クーリングオフは無いのです。
足が地についてない。
自分を繋ぎとめるものは何もない、初めての感覚。
上も下もわからないまま都和は辺りを見渡した。
ボロアパートの自室じゃない。
茶色の砂浜。
囁くような、潮騒。
空の色を映して光る、青い青い、海。
見たことがあるようでないような。
何処か、懐かしいような。
ーここは…?
ーココロのセカイ。
わたしが、あなたをここに落としたの。
声がして都和は振り向いた…いや、くるりと仰向けになった。
白いシーツを頭からすっぽりと身体に巻いた少女が海に色を映す青空に抱かれながらそこにいた。
少女が差し出した手を、素直に掴む。
ゆっくりと下降し、2人の足は同時に砂浜についた。
しかし砂浜特有のしっとりとした砂の感じは足に伝わってこない。
少女が口を開いた。
ー ココロのセカイ。
あなたの感じた
あなただけの
あなたが作った、セカイ。
ーそんなこと、あるわけ、…!
言いかけて都和は思わず口を押さえた。
今、都和は喋ってない。
口を開いてない。
思っただけだ。
なのに、聞こえた。
ーココロのセカイだから。
あなたが思ったことは聞こえる。
静かに少女は言った。
金色の髪がゆら、と揺れる。
ーわたしはあなたと共感できる。
だからあなたを自分のココロのセカイに連れてくることも出来た。
それがわたしが“これ”であなたと結んだ絆、契約。
ーっそれ!
都和は目を瞠った。
少女が“これ”と言って差し出した手のひらの上に小さな茶色の袋が乗っていた。
あの時本棚から落ちたものだ。
ー返せよ。
手を伸ばす。
手は袋をすり抜けた。
ーあなたが私にくれた契約物だからここでは渡せない。
ー今はあなたのセカイの中で、わたしがあなたと“共感”してるだけなの。
ー“共感”?
都和に少女は唐突に言った。
ーガラスで、手を切るとズキズキする。
ーっ!
お前、手、切ったのか!?
ーううん、わたしは無事だった。
でもあなたは手を切った。
少女は手を開いて突き出した。
親指にプクリと血の玉が浮かんでいる。
都和も、手を開いた。
親指を見る。
角を掴んだ時、確かにそこに引っかかっていた微細なガラスで都和は指を切っていた。
そしてそれは今も鈍く、小さな存在感を持って痛んでいる。
そしてそれを少女は知らない筈だった。
ーあなたの心に入ると、わたしはあなたと“共感”できるの。
ーそれがわたし。
少女が手を伸ばした。
トンッ
「…はッ!」
無意識に詰めていた息が吐き出された。
少し、動悸がする胸を押さえ、都和は顔を上げた。
すでに腕を下ろし、少女は静かに都和を見ていた。
「はい、分かったァ?君はもう契約を結んじゃったってのが。」
既に正座を崩していた天ちゃんが角の辺りをポリポリかきながら都和を見上げている。
(もし、それが本当なら…。)
「じゃあ、お前本当に天の使い…ってか天使なのか…?」
「もちろん。ホレ。」
天ちゃんが徐にベランダに向けて手をかざした。
透明な、細かな欠片が宙に浮く。
(ガラスがっ…!?)
ピキピキピキ…
張り詰めた音を立てながらガラスはパズルのように一枚の窓を作り出してゆく。
都和が近寄り、そっと触れるとつるりとした凹凸のない感触を感じた。
天ちゃんはそれを見て笑った。
「ふっふー、これで分かった?僕の力が…イテッ!」
「出来るなら最初からやれよ。」
調子を取り戻し、拳骨を落とした都和を宥めるように天ちゃんは言った。
「ま、まあまあ、立て付けもついでに直したから許してよ。」
「おお、確かに。直ってる。」
ガラガラと開けたり閉めたりしている都和を尻目に天ちゃんは立ち上がった。
「まあ、それは置いといてさ。
というわけで、契約されちゃったし僕としてはいらないんだよね。てか他のも急いで探さなきゃだし。て言うわけで僕、忙しいから。」
「まてよ!」
都和はじゃっ!とそそくさと出て行こうとする天ちゃんの虎の腰巻を咄嗟に掴んだ。
予想以上に呆気なくバランスを崩す。
「ぶふぅぇっ!?」
そして音がなりそうなほどに見事に顔からすっ転んだ。落ちていた衣類のおかげで畳に直接当たった訳ではないものの、それでも鼻を強打したようで顔を押さえている。
「な、なにすんのさ、僕のイケてるフェイスが傷ついたらどーしてくれるの」
「こいつとの契約外してけよ!」
鼻声の天ちゃんに構わず都和は少女を指差した。
天ちゃんが横に首を振る。
「えー。僕にはムリ。」
「じゃ、どうすんだよ。 」
「んー、方法、ね。
あるにはあるよ?でも教えよっかな、どーしよっかなぁー…。」
「…何もったいぶってんの、お前。」
わざとらしくチラチラ視線を寄こす天ちゃんの目の前に都和は拳骨をかざして見せた。
小さな声で天ちゃんがぼやく。
「…天使をおどすなんて…。」
「なんか言ったか?」
「いえ、言ってません。すいません、ちゃちゃっと言わせていただきます。」
天ちゃんは人差し指をピンと立てた。
「一つは、問答無用で魂とっちゃうとか。」
「どういうことだ?」
「だから、体から契約物だけ取り除くってこと!まあ、心臓のあたりを、こう、なんか刃物で一気にバシュッ、と…。」
「却下。なんでそんなグロいんだよ。」
何故か身振り手振りを加えてそこだけ熱演する天ちゃんの話を都和は即断した。
「他に無いのか?」
「あとはね、んー。」
あ、と今思いついたように声を上げる。
「うちの上司にとってもらう、とかさ。」
「上司ってもしかして…」
「そ。君たちのいう、神さんのことねェ。」
天ちゃんが天井を指差した。
「僕はなんの権限も持ってないけど、生きるも死ぬもあの人次第だし?」
「じゃあ早く呼んでくれよ。」
「え、ムリ。僕にはこれからやらなきゃいけないことあるし。」
「お前なぁ。」
「まあ、どうせ不始末の報告しなきゃだしその時に言うって。だから、ね。少しの間預かると思ってさ。それに…」
天ちゃんはふいに真面目な顔をした。
「この子は強い想いとか魂とかに引き寄せられるんだ。君の“やりたいこと”にこの子はぴったりだと思うけど?」
都和の驚いた表情に天ちゃんが笑う。
「なんで分かったか、って?
僕ある程度心が読めるから。
その子みたいに共感しなくてもね。」
「…俺は誰の手も借りない。」
固い顔のまま言いきった都和の前で天ちゃんは肩をすくめた。
「そう?まあ、なんでもいいけどとにかく報告まで預かっといてよ、ね?」
「…。」
都和は横目で少女を見た。
隣に立つ少女はさっきまでの自己主張はせずただ成り行きをみている。
都和は溜息をついて天ちゃんに視線を戻した。
「…分かった。」
「そういってくれると思ったよ。じゃあ、よろしく!僕、急ぐから。」
天ちゃんはそう言ってニッコリ笑うと、笑顔がぶれそうな猛烈な勢いで玄関に走って行った。
ドタバタという音に煩いよ!と喚く家主の声が聞こえた気がした。
ガチャン
天ちゃんが開け放しにして行った扉を閉め、都和はもう一度溜息をついた。
気を取り直して少女の前に立つ。
「とりあえず…」
「とりあえず?」
「服、着ろ。」
そこら辺に落ちていた長袖のTシャツを手渡し、都和はそう言った。