一 違法薬物取締部特殊班
二○XX年。
近未来。
発展と惰性によって紡がれた未来に、不平等や格差は解消するどころか広がりを見せ、ひとびとは行き詰まりと曖昧な息苦しさを感じつつも、下を見ることで、あそこには落ちたくないと、変わらない生活をすることに甘んじるような時代。
だが、諦めの念はいつしかかき消せないほど降り積もり、社会の裏側にぼんやりとした、けれど確実な歪みを生じさせていた。
そんななか、ミセリコルディアという薬物が引き起こした事件は象徴的な社会問題として取り扱われていた。
ミセリコルディア――それは、近年、新たに発見された脳の神経細胞ニューロンの電気信号に反応する粒子をもとに某製薬会社が創りだした薬だ。
ニューロンの働きを活性化させることに成功し、認知障害やALSなどの画期的かつ効果的な治療薬として、期待されていた。
しかし、ミセリコルディアは想定外の副作用を持っていた。
それは一定量以上が健常者の脳神経に達すると、ニューロンの発する電気信号が必要以上に増幅され、結果、幻覚を引き起こしてしまうのだ。
しかもその反応は被験者のみならず、増幅された電気信号は空中に漏れだし近くにいる人間の脳をも巻きこむ。
言い換えれば、現実と間違うほどのリアルな妄想が出現し、自分だけでなく他人とも共有してしまうという事象が起きるのだ。
臨床試験のフェーズⅠの段階で発覚した思わぬ副作用に新薬の開発は暗礁に乗り上げ、その名は知られないままひっそりと闇に消えようとしていた。
だが、ミセリコルディアは思いも寄らない事件によりその名を世間に広めることとなる。
ある研究員が持ち帰ったミセリコルディアが住宅地で激しく反応、その直径一キロメートルにいた四万人という住民をショック死や精神錯乱に陥れたのだ。
それにより訴訟問題にまで発展した製薬会社は倒産を余儀なくされた。
だが、その副作用に注目した暴力団等の裏組織が、ミセリコルディアのレシピを密かに手に入れ、『夢幻』という名を与え、違法薬物として売りさばくようになる。
ミセリコルディア自体には覚せい剤のような強い依存性や毒性はない。
そのため、若者たちの間では安全でちょっとハイになれてみんなで色とりどりの幻覚を愉しめるとパーティードラッグとして広まり、ダイエットをする女性が幻覚の食事をすることで実際の食欲を抑えたり、幻覚によって理想の人物をつくりだして性行為にいそしんだりと、安易に手をだすものが絶えなかった。
だが、ミセリコルディアは決して安全で愉しめるだけの薬物ではない。
ミセリコルディアから発生した副産物――通称アイテールは、脳に直接作用し脳が現実と誤認する。
それは言い知れぬ快感も与えれば、苦痛も然りで、アイテールのナイフで心臓を突き刺せられれば、肉体の心臓も止まる。
そのため、アイテールを悪用した犯罪も発生していた。
そして、ミセリコルディアを取り締まるべく動き出したのが、厚生労働省付き違法薬物取締部の面々だった。
「おい、きみ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ。しかも犬なんてビル内に連れこんだら駄目だろ」
スーツを着た若い男性職員に、肩をつかまれ大守十和は振り返る。
スーツ姿の大人が行きかう庁舎内で、パーカーにジーンズというラフな格好の十和は明らかに浮いていた。
しかも犬を引き連れているのだ。
男の目に留まったのも仕方がなかった。
だが、肩をつかんだ男性の横にいた別の中年の男性が、十和と横にいた黒一色の衣服に身を包む目つきの鋭い女――間宵慧の顔を見てぎょっとした表情を浮かべる。
「やめろ。そいつは違う。特殊班のやつだ」
「えっ!? じゃあ、もしかしてこいつらは」
「ああ触媒だ。その犬も多分アイテールだよ」
「中毒者か……!」
その言葉を聞きつけた慧がさっと顔色を変えた。
十和の肩をつかんでいた男性の胸ぐらをつかみ、壁に叩きつける。
「おい、言葉に気をつけろ。わたしたちはジャンキーなんかじゃない。あんたらと同じ取締官だよ」
首を絞められながらも、男性は言い返す。
「な、なにが同じだ。上の思いつきでできた、所詮実験的なイロモノ班だろう。すぐ解散がオチだ。しかも中毒者を捕まえるために、自分に違法薬物を用いるなんて、ジャンキーとなにが違うっていうんだ……!」
「あん? なんだと……!」
目のすわった慧の手のなかに、巨大な黄金色の諸刃の鋏が出現する。
慧のアイテールだ。
だがいまにも振り下ろされようとした刃は、空中で固定される。
鋏に茨が絡みついていた。
振り返って邪魔者を怒鳴りつけようとした慧だったが、背後にいた人物の顔を見て舌打ちするにとどめる。
そこにいたのは、ダークスーツを着た長身で細身の短髪の男だ。
眉間の皺が深く、神経質で厳めしい顔をしている。
「職員同士で騒ぎを起こすとは、感心しないが」
「椚局長、申し訳ないことであります!」
スーツ姿の男たちは恐れ入って姿勢を正す。
釘でも打てそうな直立不動だ。
「それに彼らはイロモノ班ではない。ここ一、二ヶ月の検挙率は特殊班が一位、二位を独占している」
「ですが、それは……」
「検挙率があがるというなら言い分を聞いてもいいが?」
「い、いえ……」
「ならばさっさと行け。そして、励め」
「は、はい!」
男たちは逃げだすように去っていく。
怒りのおさまらない慧はその背なかを睨みつけて、再び舌打ちをする。
「いい加減離せ、リリー。この不愉快な茨をぶった切るぞ」
リリーと名前を呼ばれたお人形のような容姿の派手な格好をした女が、椚光英の背後から姿を現す。
リリーはパステルカラーのロリータ・ファッションに身を包み、パステルレインボーカラーに染めた髪にチリチリのパーマをかけて、ツインテールに結んでいる。
茨はそのツインテールに飾られた同じくパステルレインボーカラーの薔薇から伸びていた。
その茨がリリーのアイテールだ。
リリーはフンと鼻を鳴らして茨を回収する。
リリーも違法薬物取締部特殊班の一員だった。
「相変わらず野蛮人ね、慧。あなたの気性の激しさは有名よ。だれにでも喧嘩をふっかけて、おかげでうちの班の評判は最悪よ」
「リリー、おまえのその目の痛くなる仮装が評判を落とす一端を担ってるって自覚はないのか?」
「あら? 評判を落としているのは、あなたたちのそのダサくて垢抜けない服装のほうじゃなくて? 慧なんていつも全身真っ黒だし、十和にいたってはラフすぎてもはや寝間着じゃない。ルウもそう思うでしょ」
声をかけられたルウはリリーの相棒で、リリーが選んだ黒と赤のチェック柄のスーツを着た、少年のようにあどけない顔をした二十歳の青年だ。
棒付きキャンディーを舐めながらルウが言う。
「それに十和、止めない。悪い」
極度の甘党でいつも菓子を口にしているルウは、あまりしゃべらない。
なにか話したと思っても片言のような単語の連なりを口にするのみだ。
「ほんとねー。慧のことだから、放っておけば殺しかねないのに。相棒なんだからちゃんと止めなさいよ、十和」
話が振られた十和はにこにこと答える。
「結果、死んだとしてもきっとそれがそのひとの運命だったんだ。だから、仕方ないよ」
「これだもの」
リリーは呆れて肩を竦めた。
「ところで、光英はなんでここにいるの?」
十和が局長である椚を呼び捨てにする。
他の違法薬物取締官が聞いたら、目を剥くような場面だ。
だが、イロモノと言われる特殊班の面々はだれも慌てるようすがない。
椚自身も気にしたようすはなく、バリトンのよく通る声で答えた。
「奥へ行こう。鹿妻も含めて話をしたい」
「問題なし。みんな、数値は正常だし、いたって健康体だね。戦闘時も脳波の異常な乱れはないよ。安定している。適量を守っているようだし、いまのところ暴発の心配もないよ」
幾つものモニターに表示された数値を見ながら、白衣を着て眼鏡をかけた優男の鹿妻悠一朗が椚光英に報告する。
鹿妻は特殊班付きの鑑定官だ。
ミセリコルディアをはじめとする薬物の鑑定以外にも、現場捜査をする十和、慧、リリーとルウの体調を監視している。
ミセリコルディアにより生じる具象化した妄想――アイテールを操る触媒である彼らには、腕時計型の黒い通信端末の装着が命じられていた。
その端末からは常にバイタルサインと彼らの居場所が送られてくる。
アイテールによって、人の精神を攻撃することは可能だが、人が幻覚であるアイテールを直接攻撃することはできない。
通常、アイテールを消すためには触媒となった人間を攻撃する。
だが、現実と変わらない妄想を前に、それは決して容易なことではない。
そのため、ふつうの違法薬物取締官たちは苦戦を強いられてきた。
アイテールはアイテールによってのみ干渉が可能であることは以前よりわかっていた。
そのことから、苦肉の策として触媒である十和、慧、リリーとルウの特殊班が立ち上がったのだ。
リリーとルウは、ミセリコルディアの名を世に広めるきっかけとなった暴発事故に巻きこまれた被害者だ。
暴発の中心地から半径五百メートル内にいたものはことごとくがショック死をしている。
辛うじて命をとりとめたものも精神錯乱によりまともな意識を保てず衰弱死したり、自ら命を絶っていた。
暴発に巻きこまれた人間のなかでリリーとルウは意識を保って目覚めることのできた唯一の例だった。
そして、彼らは目覚めると同時にアイテールを操る触媒となっていた。
アイテールの強さは想いの強さに比例する。
暴発事故から目覚めることのできた彼らは、強力なアイテールを有していた。
彼らが目覚めることができたのはその意志の強さのためなのではないか、というのが研究機関による分析だ。
また、同様に、十和と慧もその意志に関係なくミセリコルディアを摂取するにいたり、強力なアイテールを顕現してしまった例だった。
「さて、今日集まってもらったのはこれからの捜査の方向性について話があるためだ。詳細な説明は鹿妻がする」
バリトンのよく通る声で、椚が言った。
それを受けて鹿妻が報告を始める。
研究室のようにビーカーや顕微鏡などの実験道具や資料が所狭しと置かれて窮屈になった部屋の中央には、申しわけ程度に白いテーブルと椅子がある。
四人はそこに座っていた。
鹿妻が白いテーブルに触れると、ホログラフィーによりいくつかのグラフが立体的に出現した。
「じゃーん。これなんだ?」
「なにって、成分表でしょ。見飽きたわよ」
リリーがつまらなさそうに言う。
それは違法薬物『夢幻』の成分表だった。
『夢幻』には、純粋なミセリコルディア以外にも他の薬物や添加物が混じっていることがほとんどだ。
ミセリコルディア自体を生成するのが難しいため、かさ増しの意図もあるが、ミセリコルディアには依存性がなく、常用性を持たせるために別の薬物が混ぜられていることも多かった。
そのため、夢幻の成分を分析することで、成分やその比率などの特徴から薬物の出処を探ることが可能なのだ。
「チッチッチッ。リリーちゃんは甘いなあ。よく見てみなよ。なにか気づかない?」
「ええ? なによお?」
リリーが首を傾げてグラフを見ていた横で、慧がハッとする。
「成分が似通っているものが多い。しかもグラフの日付……ここ一、二ヶ月のものばかり。ということは、最近出回っている夢幻は同じヤツが作ったものだっていうことか」
「ご明察! さっすが慧ちゃん」
鹿妻が褒めると、慧が仄かに頬を赤らめた。
嬉しそうな表情を唇を噛んで密かに引き締める。
「この成分表はねえ、きみたちが捕まえた被疑者が持っていた夢幻を分析したものなんだ。検挙率が示す通り、最近、夢幻はいままで以上に出回っている。どうやら、どっかのだれかが大量生産しているらしいんだよね」
「つまりは、通常業務をこなしつつ、その出処を密かに探り、きみたちに検挙してもらいたい」
椚が言った。
「ねえ、これってきっと他の取締官には内緒ってことよね? そんなことしていいのかしらん? リリーたちばっかりが成果をあげると、通常班のかたたちが余計に特殊班を敵視するんじゃなくって?」
品を作りながらリリーが言う。
だがその口もとに浮かぶのは意地悪な笑みだ。
「構わない。このことに気づいたのはこの特殊班の一員である鹿妻だ。正当な捜査と言える。それに、リリー。悪目立ちはおまえにとっては望むところだろう」
「うふふ。わかってるわね、局長。リリー頑張っちゃおうかしら。ルウも頑張るわよねえ?」
リリーに話かけられ、ルウは首をかしげて無垢な目で椚を見る。
「お菓子、いっぱい……」
「ああ。約束するよ」
ルウの一言に椚は苦笑を浮かべながら答えた。
「わたしも異存はない。もとより、売人と中毒者は皆殺しのつもりでやっている」
慧が言った。
その言葉は冗談でも比喩でもなく、本気であることをここにいるだれもがわかっていた。
慧の捜査は特に荒い。
その荒さには殺意がこもっている。
アイテール対アイテールの戦いは精神の戦いだ。
アイテールを打ち砕くということは、相手の精神を破壊するに等しい。
場合によってはそれによりショック死を引き起こしたり、一生寝たきりになってしまう可能性もある。
そのため、リリーとルウの捜査では、必要がない限り、相手のアイテールを根こそぎ壊すようなことはしない。
だが慧の攻撃には、相手に対する躊躇いが一切ない。
むしろ積極的に殺してしまおうとする意図さえ見え隠れしていた。
「お手柔らかに頼むよ、間宵」
慧の捜査に危うさを感じながらも、椚はそう言うにとどめた。
視線は自然に発言をしていない十和に集まった。
十和はガラス玉のような無機質な目で椚を見つめて聞いた。
「命令なの?」
その言葉に椚は真顔で頷く。
「その通りだ、十和」
「了解。忙しくなるね、ダブル」
足下に座るアイテールのシベリアンハスキーを撫でながら、十和は微笑む。
椚は四人を見据えて言った。
「あえてこう言わせてもらう。特殊班は必要悪だ。検挙率が示すように、成果はめざましい。しかし、その存続を疑問視する声はいまだ多い。それをねじ伏せるためには通常の成果では足りない。今回の捜査は必ず成功させて欲しい。以上だ」
「悠ちゃん、光英、あれ――」
十和に白衣の袖を引かれた鹿妻が、微笑んで答えた。
「ああ、そうだったね。十和、こっちへ」
十和と鹿妻と椚の三人は連れ立って奥の個室へ移った。
リリーがその三人の背中を見送り言った。
「なんか怪しいのよねえ。あの三人。秘密のにおいがするわ。なにしてるのかしら?」
「詮索の必要があるのか? 捜査には関係ないだろう」
慧が冷たく言った。
「中毒者をぶっ倒せれば満足な慧はそうかもしれないけど、繊細なリリーは気になるのよ。だって同じチームで隠しごとがあるって嫌な気分じゃない。それに局長も先生もなんだか十和には甘いのよねえ」
リリーの言う『先生』とは鹿妻のことだ。
初対面のとき、鹿妻とリリーは医者と患者という立場であったため、リリーはいまだに先生と呼ぶ。
「それは三人がこの特殊班ができる前からの知り合いだからだろう。少しくらい馴れ馴れしくなるのは仕方ないんじゃないか」
「だからあ、それが謎なのよ。なんであの三人が知り合いなのかしら。共通点なさそうじゃない」
「よくある幼馴染だから……とか?」
「残念。それはリリーも疑ったの。だけどあの三人、出身地はバラバラみたいだし」
「わざわざ確認したのか?」
慧が呆れた顔をする。
だがリリーは得意満面だ。
「そうよ。局長は新潟で、先生は神奈川だって言ってたわ。もうこの時点で違うじゃない」
「まあ、そうだな」
「それに十和はなに聞いても逃げようとするのよねえ。ちょっと腹が立ってきちゃった」
慧はその光景が目に浮かぶようだった。
ぐいぐい迫るリリーにぼんやりとした十和はたじたじなのだろう。
「まあ、でも、どうやらいまも家族と一緒に暮らしているらしいのよね。だから、きっと東京近郊の出身よ。そういえば、十和もひとつだけ答えてくれたのよね」
リリーがふと思いだして呟く。
「なにを?」
「十和って正義感があるわけでもないし、慧みたいに中毒者を懲らしめたいわけでも、リリーたちみたいに物欲があるわけでもないように見えるじゃない? だからなんでこんな危険を伴う違法薬物取締官なんてやってるのか不思議だったのよ。それで理由を聞いたの。意外だったわあ。それにちょっと見直しちゃった」
「もったいつけるなあ」
慧が苦笑いしながら言った。
内心、どうせ大した理由ではないのだろうと思っていた。
だが、リリーの言葉は思いのほか、慧を打ちのめす。
「家族のため、なんだって。十和がこの仕事をしている理由――」