夫婦 無残
このお話は、少し過去へと溯る
父、弾正は、母美月は
いったい何が起こったのか……
結城の姫、桔梗は、母の守護獣である狼王遮那王によって救い出され、
人の身であれど遮那王の養い子という、蒼王丸と出会う。
蒼王丸は、桔梗を護った養い親、遮那王の意思を継ぎ、同じ遮那王の乳を飲み、育った乳兄弟。
紅蓮、雪白と共に桔梗の窮地を救うべく守護獣とならんと誓いを立てた。
さてここで、時は一月程前へとさかのぼる。
結城藩主、結城弾正は、百年来の大地割れによって難儀する民を案じ、
妻を伴い、僅かばかりの供を連れ、急ぎ検分せんと現地へ向かった。
「殿、そろそろ到着いたしまする」
先駆けの報告を聞いて、弾正のすぐ傍で黒毛の馬に乗っていた涼やかな若侍が声をかける。
側用人筆頭の滝沢主税である。
小姓の頃より弾正に仕え、信頼も厚い寵臣である。
容色に優れているばかりか、文武両道で人望厚い彼は、弾正、美月共に桔梗の婿にと望まれるほどである。
「うむ、大儀である。奥は、美月の籠は危険のないように、十分吟味した所へと降ろすようにな」
「ははっ」
自らは馬に跨り、少し遅れてついてくる妻の籠を気にかける弾正。
藩主の身ではあるが、側室一人とろうとしない弾正は、入り婿である。
だが、其処にその理由は無く、ただひたすらに正室である美月を愛し、生涯唯一人の女性と心に誓うゆえであった。
里の民もそうした心優しい君主を敬愛し、此のおしどり夫婦もまた、共に民を慈しみ、平和な国を治めていたのであった。
「殿、到着いたしました」
弾正が先頭へと馬を走らすと。薄もやのように霧が立ちこめる中、いななき怯えるように馬が立ち止まった。
霧の中、醜く大地を引き裂いた裂け目が、まるで地獄の釜かと思えるほどに、暗闇の大きな口をあけていた。
馬を降りて覗き込むと底の見えぬ何処までも暗い闇の中から、生臭い異臭が漂ってくる。
飲み込まれそうな暗い闇。
上から覗く弾正を誘う《いざなう》ように、黒く揺らめいた何かがじっと潜んでいるようにも思えた。
身を乗り出し覗く弾正を案じ、滝沢が声をかける。
「殿、その様に近づかれては危のうございます」
「大事無い、我が身を庇い高みの見物では、何の調査ぞ。それにしてもこれは…。なんという、惨い《むごい》地割れか……。木々や動物のみならず。炭焼き小屋を一つそのまま飲み込んだと聞いたが……。小屋どころか、草の根一本も見当たらぬ。いいや、見えぬ……。闇……。底知れぬ、闇ばかりが広がっておる……」
「殿っ! 近づいてはなりませぬっ」
「美月。そなたこそ、籠を降りるでない、そなたはそのまま近隣の村へとゆき、民の様子を見てきておくれ」
「いいえ、殿。美月には解ります。此の裂け目より漂いくるのは、異臭だけではございませぬ。妖気が、禍々しい気配がうねっておりまする」
「妖気、だと…?よし、者共、手分けをして調べてまいれ。此処は余と数名で大丈夫じゃ、抜かるなよ? くれぐれも、用心怠るでないぞ」
「ははっ」
命を受け、家臣たちは数名ずつ二手に分かれて、抜かりなく辺りを調べている。
弾正と美月の元には、十数名の手練が残った。
「美月、震えておるのか? 恐ろしければ籠に入っておるがよい、いいや、入っておれ。顔から血の気が失せておるぞ」
「殿、殿、どうか美月をお信じくださいませ」
「信じておるとも、代々狼の守護を得るという姫の中でも、とりわけ霊力が高いと言うそなたの言葉、決して軽んじたりはせぬぞ」
「では、今すぐ城へお戻りくださいませ。遮那王に調査を頼みましょう」
「遮那王か…。そなたの守護獣とはいえ少々妬けるのぉ。いやいや、戯言はともかくとして、多少の情報を持ってかえらねばな。手ぶらでかえっては遮那王にどやされそうじゃ。あっはっはっはそれに、遮那王には城の留守と桔梗を任せてきた。今頃姫の相手で忙しかろうが其れも大事な勤めであるぞ?」
「姫が成人したあかつきには、遮那王の子が姫の守護獣となります。それまでの間、姫の身は遮那王がきっと護ってくれるはず。ですが、殿。これはきっと人の手には余る厄。どうか、一刻も早く立ち去りましょう」
「よしよし、そうしようとも。だからそう、気を荒立てるな、身体に障るぞ?お前の守護獣ということを差し引いても、余も遮那は可愛い。あれは良くやってくれておる。ものどもが戻り次第、立ち去るとしよう。これで良いな?さぁ、美月、大事なそなたが瘴気に中てられてはいかん。きつく命じるぞ、おとなしゅう籠に入っておれ」
「ささっ。奥方様」
「殿、お気をつけて…くれぐれもお気をつけて」
「うむ、あいわかった。気に病まず待っておるがよい」
家臣に促され、籠へと戻ってゆく美月。心配そうに何度も振り向く美月に、弾正はしっかりと頷いてみせる。
美月が籠に戻りしばらくすると、辺りの霧がいっそう濃くなった。それはまるで邪悪な妖気が美月の姿の消えるのを待っていたかの如く。
その時、裂け目の奥より何か影のようなモノが、素早く地表へと飛び出した。
一瞬のことで、辺りに散らばる家臣を初め、弾正も気づいてはいない。
「静かよの……静か過ぎる」
「さようでございますな。霧も濃くなってまいりました。散らばった者共が、そろそろ戻っても良い頃かと思いまするが……」
「……構えておけよ。気を抜くでないぞ」
「ははっ」
弾正の張り詰めた声に、滝沢もいっそうの緊張を顔に宿らせる。
筆頭である滝沢が眼差しで指示すると、他の用人共が素早く主君の周りに、二重三重にと円陣を組み、刀の鍔に手をかけ構える。
辺りの霧で、最早一寸先を窺う事も出来ぬ弾正たち。
各々必死で目を凝らし、気配に耳をそばだてている。
そのうち、霧の中に影が見えたかと思うと、ひとり、またひとりと揺らめきながら戻ってくる。
薄っすらと見えるその影は、辺りを調べに行き戻ってきた者と見定めた側用人が、ほっとしたように声をかけた。
「おおっ、いかがであった」
「まて。其処な者、聞くが良い! 側用人筆頭滝沢である! 近寄らず其処に留まり、まこと結城の者であれば、名を名乗って報告せよ!殿の御前であるぞ!」
「滝沢」
「……殿、なにやら様子が、おかしゅうございます。各々方っ、ご油断めさるなっ! ええぃ、止まらぬかっ! 物申さねば、切って捨てる」
「ならぬっ。結城の家臣の血を流すなっ。みね打ちだ。捕らえよ、殺してはならぬっ。滝沢っ、美月の籠は何処に控えておるかっ」
「近くの松の木の下、地盤の固いところであれば安全であるとのお言葉でそちらに。お付きの女中も用人も、中々の腕前の者を揃えてございますればご安心くださいませ。者共全て、たとえ一命を賭す事になろうとも、きっと御守り致します」
「ふむ…大儀である。だが滝沢、此の気配、ただ事ではない。美月が気にかかる…すまぬが、さらに腕自慢を美月の元へと走らせよ。そして、余を待つ事無くすぐさま月光城へと戻り、城で待つ遮那王を解き放てと伝えるのだ」
「はっ仰せの通りに。誰かあるっ! 美月様の籠へ馳せ参じ、殿のお言葉をお伝えせよっ」
「はっ。某が参ります!」
「そうか、しかと頼んだぞっ」
「ははっ。必ずやっ」
キリリと一礼をするが早いか、命を受け、霧の中へと走り出す。
霧に姿を飲み込まれ走り去る音すら遠く小さくなったその時……。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
恐ろしい叫びが遠くに聞こえたかと思うと、すぐにまた、しぃんと静まり返った。
弾正をはじめとし、滝沢やその配下の者もゴクリと唾を飲み込み、腰の刀にかけた手に力を込める。
「みねうちか…ご命令とあらば致し方ない」
「お情け深い……流石我が殿」
「何を申す、貴様、今頃解ったか。よいかっ、ものども心せよ! 我ら結城の家臣一同、命に代えて――」
「我らが主を御守りするぞっ」
「おうっ!!」
武士達は声を揃え、抜刀した。
まるで幽鬼の如く揺らめいていた者達は、いつの間にか弾正たちを取り巻くほどに増えた。
霧に薄っすらと見えるその顔は血の気が抜けた死人の如く青白い。
そして、主君を護る侍達の円陣に、ゆらりゆらり奇妙な歩みで、じりじりと近づいてくる。
霧より出でて、間近に見る嘗て同胞であった者の眼が赤く光ったその一瞬、一斉にそれらが襲い掛かってきた。
「うおぉっ!」
「怯むなっ、殿を御守りするのだっ」
三重にと組まれた円陣は、一番外側には四方を守る四人。その合間を守る四人、そして内なる四人の十二名で組まれていた。
中央の弾正を含めて十三名と、相対する敵は二十名。
「倒せぬ数ではない…だが……」
主君からの命を守らんと、みねうちを心に刻む結城侍十二名。
しかし、襲い来るのは人外のモノ。
もとより、これは命のやり取りである。
「おのれっ、っはぁっはぁ…。だめだ、きりがない」
一人が倒されれば、後ろの者が前へと出る。円陣を崩さぬよう戦いは続く。
みねうちといえども、てだれの一撃、普通のものなら骨の一つや二つ折れて動けるはずもなかったが、
一向に数は減る様子もない。
「でぁやっ! はっ、しまったっ」
滝沢の思わず放った一撃が、一人の首元へと打ち当たった。敵はそのままがくんと首を後ろにそらした。
「しまった、首の骨が折れたか、許せっ」
倒れた敵は、嘗て滝沢と同期の同胞。
滝沢は唇を噛み締めた。
――なぜ、なぜだ、なぜ結城の侍同士で争わねばならぬ。にっくき物の怪め……許すまじっ――
其の時、生臭い風が辺りに巻き起こった。
「なんとっ! これは…どういうことだ!」
滝沢は驚き叫んだ。
なんと倒れたはずの敵があらぬ形で後ろに首をそらしながら、揺ら揺らと立ち上がってくるではないか。
「殿っ、彼奴らは最早、人ではありませんっ。何卒、滅殺のお許しを!」
滝沢の声に弾正は思わず唸る。
「う、ううむ…」
「殿っ!」
――いたしかたない……――
弾正は苦渋の決断を下す。
「あい解った、滅殺を許す!」
「お許しがでたぞっ、構わぬ、切り捨てよ!!」
叫ぶ滝沢の声に一同が一斉に応える。
「おぅっ、心得た!!」
弾正自ら抜刀し、襲い来る物の怪と化した嘗ての家臣を打ち祓わんと立ち向かう。
だがしかし、腕に覚えの精鋭たちの抵抗虚しく、飛び掛る敵に次々に倒れてゆく家臣たち。
驚くことに、敵は赤い目を光らせては飛び掛り、首に喰らい付くやいなや、あろう事か牙を突きたて生き血を啜っている。
血を吸われ、倒れた者もまた直ぐに赤い目を光らせて立ち上がり、他の者を襲う。
霧の中響き渡る叫びとうめき声……そうしていつしか、弾正の周りには、人である者は一人としていなくなった。
「こ、これは…。おのれ、物の怪……! よくも余の家臣をこの様な浅ましい姿に……正体を見せよっ、わが名は結城弾正、おそるるものかっ!
許せ…皆の者……物の怪、悪鬼の類になろうとも結城の家臣に違いはない。余が自ら成仏させてくれようぞ!」
霧に向かい叫ぶ弾正。
だが時既に遅し、ことごとく物の怪と化した家臣たちは口から血を滴らせじっと弾正を見つめている。
そして、大きく膨れ上がった霧が弾正を包み込む。
大波に飲まれたかのように弾正の姿が霧に呑まれて見えなくなった。
「ぎゃぁぁぁぁっ!!」
魂の砕けるような弾正の叫びが辺りに響き渡る。
禍々しく深い霧の中から、バキリボキりと、まるで獣が骨を噛み砕く様な音。
ぴちゃぴちゃという厭らしい舌を鳴らして何かを舐める様な音が聞こえてくる。
――美月、逃げろっ――
「っ殿……?」
少し離れて籠の中で控えていた美月は、確かに夫、弾正の声を聞いた気がした。
ざわりと怖気が背中を走る。
「誰かっ、殿のご無事を確かめたい。籠を殿のもとへと運んでくりゃれ」
美月の言葉に誰からも反応がない。それどころか、得体の知れない胸騒ぎがざわざわと全身を包み来る。
恐ろしい、禍々しい何かが、今、自分の籠へと近づいてくるのを美月は感じた。
「南無、観世音菩薩様……何卒、わが君、弾正様を御守りくださいませ」
美月は首に下げた結城の姫に代々伝わる水晶の数珠を手に強く握り締め懸命に祈った。
「麗しい声じゃ……経を唱えるか…其れも良い。たらふく喰ろうた後じゃ、いっそむずがゆくて心地よいわ」
その瞬間、美月は愛しい夫の声に初めて戦慄した。そして確信する。
違う、此の声の主は愛する夫、弾正様ではない。
美月は代々お家に伝わる水晶の数珠を握り締め、観音経を唱えながら静かに目を瞑る。
籠の引き戸が、もどかしそうにソロリソロリと開かれてゆく。
「んふふふ…良いのぅ……。なんという芳しい香りじゃ…」
美月がゆっくりと目を開くと、覗き込んできた顔は確かに愛しい夫、弾正の顔。
だが、どんよりと澱んだ目には心という物が窺えない。
ただただ、虚ろな蟲のように生臭い息を吐き、ニヤリと嗤うと、ゆるりと口を開き囁いてきた。
「これはこれは……。美しいのぉ…、そなた…名は、名は何と申す? それに、芳しい良い香じゃ、百年ぶりに、男が疼くわい…。くっくっく…」
愛しい夫と同じ声で虫唾が走るその言葉に、身体中から込み上げる吐き気と怒りをぐっと堪え、美月は勢いよく数珠をその顔に押し付けた。
「っ!」
「ぎゃっ!! ぬおぉぉ、目が、左目がぁぁぁ」
砕け散る水晶の数珠。一瞬怯んだ弾正を突き飛ばし、籠から転げるように飛び出す美月。
だが、其処で見たものは、おぞましい物の怪と化した血まみれの女中や家臣の姿であった。
あらぬ方向に曲げられた首や手足を引きずりながら魍魎の如く低く恨めしげに呻き声を上げている。
美月は瞬時に全てを悟った。
一同全てが魔物の配下と成り下がったこと。
夫、弾正も既に毒牙にかかり、その姿を奪われたこと。
逃げよと聞こえた夫の声は、最後の時に美月を思って夫が念じた想いであったこと。
『あなた…』
「くぅぅ、おのれっ、女ぁぁっ。我の左目に傷をつけるとは……」
石榴のように割れた傷口からドクドクと血を流す左目を押さえ立ち上がると弾正は、ゆっくりと美月に近づいてくる。
手向かいするべく美月は、己の帯を探るが常日頃携えている観音力の篭った懐剣が無い。
此処へ赴く前、愛娘の桔梗に授けてきてしまったのだ。
『あの夢の…お告げは此の時の事だったのですね』
「どうしたぁ、もう手向かいはせぬのかぁ? ほれほれ、もっと抗って見せよ」
弾正の手が美月を捉え引き寄せる。くるりと舞を舞う様に弾正の胸へと収まる美月。
弾正の口が耳まで裂け、恐ろしい牙がぎらぎらと光る。生臭い息がむっと美月の顔に当たる。
先の割れた細い舌が彼女の白い頬をチロチロと舐め上げる。
「観念したか…たわいもないのぉ。旨そうじゃ……血を啜り、その後、たっぷりと可愛がってくれようぞ…たっぷりとなぁ。ふっ、くっくっく……」
『そう、ならば…これも観音様の思し召し……』
「がはぁっ!!」
がばりと美月の首に喰らいつく弾正。
「んっ」
小さく叫んで気を失う美月。
弾正は牙を離すと燃え盛るような赤い目を大きく見開き、グッタリとした美月を腕に、天を仰いで嬌声を上げる。
数珠によって受けた傷が、見る見るうちに塞がってゆく。
「力が、力が漲ってきよるっ。これは、なんという霊力を持つ血潮のおなごじゃっ。我の強運、まだまだ尽きてはおらぬようじゃっ!はっはっはっははは、あーっひゃっひゃっひゃっ」
『遮那王…桔梗を、姫を護って…。観音様、どうか、娘にご加護を…』
近隣を貪った百年来の大地割れ。その巨大な裂け目から地の底より這い上がってきた邪悪な物の怪は、こうして結城藩の家臣と主君弾正の姿。不思議な力を持つ美月の血潮を得た。
だがしかし、父と母の帰りを月光城で一人待つ姫、桔梗には、暗闇より忍び寄る恐ろしい運命の影を知る術も無い。
そして城に残り、本来の護るべき主である美月の身に異変を感じた狼王、遮那王。
すぐさま駆けつけたい心を抑えて、如何なる時でも桔梗を守ると誓った身では、切なく哀しい遠吠えを高く低く美月を想い、空へと響かせることしか出来なかったのであった。