十−2 葬送の蝶
抑えこんでいたものが、破裂する感覚にそれは似ていた。
十和の目から涙がとめどなく流れ落ちる。
感情の奔流が頭を真っ白にする。
言葉にならないものが目前を染め上げる。
ミセリコルディアがそれらを引きだし、吸い上げ、無理にでも吐きださせようとする。
忘れていたことも。忘れようとしていたことも。
最近のことも。
過去のことも。
思い出したくない。
だが、有無を言わさず引きずりだされる。
――最初のきっかけは何かのコンクールで入賞し、表彰されたことだった。
目立ってしまったために、遊び半分の上級生から、からかわれ始めたのだ。
気にもかけない態度が余計に生意気だったのかもしれない。
それは止むどころかエスカレートしていく。
気づくと、クラスメートも参戦し、わけのわからない嘲笑を浴びせられるようになっていた。
間もなくそれはいわれのない暴力に発展する。
理由もわからないから、理由が欲しくて、浴びせられる罵倒が理由なのだと思いこんでしまった。
臭い。
汚い。
クズ。
学校来るな。
死んだほうがいい。
死ね。
いつしか耳を塞いでもそれは聞こえるようになっていた。
あの頃、研究が軌道に乗っていた母は家に帰ることが少なく、父とときどき顔を合わせても喧嘩が絶えなかった。
両親には相談できる雰囲気ではなかった。
妹もよく泣いていた。
長男だからしっかりしなければいけないと思った。
ときどき昨年亡くなったダブルが無性に恋しくて仕方なくなる。
大丈夫なのだと思いこもうとした。
僕が頑張らなければいけない。
きっとこれは一時的なことで、頑張っていれば、いつか物語のようなハッピーエンドがやってくるんだ。
――けれど、それは一体いつやってくるのだろう。
疑問とともに心の奥底になにかが溜まっていく。
許せなかった。
悔しかった。
孤独だった。
やるせなかった。
自分には価値がないと思った。
生きていてはいけないのかもしれないと思った。
言えなかった想いが、喉の奥でつかえてうまく伝えられなかった想いが、胸をムカつかせるような想いがいくつもあった。
それはうまくだれかに伝えられるようなものではなかった。
だれにも伝えられないものなら、いっそ忘れようとした。
穏やかに平穏に過ごすために我慢するのが賢い選択だと思おうとした。
なにも感じない人間なんだと思いこもうとした。
同時に、自分のなかに消しきれない残酷な衝動があることも自覚し始めていた。
人間を殺すくらい平気だと思えるようになっていた。
くすぶりつづけたものが、いつか決壊し、なにかを深く傷つけてしまいかねないこともわかっていた。
すべてを壊して、壊して壊して、ただ独りきりになりたいと望んだ。
そうだ。
だからあのとき、浅はかにも選択したのだ。
そんなふうに決着してはいけないと思ったから。
いや、それすら言い訳で、ただ疲れていたのかもしれない。
終わりの見えない日常となってしまったそれらから、単純に逃げだしたかっただけなのかもしれない。
もうなにを思っていたのかも正確に思いだせない。
あの頃はすべてがぐちゃぐちゃで、結果的に、身勝手にも、肉親の苦しみと引き換えに、自分の苦しみを消してしまうことにしたのだ。
それがもっと酷い状況をもたらすなんて知らずに――――。
違法薬物取締官の職は意外にも性に合っていた。
薬に手をだしてハマるのは、幸福な人間ではない。
その不幸を目の当たりにし、いわれのない暴力が世界にたくさん存在することを知って、知らないうちに慰められていた。
だけどむかし犯した罪と向き合うことはできなかった。
それは自分を潰すほどに重く、身に余る。
だからあれは運命だったのだと思いこんだ。
自分は悪くないのだと、もともと神様とかそういう奴らが仕組んだ罠だったのだと理由をつけ、ずっと目を逸らしつづけた。
だからなのだろうか。
だから、また、なにもかも失うのだろうか。
慧を。
ダブルを。
家族を。
居場所を。
失うのなら、他人ではなく、自分自身であるべきはずなのに、それすら許されないのだろうか。
それとも、本当に神がいて、罰を己に与えるというのだろうか。
だから生きなければならないのか。
だから生き残ったのか。
だが犯した罪とは一体なんだったのか――。
両親は言う。
十和はいい子に育ったと。
だが本当はそうじゃないとずっと言いたかった。
本当の僕は決していい子なんかじゃない。
ただわかってしまうから。
あなたがたが望んだ子どもの姿を。
そして、無意識に演じているのだ。
必要とされたいから。
だから僕は本当のいい子じゃない。
誤解だ。
我慢しているだけだ。
気づけば仮面ばかりが分厚くなって、孤独感は増し、だれもわかってくれないと叫びたくても、分厚くなった仮面が笑顔をたたえ、それを許さない。
失望されるのが怖い。
だってわかっていた。本当の僕は無価値でだれも愛してくれない。
椚が頭を撫でる。よくやったと褒める。
褒められるたびに存在を認められた気がして嬉しくなる。
だが同時に、褒められない自分の存在がなにより恐ろしくなる。
僕を必要として欲しい。
その願望が偽物の家族を作り上げた。
ダブル以外、本物とは似ても似つかないことなんて知っていた。
だって本物は本当の自分を必要としてくれない。
それどころか憎んでいるかもしれない。
どこかでわかっていた。
罪を犯し、償うどころかそこから逃げ、醜い感情を持て余す、価値のない存在を愛してくれる人間なんていない。
だから、諦めたはずだった。
なのに、生きていると、ときどきそのことを忘れ、知らないうちに胸に希望が芽生えている。
そして、諦めきれず、なにかを探してしまう。
どうしてだろう。
どうしてこんなにも狂おしいほど求めてしまうのだろう。
愛して欲しい。
だが、愛される価値なんてない。
助けて欲しい。
だが、助けられる価値もない。
生きることは息苦しくていつもまるで溺れているようだ。
僕はなんなのだろう。
僕は一体なんのために生まれてきたのか。
ふと、青い光がはためいた気がして十和は振り仰ぐ。
鹿妻は最期の力を振り絞り、スラックスのポケットに入れていた銀のケースを取りだす。
煙草の箱ほどの大きさのそれは、特殊な保冷機だった。
あたりを見回し鹿妻は笑みを漏らす。
「さすがだ……十和。大量で、純粋な、アイテール…だ」
十和は体中から光を放っていた。
きっとそのアイテールはこの工場から直接、あるいは通信回線を介して、現在進行系で世界中に拡がっているだろう。
それは茜のアイテールの比ではない。
震える指先を押しつけ指紋を読み取らせると、保冷機は電子音を響かせてロックを解除した。
白い煙とともになかからはタツノオトシゴに似た肌色の物体が現れる。
十和の霧が輝き、反応する。
「これで、あなたを……」
鹿妻は嘆息する。
それは鹿妻のエゴで願いで賭けで、愛かもしれなかった。
――なにかが羽ばたいている。
重たそうな大きな青い翅を煌めかせる蝶だ。
その蝶はどこかへ誘うようで、美しくも恐ろしく、立ち尽くしてしまったことを覚えている。
声がする。
優しく語りかけるその声。
いつも聞いていたその声。
『覚えているかしら? 大学にある温室で、たくさんの蝶に囲まれて。ふふ。怖かったのかな。泣きだしたのよ、十和は』
蝶の美しい幻影のなかで、だがその声はいまは優しいだけではない。
切迫し、悲しみを隠している。
『まだ小学生にもなっていなかったものね。こんな小さくて……。なのに、もう、こんなに大きくなって……』
視界が歪んだ。
涙をこらえたのだ。
そこは暗い部屋だ。
カーテンは閉め切られている。
電子音が規則正しく響き、その先にはベッドがあって、やつれた青年が眠っている。
その声の主は青年の腕を布団からだす。
点滴を抜き、腕をチューブで締めて血管を浮き出させ、消毒をする。
『ごめん。ごめんね、十和。なんにも気づかず、ずっと放っておくばかりで。お母さん、甘えてたのね。十和が物分りのいい子で、なにも言わないからって』
十和はその青年が自分自身だと気づく。
そして、この声が母である茉莉のものだと。
一瞬視界が暗くなり、鼻を啜る音がする。
だが気を取り直した茉莉は一瞬の躊躇いの後、十和の腕に注射の針を刺した。
『十和が目覚めたら、お母さん、たくさんの話を聞いてほしいのよ。また研究の話って十和には怒られるかもしれないけど、でもすごい仮説だってたててるの』
十和の手を握りしめ、十和をじっと見つめる。
身体は微かに震え、その胸には期待と不安が入り混じっている。
『少しだけ話してもいいかな? あのね、わたしたち生物の体には光が宿っているの。光だからもちろん質量だって重量だってない。けどそれは死ぬと消えてどこかへ行ってしまうものなの』
人差し指を立て茉莉は講義するように問いかける。
『それはなんだと思う? ふふっ、お母さんはね、きっと魂っていうものの正体だって思うのよ。十和には荒唐無稽って笑われるかしらね』
茉莉は願っていた。
その頬に赤みがさすことを。
瞼がピクリと動き、目に光が宿ることを。
『なにが言いたいかって言うとね、つまり、わたしたちはきっと等しく光のこどもなのよ。頭にも身体にも、この手にも足の先にも光が宿っているの。その光がどこから来てどこへ行くのかは今後の研究課題だけど、もし神さまがいるならきっと神さまの一部を借りて、然るべき日が来たらお返しするシステムなのかもしれないね……』
手に力がこもる。
この指先に少しでも力が入れば。
『十和にもね、十和にも……その光は宿ってるの。まだ、消えてないの。だからね、お母さんのこと罵ってくれて構わない。嫌ってもいい。殺したいほど憎まれても仕方ない。どんな形だっていいの……。だから、お願い』
消え入りそうなその声はただただ切実に望む。
『お願い。生きて――…』
タツノオトシゴに似た茉莉の脳の断片から瑠璃色の蝶が舞いあがり、儚くも消えた。
鹿妻は涙しながら銀のケースを大事そうに抱きしめて倒れていた。
その足もとには血溜まりができている。
空気に触れた脳の細胞は間もなく壊死し、もう二度と同じものを投影することはできないことを鹿妻は知っていた。
一度だけの奇跡だった。
だからこそ万全を図り、だからこそすべてを犠牲にできた。
もし、あの日、椚と一緒に訪れた大守家で母親が茉莉の姿をしていれば、こんな結末を選択しなかっただろうか。
いや、そんなことはないと鹿妻は自嘲するだろう。
茉莉が死んだその日から人知れず、ずっと死に場所を求めていたのだ。
そしてそこには茉莉がいて欲しかった。
十和は放心していた。
だが身体から放出されつづけていた光のアイテールは止まっていた。
暴発は止み、どこか沈鬱な霧があたりを淡く照らしていた。
「僕は奇跡が欲しかったんじゃない」
十和がポツリと呟いた。
正気を取り戻していた。
「どこにでもあるような平凡な愛情が欲しかったんだ」
『誤解をしているよ、十和』
鹿妻が微笑む。
鹿妻の身体はもう息絶えようとしていた。
だが、十和のアイテールが鹿妻の脳に反応し、鹿妻の意志を十和に伝える。
『平凡な愛もありきたりな愛もこの世には存在しないんだよ。世界にあるのは、世界を覆すことだってできる唯一無二の愛だ』
「ロマンチストだね」
『そんなこと、とうに知ってただろ、十和』
「嘘だよ。現実主義者なくせに。そして、途方もない大馬鹿だ。こんなことのために……」
鹿妻は微笑む。
「苦しい?」
『少しだけだ。見送ってくれるかい?』
そう告げると、十和は耐えきれないと言うように泣きじゃくりだした。
初めて会ったころと変わらないなと鹿妻は思う。
そして、目の前の存在が存外大切だったのだと鹿妻は思い知る。
十和の周囲からは瑠璃色の蝶がいくつも舞い上がる。
茉莉との思い出の蝶だ。
美しかった。
眩く目を刺すような強烈な輝きではない。
淡くそっと灯すような輝きは寄り添うように優しかった。
世界に羽ばたくのがこんな想いなら世界は大丈夫なのかもしれない――。
そう思うと、壊してしまってもいいとさえ考えていた世界が、ふとかけがえがなく愛しいものに感じた。
工場の鋼鉄の扉が開かれる。
そこから大量の瑠璃色の蝶も飛びだした。
輝く鱗粉を散らしながら、蝶は世界に融けていく。
十和は扉に寄りかかるようにして立っていた。
月が夜空に輝き、瑠璃色の蝶が空を舞って、霧が世界を覆う。
幻想的な光景だ。
ひとりだった。
慧も鹿妻も茜も倒れたままもう動かない。
ダブルは消えてしまった。
そういえば椚はどうなっただろうかと思う。
椚だけじゃない。
リリーやルウ、それにあの映像を見た人間たちは――。
静かだ。
静かな夜だ。
遠くの波の音さえ十和の耳に届く。
それは懐かしい響きを持っていた。
十和はそっと耳を澄ませ、その波間を漂う気分を味わう。
目尻からは、流しきったはずの涙が、つと流れ落ちた。
*
――きみは顔はお母さんに似てるけど、性格はさっぱり似てないよね。
どちらかというと俺と似ているのかもしれない。
――なんで?
――きみはそうやって無邪気な子どもを装うけど、本当はわかってるよ。
初対面で俺に懐いたふりをしたのは、俺をきみのお母さんに近づけたくなかったからだろう。
――………大人って変なこと考えるね。
――しらばっくれたって、駄目だよ。
いまもこうやって俺に甘えたふりをして、俺をお母さんから少しでも引き離そうって思ってるんだろう。
ばれてるんだから。
――……ごめんなさい。
――ふふ。白状したね。
でも、別に、怒ってるわけじゃないよ。
感心してるんだ。なかなかの策士だって。
さすが、先生の子ども。将来が楽しみだ。
――………でも、それだけじゃないよ。
――へえ、それだけじゃない?
きみはそれ以外にもなにを企んでるんだい。
――僕、わりと悠ちゃんが好きなんだ。
だから一緒にいたい。
――…………。
――照れたりするんだね。
――……不意打ちは、卑怯じゃないか。




