二 アトロポスの鋏
照明をつけると白々とした人工の光が、がらんとした室内を見せつける。
独身宿舎であるそのワンルームの部屋には、備えつけの家具しかなく、狭いはずの室内は広く寒々しく感じられた。
慧はパソコン兼テレビとして利用しているモニターの電源を入れる。
ニュース番組にチャンネルを合わせた。
男性キャスターが十二歳の少女が行方不明になったという事件を淡々と伝えている。
両親は殺害されその遺体が発見されているが、少女のみ一週間経過してもその姿どころか手がかりも見つけることができず、犯人からのなんだかの要求などもない。
そのため、公開捜査に踏み切った、という内容だ。
動作をピタリと止めた慧は、食い入るように画面に見入っていた。
「殺してやる……」
その口から小さな呟きが漏れる。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」
あまりに強く拳を握っていたために爪が皮膚に喰いこみ、痺れるような痛みではっと我に返る。
震える手を開くと、てのひらにはくっきりと爪の形がつき、赤紫色に変色していた。
実感する。
自らのうちに宿る殺意はまだこんなにも鮮烈で揺るぎないのだ。
――過去のことは忘れ、新しいあなたの人生を送るべきではないでしょうか。ひとを呪わば穴二つと言うでしょう。あなたにとってもいいことではない。
カウンセラーは穏やかにそう諭した。
慧を心配する親戚も、知人も皆言葉を変えて同じようなことを助言する。
曰く、早く忘れて前を向け、と。
それは確かに正しいことなのかもしれない。
だが、果たして忘れるということはそんなに簡単なことなんだろうか。
たとえ忘れられなかったとしても、憎しみも苦しみも悲しみもなかったことにして、ただ笑顔で前を向いて歩けというのだろうか。
本当に皆そうやって生きているのだろうか。
一体、どうやって――?
慧にはわからなかった。
忘れることも、捨て去ることもできなかった。
そのため、周囲にその暗くてドロドロした感情を隠し、平然とした表情で生きる術ばかり磨かれた。
だが隠すことがうまくなればなるほど、その感情に囚われ、同時に研ぎ澄まされていくようだった。
それは顕現するようになっていたアイテールの鋏の刃の鋭さに表出した。
内側と外側の乖離は年々広がっていく。
歪みは、自覚しないうちに、日々慧を苦しめる。
そしてその苦しみから逃れるために、徐々に親しかったひとたちを遠ざけた。
気が狂いそうだった。
何年経っても苦しみが消えない。
むしろ、大きくなっているようにすら感じる。
自殺すら考えた。
それでも慧が生きていたのは、どうせ死ぬのならあいつを見つけだし、せめて道連れにしてやりたいという気持ちがあったからだ。
そんなときだった。
鹿妻に出会ったのは。
ミセリコルディアにも詳しい脳神経の医者がいると噂を聞き、縋る思いで診察を受けたのだ。
慧の洗いざらいの話を聞き終えた鹿妻は、ひとことこう言った。
「忘れる必要なんてないんじゃない」
てっきり前向きに生きるためのなにか有益なアドバイスをされるのかと思っていた慧は、肩透かしを食らった。
「だって憎くて憎くて、喉が焼きつくみたいに苦しいんです」
「そうみたいだね。なら憎めばいいじゃない。俺だって嫌いなやつや憎いやつなんているよ。だけどそいつら無理に好きになろうとか忘れようとかなんてしてないもん。嫌いなまんま。必要以上に無理したら、自分に嘘つくことになるから苦しいと思うよ。嫌いな奴らのために自分が苦しむなんてバカみたいじゃん。ときどき、身体が捻れるくらいすっげー不幸になれって念じるくらいすればいいよ」
「だけど……」
「色んな人に前向きに生きろって言われた? ま、それも正論だけどね。それができてればとっくにやってるって」
笑いながら鹿妻は言った。
「だけど、わたし、本当に憎んでいるんです。ひとには言えないようなことも考えるんです」
「うーん。それは殺したいって実際思っちゃうってこと?」
「……はい。多分目の前にそうすることが可能な状況があったら、わたしは殺すと思います」
「なら、殺したっていいと思うよ」
あっけらかんと鹿妻が言った。
慧はポカンと鹿妻を見つめる。
目前の優男は柔和な笑みを浮かべるばかりだ。
「だって、慧ちゃん、話聞く限りいい子だもん。きっといままでひどく苦しんで、周囲の期待に答えようと誠実に前向きに生きようとして、それでも無理だったってことでしょ。それにさ、俺だってそんな状況、殺したいほど憎んじゃうって。忘れるなんて無理だよ。慧ちゃんは全然おかしくないし、間違ってないよ」
「だけど……」
「本当にさ、殺せるような状況になって、相手を見てやっぱり許せなくって、すべて捨ててもいいって思うなら殺ればいいよ。そのときは俺がいい弁護士紹介するし。きっと情状酌量で刑期も短いんじゃないかな」
鹿妻は慧の頭をポンポンと撫でた。
それがひどく温かく感じる。
「大丈夫大丈夫。慧ちゃんは少しも悪くない」
気づくと、慧の目からは涙が流れ落ちていた。
胸のなかにあったのは安堵だった。
わけのわからない安堵に慧は戸惑い、そして、気づく。
ずっと自分は肯定されたかったのだ、と。
自分は悪くないないと、あいつを憎んでもおかしくないのだと、ずっとそう言ってもらいたかったんだ。
その日、久々に泣いた。
久々すぎて、目が痛くなるほどだった。
その後、鹿妻からは違法薬物取締官の話を持ちかけられる。
内緒だが、鹿妻はいまの医院を辞めて転職する予定なのだという。
そして、慧は違法薬物取締官になった。
テーブルの上にあった水の入ったコップをキッチンへ持っていき、軽く洗って水を交換する。
そしてまたテーブルの定位置に置いた。
「ただいま。お父さん、お母さん」
正座をし、手を合わせる。
そこには父と母の遺影があった。
慧はふっと鋭い目つきで宙空を睨んだ。
「待ってて。必ずわたしが殺すから」
最近の慧は鬼気迫るものがある。
相棒としてそばで戦いを見る十和はひしひしと感じていた。
今日の警察からの協力要請でも、すでに戦意を失っていた被疑者に対して黄金色の大きな諸刃の鋏を振り回し、アイテールを打ち砕いていた。
その容赦ない姿はまるで運命を司る三姉妹モイラの末妹アトロポスを思い起こさせた。
ギリシャ神話に登場する女神アトロポスは、姉の女神クロトが紡ぎ、ラケシスが天秤で測った運命の糸を、鋏で断つ役割を担う。
その性質は冷酷で無慈悲だといわれる。
無事逮捕にはいたったものの、今現在もそのアトロポス様はベテラン刑事と言い合いになっていた。
「事件の手がかかりとなりうる被疑者を、おまえはみすみす殺す気か!」
「じゃあなに? 手加減してもっと被害を増やしてもよかったっていうの? 大体、あんたらではどうしようもできなかったから、こっちに協力要請してきたんでしょうが」
言い合いしている慧の後方にいる警官のなかから、チッと舌打ちが鳴り響く。
慧は聞き逃さず、振り向いて啖呵を切った。
「あん? だれよ、いま舌打ちしたやつ」
巨大な鋏を片手に警官だらけの周囲を見回すが、名乗り出るものはいない。
それを見た慧は鼻で笑った。
「はっ! 面と向かって文句も言えない意気地のないやつが、警察官だなんて世も末ね!」
「あんだと、姉ちゃん。生意気言うのもいい加減にしろよ」
ベテラン刑事がその強面を全面にだして凄むも、当の慧は一瞬も怯んだようすがない。
「いい加減にするのはどっちよ」
これ以上は放っておくほうが面倒なことになると判断した十和がやっと重い腰をあげた。
「まあまあ、ふたりとも落ちついて」
「はあ? 外野が口出すな!」
慧が十和をすわった目で睨みつける。
ああこりゃダメだ、ちょっと遅かった。
両手を上げて一歩下がりながら十和は思った。
慧はすでに戦闘モードで、沸点に達した熱は一度発散しないと下がりそうにもなかった。
警察とのいざこざは違法薬物取締部にとっても望むところではない。
だがこうなった以上巻きこまれるのはごめんだし、あとの処理は光英にまかせてもう放っておくか。
そう十和が諦めようとしていたところに、ちょうどよく本部からの通信が入った。
「慧ちゃん、慧ちゃん」
十和が腕時計型の通信機を指で示すと、慧は盛大な舌打ちをして、わかっているわよと言い捨て、無愛想に応答した。
「はい、こちら間宵慧」
『あ、慧ちゃん? ごめん。邪魔した? こちら、鹿妻だけど』
「かっ、鹿妻さん!」
瞬間、慧の背筋がピンと伸びる。
「いえ! 滅相もない! こっちも片づいたところで。どうしたんですか?」
『そっちもう片づいたんだ。さっすが、仕事早いねえ。えっとね、応援要請。リリーちゃんとルウくんが向かった現場で想定外の事態。椚も現場にいる。問題なければ、ふたりも向かえる?』
「もちろんです!」
『ホント!? よかったあ。じゃあ現場の地図と被疑者の写真、事件の概要は移動中に見れるよう送っておくから。十和も頼むね』
「了解」
『えっと、そこに刑事さんたちいるんだよね? だれか、ふたりをパトカーで送り届けてほしいんだけど』
話を聞いていた慧の近くにいたベテラン刑事が身を乗りだす。
「どういうことだ?」
『上からの了承は得ているから安心して。正式に通達もあると思うけど。犯人の家に警察が乗りこんだら、現場でアイテールが暴れて手がつけられないんだよ。とにかく急いでいるから、よろしくね』
刑事の返事を待たずして、通信は一方的に切れた。
呆気にとられた刑事は、十和を見て言った。
「違法薬物取締官はみんなこんなやつらばかりなのか?」
十和は首を振って注意する。
「違法薬物取締官はむしろ刑事さんたちみたいな堅い人たちが多いよ。ちょっと変わっているのがいるのは、あくまで特殊班だけだから。そこ間違えたら、ほかの違法薬物取締官が激怒すると思う。気をつけてね」
結局、次の現場まで送り届けてくれることになったのは、強面のベテラン刑事だった。
慧と刑事の言い合いを聞いていた他の警官が嫌がったせいでもあるが、刑事自身が慧と十和に興味を抱いたせいでもある。
警光灯を点けた車両は音もなく進んだ。
刑事の車のみならず周りを走行しているのは水素自動車がほとんどだ。
そのためエンジン音はほとんどせず道路は静かだった。
おもむろに刑事が口を開いた。
「姉ちゃんはさっきの通信先の兄さんが好きなのかい?」
後部座席にいた慧がぶふっと吹きだす。
それをバックミラー越しに確認した刑事は声をだして笑った。
「へえっ。慧ちゃん、悠ちゃんを好きなんだ」
のんきな十和の発言に、慧は焦って否定する。
「ち、違っ! なにを言いだすんだっ!?」
「図星だな。声の調子も態度も全然違ったもんな」
「下世話だ。刑事のくせに」
「下世話ねえ。俺に限らず人間ってのは下世話な話が好きなもんなんだぜ、姉ちゃん。だが、おかげで仕事のときには同じ人間に思えなかったが、姉ちゃんも同じ人間だって実感できる。うん。そっちのほうが全然いいぞ。なんか可愛く見えてくる」
「セッ、セクハラじゃないか」
「ははっ。セクハラ結構、コケコッコウ!」
「いつの時代の人間だよ」
呆れたふうを装う慧は、窓外に視線を向ける。
だがその耳が動揺で赤くなっていることを刑事は気づいていた。
思わず笑みが溢れる。
「慧ちゃん、慧ちゃん」
十和がそっぽを向いた慧の袖を引っ張る。
不機嫌に慧が答えた。
「なに?」
「通信入ってる。つぎの現場の。悠ちゃんから」
「ああ、そうだったね」
事件の概要を鹿妻が送っておくと言っていたのだった。
慧はため息をつく。
十和に指摘されるまで気づかないなんて思ったより冷静さを欠いてしまっていたようだ。
しっかりしなければ。
時計型の通信機を操作する。
ホログラフが表れた。
それによると、現場は、以前、新興住宅地として栄えていた場所の、空き家となって長らく放置されていた一軒家だ。
男が空き家を不法占拠していたらしい。
不審に思った近所の住人が通報し、その男が行方不明となっていた少女を連れこんでいることが発覚。
警察が乗りこもうとしたところ、アイテールに襲われ、警察は撤退。
隊の一部は取り残され、辛うじて撤退できたものも意識を失い病院へ運ばれたという。
被害者と思しき少女の写真が現れる。
見覚えがある顔だった。
それは昨夜のニュースで見た顔だ。
慧は震える指先でネクスト・キーを押す。
被疑者の写真が映しだされる。
ボサボサの髪、黒黒とした髭面に立派な鷲鼻、虚ろな目、こそげた頬――。
慧は拳を腿に叩きつける。
そこには少し老けたものの、忘れようとしても忘れることのできなかった顔があった。