08 : 地に足がついた。1
ルルフェルとのことが落ち着いたら、次に控えているのはオルベニア家の問題である。とはいえ、答えが未だ見つからず、逢うべきだとわかっていながら二の足を踏んでいた。母の死の原因たるオルベニア家を、第三者的に見ている状態であるはずなのに、やはり引っかかる部分が無自覚でもあるからだろう。
カウベリタ騎士隊駐屯所の、建物の玄関脇にある休憩用の長椅子に座り、取り止めもなくぼんやりとしながら空を眺めていたトランテは、急な風向きの変化に視線を正面に戻した。
「嵐か……早いな」
気づけばカウベリタの街に、曇天が広がっている。重い色をした雲の流れは早く、しかしトランテが気づくとその足を緩め、今まさに嵐を呼ぼうと雷鳴が微かに響いた。
一刻もしないうちに雨が降り出すだろう。
せっかく晴天が続いていたのに、いつもこうだ。この国ユシュベルは、周囲を高い山に囲まれた凹凸の多い土地で、そして気候が安定しない。土地がそうだからなのか、それとも流れてくる空気の関係か、周囲の山がもたらすものなのか、占術を得意とする旭影の魔導師グラスコードによれば、そのどれもに要因があり一つに絞れないということだが、とくにかくユシュベルの気候が落ち着かないのは昔からだそうだ。晴れたと思った次にはまた曇天が広がり、その規模が小さいか大きいかによって、被害もまた変わる。
このところは災害による被害は小さいもので済んでいるが、そろそろ大きな気候の変化があってもおかしくはなかった。近いうちにひどい嵐が来るだろう、とは、旭影の魔導師グラスコードからカウベリタの街へと警告が出されている。心構えはできているが、起きたあとのことを考えると明るい気持ちではいられない。
「灯火」
渾名を呼ばれて、トランテはそちらへと視線を向ける。すっかり魔導師の装いに身を固めた旭影の魔導師グラスコードが、深々と被った外套の頭巾の隙間から曇天を睨めていた。
「久しぶりにでっかいのが来たな」
「懐かしむくらい久しいわけでもない。だが、あれがカウベリタに直撃してみろ。最悪だ」
「応援、呼ぶか?」
「呼んだ。規模が、規模だからな」
小さなものでは済まない、とは、グラスコードの険しい雰囲気からもわかる。トランテも魔導師の端くれだ、言われずともその匂いは感じている。
「不眠不休になりそうだな……」
ふっと息をつき、長椅子を立つ。頭巾を被り直し、グラスコードに並んで曇天を睨みつけた。あれの直撃まではまだ時間がある。ここからが魔導師の本領発揮というところだ。
「中心には朧月がいる。わたしは東に行くから、おまえは西に行け」
「王都のほう?」
「客が来るだろう、おまえに」
「客……ああ、彼女か。いや、今日は来ないだろ。しばらくはおれが王都に行くってことで、話はつけてある。でっかい嵐が来るってのは、話してあったからな」
「さてどうかね」
「あ?」
「おまえ、魔導師のそれが、魔導師自身にだけあるものだと、思わないほうがいいぞ」
「? はあ?」
なにか注意を促しながら、グラスコードは苦笑する。その意味がトランテには不明であったが、とにかく王都への道がある西のほうへ行けと言うので、しぶしぶながら了承する。しかし、強大な嵐が王都に向かわないよう阻止する役目もあると考えれば、トランテの責任は重大だ。トランテが護ることになる西のほうは、トランテが最後の砦となる。
「できるだけそちらに向かわないようにするが……ああ、応援が来たな」
「お、早いな」
振り向けば建物の玄関から、転移門で移動してきたのだろう魔導師がふたり、外に出てくるところだった。どちらも見憶えた魔導師だ。
「よう、数日ぶりだな、水萍」
しっとりと落ち着いた喪に服す魔導師は、まだ王都にいたらしい水萍の魔導師マルだ。グラスコードはその姿にあまりよい顔はしない。その理由をわかっているのか、マルは小さく苦笑しただけでトランテの挨拶にも軽く頷くだけだ。
「堅氷も、数日ぶり」
「ああ。急なことで悪いが、守護石の実験を兼ねようと思う。師団長からその許可は得た」
マルに並んで、こちらもまだ王都にいたらしい堅氷の魔導師カヤが、手荷物をグラスコードに渡した。愛想も愛嬌もないカヤにグラスコードは顔を引き攣らせはしたものの、カヤの力がどれだけのものかは理解しているので、文句はいわずその荷物を受け取った。
「意外と小さいものだな、守護石っていうのは」
「扱い方は知っているだろう」
「熟読しろと、師団長に命じられてな。で、これを?」
「四方にはすでに配置している。本来であればその四つで事足りるが、カウベリタの街の規模を考えれば、中心にも配置すべきだろう。王都もそうだからな。完全に防ぎ切れることは不可能だとしても、その負荷を、魔導師なら担うことができる」
「終わったあとが恐ろしいもんだよな、これ」
「そのための魔導師だ」
数年前に小規模の実験には成功している守護石とは、気候が安定しないこの国を護るために、今は亡き大魔導師が残したものだ。発案されたそれを使用できる段階にまで改良したのが大魔導師の弟子であるカヤであり、少しずつであるが全土にその規模を拡大しつつある。とはいえ、大規模な直撃には未だ不安があり、また発動後の負荷が相当なものから、全土に散らばった魔導師はその現場にいなければならなかった。ゆえに、守護石の発動が遅れる地域や、そもそも守護石が配置されていない地域もあり、魔導師への負担は開発前よりいくらか改善されたくらいだ。だが、それでも、守護石があるとないとでは、被害の規模が違う。ないよりいい、ではなく、あったほうが護りには確実、な呪具だ。
「わたしと朧月と、あと灯火に力を吸わせれば充分か?」
「灯火はいい。四方の守護石に吸わせた」
「おや、いつのまに」
「カウベリタの守護石に関しては、灯火に一任している」
「足りるのか」
「問題ないはずだ」
ちらりと視線を寄越したカヤに、あれはほぼ無理やりだったがなぁ、と肩を竦めながら頷く。
最初の実験に協力を申し出てトランテはその扱いを知っているし、カウベリタの街を任されもしたが、まさか二日も寝込むほど魔導力を吸われる呪具だとは思っていなかった。トランテのそれを見てカヤはもう少し改良が必要かとぼやいていたが、その結果を見出してくれただけも幸いだった。おかけで、しばらく守護石に力を注ぐ役目を与えられはしたものの、寝込む必要のないところまではさらに改良されている。
「すっげぇ疲れるから、覚悟しろ」
と、グラスコードに注意を促せば。
「そうでもない」
カヤは飄々と答える。
「バケモンのおまえと一緒にすんな」
無尽蔵の魔導力を持つカヤにとってなんでもない呪具ではあろうが、そうではないトランテにはきつい。グラスコードも優れた魔導師ではあるが、カヤほど魔導力があるわけではないので、アルカナとふたりでその負担を分けなければ二日くらいは使いものにならない魔導師になるはずだ。
「あいつは面白味のない魔導師だったが、研究の内容は、まあ弟子を上手く使って面白いものにしたな」
グラスコードは守護石の発案者である大魔導師を、その生きていた頃を知っているという。トランテは話ばかりで逢ったことはないが、随分と捻くれた魔導師であったらしいとは、話を聞く先々で窺い知れた。トランテがこの国に落ち着いた頃にはまだ生きていたのだが、逢う機会がなかったので、残念だったと今でも思う。しかし、カヤのトランテへの無茶ぶりを考えれば、その師であるから無茶苦茶な魔導師であろうことは容易に知れ、身震いがするから逢う機会がなくてよかったのかもしれないとも、思う。
「わたしと朧月だけでいいのなら、わたしはこのまま朧月のところに向かって、東へ行こう。あとはそちらの判断に任せる。ただ……」
すっと、グラスコードの視線が黙ったままのマルに移る。
「下手なことはしないでおくれよ、水萍。おまえは、水霊を呼ぶのだから」
グラスコードのその言葉に、苛立ちを覚えたのはカヤと、そしてトランテだ。言われ慣れているマルは仕方なさそうに、少し悲しそうにするだけで、反論もしない。
「おい、旭影。いくらあんたでもそれは」
「灯火、わたしは至極まっとうに、カウベリタの安全を考えている。応援に来た限り、それは師団長の判断であろうから従うが、それでも、信じられるくらいのものを水萍には持っていない。とくに、この状況ではね」
厳しいことを言うけれど、とグラスコードは真顔で警告すると、時間が惜しいからと踵を返し、駐屯所の敷地から出て行った。
微妙な重い空気に、トランテは深々とため息をつく。
魔導師は同胞にひどく甘いが、状況によっては逆に厳しい態度に出る。自身が持つ力の限界を把握しているからこそ、無茶がきかないことへの苛立ちのようなものだ。トランテは、それがひどくもどかしい。
「すまないな、堅氷、灯火」
「おまえが謝るな、水萍。今のは旭影が悪い」
「いや、旭影さまは正しい。わたしの体質は街にとってよくない影響を及ぼすからね」
「水萍」
「心配させて悪い。だが、だいじょうぶだ。旭影さまが言ったように、応援に来た限りは護りに尽力を尽くすよ」
トランテはマルの体質とやらを詳しくは知らないが、渾名にあるように「水」に関連があるらしく、それはマルが専門にして使う力でもあるのだが、どうも「水霊」とやらにマルはいたく気に入られてしまっていて、それが周囲によくない影響を及ぼすことがあるらしい。マル自身は幼い頃からのつき合いであるからなにを言われても聞き流すが、慣れてしまってもその心が傷を負わないわけがなく、しかしその感情を押し殺してしまう。トランテがそれを見ていられないように、カヤも気にかけていて、晴れを呼ぶカヤはマルが近くにいるときは常に行動を共にしていた。
「仕方ねえことだって、諦めるなよ、水萍」
「気にかけてくれる人がいる、それだけでわたしは救われるよ」
だいじょうぶだ、と穏やかに言うマルは、それを現わすかのように凛とした佇まいだ。眩しいくらいに羨ましい強かさには、いつもながら感服する。
「水萍は、怒らないのな」
「その要素がどこにもない。それに、旭影さまはあれで、わたしを心配してくださっている。わたしにもっと魔導力があれば、旭影さまも安心されただろう」
「だとしても、旭影は言い過ぎだ。たまには怒っていいんだからな、水萍」
「ああ、わかっているよ」
マルはいつでも穏やかだ。羨ましいくらいに落ち着いていて、取り乱すこともない。昔からそうであったらしく、マルの師であるアノイに言わせると、ひどくおとなしくて手のかからない静かな子ども、だったらしい。魔導師と名乗るようになり成人しても、マルのその気質は変わっていない。
自分を押し殺していなければいいけれど、とトランテはそんなマルが少し心配だ。同胞としても、友人としても、頼れというなら自分も頼って欲しい。トランテと同じようなことを、おそらくカヤも思っているだろう。
「さて……では、わたしは街の外に出て、嵐の注意を引こう。上手くいけば直撃は免れる」
行こう、と言ったマルに、カヤが続く。
もっとも厄介なところを任せてしまうことになるのは、カウベリタの街に専任で在住するトランテとしては苦々しい。
「おれが」
言いかけた口を、やんわりと止められる。
「旭影さまも言っただろう。わたしは水霊を呼ぶ体質だ。上手く利用してくれ」
だいじょうぶだから、というその表情は、やはり穏やかで落ち着いている。だが、そんなことで申し訳ない気持ちが和らぐことはない。
「無理はすんなよ。守護石の実験も兼ねるわけだし、ほかにも魔導師はいるんだからな」
「ああ。西のほうは任せた」
「当然だ」
立ち去るマルとカヤを見送り、ふっと息をついて曇天を見上げる。
あの空みたいに、人の心というのは、晴れてみたり曇ってみたり、荒れてみたり、いろいろだ。今まさに自分の心境が、安定しない天候によく似ている。
「ままならねぇな……」
旅をしていた頃は、仲間なんて、同胞なんて、いなかった。メリルムーアだけが家族で、それだけで生きていた。
一つのところに落ち着く、というのは、旅をしていた頃に比べると、随分といろいろなものに振り回されるらしい。
仲間ができて、同胞ができて、友人ができて、家族が増えて。
「でも、こっちのほうが……うん、いいな」
たくさんのものに振り回される感情が、とても好ましい。生きている、ということを確かなものにしている。
旅をしていた頃も悪くなかったが、こんな生活も悪くない。アルカナは、まだトランテがこの国に落ち着いていないと言ったが、それは正確に見抜いていたようだ。
漸く、地に足がついた、気がした。