05 : あなたさまを望んでおります。
漸く!
王都での諸任務を細々と片づけていたら、アノイと話をする機会を逃してしまって、仕方なく日を改めようとカウベリタの街に帰ろうとした、その日のことだった。
「お待ちくださいませんこと?」
王城にある魔導師団棟を離れ、城下の街に入ろうかという道でのことだ。
呼び止められて振り向くと、着る人を選ぶ深紅の礼装がよく似合う妙齢の女性が、従者らしき供をふたり後ろに従え、白い日傘で身を護るようにしながら立っていた。
「……おれのことか?」
「ええ、この道には、わたくしたちとあなた以外におりませんもの」
王城の前だ。しかし人通りはそれなりだが、忙しないほどではなく、今トランテの周囲には彼女たち以外にはいなかった。
明らかに貴族令嬢であろう彼女に、トランテはきちんと身体を向けて首を傾げる。
「魔導師になにか用か?」
「ええ。正確には、灯火の魔導師であるトランテ・ロアーナさまに」
涼やかな声ではっきりとトランテを名指ししてきた彼女に、トランテの眉間も皺がよる。日傘で彼女の顔はよく見えないが、それは外套の頭巾を深く被っているトランテも同じで、互いに空気で相手を探っている状態だ。
「おれに、なにか?」
探るように問えば、彼女の日傘が傾きを変える。
現われた彼女の容姿は、ひどく目を惹く美しさだった。この国の女王ユゥリアも美しいと思ったトランテだが、今目の前にいる彼女もそれと同等、いや、それ以上に美しい。貴族独特の金髪ではないが、陶磁の肌に溶け込む黒髪というのはこの国で非常に珍しく、深紅の礼装にはとても似合っている。礼装は瞳の色に合わせてあったようで、ハッとするほど透明感の強い紅玉の双眸だ。異国の血でも混ざっているのかもしれない。
僅かな笑みもない、玲瓏な容貌は、トランテにしばし言葉を失わせた。
「ルルフェル・アズールと申します。名前だけはご存知と思いますが」
「え……あ、いや、知らない」
美しい彼女に、一瞬言葉を遅れさせてしまったことを恥じつつ、トランテはわれを取り戻して気を引き締める。
ルルフェル・アズール。
聞いたことのない名だ。
「あら、残念ですわね……お話はされていると、伺いましたのに」
「話?」
「婚約の話ですわ、トランテさま」
とたん、言葉を失うどころか、頭が真っ白になった。
「……、は?」
間抜けな声が出たが、それどころではない。
「正式なことではありませんし、女王陛下からの許可もまだ下りていませんから、公けに口にできるものではありませんけれど……お聞き及びではありませんの?」
涼やかな声に、トランテはどんな顔をすればいいのか迷った。
聞いてない。
いや、縁談がどうこうと、その噂はマルからロルガルーンに伝えられ、そしてトランテのところにまで届いてはいるが、「婚約」とまでは聞いていない。なにしろ魔導師には、そんな強制は無理なのだ。
「え……そもそもおれ、魔導師なんだけど?」
「それがなにか?」
「いや、魔導師にそれは、無駄だろ」
「あなたさまが魔導師であろうがなかろうが、わたくしには関係ありませんわ」
ということは、ルルフェルというこの貴族令嬢が、トランテがオルベニア家に養子に入った際の縁談相手なのだろう。
トランテは改めてルルフェルを真正面から見た。頭巾の端がちょっと邪魔になったので、人目も少ないことだしと、脱いでしまう。小首を傾げながら、じっとルルフェルを見据えた。
美しい。
笑えばもっと綺麗に、いや、可愛いだろう。黒髪に深紅の礼装もいいが、魔導師の伴侶が着用する紺色の礼装も似合いそうだ。
「……じゃ、なくて」
「なんですの?」
「いや、なんでもない」
トランテも健全な男子であるので、異性にはもちろん興味がある。アルカナのように執着する想いのようなものを今まで抱いたことがないだけで、口説かれておつき合いするというのは幾度か経験があった。その経験から、ルルフェルはそのなかでももっとも惹かれる女性に分類される。気の強そうな性格をしているようだが、その実でそれは虚勢かもしれないし、とても緊張しているかもしれないと思うと、なんだか好感も持てた。
「……なんで、おれに声をかけた?」
「あなたさまがわたくしの婚約者となるお方で、かつ、偶然にもわたくしがここを通りかかったからですわ」
トランテが王都に来ていると、その情報はすでに到着したその日に知られている。ルルフェルがここにいるのは、偶然だとは言っているが、狙ってのことだろう。
「おれはまだ、オルベニアからの話を請けたわけじゃねぇよ?」
「時間の問題でしょう。悪い話ではありませんもの。わたくしとの婚約も、同じように」
「まあ、確かに悪い話じゃねぇが……あんた、魔導師がどういう生きものか、知っててそれ言ってんの?」
「言いましたでしょう? わたくしには関係のないことです」
ルルフェルは、魔導師というものを、どうやらわかっているらしい。それでも揺るがない姿勢は、先ほどから紅玉の瞳にも動揺を見せない。
さて、どうしたものか。
「んー……じゃあ、今なんで、おれに声かけた?」
「この機会を逃すと、あなたはわたくしと一度も逢うこともなく、消えてしまいそうでしたから」
「消える?」
「わたくしは、あなたさまにわたくしとのお話を受け入れて欲しいのです」
「へ?」
思わぬ言葉がルルフェルから出た。
「そのためには、オルベニア家に養子入りして欲しいとも、思っているのです。ですから、この機会を逃すわけにはまいりませんでしたの」
これはなんというか、もしかするとトランテのオルベニア家養子入りの話は、このルルフェルの言葉が出発点になっていやしないだろうか。いや、たとえそうでなくても、ルルフェルとの縁談はきっとなかったことにはならないほどに、まとめられた話になっていたのかもしれない。
そう思い、まじまじとルルフェルを見つめる。トランテの視線から逃げようとしないルルフェルの紅い双眸には、どこにも澄んでいた。
「……あんたが、おれを望んでるのか」
確認するように問うと、ルルフェルは少しだけ黙り、しかしトランテから視線を外すことなく頷いた。
「わたくしはあなたさまの妻になりとうございます」
真正面からの言葉に、ちょっと気恥ずかしさを思う。いや、こんなことは幾度となく経験していることで、今までトランテはそれをさらりと流してきた。だが、今はそれが、できない。
「……ちょっと、待ってくれ。あんた……おれとオルベニア家がどう繋がってるか、知ってんのか?」
「あなたさまがロムロスさまのご子息であることは、わたくしにしてみたら偶然ですわ」
もしかしてこれは熱烈な愛の告白なのだろうか、愛を告げられているのだろうか、と今さらだが思ったトランテだが、しかし信じられない。
どこかでルルフェルと出逢うような、そんなことがあっただろうか。そんなきっかけになりそうなことが、あっただろうか。
いくら考えても、思い出そうとしても、記憶の欠片にルルフェルの容姿はない。こんなに目を惹く女性なら忘れるはずもない自負がトランテにはあるので、過去にルルフェルから熱烈な愛を告げられるようなことを経験したことはないはずだ。
「……おれが、オルベニア家に入るよう誘われんのは、もしかしてあんたが?」
「そうと言えば、そうかもしれません」
ルルフェルの双眸は揺るがない。態度にも迷いがない。逆に、望まれている、と強く感じさえする。
「あんた……おれが欲しいの?」
遠回しではなく直球に問えば、ルルフェルは少しだけ、唇を震わせた。だが、言葉を飲み込むことはなかった。
「あなたさまを望んでおります」
思いがけない、確かな愛の告白だった。
笑ってくれたらいいのに、そう思ったとき、トランテのほうが苦笑していた。
「と、いうことがあったんだよ、アルカナ師匠よ」
カウベリタに帰ってきたトランテは、帰宅を心配しながら待っていたアルカナに、まず帰り際に起きた出逢いを詳細に伝えた。狐に抓まれたような顔をしたアルカナは、どうやら思いがけない事態に言葉がないらしく、トランテが咽喉の渇きを満たすためにお茶を淹れてから、漸くわれに返った。
「と……とんでもない斜め方向から、話が上がったのかい」
「ん、まあ、そのようだな」
「わたしはてっきり、オルベニア家のほうから……」
「いや、みんなそう思ってたよ。師団長も、水萍も、もちろんおれだって」
「アズール家の姫さまが発端なのかい?」
「っぽいね。おれが欲しいって、言っちゃうくらいだし」
「……おまえのどこがよかったんだ」
放心してトランテのよさに首を傾げるアルカナは失礼だと思うが、自分でもそれは不思議に思うことなので文句は言えない。
「というか、おまえ、アズール家の姫さまといったいどこで知り合ったんだい」
「いや知らんよ。憶えてねぇよ。記憶の欠片にすらひっかからねぇよ。だから、たぶん向こうが一方的におれを見かけてたんじゃねぇかな」
「となると……王都にいた頃かい?」
「じゃねぇかなぁ……カウベリタに越してきてから王都にはたまにしか行かねぇし、祭りのときに警備担当するくらいだから」
いったいどこでルルフェルに見初められたのか、トランテにはわからない。けれども、ルルフェルがトランテをわかって声をかけてきたことや、会話のことを考えれば、ルルフェルはトランテを認識できる程度にどこかで見かけていただけでなく、その名や出生などがわかるくらいになにかしら情報を得ていたことになる。
「オルベニア家のことは、ついでなのかね」
「かもしれねぇな。おれ、当主とそっくりらしいし」
「ロムロスと? あぁまあ、雰囲気だけならね」
「その路線で辿られて、彼女のほうからオルベニア家に詰め寄ったのかも」
「アズール家もなかなかに古いからね……そうか、それで黙ってはいられなくなって、ランを養子にと言ってきたのかもしれないな」
ロムロス・オルベニアは、変わった侯爵としては有名だが、それは弟のロマエル・オルベニアのほうが顔を知られているという点でのみだ。当主のロムロスが表に出てくることはなく、いつもロマエルのほうが出てくるため、存在が薄く、古参の貴族はロムロスが当主だとわかっているが、大半はロマエルが当主だと勘違いしているので、トランテとの接点を見つけられるのは古参の貴族だけになる。
そう考えると、実はトランテとロムロスの関係を辿るのは、実に容易い。容姿だけなら瓜二つであるらしいので、アルカナ曰く「隠していたわけでない」のも、「隠しても意味がない」からだとわかる。
関係を知るには造作もないため、古参の貴族であるアズール家なら、通過儀礼を重んじてオルベニア家に話を通したことだろう。それによって、トランテの存在を無視できなくなったというところだ。
「それで、ラン、おまえ、どうしたんだい?」
「どうしたって?」
「アズール家の姫さまと、どう話をつけてここまで帰ってきたんだい」
「ああ、うん。ちょっと混乱してきたから待ってくれって頼んだら、では三日後に逢う約束をしてくださいって言われて。三日後に彼女がカウベリタに来る」
「どうする気だい」
「どうするって言われても……おれ、オルベニア家の当主に逢っておいたほうがよくないかなあ、くらい?」
「それは……まあ、わたしが口を挟めることではないからね。好きにするといいよ」
「ただ、アノイと話ができなかったから、もうちょっと意見が欲しいんだよな。アノイの意見は必要だと思う」
「なら、またすぐ王都に行くのかい」
「今度は転移門を使う。彼女が来ちまうし」
複雑なのだろうアルカナは、トランテの行動をこれまでどおり見守るつもりでいるようではあるが、その眼差しはどこか複雑そうに揺らいでいる。
「……ラン」
「ん?」
「オルベニア家のことがついでのことだったとしても、アズールの姫さまのために、自分を犠牲にすることはないのだからね」
「そりゃ……まあ」
「たとえ話が破綻しても、おまえは魔導師だ、迷うことなんてないのだから」
アルカナは、アルカナやメリルムーアの立場を考えなくていいと、そう言いたかったらしい。自分たちの意見には耳を通してもらうけれども、あくまで感情を押しつけるつもりはないという、そういうことだろう。
トランテは苦笑し、アルカナも魔導師らしく同胞に甘いなぁと、肩を竦めた。
「おれは、おれが生きたいように、明日を生きるさ」
魔導師は自由だ。限られた自由だとしても、明日を歩める足がある限り、万緑と対峙しながら生きていく。それ以外の自由は要らないとすら思うのだから、実際は不自由なのかもしれない。だとしても、それを享受していれば、トランテの自由はどこまでも広がっている。
「この件に関して、わたしたちのことは忘れなさい。相談にはいつでも乗るけれどね」
「頼りにしてるよ」
魔導師は貴族のそれとは不干渉だが、逆を言えば魔導師から貴族のそれに干渉することもできない。むず痒い思いをしているだろうアルカナのためにも、トランテはオルベニア家のことやルルフェルのことをきちんと考え、向き合い、前へ歩んでいかなければならないだろう。もちろん目を背けるつもりはない。
「ちゃんと、考えなくちゃなぁ……」
ちらり、ちらりと、脳裏に姿が甦る。あの深紅の礼装もよかったが、濃紺の礼装もきっと似合うだろうにと、そう考えている時点で、トランテのそれはもう始まっていたのかもしれない。