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九−1 オープン・ザ・ドア

書き直し+ストーリーを付け加え、長くなりすぎたかなと思ったのでふたつに分けてます。

 埠頭ふとうに近づき湾岸道路を下りた車はスピードを緩め、警光灯を外した。

 辺りはすでに宵闇よいやみに支配されている。

 倉庫や工場が立ち並ぶこの場所では、まるで巨大な影が立ちふさがり、威圧してくるようだ。


 車は脇道に入り、閉鎖された工場群があるフェンスの奥に進む。

 途中頑丈そうな錠前が行く手を阻んだが、トランクから手斧ちょうなを取りだすと、くぬぎは力任せに破壊して車を進めた。


 蛍琉ほたるから送られてきた地図が示していた場所に近づき、人目のつかない場所に車を停車すると、十和とわけいは車を降りた。

 海が近く、べたつくような磯の香りがする。


「犯人らしき人物を見たらすぐ連絡しろ。応援を呼ぶ」


「それまでには慧ちゃんと僕で片づけるよ」


「無理はするなよ。あれだけのミセリコルディアがあるんだ。触媒カタリストもいるかもしれない」


「でも」


 十和は微笑む。


光英みつひでだって最初からそのつもりだったよね。だって、ここにふたりがいる確証がないとはいえ、光英ならどんな言い回しだって思いつくはずなのに本部に報告をいれなかったでしょ。大丈夫。あかねちゃんもゆうちゃんも僕たちが連れ帰るから」


 珍しくやる気を見せる十和の頭を椚は乱暴に撫でた。


「なんだか、プロポーズして立派になったようだな」


「局長!」


 叫んだのは真っ赤になった慧だ。

 ははっ、と砕けた笑みを椚は漏らす。


「ふたりとも頼んだ」






 きだしのびついた配管やタンクが立ち並ぶなかを縫うように十和と慧は進む。

 先導はダブルだ。

 途中、ボルトが外れいまにも落ちてきそうな安全第一の『安』と書かれた看板の下を通る。


「多分あそこだ」


 そこにはコンクリートの箱のような建物のがあった。

 表にはワンボックスカーが停車している。

 後部座席の窓にはスモークが貼られていた。


「上からも侵入できるみたいだ。ふた手に分かれよう、十和」


 ワンボックスカーのすぐ後ろの裏戸口以外にもサイロほどあるタンクに貼りつくようにはしごが伸びていた。

 上にはドアが見え、そこからでもなかへ侵入できそうだ。


「だけど、慧ちゃんは」


 心配そうな視線を受けて慧は笑った。


「心配されるとは心外だ」


 慧はぱっとてのひらを開くと、そこに小さなはさみ顕現けんげんさせた。

 慧のアイテールだ。

 鹿妻かづまと茜の誘拐に感情が高まり、またどこか吹っ切れたこともあって、アイテールの顕現が可能になっていた。

 いまはもう、操れないかもしれないという不安もない。


「わたしは大丈夫だ。わたしたちがいま一番心配すべきは鹿妻さんと茜ちゃんのことだろう。十和に守ってもらおうなんて思ってないよ」


 てのひらの上の鋏を慧はぎゅっと握りしめた。


「それに、ここで戦えないわたしなんてわたしじゃない」


 十和は頷く。


「わかった。じゃあ、慧ちゃんは上からお願い。僕は下から侵入する」


 不意に、慧はすっと手を差しだした。

 十和はその意図がわからず首を傾げる。


「十和。握手しよう」


 恐る恐る十和は慧の手を握る。

 弱々しい力で握ってくる十和の手を引き寄せるようにして慧は強く握りしめた。


「十和はよく口癖で運命だって言っていたけど、あれはつまり、そう自分に言い聞かせていたんだよね。そう言い聞かせることですべてを受け入れていたんだって、いまならわかる。つらいことも、なにもかも。……だけどさ」


 十和が慧を見つめる。

 その瞳には戸惑いが浮かんでいた。


「だけど……?」


「だけど、わたしは受け入れるだけが運命じゃないって思う。運命は行く手をはばむ壁で、そびえる山で、苦しい道なのかもしれないけど、越えていけるって思ってる。まあ、わたしも偉そうなことは言えなくて、だいぶ翻弄ほんろうされて、もがいてばっかりだったけど。でも、願ってるんだ。過去は作り変えられないけど、未来は切り開けるものだって」


 慧は笑った。

 不思議と心から笑えていた。

 こんな緊張を強いられる場面で我ながらよく笑えるなと思った。

 だが、心に広がるのは恐怖や緊張ではなく、なぜか安心感だ。


「十和となら乗り越えられるって気がするよ。今回のことも。きっと、これからも」


「慧ちゃんそれって……」


 慧はぱっと手を離した。


「鹿妻さんと茜ちゃんを救おう! わたしたちならできるよ。絶対に!」


「うん!」


 ガッツポーズをする慧に、十和が力強く返事をした。

 二人を交互に見てダブルがパタパタと尻尾を振った。






 慧がはしごをのぼりきるころには十和はすでに工場に侵入していた。

 ドアノブはありがたいことにすんなりと回った。

 ドアを開けたと同時に、銃の発砲音が慧の耳に届く。


 慧は不安げに下を見下ろす。

 いますぐにでも駆けつけたくなる自分を、目をつむって抑える。


「十和なら大丈夫」


 言い聞かせるように呟き、ドアの内側に歩を進める。

 ダブルは強い。

 きっと切り抜けられる。


 銃の発砲音はなかなかやまずに鳴り響いていた。

 もしかしたら十和はわざと目立った真似をして、ひとを集めているかもしれない。

 そう気づいて慧は小さく舌打ちする。

 しばらくすると、発砲音はピタリと止んで辺りは静まり返った。


 慧は一瞬後ろを振り返るが、頭を振って前へ進む。

 ここで引き返す意味はない。

 十和を信じると決めたのだ。


 網状の鉄の通路には、明かりはなく、ペンライトの明かりが頼りだ。

 びてきだしの大小様々な配管が通路を所狭ところせましと覆っていて、まるで巨人の内臓のなかをさまよっているような気分だ。


 ドアを二、三開けたところで、広々とした吹き抜けの場所にでる。

 慧はペンライトを消し、姿勢を低くする。

 すでに日が沈んでしまっていたが、どこかで明かりが灯っており、目が利く程度にぼんやり明るい。


 置き去りにされたプラントで視界がせばまる。

 慧は注意しながら前に進む。

 機械の稼働音がかすかに響いている。


 奥に瑠璃るり色のミセリコルディアの入ったガラスのタンクを見つける。

 しかもひとつだけではなく、三つ並んでいる。

 そのすぐ近くの地面には、鹿妻と茜がいた。

 それに若い男の見張りがひとり、銃を手にして落ち着きなく歩き回っている。


 しばらくようすを窺っていたが、見張りはどうやらひとりだけらしい。

 しかも通路とはいかないが、都合のいいことに男の頭上までダクトは伸びていた。

 慧は通路からダクトに移り、男の上あたりにきたところで、飛び降りる。


 異変に気づいて男が上を見たときには、すでに遅かった。

 銃を構える間もなく慧が落ちてくる。

 勢いに任せて鋏の柄で殴打すると男は簡単に意識を失った。

 男の銃を蹴って飛ばし、その手に手錠をかける。


「鹿妻さん怪我はないですか」


「その声は慧ちゃん!?」


 目隠しをされた鹿妻が驚いて声をあげる。


「俺は大丈夫。ちょっと殴られたくらいで、怪我はしてない」


「無事でよかった」


 慧は駆け寄り、目隠しを取り、後ろ手に縛られた鹿妻のいましめも解く。


「十和も一緒なんだ。ふた手に分かれて、わたしのほうがひと足速かったみたい。茜ちゃんを連れてすぐにここを離れよう。外に局長もいる。すぐ応援を――……」


「ありがとう慧ちゃん」


 不意に鹿妻が慧に抱きついてきた。


 衝撃に目がくらむ。

 慧は思わぬ状況に呼吸が止まった。

 いや、実際に呼吸が止まっていた。

 正しくは、呼吸がうまくできなくなっていた。


 鹿妻がゆっくりと慧から離れると、慧の胸には銃口が突きつけられていた。


「それから、ごめんね」


 鹿妻は泣いていた。

 そして、その手が慧をゆっくりと押し、突き放す。

 胸から血が溢れだす。

 状況が呑み込めないまま慧は地面に膝をつき、その場に倒れた。

 生暖かいものが頬を濡らして、それが自分の血だと気づく。


「せめて苦しまないように、心臓を狙ったよ」


「か……づま…さ……」


「慧ちゃん。俺たちの、いしずえに、なってくれるかい」


 鹿妻の涙が慧に降り注ぐ。

 慧はなにか声をかけたいが、もううまく言葉がでてこない。

 口が力なくパクパクと動いたきりだ。

 鹿妻の姿を目に焼きつけながら、重くなっていくまぶたにあがらえず、徐々に瞼を閉じる。


 ――知っていた。


 慧は思う。

 鹿妻がなにかを強く想っていたことを。

 あきらめられずにいたことを。


 どうしても叶えたい願いのためには、どんな犠牲だって払うだろうことを。


 知っていたのだ。

 だから。


 だから――……。






 びた鉄の分厚いドアの前でダブルがピンと耳を立てる。

 銃声らしき音がした。


 十和は腕を伸ばし、ダブルの頭を撫でる。


「もう少し頑張れるかい」


 ダブルは水色の目で十和を見つめ、パタパタと尻尾を振って応える。

 さっきは大分派手に暴れさせてしまった。

 いつもならあんなふうに目立つやりかたはしない。

 不意を討つ攻撃のほうが効率がいいし、ダブルのスタイルにあっている。


「無理をさせてごめんね。行こうか」


 そのとき、腕時計型の通信機がピリピリと震えた。

 音声はオフにしていたため、音は鳴らない。


 椚の名前が表示されていた。

 十和は応答する。


『十和、間宵と接触できたか』


 椚はタブレットで慧と十和の位置がわずかにずれていることを把握していた。

 十和は眉をひそめる。


「まだだけど」


『急げ。間宵のバイタルサインが弱まっている。命に関わる自体だ。救急車と応援を呼んだ。わたしもいま、そっちに向かう』


「慧ちゃんが? まさか……」


 十和は乱暴にドアを開け、部屋のなかへ駆けこむ。

 ダブルが前を行き、走りながらキョロキョロとあたりを窺う。

 発砲音らしき音はしたが、慧は銃にやられるほどやわではない。


 天井の高い広々とした場所だった。

 薄暗いなかで巨大なプラントは置き去りにされ、影をまとって静かにたたずんでいる。

 どこからかモーター音が響いている。

 十和は音のするほうへ向かう。


 すぐにミセリコルディアの入った三つの巨大なガラスタンクが目につく。

 ネット上にアップされていたものだ。


 ハッと十和は息を呑む。

 コンクリートの上で慧が血溜まりにうつ伏せに倒れている。

 そこから少し離れた場所に鹿妻が目を閉じたままの少女を支えるようにしゃがんでいる。


「慧ちゃん!」


 十和は慧に駆け寄る。

 抱き上げようとするとぐったりとして身体に力が入っていない。

 不思議なほど重く感じる。

 顔は青褪あおざめ、血で濡れた頬の赤さが際立つ。


 首筋に手を差し入れ、十和は息を呑む。

 すでに脈が止まっていた。


「け、い、ちゃ……?」


「ごめん、十和。俺の縄をほどいているときに、そこの男に撃たれたんだ」


 鹿妻があごをしゃくって、地面に倒れた男を指す。

 見知らぬ男は意識を失って後ろ手に拘束されている。

 コンクリートの床には確かに銃が転がっている。


「なあ、十和。早くここから出よう。このままじゃ慧ちゃんの命も危ない」


『十和』


 切り忘れていた通信機から、低い椚の声がする。


『さっきの声は鹿妻だな。鹿妻の言うとおりだ。すぐにでも間宵を病院へ連れて行く必要がある。間宵は危険な状態だ』


 だが十和はまるでその声が聴こえないかのように、ぼんやりと慧と鹿妻と男を交互に見る。

 そこには拭いきれない違和感があった。


「悠ちゃんは、なぜ、そこにいるんだ?」


「なぜって、連れ去られたんだよ。助けに来てくれたんだろう。それより、早く――」


「そうじゃない。慧ちゃんは危ない状態なんだろう。なのに、なぜ、なんの処置もせずにそこにいるんだ?」


 鹿妻には医療の知識がある。

 縄も解かれている。

 それなのに、負傷した慧を放っているのだ。


 溜息をついた鹿妻は、うっすらと笑った。


「相変わらず、冷静だね」


「行け! ダブル!」


 ダブルが駆けだす。

 だが、それと同時に鹿妻は抱きかかえた茜の耳もとにむかって、なにごとかをささやく。

 茜の薄く開いた口から、ポロポロと白い粒が床にこぼれ落ちる。

 つぎの瞬間、それは波になってダブルと十和に襲いかかる。


 卵と蛆虫うじむしの大群だ。

 しかも、瞬間的な速度で、卵はかえり、蛆虫となり、蛆虫はさばぐになり、蝿になって翔び立つ。


 ダブルは踏みとどまり、十和と慧の前に立ちふさがって壁となる。

 ダブルの足もとから白い煙が立つ。

 氷が張られていた。

 襲いかかってこようとする不愉快な虫の波を瞬時に凍りつかせる。

 だが、それはほんの一部で蛆虫や蝿やらが工場を満たしていく。


「茜ちゃんになにをした」


 ひどいアイテールの量だった。

 それはいくら茜が増幅器アンプリファイアだからといって限界を越えている。


 鹿妻はそっと茜の腕をあげて見せる。

 その腕には点滴のようなものが刺されていた。

 そしてその管は後ろのミセリコルディアのタンクに繋がっていた。


「十和がどんなに強くても、いまの茜ちゃんには敵わないよ」


「なんのために、こんな……!」


『十和、どういうことだ!? なにが起こっている!?』


「光英、悠ちゃんは――鹿妻悠一朗は裏切り者だ」


『なにを、言ってる……?』


「多分、慧ちゃんをやったのも悠ちゃんだ。そうじゃなきゃ、慧ちゃんが簡単にやられるわけない」


「そのとおりだよ、十和。俺が慧ちゃんを撃ったんだ」


 十和は鹿妻を睨みつける。


「犯罪組織の人間に情報をリークし茜ちゃんをさらったのも、その大量のミセリコルディアを用意したのも、悠ちゃんだ。そういうことだよね」


 鹿妻はにっこりと笑う。


僥倖ぎょうこうだったよ。茜ちゃんと出会えたことは。おかげで長年温めていた計画を遂行すいこうできる」


 脇に抱えた茜に鹿妻は視線を落とす。

 茜は半目を開けているが、意識はほとんどない。

 半覚醒状態――つまりは、催眠状態にあった。


『計画だと? なんのことだ』


「十和ならわかってくれるだろう。この世界を変えるんだよ。大いなる変革だ。残された俺たちにはそれをやり遂げる義務がある」


「残されたって……」


 はっとして、十和は目を見開く。


「そんなこと、望むわけがないだろう! あのひとが! こんなことをして成し遂げて欲しいなんて少しだって思うわけないだろう!」


「あのひと、か……」


 一瞬、鹿妻の顔には暗く寂しげな影が差す。

 だが、気を取り直すように微笑むと、つらつらとしゃべりだした。


「闇に葬られようとしているのは俺たちの偉業だ。なぜ、耐えられる? 違法薬物として悪名ばかりが蔓延はびこることに、どうして耐えなければならない? 俺たちが人生をかけてきたものを、こんなふうにおとしめられて」


 額を押さえ、鹿妻は震えた息を吐く。

 それは口もとにいびつな笑みを生んだ。


「耐えろというほうがおかしい」


 ぎりりと十和は歯噛みする。

 そんなことのために慧を傷つけたというのか。

 慧は鹿妻を信頼していたのに。

 好きだったというのに。


「ふざけるな!」


 十和は鹿妻を睨みつける。

 すかさずダブルが駆けだす。


 それを見た鹿妻が再び茜の耳になにごとかをささやく。

 蛆虫の大群は波打つ。

 津波のように十和に襲い掛かってくる。

 だがそれを今度はダブルが炎を吐いて燃やす。


 ダブルが踊るように鹿妻に襲いかかろうとする。

 それを蛆虫と蝿の壁が阻む。

 ダブルの口からは再び炎が吐きだされる。

 虫は燃え上がるものの、炎にそれ以上の虫の大群が押し寄せ、燃えさかる炎をかき消すほどの量だ。


 天井付近で暗雲のようにたむろしていた蝿の大群がダブルに襲いかかる。

 ダブルはそれらを器用に跳ねながら避ける。

 だが鹿妻からは徐々に離されていく。


「危ないなあ。だけどわかったよね。十和の攻撃は俺には届かないよ。茜ちゃんは最強だ」


 すっと鹿妻はスラックスのポケットから小型タブレットを取りだす。

 慣れた手つきで片手で操作をする。


「電波は光だ」


 カッと明かりがついた。

 それが三つのミセリコルディアのタンクを照射する。

 対面の高所からチカチカとなにかが光る。

 カメラが起動しているのだ。


 十和はハッとする。カメラを見る。

 それから、茜を。

 巨大なミセリコルディアのタンクを。


「光英! ネット上に流されている映像はどうなっている!?」


『いま、映像はタンクのみを映しているが、流れたままだ。視聴数を表すカウンターも徐々に伸びている。本部が試みているが、いくつものサーバを経由していて、消すことはできていない』


「サーバごとダウンさせるんだ! 一刻も早く、映像を流すのをやめさせるんだ!」


「無駄だよ、十和。わかってるんだろう。映像にはウィルスが仕込んである。そのウィルスはアクセスした人間のアドレスや閲覧履歴からネット上に蔓延まんえんし、一斉に強制的にウィンドウを立ち上げさせ、あらゆる通信機――タブレットにもパソコンにも街角のモニターにもこの映像を流すだろう。ネット社会は本当に便利だ。一瞬で世界をつなげる。もちろん、ここら一帯を停電させたって回線を切断したって映像を止めることはできない。自家発電機は用意済みだし、通信は衛星に切り替えればいい。まあ、地球規模で停電させるということなら有効かもしれないけどね」


「ひとまで感染させようなんて、最悪なネット感染だね」


「『覚醒』と言ってほしいね。世界が目覚めれば、ミセリコルディアがどんなに画期的で素晴らしいものか、皆気づくだろう」


『なにが起こるというんだ』


 戸惑った椚の声が通信機の向こうからする。

 十和が答える。


「ネット回線を使って、ミセリコルディアを全世界に広げるつもりだ」


『馬鹿な! そんなことできるわけ――』


「その声は、椚だね。十和、音声をスピーカーに切り替えなよ。せっかくだから椚の疑問に答えてあげよう」


 さえぎったのは鹿妻だ。

 タンクの置かれた一段高い場所に茜を抱えたまま腰掛け、余裕を持って見下ろしている。

 十和は操作し音声をスピーカーに切り替えた。


 それを待って鹿妻は話しだす。


「ミセリコルディアは電磁波を発し、その電磁波をキャッチしてひとの脳はアイテールを目撃する。ここまではいいかい」


『そんなことはわかっている』


「それはよかった。ちなみに通信も光と同じ波だ。同じ波だから電波を通じてミセリコルディアを届けることが可能なんだよ」


『だが映像を見たくらいでそんなことできるわけがない。夢幻やミセリコルディアを直接摂取していないだろ』


「リリーとルウの例があるだろう。彼らはミセリコルディアを摂取したわけではない。増幅器アンプリファイアである十和の暴発によって事故に巻きこまれただけだ。つまり、十和のアイテールに取りこまれただけなんだよ」


 椚は慧に増幅器アンプリファイアはミセリコルディアを増やすと説明したが、実際はミセリコルディア自体を増やせるわけではない。


 茉莉はミセリコルディアを作るにあたって二つのものを発見していた。

 ひとつは脳に影響を与える特殊な光子だ。

 そしてもう一つは物質を透過する性質をもつ光を、とどめることのできる粒子だった。

 ミセリコルディアはこのふたつをかけ合わせることによってできている。


 増幅器アンプリファイアはミセリコルディアを増やすのではなく、特殊な光子のみを増やす。

 だが増幅器アンプリファイアも人間だ。

 気持ちがあるがゆえに、どうしても自分の思念がプラスされ、結果として大量のアイテールとなって出現するのだ。


「アイテールを目撃するだけでも、ひとの脳はミセリコルディアによる刺激を受ける。ただし他人の強い思念が混じっているから、アイテールとして目撃してしまうし、場合によっては取りこまれる。だがそれを上書きするだけの強い想いがあれば、触媒カタリストとして目覚めることが可能なんだよ」


 つまるところは、アイテールを多量になんだかの形で人間の脳に届けられれば、ミセリコルディアを摂取した状態と似た状態を作り上げることができるということだ。

 もし、アイテールの映像をキャッチした人間のなかに新たな増幅器アンプリファイアがいれば、ミセリコルディアによる感染をさらに拡大することだって可能だろう。


『それは、つまり、先の暴発のときのように多くの人間がショック死する恐れがあるということなんじゃないのか』


 椚の指摘に鹿妻は躊躇ためらうことなく答える。


「まあ、そういうことになるかもしれないけどね。届けるのは純粋なミセリコルディアじゃない。茜ちゃんの思念がのった圧倒的な量のアイテールだ。その思念に負けない意志の強い人間だけが『覚醒』するんだろう。でも、必要な犠牲だと思わないかい」


 カッとなった椚が怒鳴る。

 通信機がビリビリと震えた。


『ふざけるな! それに、それだけじゃないだろう! おまえはわかってるのか! なぜこの特殊班が立ち上がったのかを! そんなことをすれば、生き残ったとしてどれだけ多くの犯罪が起きると思っているんだ! 世界は混乱に陥る!』


「椚、そんな言葉で止まることができたなら、俺はここにはいないんだよ」


 鹿妻は十和に微笑みかける。


「なににかえても叶えたい望みがあるんだよ」


 その笑顔には影がさし、どこか寂しげだ。

 だが十和は気づかず、鹿妻を睨みつける。


「強制的な暴発を起こせば、茜ちゃんだって脳にダメージを受け、廃人になったっておかしくない。それをわかってやってるの」


「もちろんだよ、十和。できれば俺だってそんなことしたくない。悲しいしね。だけど必要な犠牲だ」


 淡々とした言葉は揺るぎない。

 きっともうどんな言葉だって鹿妻を説得することはできないだろう。

 鹿妻は冷静な人物だ。

 衝動的に行動するような人間じゃない。

 きっと何度も反芻はんすうし、反証はんしょうしてここに行き着いたのだ。

 そのための準備だって万端ばんたんだろう。

 だが――。


「光英、引き返して。応援もここには近づけるな」


『十和……?』


 低く発せられた十和の言葉に椚は違和感を覚える。


「できればここから一キロ以上離れて。なるべく遠くへ行くんだ」


 椚ははっとする。

 タブレットを操作し、十和の脳波を見る。

 グラフはいままで見たことのないほど乱れた波形を描いていた。


 鹿妻は通信機の先で椚が息を呑んだのを察する。


「そうか……十和。きみはあの日から初めて感情をあらわにしようとしているんだね」


 鹿妻は知っていた。

 十和が感情を抑え、常に平静を保ってきたことを。

 暴発の恐れがあるという名目でバイタルサインを特殊班取締官の面々から取ってはいたが、実際には他のメンバーにはほぼその可能性はなく、暴発の恐れがあったのは増幅器アンプリファイアである十和ひとりだけだった。

 長らく十和の脳波を見守ってきた鹿妻は、捜査中に戦うことになったとしても十和が決して感情を乱さなかったことをよく知っていた。

 それは十和自身が増幅器アンプリファイアとしての能力を、暴発を恐れていたからなのだろう。


 十和は慧を壁際に寄せる。

 そびえる三つのタンクを見上げ、そして、鹿妻を見る。


「光英、待つのは十分が限界だから」


『十和、なにを考えてる! 待て!』


 椚が一喝いっかつするも、十和は聞く耳を持たず、鹿妻に向かっていく。


 それを見た鹿妻はふふっと笑みをこぼす。

 十和は暴発を起こしてでも鹿妻を止める覚悟なのだ。

 それは正しい判断だ。

 いまの茜を止めるには、平素の十和では力に余る。


「十和はもうわかってるよね。慧ちゃんは手遅れた。俺が心臓を撃ったんだからね」


「それ以上、言うな……!」


「それにね、残念だけど、十和。俺は十分なんてそんなに長い時間も待てないんだ」


 鹿妻はそっとタブレットに触れる。


「さて。一体、何人が覚醒するだろうね」

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