12 : やさしさ。1
帰らなくていいのか、と訊くと、ルルフェルはしばらくカウベリタに滞在する旨は伝えてある、と答えた。嵐が過ぎた翌朝にはそう実家に連絡を取ったらしい。それで従者の交代があって、今日の夕方にはその従者が戻ってくるという。ルルフェルのそばに従者の姿を見かけなかったのは、そのためだった。
「おれのせいで面倒なことさせちまったな……」
「いえ、もともと数日は滞在する予定だったのです。ランさまにお訊ねしてから、とは思っていましたけれど」
ルルフェルは、アルカナの手配によって、騎士宿舎の客室の一室を与えられている。アルカナとトランテの客人として迎えられているのだが、訪れる回数が増えればトランテが居住するほうの宿舎に一室を設けたほうがいいだろう。
「なら、もう少しここにいるか?」
「え?」
「いや、うん、嵐のあとだから一度帰ったほうがいいとは思うんだけどな。おれの力が戻るのはもう少しかかるし、けど力が戻ったら仕事があるし、あの嵐のあとだからやることいっぱいあって、しばらく逢えそうにねぇから」
ルルフェルにしばらく逢えないかもしれない今後の状況を考えると、それはちょっといやだな、と思う自分がいる。逢おうと思えば逢える距離にあるのが悪いのかもしれない。いつでも逢える、ということに甘えて、ルルフェルとの心の距離が遠くなってしまうのは問題だ。
「……あなたが本当にお元気になられるまで、そばにいてもよいのですか?」
少し呆けたあと、ルルフェルはそう言った。その言葉が思った以上に嬉しい。
「元気になったあとも、そばにいて欲しいと思うけどな」
誰かに、そばにいて欲しい、なんて、トランテはこれまで言ったことがない。家族のようなものであるメリルムーアとアルカナは別だが、そのふたり以外に、一緒にいたいと思うような人がこれまでいなかった。
魔導師とは、思った以上に、いやそれ以上に、本当に薄情な生きもので。
万緑に惹かれ続けるその本質は、罵られて当然であるくらい、人に情が向かない。
だがトランテにとって、ルルフェルはそうではない人になりつつある。いや、もうそうなっている。
ルルフェルがトランテを、この大地に立たせる。
「……あなたは不思議な人です」
ルルフェルが、呆けた顔のまま、呟くように言った。
「なにが不思議?」
「わたくしとのことは、本意ではないでしょう。わたくしの一方的な話で、あなたには受け入れる義理などないのです。それなのに、どうしてあなたは、そんなわたくしを真正面から見てくださるのですか」
「どうしてだと思う?」
逆に問い返すと、ルルフェルが珍しく、苦しそうに顔を歪めた。綺麗な眉も、綺麗な口許も、押し潰した苦しみを露わにしている。
「わからないから、訊いているのです」
わからないのは、トランテも同じだ。ルルフェルがなにを考え、なにを思い、トランテを求めるのか、その本心はわからない。苦しく思うのはトランテも変わらないことだ。
「きみは、魔導師って生きものがどんなもんか、やっぱりわかってねぇな」
ふっとこぼれたトランテの言葉に、ルルフェルがハッと目を瞠る。
「……きみは知ったほうがいい」
「なにを、でしょう」
「魔導師が、どれだけ、薄情な生きものか」
トランテは座っていた椅子を離れると、卓に広げていた食べ終わった昼食を片づける。慌ててルルフェルも手伝ってくれたが、さほど時間をかけずに卓は片づけられ、沈黙が部屋を包む。
気まずさを覚えたのはルルフェルだった。
「あの……ランさま」
伺うような声音を耳にしながら、トランテは意図的に微笑む。
「仕事に戻るよ。きみが、理解し易いように」
「え……」
「魔導師を知るといい」
この気持ちが嘘か本当かなんて、トランテには確かめるまでもない。魔導師であることに誇りを持つからこそ、要らない逡巡だ。
部屋を出るとルルフェルが追ってきたが、それにかまうことなく一直線に、魔導師が詰める執務室のような場所まで赴く。途中で顔見知りの騎士たちが声をかけてきたが、軽く返事をするだけにして歩みは止めなかった。
目的地まで来ると、なんの合図もなくトランテは扉を開けた。
「……なんだ、もう動き回っているのか」
中にはグラスコードがひとり、紙の束に埋もれながらそれらと格闘中だった。
「堅氷は王都に戻ったか」
「とっくに。どうかしたか」
「戻るよ、仕事に」
「それはかまわないが……おまえ、まだ力が戻ってないだろう。その状態で動き回れるとは相変わらずだが」
「まあね。だから、力を使わなくてよさそうなもの、回してくんねぇかな」
休め、とは言わないのがグラスコードだ。魔導師は自分が動ける範囲を理解し、その通りにしか行動できないため、よほどのことがない限り無理はしない。ゆえに、魔導師の仕事ができない状態にあるなら、トランテのようにこの部屋に顔を出すことはない。それをわかっているから、休めとは言わないのだ。
グラスコードはざっといくつかの書類らしきものに目を通し、そのうちの数枚をトランテに差し出した。
「どれも多少は力を使う。無理そうなら朧月に渡せばいい」
書類を受け取り、トランテもざっと目を通す。いつもなら片手間に、それこそ街を見回っているときに片づけるものだ。
「これくらいならなんとかなりそうだな……あ、これはさっき片づけてきた。話してみたらそれだけでよかったし」
「そうか。悪いがわたしはしばらくここから動けない。雑務を回す」
「そうしてくれ」
魔導師はふらふら動き回っていることが多いが、机で書類と格闘する魔導師もいないわけではない。グラスコードは分析や研究に集中することが多いため、必然的に書類作成などの事務処理を任されている。トランテにしてみれば雑務のようなものは事務処理だが、グラスコードにとっては片手間に行う魔導師のそれのほうが雑務だった。
「……一つ」
「ん、なんだ?」
さっそくと出かけようとしたトランテを、グラスコードが呼び止める。振り向くと、事務処理のときだけ身に着けている眼鏡を外したグラスコードが、僅かに剣呑さを含ませた表情でトランテを見据えていた。
「いくら多少の無理がきくからといって、それに甘んじるのもほどほどにしろ。わたしにしてみれば、おまえのそれは、ただの無自覚でしかない」
魔導力が枯渇した状態のそれを、グラスコードは心配してくれているようだった。
「ふつうに動けるんだけどな?」
「わたしにはそう見えない」
「……そうか?」
「自分が、理に外れようもない魔導師であることを、忘れるな」
話はそれだけだ、とグラスコードは外していた眼鏡をかけ直し、視線を書類に戻した。
さてな、と思いながら、トランテは書類をグラスコードの机に戻すと、首を傾げつつ部屋を出る。廊下ではルルフェルが所在なさげに待っていて、視線で促すとまたトランテのあとをついて来た。
「ランさま、本当に仕事に復帰なさるおつもりですか」
「つもりもなにも、言っただろ、戻るよ。それに、動ける限りは動く。前からそうしてたからな」
魔導力が枯渇していても、これは自己満足であるから、関係ない。それに、この状態になるのはカウベリタでは初めてでも、幾度か経験はあって、だからグラスコードもあんなことを言ったのだ。守護石の実験にグラスコードも立ち会ったことがある。
「わたくしの言葉がランさまをご不快にさせたのなら、謝罪いたします。ですから無理はなさらないでください」
「無理、かあ……べつに、してねぇんだけどなあ」
ルルフェルに怒ったわけではない。ただ、どうもやはり知らないようである魔導師のことを、ルルフェルに知ってもらいたいと思うだけだ。
「今はおれの言葉を信じて、許せる限りの時間で、確かめるといいさ」
「確かめる、なんて……」
「魔導師は、人に優しいわけじゃねぇんだよ」
ただの優しさで、ルルフェルに接しているわけではない。それを、ルルフェルにはわかってもらいたかった。
トランテはただの優しさなんて持ち合わせちゃいない。
優しいのはこの世界で、そして残酷でもある。
「だから、おれが優しいなんて、勘違いしちゃいけねぇよ」
魔導師が本当の意味で優しいのは、同じ魔導師に対してだけだ。




