済みだった。
『突入準備』
無線が入る。
空気がピリリと張り詰める。
リリーとルウたちが正面から突入し、裏口を慧と十和が張っている手はずだ。
そのビルには隠し地下があり、その地下でミセリコルディアは精製されているとわかっていた。
リリーはぺろりと唇を舐める。
こうなったら大暴れしてやろうと目論んでいた。
慧は警察病院の一番奥まった場所にある病室にいた。
外の戸には『面会謝絶』と札が下がり、警察官が立っている。
病室のなかにはあの少女が眠りつづけていた。
人工呼吸器の動作音と、バイタルをしめす音が静かに響く。
少女は六反田茜といった。
両親はダッドの手によって殺されており、親戚がいるようだが、警察の調書に協力するため一度顔を見せたきりだった。
発見された両親の遺体には虫がたかっていたという。
多分、それを目撃した茜の心象風景に深く刻まれアイテールとして顕現したのだろう。
茜のアイテールは強い恐怖心から生じていたのではないかというのが、鹿妻の見解だ。
そのため、ダッドの形を取り、近づくすべてのものを無意識に攻撃していた。
だが、そんななかで母の幻影を見ることによって、守られているという安心感を得、存在意義の薄れたアイテールは消失したのだ。
「ここに運ばれたときは、全身打撲と栄養失調で随分弱っていたけど、いまはだいぶ回復している。薬もほぼ抜けた。問題は肉体よりも精神のほうだね」
隣に立つ鹿妻が告げた。
「いまも眠りつづけているのは、目覚めたくないってこと?」
慧が聞いた。
「どうだろうね。あんなことがあったんだ。少しくらい回復のために眠る時間だって必要だって俺は思うよ。体の傷は目に見えるけど、心の傷は目に見えないんだし。今回の場合は心の傷のほうがきっと重症だったんだ」
「それなら……」
自嘲気味な笑みを慧は浮かべる。
「心の傷はまだ開いていて、血が流れつづけているのかもしれないね」
「慧ちゃん……」
「十和のほうが正しかったのかもしれない。それなのに……。わたしは……」
慧はうつむく。
リノリウムの床はてらてらと輝き、清潔だった。
犯人がアイテールによって命を落とし幕引きとなった今回の事件は、箝口令がしかれたのにもかかわらず、一部週刊誌でセンセーショナルに取り上げられ、ネット上でも話題になってしまっていた。
蝿のアイテールを顕現し結果的に警察関係者数人を死に追いやってしまった茜は、まるで悪者扱いだった。
だれが調べるのか、茜の生い立ちや通っていた小学校までもが事細かに画像つきでさらされていた。
いまも記者なのか一般人なのかわからない人物が病院前を張っていたり、隙きあらばなかに入ってこようとしている。
これだけのひとが知ってしまったのだ。
きっと茜はもう普通の生活は送れないだろう。
茜が忘れようとしても、執拗に覚えている人間が必ず口だししてくるものだ。
鹿妻が慧の頭をポンポンと叩く。
「慧ちゃんは間違っていないよ」
「鹿妻さん……」
「正しさなんて一過性の価値だ。だから俺たちは自分が信じるものを信じるべきなんだよ。自分を信じて進んだ道が唯一正しい道だと俺は思うよ」
「優しいね、鹿妻さんは」
「そんなことないよ。ところで、慧ちゃんこそ脚の怪我はもう大丈夫なの? 十和も本当に撃つなんて酷いやつだよね」
「ああ、大丈夫。結局かすり傷みたいなもので、もう仕事にも支障ないんだ。血は派手にでたんだけど、それほど大きな怪我じゃなくて、前回の作戦でも問題なかったし……」
「ああ、リリーちゃんが大活躍したんだってね。椚が苦笑していたよ」
「ほんとに。おかげでこっちは出番が全然なかった」
「これで特殊班は存続だ。特殊班を立ち上げた椚の出世にもプラス査定じゃないかな。今度みんなで奢ってもらおうか」
「ふふっ。局長も大変だ」
慧はそう言ったきり黙ってしまう。
言葉がつづかないようだ。
鹿妻は慧の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
「え?」
「本当は他にも話したいことがあるんじゃない?」
慧は泣き笑いのような表情を浮かべる。
「かなわないね、全然」
「いいよ。なんでも言ってごらん」
眼鏡の下の優しい目でうながす鹿妻から視線を逸らし、慧は自分の腕を強くつかんだ。
「ミセリコルディアの処方量を増やして欲しい」
一転して、鹿妻は険しい表情になり、首を振った。
「慧ちゃん。それは、いくらきみの頼みでもそれはできないよ。暴発の危険性はわかっているよね」
「わかってる……。わかってるけど。だけど……」
「どうしたの?」
「わたし――……」
慧は言葉に詰まる。
鹿妻は慧の言葉を、寄り添うように穏やかな沈黙で待っていた。
きっと鹿妻のことだから、話せるようになるまでいつまでだってそうやって待っているだろう。
慧は涙をこらえる。
優しさに胸が詰まる。
同時に、このうえなく不甲斐なかった。
長い逡巡ののち、慧は震える声で告げた。
「わたし、アイテールがうまく操れなくなったみたい」
「病院へ行ってたのか」
事務所に戻ると椚が姿を見せた。
コートをハンガーにかけ、いつもの白衣に袖を通しながら鹿妻は笑顔で迎える。
「やあ、椚。いらっしゃい」
椚は戸を閉めて、他にだれもいないことを確認してから話し始めた。
「間宵も一緒だったのか」
「そうだよ。途中で緊急の呼びだしがあって別れた。最近は大分減ったみたいだけどね」
「それはちょうどよかった」
鹿妻はそれには答えず、笑顔をむける。
「長い話かな? 俺もちょうど喉が乾いていたところだ。椚はブラックだったよね。座って待ってて」
コーヒー豆と水をセットし、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
ガラガラとコーヒー豆を挽く音が室内に響き、香りが広がった。
鹿妻は椚に背を向けたまま、無言だった。
顔を合わせれば軽口を叩くこの男が珍しく言葉を選んでいることに椚は気づいていた。
それならば、椚がなにについて話そうとしているのか察しがついているのだろう。
「お待たせ」
コーヒーカップをふたつ、テーブルに置き、鹿妻は椚の横の椅子を引く。
鹿妻は対象の斜めに座る癖がついていた。
この白い円形のテーブルではそこが斜めになる位置だ。
鹿妻はゆっくりとコーヒーカップに口をつける。
椚が微動だにせずコーヒーの表面をじっと見ていることに気づき、思わず笑みを漏らす。
「そういえば椚は猫舌だったね。フーフーでもして冷ませばいいのに」
椚は厳つい顔を顰めて、言った。
「大人の男がやるとみっともないだろ」
「ははっ。まあ、椚がやると意外かもしれないね。部下は驚くと思う。でも、威厳は薄れるかもしれないけど、親しみは持ってもらえると思うよ。まあ、ここには俺たちしかいないんだし、遠慮する間柄でもないでしょ」
「……それもそうだったな」
そう言うと、椚は身体の向きを鹿妻の方に向けた。
「間宵が不調だ。おまえなら理由を把握しているんじゃないか」
鹿妻はふうと息をつく。
きたか、と思った。
「不調って?」
「被疑者は変わらず挙げている。だが銃を使った報告がある。無論、それを使うことになんら問題はない。そのために携帯させている。だが、間宵が銃を使うということは――」
「慧ちゃんのプライドの問題で考えられないってことか」
「ああ。そうだ」
椚は真っ直ぐに鹿妻を見据えていた。
余計な誤魔化しは不審を生むだけで逆効果だろうと鹿妻は観念する。
「ミセリコルディアには、まだわかっていないことがたくさんある。だからいまから話すことには持論が含まれているよ」
「構わない。わたしはミセリコルディアの専門家として、ひいては鑑定官としての鹿妻を信用している」
「それはありがたいね。給料もアップしてもらえるとさらに嬉しいんだけど」
「不足か?」
「冗談だよ」
椚が眉を寄せたのを見て、鹿妻は笑みをこぼす。
「ミセリコルディアを服用したことのある、特に子どもたちは、ミセリコルディアを長らく服用していない状態でも、ある条件下でアイテールを顕現させてしまう。慧ちゃんもリリーちゃんもルウくんもそうだったよね?」
「そうだ。しかも彼らはそれを自在に操れた。だからスカウトした」
リリーとルウは隔離施設の牢屋のような薄暗い病室で、慧は鹿妻を介して、椚は顔を合わせたのだった。
彼らは決して幸福とは言えない状態だった。
「もちろんアイテールをある一定時間顕現させ操るにはミセリコルディアの力が必要だ。だから一定量を彼らに処方し、違法薬物取締官として働いてもらっている。ところで、彼らが長時間ミセリコルディアを摂取していなくてもアイテールを顕現させるのはどんな状態のときだ?」
椚がため息混じりに言った。
「クイズは好きじゃない。試されている気がする」
「少しくらい付き合ってくれてもいいじゃない。相変わらずノリが悪いなあ」
「悪かったな」
「ふふっ、まあいいけど……。彼らがね、アイテールを顕現させるのは、強い興奮や怒りを感じているときだ。つまりね、彼らの脳波がβ(ベータ)波やγ(ガンマ)波のときなんだ」
「β(ベータ)波やγ(ガンマ)波……?」
「脳波には五つあって精神状態を表すとされているんだけど、一番描く波が緩やかなδ(デルタ)波は熟睡中などの無意識状態を表し、次に穏やかなθ(シータ)波は浅い眠りや瞑想中になりやすい。一番耳にすることの多いα(アルファ)波はリラックスできている状態を表しているんだ。β(ベータ)波やγ(ガンマ)波はそれとは対極にある状態だ。つまりストレス状態で感情が昂ぶっている状態ということ。γ(ガンマ)波がしめす波は特に激しく興奮の度合いが高い。どうやらアイテールが顕現しやすいのはこのγ(ガンマ)波のときのようなんだ。慧ちゃんは四人のなかでも描く脳波が大きくて、特に犯人を追い詰めるときは激しい波を描いていた」
「それが最近違うと?」
「椚は慧ちゃんの経歴をどこまで知ってる?」
「生まれてから違法薬物取締官になるまでのことは洗いざらい調べてある。あの事件のこともだ」
「そうだよね……。じゃあ、先日死んだ犯人ダッドとの関係性も知ってるんだよね」
「無論だ」
「なら話すけど、慧ちゃんはダッドに復讐することを目的に生きてきたと言ってもいい。でも、ダッドはすでに殺されてしまっていた。目的は失われた。けれど、慧ちゃんは少女を――まるで自分の分身のように同じ状況に陥っていた少女を救ったんだ。それは慧ちゃん自分を間接的に救ったようなものだった」
椚は顎に触れながら、呟いた。
「つまり、間宵の目的は果たされなかったが、意図せず心的外傷を克服した、と?」
「慧ちゃん自身、決してそのことを意識して行ったわけではない。だから本人も気づいていないと思う。だけど、慧ちゃんの脳波はあれから安定している。α(アルファ)波をしめすことが多くなり、犯人と対峙したからといって、極端な波数をいきなり描くことはなくなった。γ(ガンマ)波になることがほとんどなくなったんだ」
「それが間宵がアイテールを操れなくなった理由か」
「持論だけどね」
椚はやっとコーヒーに口をつける。
少しぬるくなった苦い液体が舌を適度に刺激する。
「間宵は以前のように戦えるか?」
鹿妻にしては珍しく眉を顰めた険しい表情で椚を見つめた。
「それは、慧ちゃんを辞めさせることを考えてるってこと?」
ふん、と椚が鼻を鳴らす。
「まさか。間宵の夢幻に対する憎しみは本物だ。それだけでこの職に就く理由は十分だ。配置換えだよ。戦えないのに現場にだすのは危険だろう」
「……なんだ」
背もたれに体を預けて、拍子抜けしたように鹿妻が呟く。
「だけど、そうなったら、慧ちゃんはきっと傷つくね。いまの仕事にプライドを持って臨んでいたから、自ら辞めるって言いだしかねないかも」
「それでも私は構わないが、おまえが嫌ならどうにかして説得すればいい。鹿妻の言うことなら間宵も聞くだろう。そうだ。どうせなら、鹿妻の助手にしようか」
眼鏡の下で鹿妻が困った笑みを浮かべる。
この上司は見ていないようで、意外と見ている。
「その判断はもう少し待ってくれないかな。いまは過渡期だ。落ち着いたら、また元通り戦えるようになるかもしれないし」
「ひと月が限界だ。十和がいれば最悪の事態は避けられるだろうと思っているが、戦えないとわかっている人間を現場に立たせるなど、上司としては逸脱した判断だ。これでもかなり譲歩している」
「うん。ありがとう」
「しかし、因果なものだよ」
「え?」
ぐいとコーヒーを一気に呷って、椚は立ち上がった。
「アイテールが出現しなくなり、平穏な生活を送ることはむしろ喜ばしいことだろう。だがこんな世界に足を踏み入れたばかりに、間宵は素直に喜んでもいられない」
「けど、こんな世界に足を踏み入れなければ、あの事件と向き合うことはできなかったと思うよ」
「だから、因果だ」
「ああ。なるほどね」
椚はため息をついて、鹿妻を見下ろす。
白衣を着て髪にパーマをあてたこの優男は、締まりのない穏やかな表情で椚を見上げている。
出会った頃は、鹿妻も十和も思い詰め、張りつめた糸のようだったことを思いだす。
「ごちそうさま。参考になった」
慧は廃ビルの階段を駆け上がっていた。
雨が降り始めており、雨音がビル内に響いているだけではなく、内樋から漏れた水が室内にも滴っている。
廃ビルであるため電気は通っていなかったが、あたりの明かりがガラスのほぼついていない窓から差しこみ、薄暗いが見渡すことは可能だ。
繁華街からほど近いこの六階建ての廃ビルには、以前はテナントや怪しげな消費者金融が入っていたが、建築基準法を満たしていないということで取り壊しが決まっている代物だった。
しかし、オーナーが取り壊し費用を惜しみ、出入り口に立入禁止の表示をしたまま長らく放置されていた。
慧は階段を見上げる。
『栄光』とみずから名乗る女売人は、まるで誘いこむようにこのビルに入っていった。
わざとらしく階段を見下ろして姿を見せると、最上階で姿を消したのだ。
十和は捕まえた中毒者を警察官に引き渡すために足止めを食らっていた。
慧はいま一人だった。
十和は深追いをするなと言っていたが、聞いている場合ではなかった。
グロリアは指名手配されながらも、捜査の目をかいくぐってきた大物だ。
やっと手が届こうとしているのだ。
ここで臆するわけにはいかない。
六階分の階段を上り終えると、ドアもないコンクリート剥きだしの部屋でグロリアが立っていた。
ビュスチェのような黒いレースの上着にピッタリのジーンズを履いたグロリアは、サングラスをしているものの街なかを歩いていればひと目を惹くだろう美貌とスタイルの持ち主だということは明らかだった。
わざわざこんな世界に足を踏み入れずとも、別の世界にいくらでも生き場所がありそうだ。
「グロリア! もう逃さない! おとなしく捕まれ!」
慧が銃を構えながら、グロリアに近づく。
「雨って大好き」
焦ったようすもなく、舌っ足らずな高い声でグロリアが呟いた。
「憂鬱で暗くて世界を涙色にしてくれるの。とっても素敵。だってだれかの涙なくしてはだれかの幸福は成り立たないもの。そうは思わない?」
不愉快を隠すことなく慧は吐き捨てる。
「下衆が」
「だけど、それが世界の真実よ。世界の幸福と不幸は天秤で測れば水平になるって決まっていて、だれかが不幸になればだれかが幸福になるの。そして、あたくしはいつも幸福の盃だけを美味しくいただくの」
「おまえは自分の幸せのために、他人に不幸を味わえと言うのか」
「あら、そんなことは言っていないわ。ただあたくしは欲しいものはなにをしてだって手に入れるべきだと思うってだけよ。だって、条件のいい男に選ばれるものもいれば選ばれないものもいる。お金を集めるものはそのお金を使って貧乏人からより搾取する。権力のあるものはそれを行使することでより高みにのぼろうとする。皆、だれかがだれかを蹴落としてなにかを手に入れているの。それは世界の摂理よ。この世界が平等であるべきだなんていうのは、弱者の戯言じゃない」
「だからおまえは薬をばらまくのか……!」
くすりとグロリアは愉快そうに微笑む。
「それはそれよ。だって世界があまり平穏だと退屈でしょ」
「貴様、そんなことで! ふざけるなっ!」
慧の拳銃を握る手に力がこもる。
いまにも引き金を引こうとする。
だがグロリアは余裕の微笑を浮かべている。
「ねえ、あなた、気づいていて? あなたはすでにその水溜りに足を踏み入れていることを。きちんと、気づいていて?」
はっとして慧は足もとに視線を落とす。
確かに慧の靴は水溜りに浸かっていた。
そして、その水溜りはグロリアの足もとの水溜りにつながっている。
慧は水溜りから足を引きあげようとするも、すでに遅く、足に水がまとわりつき動かせない。
「ただの取締官風情が銃を振りかざしたくらいで、あたくしを捕まえられるわけがないじゃない」
グロリアが低く囁いた。
それはゾッとする響きを持っていた。
慧は銃を撃とうとする。
だがそれよりも早く、水溜りが勢いよく隆起する。
水は波打ち、慧を呑みこんだ。
ゴポリッ、慧の口から空気の泡が漏れる。
慧は水を払おうと手をばたつかせるものの、払えるわけがなかった。
水柱のなかに慧は閉じこめられていた。
息が苦しい。
鋏を――。
アイテールよ、出ろ!
慧は念じる。
だが、これまで自在に操ってきた鋏はうんともすんとも言わない。
その輝きの兆しすら顕れない。
「だから雨って好き。水溜りができていてもだれも疑問を持たないもの」
グロリアがヒールの音を響かせて慧を呑みこんだ水柱に近づき、それに触れた。
「あなたはどのくらいで息絶えてくれるかしら。アイテールの欠点をあげるとするなら、触媒とアイテールの一部が接触していないといけないってところよね。おかげで、あなたが死ぬまであたくしはここに足止めよ」
慧はグロリアに銃を向ける。
だがトリガーをいくら引いても弾はでてこない。
「無駄よ。無駄だとあなた自身わかっているでしょ。アイテールの幻想に合わせてあなたの無意識がトリガーを引くことを阻み、アイテールの幻想に合わせて弾が出てこないという現実を脳がつくりだすの。アイテールとはそういうものでしょ」
慧は銃を投げ捨てる。
水柱のなかで銃が浮かぶ。
そのとおりだった。
アイテールに対抗するにはアイテールしかないのだ。
そんなの最初からわかっていることだ。
慧は自分のてのひらを見つめる。
出てこい。
出てくるんだ。
頭のなかに黄金色の鋏を描く。
だが、いつまでたってもてのひらにいつもの重量を感じることができない。
金属の輝きも感じられない。
いま、出てこなければ――。
息が苦しい。
焦りが湧き上がる。
意識が朦朧としてきている。
このままじゃ――。
慧の背筋は寒くなる。
暗い底の見えない穴が大口を開けてすぐそこまで迫っているような予感。
つぎの瞬間、慧が感じたのは純然たる恐怖だった。
そしてそこから逃れたいという本能だった。
慧はあがく。
まとわりつく水を払おうと、手脚をばたつかせ、無駄な努力をする。
無論、そこになんの効果もあるはずもなく、慧はむせるように口の中に残っていたわずかな空気を吐き出してしまう。
意識が遠のいていく。
暗い闇に引きずりこまれながら、慧は願ってしまう。
だれか。
お願い、だれか助けて――。
*
――ねえ、魂ってなんだと思う?
――急にどうしたんですか、先生。
――むかしのひとは魂が抜けるイコール死だって思っていたわけじゃない?
――はあ……。
――ミトコンドリアってヒトが死ぬとその輝きを失うって知ってた? そこからミトコンドリアが輝いているかいないかでヒトの生死を判別しようって動きもあるのよ。
――それがどうしたんです?
――鈍いわねえ。つまり、わたしが言いたいのは……。