序
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(旧約聖書 創世記)
「――光あれ。神がそう言ったせいで、俺たちは光に晒され、自分の惨めな姿を自覚しなければならなくなった。他人の目を気にして、自分の存在は糞だって自覚しなくちゃならなくなった。全部、全部、神の野郎が悪いんだ。そうは思わないか……!」
配管が剥きだしの路地裏では不定期に水音が響く。
追い詰められた男は荒い息で壁に手をつき体を支えながら同意を求めた。
「……きみは、そう思うんだね」
「だって、そうだろ? この世が闇に閉ざされてさえいれば、俺たちは土のなかで暮らすモグラのように、他人の目にも他人の存在にも煩わされなくてすんだんだ」
「そうかもしれないね」
「それに神がいるんだっていうのなら、なんで俺みたいな存在を作る必要があったっていうんだ。神が万能だっていうのなら、なんでこの世界はこんなに糞で不完全で、俺はこんなに惨めなんだ……!」
男の言い分はもっともなような気もして、大守十和は頷く。
「だから、きみのアイテールはそんな形なんだね」
十和の言葉に男は汗塗れの引きつった顔を持ち上げた。
よくある平凡な顔だ。
眼鏡をかけ、一見真面目そうな日本人。
きっと明日には忘れてしまって、すれ違ったって気づきもしない。
だが、もし、その男と他人との違いを一箇所あげるとするならば、異様なほどのその目の輝きだろう。
瞬きも忘れて見開ききって、白目はてらてらと輝き血走っていた。
「ああ……! ああ、そうなんだ。俺はいつも疑問だったんだ。この世界は不完全だ。慈悲なんてない。あるのは悪意だ。ならばきっとこの世界を作ったのは、全知全能の善意ある神なんかじゃない! きっと背徳の女神なんだ!」
背後のアイテールを見つめる男の表情には愉悦が浮かんでいた。
男のアイテールは黒いマリア像の形をしていた。
目をつぶり、手を開いて、まるですべてを受け入れる慈悲を持ちあわせていそうだ。
それこそ暗い欲望だって受け入れてくれるのだろう。
十和は男のプロフィールを思いだす。
確か国立の有名大学に入学したが、女性にふられ自暴自棄になっていたところ、知人に違法薬物を勧められてハマり、いつの間にか薬物欲しさに売人にまでなっていたという。
よくあるパターンといえば、そうだ。
有名大学に所属できるほど賢しくても、男は所詮素人だった。
警察はすぐに売人だと嗅ぎつける。
だが彼の屈折し劣等感に苛まれた精神は強力なアイテールを生んだ。
アイテールは彼を守り、そのせいで警察はあと一歩のところで彼を取り逃しつづけていた。
「美しいアイテールだね。黒いマリアさまか」
「そうだ。これこそが神のあるべく姿だ」
「……それで、あっちの具合も相当いいんだろうね」
その言葉に、尊敬の念で黒いマリア像を見つめる男の目にはさっと好色な色がさし、口もとには下卑た笑いが浮かんだ。
「兄さんのアイテールは犬か。マニアックだよな」
十和の横にいるシベリアンハスキーのアイテールを見ながら、男が言った。
「うーん。僕のはそういうんじゃないんだけど」
困ったように十和が首を傾げてシベリアンハスキーを見ると、ヘッヘッヘッへッと息をするシベリアンハスキーも同じ方向に首を傾げて返した。
十和の場合、そういうものではなく、友人や兄弟に近い。
「なんだ。兄さん、試したことないのか。もう普通の女には戻れなくなるくらい具合がいいんだぜ。この女もな、聖女のような顔をして娼婦のように乱れるんだ。それにな――」
男は声を潜めて囁いた。
「毎晩、処女に戻るんだ。服を脱ぐことに恥じらって、破瓜の痛みに泣いて、そのうち快感に咽び泣いて乱れるんだ。たまらねえよ。これぞ、男の理想だ」
――ジャキンッ。
そう言った男の背後で、黒いマリア像の胴体と下半身が斜めに切り離されていた。
振り向いた男は、愛しいマリアの胴体がずるずると落ちて、地面に叩きつけられ粉々になるのを目撃する。
その背後から黒いパンツスーツを着て巨大な黄金色の鋏を手にした黒髪ショートカットの女が姿を現した。
しかもその鋏の刃は諸刃だ。
逃げる間もないまま、その鋏が男とマリア像の接合部分である足下の影を断ち切る。
ジャキン。
その音は男の脳内で弾けるように響いた。
アイテールは男の精神と繋がっている。
男は精神に直接衝撃を受けて、目を剥く。
「腐れ童貞中毒者が……! そのまま一生目覚めるな!」
吐き捨てるように女――間宵慧が言いながら、男の背中に苛烈な蹴りをかます。
「が……っ!?」
ダメ押しの攻撃を喰らい、精神と肉体にダメージを受けた男は地面に倒れこむと、そのまま意識を失った。
地面には男のジャンパーの内ポケットから転がりだした違法薬物『夢幻』が散らばる。
透明なカプセルに入っている瑠璃色の粉末は濡れたアスファルトの上で、妖しく輝いているようにさえ見える。
十和はパーカーのポケットから手錠を取りだすと、男の両手にはめた。
「ごめんね。でも、これも運命だから」
その頭頂を慧がはたく。
「あんたもあんたよ! いまのいままでなにしていたのよ! さっさととっ捕まえればいいでしょ!」
怒りの矛先が十和に向かう。
だが十和はニコニコしながらマイペースに答えた。
「なにがって、足止めだよ。だって戦闘は慧ちゃんの専売特許でしょ」
慧は眉間に深いシワを刻みながらも、それ以上はなにも言わず、フンと鼻を鳴らした。
いままでのつきあいで暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏だとわかっているのだ。
なにをどう言ったって十和には響かない。
どうしてこんな、のほほんとしたやつが違法薬物取締官なんて危険な仕事をやっているのか。
慧にとってそれはいまだに謎だった。