11 : そうであってくれたら。
目を覚ますたび近くにルルフェルがいる。そんな日を三日過ごし、四日めの朝、トランテはすっきりした目覚めで寝台から降りた。眠ったり起きたりを繰り返していたので、気持ち的には三日も経っているようには思えなかったが、動きが鈍くなった身体を考えればそれくらい休んでいたのだとわかる。
「もう起きられるのですか」
すっかり準備を整えたトランテの許に、ルルフェルが朝食を運んできた。いつもならトランテが朝食を作るのだが、さすがにこの四日はアルカナが頑張っていて、ルルフェルも手伝っているらしい。
「身体が鈍っていけねえからな。そろそろ動かねぇと」
「顔色はだいぶよくなっておりますが……だいじょうぶなのですか?」
「平気だよ」
動かないと、それこそ身体が痛い。腕を回したり腰を曲げたりして準備運動をすると、あちこち悲鳴が上がる。
「もう少し休まれたほうが……アルカナさまやグラスコードさまも、トランテさまの仕事復帰はまだ先だとおっしゃっておりましたし」
「ああまあ、魔導師の仕事に戻れるくらいにはなってねぇからな。んでも、それとこれとは別だ」
身体を動かすのと、仕事復帰は別の話だ。魔導力は未だ枯渇した状態にあるが、力は使えずとも歩くことはできる。そもそも体力だけはあるトランテだ。疲れが取れてしまえば、有り余る体力が行き場を失くしてしまう。
「魔導師にとって、魔導力の枯渇は身体に悪いと聞いております。やはり休まれていたほうが……」
どうしてもまだトランテを休ませておきたいらしいルルフェルに、トランテは肩を竦めて苦笑する。
「いや、平気なんだよ、おれの場合。根こそぎ力がなくなっても動けるんだ」
魔導師は、魔導力が枯渇すると動けなくなるものだが、トランテはそうならない。もともと剣士として身体を鍛えてあるせいなのか、なにかが足りない気はしても、不思議と動くことができる。こればかりは魔導師の誰にでも首を傾げられることだった。
「なんでかな、わかってねぇんだけど」
「……本当に?」
「疑うなら今日一日、おれにひっついて観察したらいいさ」
魔導師としては役に立たない状態ではあるが、と苦笑しながら、ルルフェルが運んできてくれた朝食に手を伸ばした。焼き過ぎた感のある麺麭はルルフェルが作ったのだろうか、ちょっと硬くて食べ難いが味はいい。
もくもくと朝食を綺麗に食すと、ルルフェルが淹れてくれた珈琲で一息ついた。
「さてと……街の様子がどんなか、わかるか?」
「あ、はい。嵐が来る以前の姿に戻りつつあります。損壊した家屋は少ないですし、なにより人災はありませんでしたから」
「怪我人なし?」
「そう聞いております。避難中に転んで擦り傷を、というのはありますが」
街の人々が無事であると改めて聞いて、ホッとする。今こうして役に立たないくらい力を持っていった守護石は、立派に街を護ったようだ。それでも、この目でちゃんと確認はしたい。
「そうか……ちょっと、見て回るかな」
「歩き回ってだいじょうぶなのですか?」
「魔導師として役に立たねぇくらいだって言っただろ」
食器を片づけてしまってから、トランテはさっそくと外套を身にまとい、あとをついてくるルルフェルを気にしながら外に出る。
嵐が過ぎ去った空というのは、とても綺麗だ。四日ぶりに見上げた空は、それはもう綺麗に澄んでいる。そのまま視線を下げて街を見渡せば、嵐の影響で多少の家屋の損壊は見られたが、すでに修繕の手が入って直りかけていた。また街の人々も、巨大な嵐に見舞われた後だというのに、そんなことなど感じさせない笑顔に溢れている。
知らず、ホッと息が出た。この街を護れたのだと、じわじわと実感する。守護石はとんでもない後遺症をトランテに与えるが、これが見られるなら自分がどうなろうとかまわない。
「ラン」
と、呼ばれて振り向くと、きっちり騎士服に身を包んだメリルムーアが、足にマリオンをまとわりつかせながら佇んでいた。
「ルム、マリ」
にこっと笑って返事をすれば、もじもじしていたマリオンがパッと顔を輝かせ、トランテに向かって飛び込んでくる。それを抱きとめて膝を折り、視線をマリオンに合わせた。
「よう、マリ。なんか久しぶりだな」
「ランちゃ、げんきなった?」
「おう。心配かけたな。マリも元気か」
「うん!」
満面笑顔のマリオンの頭を撫で繰り回し、ちょっと見ない間にちょっとだけ大きくなったマリオンを腕に抱きあげると、今度はメリルムーアとしっかり対峙する。呼び止めたのはメリルムーアのほうであるのに、しばらく無言だった。
「……なんだよ、ルム?」
沈黙に耐えかねて苦笑すると、メリルムーアは深々とため息をついた。
「あまり、心配させるな。おまえが寝込むとか……あり得なくて困る」
そういえば、まともに寝台に潰れた姿をメリルムーアに見せたのは、初めてだったかもしれない。守護石の実験は王都レンベルで行われていたことで、メリルムーアとは一緒にいなかったし、トランテはその間の寝泊まりを王城内にある魔導師団棟で過ごしていた。魔導力が枯渇するほどのことをする機会もカウベリタの街では少ないうえ、旅をしていた頃は風邪の一つも患わなかったトランテなので、メリルムーアには衝撃的だっただろう。
「あー……うん、悪かった。正直言うと、今もまだ力は戻ってねぇから、魔導師としては役に立たねぇんだけど」
「……そんなに、力を吸うものなのか? その、守護石とかいう呪具は」
「初期型の守護石は堅氷にしか扱えねぇもんだからな。まあ、それくらい力を食う呪具ってことは、確かだ」
「だいじょうぶなのか、そんなものを使い続けて」
「よくはねぇだろう。だから、堅氷は改良を続けてるわけだし」
「……おまえひとりが、そこまでやる必要があるものなのか……甚だ疑問だね」
どうやらメリルムーアは、守護石が気に喰わないらしい。だが、トランテひとりの疲労で済むものであることを考えれば、やはり必要なものだという認識はあるのだろう。
「アルカナも旭影も、だいじょうぶだっただろ。今はあれくらいに改良されてんだ。そのうち、もっといいもんになるよ」
「……だと、いいがね」
それなりに期待はしている、と諦めたように肩を竦め、メリルムーアはマリオンを呼んで幼稚舎に行くよう促した。回復したトランテに逢わせるために、マリオンを連れて来たようだ。マリオンも、トランテの元気な姿を見てすっかり安心したようで、素直にトランテの腕を離れていく。
「またね、ランちゃ!」
「気ぃつけて戻れよ」
マリオンが日中を過ごす場所は、妻帯する騎士たちのために設立された幼稚舎で、多くはないが少なくもない子どもたちと一緒に遊んだり学んだりと、一般学舎に進むまでの時間を過ごしている。親が騎士でなくても入れる幼稚舎なのだが、もとが子を持つ騎士たちのための場所なので、マリオンがひとりでも戻れるくらいの、騎士駐屯所の隅のほうにその建物はあった。
「ちゃんと送り届けろよ、ルム」
「幼稚舎までは人の目がある」
ひとりで走り去るマリオンをトランテが見送るのは当然だが、連れて来たメリルムーアまで見送るので一緒に行けと促したのだが、その気はないらしい。放任主義もいいところだ。安全性を熟慮した構造上にある幼稚舎なので、心配しなくてもいいのは確かであるが。
「まだおれに、なんか話でもあんの?」
メリルムーアがこの場に留まった理由はそれだろうと思って小首を傾げれば、メリルムーアはトランテの後ろにいたルルフェルをちらりと見やった。
「その娘が、おまえの婚約者になると聞いた」
トランテからきちんと紹介をしていなかったが、アルカナから話は聞いているだろう。そうだ、と頷くと、いつもは無表情のメリルムーアに、僅かばかり複雑そうなものが滲む。
「ルルフェル・アズール嬢だ。この四日で顔見知り程度にはなっただろ」
「きちんと顔を合わせるのは初めてだ。わたしも事後処理で忙しかったからね」
「あれ、そうなの?」
名前くらいは互いに名乗り合っているだろうと踏んだのだが、まだであったらしい。
「アズール嬢、彼女はメリルムーア、このカウベリタの街の騎士長だ。おれの養い親でもある。アルカナから話は聞いてるよな?」
こくりと頷いたルルフェルは、少し気まずそうだ。トランテの知らない間に、なにかあったのかもしれない。
「ルルフェル・アズールと申します、メリルムーアさま」
「……わたしのことは、ルムでいい。ランとのことは、アル……アルカナから聞いている。しかし……本気か?」
トランテがいるところで、メリルムーアはそれを聞きたかったのだろう。卑怯なことを嫌うメリルムーアであるから、脅迫紛いなことになるのを避けた結果だ。
メリルムーアの問いに、ルルフェルはちらりとトランテを見やり、意を決したように頷く。
「わたくしに嘘はございません。トランテさまとのことは、わたくしの本意です」
改めて聞くと、なんだかルルフェルは相当な覚悟を持っているように思える。そんなに気構えが必要なことなのだろうかと、トランテのほうが不思議になってしまう。
「愚かなことだと、わたしは思うが……そうではないのだね」
「誰になにを言われようと、わたくしの心は変わりません」
「……そうかい」
今日まで、ルルフェルはメリルムーアと対峙する機会がなかったのだろう。メリルムーアも、トランテの立ち会いがなければ話をするつもりがなかったゆえに、今日まで接触を試みなかったに違いない。
漸く互いに知り合いになった、と満足したのか、メリルムーアはそれからとくに問答することなく、トランテに無理はするなと言い置いて駐屯所の中へと戻って行った。
なんだか微妙な空気になったと思いつつ、トランテはルルフェルを正面に見据え、微かに震えているその手に苦笑する。
「ルムは、怖いだろ」
「え……?」
「そこらの男より、男らしいからな。下手すりゃアルカナより男前だ」
「……とても素敵なお方です。あんなに背がお高いとは思いませんでした」
メリルムーアを前にして竦む人は多い。メリルムーア自身、とくになにかを発しているわけではないのだが、潜り抜けてきたものがなにか纏わせているのだろう。気絶してしまう貴族令嬢もいるので、ルルフェルの反応は珍しくもない。
「アルカナがあれだから、みんな、ルムが可愛らしい人だと思うらしいが……むしろ逆なんだよな。アルカナがあれだから、ルムが逞しいんだ」
「たくましい……」
「アルカナがぼっけぼけだから、ルムはしっかり者で頑固だ。怖いけど、でも、かっこいいだろ」
「かっこいい……はい、とても凛々しくて憧れるお方です」
メリルムーアを怖がらないでいてくれて、よかったと思う。気絶してしまう令嬢の大半は、身に纏わせているなにかに恐怖を覚えて耐えられなくなったがゆえなのだ。
「ふだんからあんな感じだから……ちょっとずつ慣れていってくれ」
行こうか、とルルフェルを促し、ゆっくりとふたりで敷地内を出て街中に入る。
とくに会話もなく街で一番賑わう場所まで来たのは、敢えてそうしたわけではなく沈黙が心地よかったからで、そのうちトランテを見知った者たちが声をかけて来たからだった。律儀に返事をするトランテの横で、ルルフェルは静かに邪魔することなく控えていた。たまにルルフェルに気づいて訊ねてこられたが、いい人だと答えれば「またか」と肩を竦められ、特別囃し立てられることもない。
「あんたにしちゃあ、珍しいな」
「なにが?」
「おとなしい子じゃないか。ほら、おまえに寄ってく娘どもは、随分と騒がしいのが多いから」
「おれに遊ばれたい子ばっかりだからじゃねぇの」
「は……言うねえ、あんたも」
そんな会話をしていても、ルルフェルは表情を変えない。トランテにあからさまな好意を見せる若い娘も声をかけてきたが、ルルフェルは気にした様子もなく、むしろその態度が若い娘をいきり立たせることさえあった。
ほんの僅かだが、ふたりで並んで歩いていて、とてもルルフェルが不思議だった。なにが不思議かと問われると答えに迷うが、しいて言うならトランテの隣を歩いていながらなにか訊ねてくることもないことだろうか。
「……アズール嬢」
街を大きく一回りし、駐屯所に戻る途中、トランテは人通りの少なくなった通りで立ち止まり、ルルフェルを振り返った。歩き回って太陽はすでに傾き始めていて、今さらだがルルフェルの体力に気が回ったのだ。
「ここで少し休んでてくれ」
そう声をかけると、ハッとルルフェルが顔を上げる。俯いて歩いていたということに今気づいたような仕草に見えた。
「わたくしは……」
「遅くなって悪いけど、昼食にしよう。そこで食いもん買ってくるから、待っててくれ」
「いえ、わたくしはトランテさまの仕事を邪魔するつもりは……」
「おれが夢中になり過ぎた。いいから、ちょっと待っててくれ」
道端にルルフェルをひとりにするのは気が引けたが、ちょうど近くに常連になっている弁当屋がある。トランテの料理の腕を高く評価する女店主が、旦那と子どもたちだけで営んでいる小さな店だ。時間的にもう店は閉めているだろうが、いつも作り過ぎてしまうと言って値引きした惣菜は近所に売っているので、麺麭とそれさえ手に入ればいい。
「動くなよ、すぐ戻るから」
そういえばルルフェルの従者がいないな、と気づいたのはそのときで、しかし本当にすぐ近くなので、さっさとトランテは遅い昼食を調達に行く。
案の定、小さな店はすでに閉まっていたが、閉店の看板を無視して店内に入れば、店主の旦那のほうがいて、遅い昼食にしていた。
「おう、灯火の。なんだ、こんな時間に珍しい」
「残りものをあやかりに。まだあるか?」
「あるが……ふたり分くらいだな」
「ちょうどいい。それ、譲ってくれ」
「はいよ。じゃ、ちょっと待ってろ。麺麭もいるか?」
「できれば。こんな時間に悪い」
「かまわんよ」
気のいい旦那は自分の昼食を中断し、手早く余っていた惣菜を包んでくれる。急いでいる雰囲気は伝わったようで、他愛ない世間話は準備の最中だけだった。
「また来る。女将さんによろしく言っといてくれ」
「ああ。あ、そうだ。嵐んときはありがとな。あんたたち魔導師のおかげで、被害は最小限に抑えられた。うちの店も、屋根が吹き飛ばずに済んだからな」
「無事でなりよりだよ」
感謝の気持ちは嬉しい。素直に笑って、清々しい気分で店をあとした。
急いでルルフェルのところに戻ると、もともと治安は悪くないほうの街なので、ルルフェルはなにごともなく待っていてくれていた。空を見上げていて、その横顔と軽く結わえた黒髪が、思わず呆けてしまうくらい綺麗だ。すぐにトランテに気づいてしまったが、ほっとしたような表情を見せてくれたので、見ていられなくて残念だがよいものを見た気はする。
「きみは、綺麗だな」
するりと、そんな言葉は出てきた。自分でも驚きだが、そもそもいきなり過ぎたのでルルフェルが目を真ん丸にして、しかし出した言葉に後悔は感じない。
綺麗だ。
そう思ったことを、たとえ照れ隠しでも否定したくなかったのだ。
とはいえ、後悔はなくとも自分が恥ずかしい気がしてくる。
「帰ろう。もう少しだけ、歩いてくれるか」
調達した昼食を片手に持ち、もう片方の手をルルフェルに差し伸べる。しかし、ルルフェルは固まったまま動かず、そのままでは恥ずかし過ぎたのでトランテは少し強引に、ルルフェルの手を取って握った。
「あ…っ…トランテさま」
「それ、やめない? 呼ばれ慣れてねぇから。ランでいい」
「……ラン、さま?」
「んー、まー、それでもいいか」
くすぐったいがそれもいい、と思いながら、われに返ったルルフェルをぐいぐい引っ張って歩く。はたとルルフェルの体力を思い出して歩調は緩めたが、繋いだ手を解こうとは思わなかった。
「あ、あの、トラン……ランさま」
「なに」
「わたくし、その……迷惑を」
「ああ、気にしない気にしない。そもそも、おれってば今、もっとも役に立たねぇ魔導師だから」
「それは……」
「お役御免状態だから、いいんだよ。街を見て回ったのは、おれの勝手だ」
魔導力が枯渇した状態の今、トランテにできることは少な過ぎる。自己満足に街を見回って歩くのがせいぜいで、ルルフェルが邪魔になることはない。
「なあ、きみの目から見て、街はどうだ?」
「……街の様子、ですか?」
「そう。あと、住人の」
「……賑やか、ですね。王都とは別種の賑やかさに溢れていて、笑顔も、綺麗で……王都よりも魔導師がとても身近な街であると、思いました」
「アルカナが人懐こいからなぁ。旭影もわりと社交的だし……そうか」
「ランさまも、人気、ですね」
「おれ? おれはまあ……アルカナの弟子だからな」
「それだけではないように思います。ランさまのお人柄に、惹かれているのだと」
「そうでもねぇさ」
「いいえ。いいえ……そうなのです」
少しは嫉妬でも感じてくれたのだろうか。トランテに近寄ってくる人々に、ルルフェルはその無表情の仮面の下で、複雑な想いを抱いただろうか。
そうであってくれたら嬉しい。




