三 狂乱と冷徹
現場につくと、風が唸るような低く耳障りな音が響いていた。
「なに、この音?」
リリーが訝しがる。
その袖をルウが引っ張り、ある一点を指した。
「嘘でしょ。あの大きさ……。反則的じゃない」
一軒家を覆う黒っぽいアイテールに、相変わらず派手な格好をしたリリーも固唾を呑む。
その巨大なアイテールは家を抱きかかえるように座りこんでいた。
首は屋根の上にあり、うつむいている。
「立てこもっているのは、身元不明のダッグと名乗る売人らしいな。よほど夢幻を溜めこんでいたのか。それとも……」
同時に現場に到着した椚が冷静に述べる。
アイテールの大きさは摂取したミセリコルディアの量、または思念の強さに現れる。
前者であれば手こずってもリリーとルウで拿捕可能だろうが、後者であった場合、その成否はわからない。
「やれるか?」
椚か聞くと、頬を緊張でこわばらせたリリーが、それでも笑って毒づいた。
「やれるか? ふざけないでよ。やるのよ。決まってるでしょ。リリーたちしかいないんだから。それになかにはひとが残ったままなんでしょ。警察はなにやってるのかしら。中毒者だってわかっていたなら、宇宙服着て突入はしなかったの」
触媒の脳細胞の異常発火で漏れ出すアイテールを、近くにいる人間の脳が感知してしまうことによって、いわば脳は感染したような状態になり、幻覚を認識するようになる。
それに対抗するため、宇宙服に似た防護服が考え出されていた。
強力なアイテールを操る中毒者を逮捕する際などに用いられている。
だが、非常に高価でメンテナンス費用もかかる装備であるため、数に限りがあった。
しかも、それを着たとしても完全に『感染』を防げるわけではない。
ミセリコルディアやアイテールにはまだ解明されていないことが多数あり、もしかしたら物質を透過する性質をもっているのかもしれないと類推されていた。
「警察は防護服を来て突入したようすだ。だが、それ以上に高濃度のアイテールが漂っていたんだろう」
椚が告げる。
突入した警察はアイテールに襲われ、なんとか逃げだしたものもいるが、数名は意識を失い、まだなかに取り残されているという。被害者の少女も然りだ。
警察官は現在、この周辺を規制し取り巻くばかりで、手のうちようがないようすだった。
「いまのところ、あのアイテールは一定以上の距離を保っていれば、攻撃をしてこないようだな」
椚の言葉にリリーはアイテールを見上げる。
家を取り込むように巨大なアイテールは影のように暗く、男の形をしていた。
ホログラフで見た被疑者と同じ顔だ。
どれだけ自分を好きなんだとリリーはナルシストっぷりに呆れる。
「ま。リリーのほうがリリーのこと全然好きだし。負けないんだから。いくわよ、ルウ!」
「うん。リリー、ルウ守る」
リリーが手を差しだすとルウが握った。
そのまま、一軒家に向かって歩み始める。
ツインテールに咲いたパステルレインボーカラーの薔薇から茨が伸び、撓う。
アイテールを操るには集中力が必要だ。
アイテールとなる物体を細かく描くことのできる想像力、そしてそれにこめる想い。
自然、アイテールとなるものは、単純なものや触媒の執着がこもっているもの、あるいはその両方となる。
散漫な思念でもアイテールは現れるが、他者を攻撃でるようなものではなく、花火のように出現しては消える儚いものとなってしまう。
歩きながらリリーは唇をぺろりと舐める。
彼女は美しいものを愛していた。
なかでも芳しく可憐で無邪気にだれかを傷つけてしまう薔薇を愛していた。
願わくば、だれかの皮膚を棘で裂き、真紅の血液を養分に大輪の薔薇を咲かせたい。
リリーのアイテールはその屈折した願望の顕現だ。
それ故に残酷で容赦がない。
「まずはあいつを捕まえてみようかしら」
二本の茨の鞭が男のアイテールに向かってしなやかに伸びていく。
家の屋根部分から覗いていた巨大な顔の周囲を茨が取り囲む。
まるでとぐろを巻いているようだ。
そして、次の瞬間一気に絞り上げる。
その棘は男の顔に喰いこむはずだった。
だがあまりに簡単に男の顔は霧散する。
「え?」
その手応えのなさに、リリーは一瞬呆然とする。
後方でそのようすを窺っていた警察官からも疑問と、そして徐々に歓声があがる。
「やっつけた?」
ルウが聞くとリリーは首を振った。
「違う。なにかおかしい……」
リリーは男のアイテールを見上げる。
頭部は確かになくなってはいたが、家を覆っている首より下はまだその形を保っている。
それに感じる雰囲気がいまだこんなにも禍々(まがまが)しい。
だが、警察官たちはせっかちにもすでに突入の準備をしようとしていた。
リリーが足音に振り向く。
「待って! まだきちゃ――」
その言葉が言い終わらないうちに、あたりに鳴り響いていた低音の耳障りな音が近づいてくる。
見上げると頭部を失ったアイテールの黒っぽいてのひらが、こっちに向かってきていた。
リリーが茨を向ける。
てのひらに茨を絡ませて進行を止めようとしたが、やはり手応えがない。
茨はそのてのひらをすり抜けた。
「え?」
黒いてのひらが目前に迫る。
その表面が蠢いているのを見開いたリリーの目が目撃する。
「壁!」
ルウが怒鳴る。
次の瞬間、ルウの影からレンガの壁が現れた。
ルウとリリーを守るように立ちふさがる。
壁に巨大なてのひらがぶつかる。
ズシンとした重い感触はなく、バチバチバチっと細かなものがぶつかるような音がした。
リリーは見た。
自分たちを守る壁の横や上から大量の蝿が真っ直ぐ飛び去っていくのを。
それらは突入しようとして最前列にいた警官ひとりを捕まえた。
一瞬で黒い塊がそこに出来上がる。
警官はしばらく叫んでもがき、まるで踊っているようでさえあったが、開けた口にも蝿は殺到し、声さえあげられなくなり、ついには窒息死した。
蝿たちはひとりを殺し終えると欠けた腕を引っ込める。
無数の蝿は、欠けた部分を補おうと渦を作って補修していた。
耳障りな低音があたりに響いている。
それが羽音なのだと今さら気づいてリリーの背筋は寒くなった。
「キモっ!」
リリーが頭をかきむしる。
「キモっ、キモっ、キモっ! やだっ! なにあれ! 虫嫌い! なんかキモすぎて痒い!」
ルウが心配そうに覗きこむ。
「……やめちゃう?」
その言葉を聞いたリリーは顔を上げる。
だがふたりには選択をする猶予はなかった。
低音が近づいてくる。
人型の蝿のアイテールは欠けていないほうの腕をリリーとルウに伸ばす。
まるで叩き潰すように、その腕はふたりを呑みこんだ。
激しいブレーキの音を響かせて警光灯を点けた車が到着した。
すぐさま勢いよくドアが開く。
まるで葬式に向かうかのごとく一式黒のパンツスーツに身を包み、険しい表情をした慧が姿を現した。
別のドアからはシベリアンハスキーと十和が出てくる。
「リリーとルウは?」
あたりを見回し十和が聞く。
近づく椚が首を横に振り、一軒家から伸びる黒い腕の先を示す。
「ふたりはあの腕のなかだ。安否はわからない。あのアイテールは人型をしているが、蝿の塊だ」
「そっかあ」
十和が呑気に一軒家を守るアイテールを見る。
その横で慧が走りだした。
「あっ、慧ちゃん」
その呼びかけは慧には届かなかった。
アイテールのあの顔、それだけに釘づけになる。
黄金色の鋏が手のなかに顕現する。
その諸刃の刃先の鋭さはきっといままでで一番だろう。
目の前が憎しみで真っ赤だった。
父の顔が浮かぶ。
母の顔が浮かぶ。
そして、あの男の――。
「あ゛ああああああああああああああっ!!」
黒い腕が向かってくる。
慧は刃を突きだす。
だが、手応えがない。
表面でうごめく虫を見る。
蝿だ。
慧は舌打ちをし、後方に跳ねる。
そして、すぐさま鋏を開く。
刃をプロペラのように回した。
突っ込んできた蝿はバラバラと音を立てて刃に切り刻まれ、飛び散る。
それまでうつむいていた男の顔が持ち上がる。
腕は手首近くまで失われて、一度引き戻される。
すぐさま修復が始まる。蝿はまだ無数にいる。
慧は男を睨みつけ、顔を拭う。
飛び散った虫のかけらを落とし、唾を吐いた。
「ぶっ殺してやる……!」
その声がアイテールの男に届いたのかはわからない。
だが男は直後、笑った。
にたりといやらしい笑みを浮かべた。
ギリリと歯噛みすると、触発されたように再び慧は走りだす。
復活した腕が慧に向かってくる。
慧はそれを跳ねて避ける。
地面にてのひらがつくと同時に蝿が飛び散る。
飛び散った五本の指先が方向を変え、ばらばらに慧に向かってくる。
慧は振り向きざまに、刃を回転させる。
蝿はまたしても切り刻まれた。
「慧ちゃん、後ろ!」
十和の声が響く。
一軒家の上にあった頭の口が開いていた。
そこから長い舌が慧に向かって伸びてきている。
慧はそれにも反応する。
だが、刃を避けて舌は滑らかに撓い、慧の首筋に蝿の舌が巻きつく。
そこから無数の蝿が慧の身体に広がろうとしていた。
襟や袖の隙間から服の下にも潜りこむ。
慧は目を見開く。
そのおぞましい感触。
まるで――。
身体が凍りつく。
黄金色の鋏の輝きが鈍る。
慧はギュッと目をつぶる。
恐怖が、封印し無視し続けたものが滲みだそうとしている。
目尻に涙がたまっていた。
男が嘲笑っている。
「嫌だ……」
慧は呟く。
鋏を握っていない左手で伸びた舌をつかもうと腕を伸ばす。
無論、つかめるはずもなく、慧の手は蝿の舌のなかに呑みこまれる。
払っても払っても身体を覆う蝿は増えつづけ、慧はただもがくしかない。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
羽音はまるで内側からしてくるようだ。
蝿が身体中を蠢いているのがわかる。
顔にも流れ落ちそうな涙にも。
気持ちが悪い。
発狂しそうだ。
だがそれでも――。
「わたしは決めたんだ! なにもできない子どものままじゃ嫌なんだっ!!」
慧はポケットをまさぐり、入っていたカプセルを取り出して口に放る。
緊急用のミセリコルディアだ。
奥歯で噛んで飲み干した。
慧のアイテールが光り輝く。
決めたのだ。
自分がどんな目に遭おうと、苦しもうと、不幸になろうと、あいつを殺すと。
あいつだけはこの手で、刺し違えたって ぶっ殺してやると。
そうでなければなんのために、いままで生きてきたというのだ。
慧の手のなかの鋏がぐんぐんと大きくなっていく。
その開いた切っ先は屋根の上の首に到達していた。
「糞が! 死にさらせ……!」
慧は力をこめた。
ジャキンッ!
耳をつんざくような金属音が響き渡る。
男の首が銅から切り離される。
だが慧の鋏を取りこんだまま、再び首はつながろうとする。
それはそうだった。
あれは男の形を取っているだけの蝿の集合体なのだ。
慧の鋏にも蝿が殺到し始める。
だが、次の瞬間、カッとまばゆい光が鋏から溢れる。
巨大な鋏の刃から無数の鋏が現れていた。
その鋏からもまた鋏が生える。
それらは幹のように連なり、育ち、針のように男を内側から突き刺す。
蝿は逃げる間もなく、つぎつぎに切り裂かれていく。
嘲笑っていた男は、現れつづける鋏によって奇妙な表情を浮かべ、破裂するように散れ散れに消え失せた。
慧は肩で息をし、地面に膝をつく。
蝿は完全に消えたわけではないが、巨大な人型を形成できるほどの数はいなくなっていた。
唾を吐きながら慧は咳きこむ。
体中を這い回っていた蝿は消えていたが、おぞましい感触はまだ残っていた。
「お疲れさま。さすがだね、慧ちゃん。立てる?」
駆け寄ってきた十和が差し出した手を慧は払う。
「わたしをだれだと思っているんだ。このぐらい平気に決まってる」
強がってひとりで立つものの、慧の足もとはふらついていた。
ほとんどの力を費やしたのだろう。
鋏のアイテールはすでに消えていた。
「行くわよ、なかに」
「了解」
慧と十和は家に向かう。黒い玄関ドアを開けた。
蝿の腕のなくなったその場所には、赤茶のレンガの壁が建っていた。
そのレンガは四方だけではなく、天井部分も覆っているらしかった。
蝿がいなくなりしばらくして、レンガはガラガラと音を立てて崩れた。
なかからルウが姿を現す。
そのレンガはルウのアイテールの壁だった。
「虫はいなくなったみたいね」
きょろきょろとあたりを見回しながらリリーも姿をみせる。
「無事でなによりだ」
椚が言うと、ふんとリリーは鼻を鳴らした。
「ところで、虫がいなくなったってことは、慧と十和が来たってことよね。ふたりは?」
「なかに向かった」
「追う?」
ルウが聞く。
リリーは首を振った。
「いやよ。あんなにたくさんの虫がいたのよ。家のなかがどうなってるかわかったもんじゃないわ。それに救出に向かったんでしょうけど、あのアイテールじゃ、なかにいる人間が生きている可能性は低いわよ。犯人逮捕はふたりに任せましょ」
虫嫌いらしいリリーはこれ以上戦いたくないらしい。
椚はため息をついたが、それ以上はなにも言わなかった。
リリーの言うとおり、慧と十和に任せておけば問題ないだろう。
そのとき、後方で怒声があがる。
「こらっ! きみ、待ちなさい!」
振り向くと、この場所に場違いと思われる少女が駆け抜けていく。
真っ白いくまのぬいぐるみを小脇に抱え、真っ白いワンピースを着て、真っ白いリボンで髪を結わえた幼い少女だ。
呆気にとられた大人たちの脇をすり抜け、少女はあの一軒家に入っていってしまった。
「あの子、なにしてるの?! 追いかけなきゃ」
走り出そうとしたリリーの肩を椚がつかむ。
「いいんだ、あの子は」
一軒家のドアを見つめ、そうぽつりと言った。