14 : それが初めてのことだった。
*ルルフェル視点の過去話となっております。
ルルフェル・アズールが、灯火の魔導師トランテという存在を知ったのは、今から随分と前のことになる。
先祖返りなのか、ルルフェルは両親には似ず、黒髪を持って生まれた。奇異の視線を多くもらうことになった黒髪は、しかし本人の思いとは裏腹に、真っ直ぐな気性を現わすがごとく美しいと称賛されることもあった。
いろいろな視線をもらうなか、ルルフェルの特徴でもあった黒髪に関心を示さなかったのが、魔導師だ。華やかな席に魔導師が呼ばれることもあり、そこで相対した魔導師が、社交辞令の挨拶にルルフェルの黒髪に触れた発言をしなかったのである。いやと言うほど必ず黒髪の賛辞を受けていたルルフェルにはそれが初めてのことで、そして新鮮だった。
魔導師とはそういう、人に個を求めた関心をほとんど持たない生きものであるというのは、家庭教師に教わってある程度知っていたが、まるで人間ではないように説明する教師に、ルルフェルは首を傾げたものだ。
『あの方々は、この国を護ってくださる方々でしょう?』
『はい、そうです、お嬢さま』
『では、人間ではないということは、ないと思うわ』
『しかし、われわれとは一線を画す存在ではあるのです』
世の人々は魔導師をまるで人間ではなく、人間とは違う種族であるかのように扱い、或いは神のごとく崇拝することもある。逆に、バケモノのように恐れることもある。だが魔導師は、怪我もすれば病気もする、ルルフェルたちとなんら変わらない存在でもあった。ただその関心が、興味が、万緑に注がれているというだけのことで、はっきりとした違いは見ているものだった。
それからというもの、ルルフェルは魔導師の存在が気になって、教師に教えてもらえないことは自力で、国立図書館などに通って調べたり、父であるアズール侯爵を通して登城し彼らを間近に観察する機会などを得た。もちろん調べるといっても限度はある。ルルフェルは所詮一貴族の娘でしかないのだ。
そんなルルフェルが、人懐こいと言われる魔導師に出逢うのは、おそらく必然だったと言えるだろう。もっとも、向こうはその出逢いを憶えていないようだが、それは仕方のないことだ。いくら人懐こい魔導師でも、仕事中の些細なことなどいちいち憶えていられない。とくにそれが印象に残るようなものでなければ、なおさらだ。ルルフェルの特徴たる黒髪も、見ている方向が違う魔導師にかかれば霞がかかってしまう。
あれは本当に、些細なできごとだ。ルルフェルが魔導師に興味を持っていなければ、ルルフェル自身もあっさり忘れてしまうくらいには、ありきたりなことだったと思う。
その日ルルフェルは、父アズール侯爵の命令で近く開かれる夜会に出席しなければならず、礼装を新調するために街に出ていた。本当なら仕立て屋を邸に呼ぶものだが、参加したくない夜会だったせいもあって、自ら赴いたのだ。もともと華やかな席は苦手で、アズール侯爵に言われることがなければ積極的に参加しないルルフェルであったので、気晴らしがなければ逃げ出したいくらいだったのだ。仕立て屋を呼ばず自ら赴くことにしたのも、帰りに図書館にでも寄って気持ちを落ち着かせたいという下心があったからだ。
ほとんど仕立て屋に任せるという、邸に呼ばずとも済ませられる時間でそれを終え、図書館に向かうべく馬車に乗ろうとしたときだ。
『おい雷雲! 人通りが多いところではやめろ!』
『うるせえ! んな悠長なことしてられっかよ!』
その大声は、賑わっていた通りでもよく響いていた。次に雷鳴が轟いたときには、天候を疑って空を見上げた。よく晴れている空に雷土を見たときは心底驚いたが、ルルフェルよりも驚いていたのが、馬車を引く馬だ。突然の雷は近くだったせいもあり、ルルフェルを乗せていた馬車の馬が反応してしまったのだ。乗りかけていたところにそれであったから、馬車は大きく揺れ、御者を困らせ、なによりルルフェルを馬車から振り落とした。
なにかを思う前にルルフェルは地面に転がっていた。さほど強く振り落とされたわけではなかったのが幸いだが、転がった拍子に手のひらを擦りむくくらいの怪我はしてしまったので、なにかを考えるよりも手のひらの痛みが先だった。
そして、次の瞬間には、誰かにふわりと抱き起されていた。
『すまない、だいじょうぶか』
それが、人懐こいと細やかに噂されていた、灯火の魔導師トランテだった。
『怪我は……なんてこった、雷雲の奴、なんてことしやがる』
突然のことに呆然としてしまっていたルルフェルは、手のひらの怪我の痛みでわれには返ったが、だからといって「だいじょうぶです」と答えられるくらいに冷静さを取り戻したわけではなく、しばらく放心していた。なにが自分に起きたのかは理解したものの、魔導師との接触が予想外だったせいもある。
『灯火、雷雲は……って、まさか先ほどの雷鳴は』
『馬を驚かせた。ここはおれがどうにかするから、水萍と堅氷は雷雲を追いかけてくれ。被害が増える』
『ご令嬢はだいじょうぶか』
『大きな怪我はなさそうだが、まず驚かせてしまっている。いいから、雷雲を追いかけろ。止められるのはおまえたちだけだ』
『すまない、この場は任せる』
頭上で繰り広げられる会話を理解する思考も止まっていたルルフェルは、揺すられて心配そうに覗き込まれた顔を見て、緩やかに思考を回復させた。
『あ、の……』
『見たところ、怪我は手のひらのこれだけのようだが……ほかに痛むところはあるか?』
転がるときに咄嗟に手をつき、それが怪我となっただけで、ほかに痛むところがなかったので慌てて首を左右に振った。だがその手のひらの痛みよりも、父と兄以外の男性とこんなに近い距離にあったことがなかったルルフェルは、そちらのほうにひどく緊張してしまい、四肢が強張り動けなかった。もちろん転んだ衝撃もあったのだが、トランテとの距離のほうが深刻だった。
『近くに施療院があったな……おい、そこの御者どの、そちらは無事か』
『は、はい! それよりもお嬢さまが!』
『だいじょうぶだ。施療院に連れて行くから、御者どのは馬を落ち着かせてから来てくれ。すぐそこの施療院だから場所はわかるな?』
『はい、お嬢さまをお願いします!』
もしそれが、魔導師の官服を来た者でなければ、さすがの御者もルルフェルを任せるなどということはしなかっただろうが、生憎とこの日は侍女も連れず御者だけを連れていたため、官服が信用された。
そうして、気づけばルルフェルは抱き上げられていた。
『きゃ、あ……っ』
『落としゃしねぇからだいじょうぶだよ。それより、ほんとうに手のひら以外、どこも痛くないんだな?』
『は、は、はい……っ』
『同胞が悪かった。目の前で性質の悪い掏りを見ちまって、なんせ目の前だったもんだから切れてな……街んなかで暴れるなとは言い聞かせてあるが、すまない、無駄だった。驚かせて怪我させて、本当に悪かった』
ルルフェルを案じる声と、衝撃が少なく済むよう急ぐ足取りは優しく、申し訳なさそうな顔で謝られた。咄嗟に「いいえ」と答えることはできたが、抱きかかえられているこの状態をどうにかすることはできず、ルルフェルは近くの施療院に運ばれた。
『あら、トランテじゃないの』
『アッシュさま! そうか、今日はアッシュさまがここに派遣されてたんだな』
『ええ、そうよ。その腕のお嬢さんはどうしたの? 見覚えのあるお嬢さんだけれど』
『驚かせて怪我させちまったんだ。治療を頼む』
『まあ! もしかして、さっきの雷鳴かしら?』
『う……ま、まあ、そこは』
『ローザね? まったくあの子は……そのままいらっしゃい』
どうやら施療院の医師とは知り合いだったようで、治療室にまで抱えられて運ばれたルルフェルは、起きたことに戸惑っている間に治療された。あちこち確認されたが怪我は手のひらの擦り傷だけで、その怪我もきちんと治療すれば痕も残らないからだいじょうぶだと言われた。
『見覚えがあると思っていたけれど、あなた、アズール侯爵さまのルルフェルさまね? わたしはアッシュ・ゼク・レクトよ。わかるかしら? 幾度かお目にかかることはあったと思うけれど』
ぼんやりしていたところに空色の瞳が覗き込んできて、そういえば見覚えのあるご婦人だと気づき、医師が魔導師団長の妻アッシュであると思い出した。言葉を交わしたことはないが、医務局に勤める医師であるとは聞いたことがあって、夜会で見かけたこともあった。
『アッシュ、さま……?』
『そうよ。あなたをここに運んできたのは灯火の魔導師トランテと言うの。れっきとした魔導師だから、安心なさいね』
人攫いでここまで連れてこられたわけではないから、とアッシュに言われて、はたと周りを見渡した。トランテの名前はここで教えてもらったわけだが、そのトランテの姿はすでになく、立ち去ったあとだった。
『すぐに戻ってくると思うわ。あなたにこんな怪我をさせてしまったのだもの、責任を持って家まで送るわ。それから、ごめんなさいね、馬を驚かせたということだけれど、その原因の雷は、雷雲の魔導師ロザヴィンの仕業なのよ。夫の弟子なの。ごめんなさいね』
『あ……いえ、確かに驚きましたが、大きな怪我をしたわけではありませんから』
『いいえ、女性に怪我を負わせるなんて、あってはならないことよ。あとになってしまうけれど、必ず謝罪させるわ』
立場的に拙い騒ぎになるのかと思ったが、アッシュは立場的なものよりも、ルルフェルが女性であるということに重きを置いたようだった。
それから少しして戻ってきたトランテは、御者と一緒だった。馬車のほうは損傷もなく馬も落ち着いたとのことで、トランテの護衛でアズール侯爵家に無事帰ることができたわけだが、ルルフェルにはいろいろあり過ぎで帰り道のことはほとんど憶えていない。ただ、トランテにもう一度謝られて、後日、ルルフェルが怪我を追う原因となった騒動を起こした雷雲の魔導師を謝罪に寄越すと言われた。大したことはないからとか、そんなに気にしないで欲しいとか、そういう返事はした記憶はあるものの、気持ちが落ち着いたのは一晩経ってからのことになる。




