02 : 七年経った。
王都レンベルから徒歩で半日、馬車などの移動道具を利用すればほんの数刻、王都の東隣の街カウベリタは、その距離が短いこともあってなかなかに大きく、発展している。第二の王都と呼ばれることもあった。
それゆえ、王立騎士団の駐屯所も規模が広く、魔導師も「朧月の魔導師」を始めとした数人が在中していた。「灯火の魔導師」ことトランテも、カウベリタではある程度名の知れた魔導師である。
カウベリタに暮らすようになって五年、王都に住んでいた頃から合わせれば七年、トランテの身の置き所が安定するには充分な年月だっただろう。旅をしていた頃の記憶は、前半部分が掠れ気味なりつつある。もちろん完全に忘れることなどできないので、本当にただ、他愛のない記憶が掠れているだけだ。
「らーんちゃー」
「なんかえらい武器に聞こえるからそれやめろ」
「ランちゃ!」
「あのなぁ……ちゃん付けるなよ」
足にまとわりつく幼子を抱き上げながら、トランテはため息をつく。可愛らしい少年は、名をマリオンと言い、メリルムーアとアルカナの息子だ。
「ト、ラ、ン、テ、だ。トランテ」
「ちょらんちぇ!」
「……今日もダメか」
言葉を覚え始めたばかりのマリオンは、トランテの名で唯一発語できる「ラン」でトランテを呼ぶ。もともと愛称が「ラン」なのでかまわないが、できることなら「兄ちゃん」と呼ばれたいトランテである。マリオンを育てたのはトランテであるようなものだからだ。
「おはようさん。で、どした? ひとりで起きてくるなんて珍しいな、マリ」
「おあよー。あんねぇ、ありゅがおきないのー」
「アルカナ? 腹の上に思いっきり落ちろって言っただろ」
「おきないのー」
「……おまえ軽いからなぁ」
片腕でも抱えられるくらいの幼子では、通常の朝よりも早い朝を迎えるこの家で相変わらず朝に弱いアルカナを叩き起こすなんてことは、少々難しいことであったらしい。
「まあいいか。昨日、帰ってきたの遅かったからな。マリ、アルカナは放っておいていいから、おまえは顔洗ってこい」
「ほーい」
腕からマリオンを下ろせば、とたとたと愛らしい足音を立てながらマリオンは洗面所のほうへと駆けて行く。自分のことができるようになってきたマリオンのこの頃は成長が窺え、トランテは微笑みながらそれを見送った。
「さて……アルカナは放っておいていいとして、ルムは外だな」
いつものように朝食はすでに作り終え、あとはこの家の住人たちに食されるばかりとなっている。真っ先に卓について終えてしまうメリルムーアは、今日はまだ朝の日課から戻って来ていない。季節的に熱くなってきたので、朝の日課たる稽古ののち、水浴びでもしているのだろう。
数分もしないでマリオンが戻ってくると、一緒にメリルムーアも帰ってきた。
「おはよう、ラン。アルカナは?」
「おはよう。まだ寝てる。昨日は遅かったから、まあ仕方ないだろ」
旅をしていた頃のメリルムーアは髪が短かった。今は少々長めだが、それでもアルカナより短い。やはり水浴びをしていたらしく、赤茶色のその髪からぽたぽた水滴が落ちていたので、トランテは布を持ってくると頭から被せた。
「床が濡れるからきちんと拭いてください」
「む。きちんと拭いたつもりだったけれど……」
「拭き直したら飯ね。あと、おれ今日から王都だから」
「王都?」
「師団長からの呼び出し」
がしがしと、女らしくはないが騎士らしく頭の水滴を拭いながら、メリルムーアはマリオンと並んで食卓につく。いい子なマリオンはメリルムーアの着席をきちんと待っていたが、トランテに柔らかな麺麭をもらうととたんに齧りついていた。固形物を食べられるようになってからのマリオンは、その成長が著しく伸びたように思う。食べ方がメリルムーアに似てしまって残念なのは、まあメリルムーアの息子だから仕方ない。
「久しぶりの王都だね」
「そういうわけだから、マリのこと頼むよ。宿舎のおばさんにはもう伝えてあるから、まあなにかなくても頼ったらいいさ」
「マリオンのことを頼む立場はわたしのほうだと思うが……いつも悪いね」
「マリはおれにとって弟みたいなもんだから、いいんだよ」
「おまえも大きくなったものだ」
「成長してんのよ、これでも」
トランテがマリオンの食事を手伝い始めると、メリルムーアも漸く朝食に手を伸ばした。食べ方がやはりマリオンだ。
「王都へはアルカナも行くのか?」
「さあ? 状況によるんじゃないかな」
「ここにはおまえとアルカナのほかに、まだ魔導師がいるからね……幸いなことに、最近は天候も落ち着いているし」
「嵐の前の静けさだったらイヤだけど」
ふと給仕の手を休め、マリオンは不服そうにしたが、トランテは窓から外を眺める。
雲が多い今日は、それでも雨は降りそうにない。風が強くなったら注意が必要そうではあるが、トランテやアルカナのほかにもいる占術が得意な魔導師によれば、あと一週間はこの調子らしい。
「ランちゃー……」
「おっと。悪かった、マリ。ほら、食べな」
王都にいられるのはその一週間かな、と思ったところでマリオンに急かされたので、慌てて腹ペコな弟の食事を手伝う。
マリオンを置いて王都に行くのは忍びないが、魔導師であれば使える「転移門」という移動装置が発明されたおかげで幸いにも移動時間が短縮され、なにかあってもすぐに駆けつけることが可能だ。転移門は魔導師の身内ならその特権で使用可能なので、逆もまた然り、メリルムーアとマリオンも使用できるので、なにかあれば王都に呼べる。メリルムーアとマリオンを呼ぶなんて事態は起きないだろうが、安心できるものがあると気楽だ。
「みんなで朝食ずるい……わたしも混ぜておくれよ」
「お、アルカナだ。なんだ、起きたのかよ」
ずるずると、まるで今にも倒れそうなアルカナが、恨めしそうに起きてきた。朝食の匂いと人の気配で目が覚めたようだが、身体を引き摺らねばならないほど疲れているのなら無理する必要はないと思う。
「ありゅーう」
「うーん、今日もわが息子は愛らしいねえ。朝は憎たらしかったが」
マリオンに起こされた記憶はあるらしい。その時点で起きたのに今まで時間がかかったということは、それほど疲れているということだ。
「無視しないで休んでいればいいのに」
呆れ眼のメリルムーアに「ひどいぃ」とわざわざ声に出して衝撃を受けたアルカナだが、メリルムーアの言うとおりだ。
トランテはアルカナの席を用意して促すと、まず目覚ましの珈琲を出し、次いで食事を並べた。量は、騎士であるメリルムーアの半分もないが、今のアルカナがその量を完食できるとも思えない。
「だいじょうぶ?」
問うと、半分以上虚ろな眼差しが綻ぶ。
「死ぬ」
「じゃあ休んでろよ」
「いやだ。みんなで朝食ずるい」
亡霊のごとく現れたのは、アルカナを除いた全員が食卓を囲んでいたからだろう。寂しかったに違いない。
アルカナは、魔導師のくせに、どこか魔導師らしくない。
魔導師とは、最愛の伴侶、アルカナの場合はメリルムーアだが、その存在さえそばにあれば精神が落ち着くという偏った生きもので、たとえ自身の子どもでも両親でも、関心を持たないことが多い。常に万緑と対峙し、その興味の一切合財が惹かれてしまうためだ。
アルカナは、そんな魔導師とは一味違い、両親はすでに亡くしているのでわからないが、息子であるマリオンを溺愛するだけでなく、カウベリタの住人ともひどく仲がいい。言ってしまえば、人見知りが激しい一般的な魔導師とは違い、とても人懐こいのである。おかげで、畏怖の対象である魔導師にも関わらず、カウベリタでのアルカナは人々に人気だった。
そんな、アルカナの弟子となったからか、トランテもまたわりと人懐こい性格だ。それは旅をしていた経験のせいでもあろうが、マリオンが可愛い弟だと思うくらいにはメリルムーアが好きだし、メリルムーアが隊長を務める騎士隊員もたまに喧嘩するくらいに好きだし、カウベリタの住人たちも好きだ。見知らぬ人に気軽に声をかけ、すぐに友と呼べる仲になるくらいには、魔導師にしては人に歩み寄っていく。
ただ、それでも、魔導師らしい点はある。
アルカナも、トランテも、親しい友人という存在はない。いや、親しい友人とはみな魔導師で、魔導師以外に気楽にはいられないと言ったほうが正しい。広く浅い上辺だけだな、とトランテはよく思うが、そもそも魔導師だ。魔導師とはそういう、変に気難しい生きもので、寂しい生きものなのだ。
『だから魔導師は、魔導師に甘い』
とは、誰が言っていたか。アルカナではなかったが、魔導師が言っていた。
魔導師であるがゆえに、魔導師にしか理解できないことが多いため、魔導師とは同胞に甘いものらしい。
魔導師の力は魔導師のそれだと指摘されなければ、ただの恐ろしい脅威でしかなく、ときにはバケモノ扱いされる。人々が畏怖の対象として魔導師を見るのも、本音はそこだ。自分たちとは違う力を持つ異形、だが魔導師なくしてこの国ユシュベルは立ち行かない、だから畏れ敬う。護ってもらうために、安寧を得るために、平和のなかに浸っていられるように人々は魔導師を畏れながら慕う。
魔導師はそんな人々に関心はないが、自分たちもまた人であることをわかっているから、一線を引く。それが、偏った愛情で現われる。唯一であれ拠り所があれば、魔導師も人だ、生きていけるのだ。
魔導師が最愛の伴侶にばかり愛情を注ぐのも、同胞に甘いのも、自分たちをわかっているがゆえのことだ。
トランテは、自分が魔導師であることを重々理解している。アルカナの弟子になるまでその感覚は遠かったが、力の正体を知れば己れの正体も自ずとわかってくる。ああ、だからおれはそうだったのか、と納得できる。トランテはまだ唯一に出逢ってはいないが、そのうち、どうしても欲するときが来るだろう。そのとき、笑って受け入れてくれるのは、きっと同胞だ。この感情は同胞にしか理解されない。それでもいい。いつか、全身全霊で欲っするものに、トランテは出逢いたいと思う。つらくて悲しいことだったとしても、寂しいだけだったとしても、アルカナがメリルムーアと出逢って涙したように、それだけて生きていけるものに出逢いたいと思う。
「ラン?」
「あ……え、なに?」
「ぼんやりしていたが、どうした?」
いつのまにか思考の海に沈んでいたらしい。気づけばマリオンは食事を終え、アルカナもほとんど食べ終わり、メリルムーアは片づけすら始めていた。トランテも慌てて自分の朝食を片づける。
「こと最近、ランは考えごとに没頭しているね」
食事の後片づけはメリルムーアとマリオンの母子に任せると、まだのんびりと食しているアルカナが取り止めなく呟いた。
「そうかな」
「口数が少なくなったよ。もともとおまえは自分のことを話さなかったけれど、それにしても、この頃は周りでなにがあったかも話してくれなくなった。わたしが忙しなく動いているせいもあるだろうけれど、ルムもおまえがあまり喋らなくなったと気にしていたからね」
「話すことがなかっただけだと思うけど」
日常会話は変わらない。口数も減っていない。トランテは自分の変化はどこにもないと思っているのだが、どこかぼんやりとしながら呟くアルカナは、メリルムーアも、トランテの様子がおかしいと見えるらしい。
「七年、だね」
「うん?」
「ルムが、おまえを連れて帰ってきてから、七年経った。気づいているかい、ラン、それはおまえが旅をしていた年数でもある」
「……そうだった、か?」
そんなものだっただろうか。気づいたときには旅をしていたトランテは、実のところ、正確な年数は把握していない。メリルムーアに言われて、そしてアルカナに教えられて、それくらいの年数を放浪していたと聞いてはいるが、昨日のことのように思い出せるその期間が、一つの国に落ち着いてからの年数と同じであるとは思えなかった。
「おまえの心はまだ、この国に落ち着いていないのかもしれないね」
「それはないだろ。おれ、魔導師だし」
「いいや、あのときからずっと、おまえの心は魔導師でありながら違うところに置き忘れている。だが、まあ、仕方ないのかな……」
遠い目をするアルカナに、これは相当疲れがたまっているなと思いながら、自分の朝食を綺麗に食べ終え、食器をメリルムーアに預ける。会話はメリルムーアにも聞こえていただろうが、彼女はとくになにも言わなかった。いや、言えることなんてなかったのかもしれない。メリルムーアは、自分勝手にトランテを旅に連れ出したと頑なにその姿勢を崩さないのだ。トランテのそれには自分に責任があると、終いには言い出しかねない。
アルカナとの会話にメリルムーアを参戦させるわけにはいかないなと、トランテはいそいそとそばを離れた。
「ラン」
さっさと出かけてしまおうと思ったトランテだが、アルカナはまだなにか言いたいことがあるらしい。
「なんだよ?」
「王都の師団長からの呼び出し内容は、知っているのかい」
「いや、聞いてないな。都合がつく日に来いとしか」
急ぎではない王都の魔導師団からの呼び出しについては、もちろんアルカナも知っている。トランテとは別にして手紙も受け取っていたようだったが、呼び出しの内容でも記されていたのかもしれない。
「おまえが決めることだと思っていたし、今でもそれは変わらないことだけれど……わたしたちはおまえに、語っていないことがある」
不意打ちの話だ。なんのことかさっぱりではあるが、アルカナが、メリルムーアが、トランテに語るものと言ったら限りがある。
「その話なら、五年前に終わっただろ」
言うと、アルカナの顔が歪んだ。
「終わってないよ」
「は?」
「わたしたちは、いや、わたしが話せなかった。けれど、それも時間切れらしい」
終わっていることだと思った、トランテがメリルムーアと共に旅をするきっかけとなった出来事は、また続きが、いや前日譚のようなものがあるようだ。
「アル!」
メリルムーアが、ハッとアルカナを呼び諌める。会話に聞き耳を立てていたのだろう。メリルムーアの大きな声にマリオンが驚いていたが、それを無視したメリルムーアの鋭い視線がアルカナを射抜く。アルカナも、メリルムーアを静かな眼差しで見つめ返した。
「師団長からの、唐突な、任務内容も不明な呼び出しだよ、ルム。時間切れだ」
なにが時間切れなのか、メリルムーアまで顔を歪ませ、なにか悔しそうに俯く。心配したマリオンが母を慰めようと寄り添い、だがそれでも、メリルムーアの表情は晴れない。
朝からいったい、なんだというのだろう。
「なんのことだよ、アルカナ。ルムまで……マリオンがいるんだぞ、辛気臭い雰囲気にするな」
「真実を語らないといけないんだよ。いや、事実か。隠していたわけではなかったけれど」
「隠す?」
「七年前の、いや……十四年前のことについて」
やはり終わっている話だ、と思った。
トランテはもう、自分がなに者かを知っている。魔導師だ。それ以外のなに者でもない。
「おれは魔導師以外のなにかだったことはない。知ってるだろ、そんなことは」
気づいたら旅をしていたトランテは、もうあの頃のトランテではない。あの頃には戻れないほど、己が魔導師であることを知り、この国ユシュベルに生きる者のひとりとなった。そもそも魔導師には、その力を持った者しかなれない。ゆえに、そこには身分などあったことがない。トランテが旅人であった過去など、なおさら関係なかった。
「ところが、ね……ラン、おまえに限ってはそう言っていられないのだよ」
「……なんだよ、それ」
ムッと、トランテは軽くアルカナを睨む。
魔導師であることに誇りを持っているのは、魔導師である者なら当然だ。誰に否定されようとも、そうであることは変わらない。いや、変えられない。アルカナもよくわかっていることだ。
だいたいにして『魔導師』とは、天災が多いこの国ユシュベルにおいて、ときには敵となる万緑と常に対峙し、協力を願い、助けを求める力に恵まれた者たちであり、人々には畏怖され恐怖を抱かれる。家族すら見捨てることさえあるのは、万緑に対する力を与えられたその代償のようなものであり、ゆえに偏りのある愛情しか許されていないためだ。
だから、魔導師は誇る。誇らなければ、魔導師はただの異形でしかなく、孤独で、悲しい生きものになってしまう。魔導師であっても人間である、その誇りを魔導師は忘れない。
旅人であったトランテでさえも、魔導師であることを誇りに思っているのだから、アルカナはそれ以上の誇りを持っているはずだ。
「ロアーナ家のことを、わたしもルムも語らなかったね。そのことには、気づいていただろう?」
ロアーナ、とは、トランテには今でも馴染まない家名だ。母マリアンの生家、トランテにとっても生家となった家ではあるが、実は未だ、ロアーナ家には足を運んだことがない。没落し、今はもう影も形もない貴族だからだ。それこそ七年前、トランテがこの国に帰還したとき、ロアーナ家はすでに断絶していた。今では実質トランテだけがロアーナ家の者で、そして邸も財産もない名ばかりの貴族の当主だ。
「もうない家のことを知る必要があるとは思えない」
もうどこにも存在しない、トランテだけが名乗るロアーナ家のことは、だからトランテは聞こうと思ったことがない。当時はこの国が故郷だと思えなかったせいもあるが、今はただ、自分しかいないロアーナ家のことなど知っても無駄だとしか思えないのだ。
「おまえに襲爵の意志がないことはわかっている。だからわたしもルムも、おまえが追究してこないことをいいことに、話題にはしなかった。本当は一番に話さなければならないことだったのにね」
「没落した貴族の娘、それが母親……いや、マリアンだった。それだけ知っていれば充分だろ」
「それはどうかな」
「なんだよ」
「ロアーナを名乗るおまえが、マリアンの子であると、彼は気づいてしまった」
「……彼?」
「ロムロス・オルベニア」
「? 誰だ?」
「彼はもともと疑っていた。ロアーナ家が滅んだときに、彼はすべてを見ていたから。だから、生き残りがいると知って、彼はその可能性をずっと疑っていた」
知らない名の人間に、なにを疑われていたのか、トランテにはわからない。いや、アルカナが言わんとしていることは、もはや理解できないものだ。
「この七年、彼は地道に調べ、検証し、疑い続けてきたことで、その曇りを晴らしてしまった。わたしらはべつに隠していたわけではないし、決めるのはラン自身だと思っていたから、その油断とも言えるかな」
意味がわかるか、なんてアルカナは言わなかった。トランテの理解範疇を超えてしまっていることだと、師は把握したのだろう。
話を理解するな、と拒絶する身が、どこからか警戒音を出している。
「ま……て、まて、待て。その話、おれ聞かないほうがいい気がしてきた」
警戒音に従ってアルカナを止めるが、苦く唇を歪ませたアルカナは口を閉ざさなかった。
「師団長にいきなり話を持ち込まれるよりも、わたしから聞いておいたほうがいいだろう」
「……師団長も知ってる?」
「当然、師団長は魔導師の首領だからね」
長い話になりそうだから座れ、とアルカナに促され、どうしようか迷いつつ、トランテはぎくしゃくと席に戻る。
頭に鳴り響く警戒音は止まないが、今ここでアルカナの話を無視したところで、今度は魔導師団長に悩まされるかもしれない。それならまだアルカナから事前に聞いておいたほうが、この警戒音が示す混乱を鎮められる気がする。
それに、知らないことは確かにある。語られていないというより、語ることを遠回しに誤魔化され、有耶無耶になってしまったことがある。もう終わっている話だからこそ、気にならならなくなっていただけで、敢えて避けられていたそれが語られようとしているのなら、聞いておいたほうがいいと思った。
「師団長が、おれを呼び出した理由を、あんたは知ってんのか」
「オルベニア家から、おまえを養子に迎えたいという話がきた、とね」
「養子?」
「おまえが彼の子であることを、彼は知ってしまったのだろうね」
知られたくなかったことだけれど、いつまでも隠し通せるものでもなかったと、アルカナは困り顔でため息をつく。
トランテは、母のことや母の生家については知っていても、父に関係した一切を詳しく知らない。母の死はアルカナもメリルムーアも語ったが、父のことだけは言葉にしなかった。だから、ほとんどなにも知らないのだ。その生死さえも、トランテは勝手に死んだものと捉えていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
「白を切ろうかと思ったのだけれどね……どうも、無理そうだ」
「……よく、わからないが、おれがオルベニア家の者だっていうのは、隠しておくべきことなんだな?」
「いや、隠す必要はなかった。知られないようにはしていたけれど」
「同じことだ」
「そうかもしれない……けれど、まあ、やはりけっきょくは知られてしまったわけだ」
「……理由は?」
「うん?」
「知られちゃなんなかった理由だよ」
要するに、トランテはアルカナの言うオルベニア家の「彼」の息子であるようだが、それは秘されていなければならなかったことだった。そこにはもちろん事情というものがある。理解してはならないという警戒音は、その部分を警戒してのものだろう。
少し言い難そうに、けれどもはっきりとアルカナは言う。
「マリアンを……いや、ロアーナ家を没落に至らしめたのは、原因を辿ればオルベニア家にある。たとえ罪のないことだったとしても、それは許されてはいけない。だのに、彼らは許しを乞うた」
アルカナやメリルムーアが、今まで父のことを有耶無耶にしていた理由は、そこだったのだろう。
向こう側が知ってはならないこと、ではなく、トランテが知ってはならないこと、なのだ。
「許すとか、許さないとか、おれがそういう感情を持つことが、いやだったのか」
そういうことかとアルカナに問えば、困ったようにアルカナは笑う。メリルムーアも、マリオンを抱き上げながら俯き、トランテから視線を逸らす。
「マリアンを死に至らしめる原因となったオルベニアを、おれが、どう受け止めるか……わからなかったから、向こうにもおれにも、話さなかったのか」
「わからなかったというより、わたしもルムも、むしろ許せない側にあって、その感情をおまえに押しつけたくなかったんだよ。どう受け止めるかは、どうするかを決めるのはおまえだ。ただあのとき、おまえが帰ってきたとき、それを話すにはおまえはまだ幼くて、わたしたちのその感情に流されてしまう可能性があった。だから、話せなかったんだよ」
流されるように先入観のある感情を押しつけないために、敢えて話題にはされなかったらしい。確かに、まだ十歳かそこらだった子どもに、親はこういう事情で、と教えられたら、その感情に呑み込まれていた可能性がある。ましてトランテは、そのせいでメリルムーアと旅をしていたようなもので、親の愛情も知らない。恨みの感情がどう働くか、その作用は計り知れなかっただろう。
「おれに、選択肢を残したのか」
「わたしたちはどうしても許せないが、決めるのはおまえだ。許すのも、許さないのも、おまえが判断することだ」
「……マリアンは殺されたんだろ」
「……、ああ」
「原因は、父親なんだな」
「辿れば、ね」
「……わかった」
母マリアンの死は、この国に身を寄せてから知った。メリルムーアの口から、そしてアルカナの口から、ロアーナ家がどのようにして断絶したか、母がどのようにして儚くなったのかと、大まかに教えられた。
さすがに潮時なのかもしれない。
この国の魔導師として落ち着いたつもりでいるのなら、自分の知らない、自分の過去を、きちんと知る必要があるだろう。関係ないと、知らなくていいと、無関心でいることはメリルムーアやアルカナを苦しませることになる。
このままではいられないのだと、トランテは深く息を吐き出して覚悟を決めると、椅子を離れてアルカナたちに背を向けた。
「ラン……」
「おれはルムと旅をしていたその期間を否定するつもりはない。あのとき、あの時間は、おれにとって確かな時間なんだ。おれが歩んだ時間なんだ。だから、おれを作ったあの時間を、おれは大切にする」
旅をしていた頃、出自なんて関係なかった。メリルムーアとの間には絆のようなものだけがあって、だがそれだけで充分だった。
なにも知らないということほど楽なことはない。
無知とはときに心を休める。
「教えてくれたのが今でよかった」
冷静に考えよう。公平にすべてを見よう。
今ならそれができるはずだ。
トランテのすべては、旅をしていたときの時間だけではなくなった。魔導師としての今もある。